Masuk私は彼の耳を、指先でいじった。
熱い耳たぶ。 触れると、彼は気持ちよさそうに喉を鳴らす。 完全に無防備だ。 関東中の極道が恐れる「久遠の魔狼」が、今はただの、甘えん坊になり下がっている。 この姿を知っているのは、世界で私だけ。 その優越感と独占欲が、胸の奥を満たしていく。 「……ねえ、千隼」 静寂の中、私はぽつりと口を開いた。 指先は、彼のうなじの後れ毛を梳いている。 「観音が言ってたわ。あなたは『暴力装置』だって。私たちが分かり合えるはずがないって」 「……否定はしません」 彼は顔を上げないまま答えた。 私の腹部に、唇が触れている感触がする。 「俺には学がありませんから。貴女が読んでる難解な本のことも、貴女が描くビジネスの戦略も、半分も理解できてないでしょう」 彼の腕が、私の腰に回された。 ぎゅっ、と締め付けられる。 肋骨が軋むほどの力。 痛い。でも、心地よい。◇ そして、咲良が生まれた。 産声を上げた小さな赤い塊を腕に抱いた時、龍之介は人目も憚らずに号泣した。 彼は、その小さな指先に触れることを恐れるように、ただ震える手で赤ん坊の頬をそっと撫でた。 「……俺の、娘だ」 その日から、彼はさらに組織の頂点へと近づいていった。 先代の組長が病に倒れ、彼が実質的なトップとして久遠組を切り盛りするようになったのだ。 東京の閑静な住宅街に建つ、高い塀に囲まれた要塞のような豪邸。 そこが、新しい彼らの城になった。 だが、それはかつて桔梗が飛び出した白河家の「ガラスの箱」とは違う。 無数の監視カメラと、屈強な見張りの男たちに囲まれた、「暴力と血で固められた城」だった。 夜。 広大な寝室で、ベビーベッドの中でスヤスヤと眠る咲良の寝息が、静かに響いている。 龍之介は、窓際のソファに深く腰を下ろし、火のついていないタバコを指先でもてあそんでいた。 高級なシルクのガウンを羽織ったその背中は、以前よりもはるかに大きく、そして重苦しい影を纏っていた。 桔梗は、彼の背後からそっと近づき、その肩に手を置いた。 「……眠れないんですか」 「ああ。……最近、どうも神経が張り詰めててな」 龍之介は、タバコを灰皿に放り投げ、桔梗の手の上に自分の手を重ねた。 彼の肌は、驚くほど冷たかった。 「……不来方の動きが、きな臭い」 龍之介の口から出たその名前に、桔梗の心臓が冷たく跳ねた。 「あいつ、最近になって警察の上層部と妙な癒着を強めてやがる。俺たちを潰すための、でかい絵を描いてる気がするんだ」 「……」 「もしもの時は」 龍之介が、振り返って桔梗を見上げた。 その瞳には、かつてないほどの深刻な覚悟が宿っていた。 「もしもの時は、俺がお前たちを逃がす。……どんな手を使ってでもな」 「嫌です。私はあなたと……」 「桔梗。これは俺の戦いだ」 龍之介は、桔梗の腕を引き寄せ、彼女の腹部に顔を押し当てた。 「俺は、お前と
夜中に帰ってくる龍之介の身体には、常に新しい傷が刻まれていた。 拳の関節は潰れ、背中や脇腹には、刃物で切り裂かれた生々しい傷跡が重なっていく。 そして何より、彼の背中には、巨大な「百足」の刺青が彫り込まれた。決して後退しない、というヤクザとしての決意の象徴。 桔梗は、彼が眠っている間、その禍々しい刺青の輪郭を指先でなぞりながら、何度も静かに涙を流した。 彼は、組織の中で恐ろしいほどのスピードでのし上がっていった。 持ち前の度胸と、喧嘩の強さ。そして何より、状況を瞬時に俯瞰し、敵の急所を的確に突く知略。 単なる暴力装置ではなく、盤面を支配するプレイヤーとしての才能が開花したのだ。 組の幹部たちも、次第に彼を畏怖し、あるいは彼の下に付くことを選ぶようになった。 『久遠の狂犬』から、『久遠の若頭』へ。 だが、彼が手に入れた「力」は、次第に彼自身を内側から蝕み始めていた。 ある夜。 桔梗が大きくなったお腹を抱えてベッドで眠っていると、隣で寝ていた龍之介が、突然うなされるようにして跳ね起きた。 「……っ、ハァッ、ハァッ……」 暗闇の中で、彼が荒い息を吐きながら、自分の両手を見つめている。 桔梗は身体を起こし、そっと彼の背中に触れた。 「龍之介さん……どうしました?」 「……いや。なんでもねぇ」 彼は顔の汗を乱暴に拭い、ベッドサイドの水を一気に飲み干した。 「……また、夢を見たんですか」 「……」 龍之介は答えず、ただじっと自分の手のひらを見つめ続けている。 その手で、何人の人間を殴り倒し、何人の人生を狂わせてきたのか。 敵対組織の人間だけでなく、自分を裏切った身内の人間まで、容赦なく切り捨ててきた。 力を手に入れるために、そして桔梗たちを守るために、彼は感情のスイッチを切り、冷酷なマシーンにならざるを得なかったのだ。 「血の匂いが、落ちねぇんだ」 暗闇の中で、龍之介がぽつりとこぼした。 「風呂に入っても、何度手を洗っても……こびりついて離れねぇ。俺は、もう……完全に化け物になっ
「でも……そんなことしたら、あなたは……」 「俺は、お前と、腹の中のガキを守らなきゃならねぇんだよ!」 龍之介の怒号が、狭い部屋に響き渡った。 桔梗は肩をビクッと跳ねさせた。 彼が自分に向けて、こんなに大きな声を出したのは初めてだった。 龍之介はすぐに顔を歪め、舌打ちをして頭を掻きむしった。 「……すまねぇ。大声出すつもりはなかった」 彼は、ちゃぶ台の上の札束を指差した。 「金がいる。お前につわりを我慢させて、すきま風の吹くこんなボロアパートで腹を冷やさせるわけにはいかねぇ。ガキが生まれたら、ちゃんとした病院で診せて、綺麗な服を着せてやらなきゃならねぇ」 「私は、そんなこと望んでいません。貧しくても、あなたがいてくれれば……」 「俺が望んでるんだよ!」 龍之介が、桔梗の手首を強く掴んだ。 その瞳は、血走っていた。 「お前は元々、何不自由ない場所で生きてきた女だ。俺のわがままで泥水すする生活に引きずり込んだ。……せめて、誰にも文句を言わせねぇだけの『力』が、俺には絶対に必要なんだ」 彼の言葉には、圧倒的な切実さが込められていた。 不来方の陰湿な圧力に屈しないための力。 愛する妻と、生まれてくる子供を、絶対的な安全圏に置くための力。 そのためなら、自らが鬼になり、血の海を渡ることも厭わないという、狂気にも似た決意。 桔梗は、彼の手首を掴み返した。 彼の脈拍が、異様な速さで打っているのがわかる。 「……本当に、後戻りできなくなりますよ」 「ああ。俺は今日から、本当の野良犬だ。……嫌なら、今すぐ俺を捨てて、あの屋敷に帰れ」 龍之介は、自嘲するように口の端を歪めた。 だが、桔梗は首を横に振った。 「帰りません。……私は、あなたと一緒に泥を被ると決めたんです」 桔梗は、彼の腕を引き寄せ、その分厚い胸板に再び顔を埋めた。 「あなたが地獄へ行くなら、私も一緒に地獄へ行きます。……だから、絶対に死なないでください。私たちを置いて、一人で勝手にいなくならないで」 龍之介の腕が、桔梗
そして、しばらくの間ためらっていた言葉を、静かに紡ぎ出した。 「……私のお腹の中に、小さな命がいます」 龍之介の身体が、ビクッと硬直した。 肩を掴んでいた彼の手の力が、一瞬だけ完全に抜け落ちる。 「……なんだと?」 「三ヶ月になります。……あなたとの、子供です」 沈黙が落ちた。 隙間風の音さえも遠のいたような、絶対的な静寂。 龍之介は、目を見開いたまま、桔梗の顔と、彼女の平らな腹部を交互に見つめた。 やがて、彼の喉仏が大きく上下し、ひどく掠れた声が漏れた。 「俺の……子供……」 彼は恐る恐る、震える右手を桔梗の腹部へと伸ばした。 まだ膨らみも感じられない柔らかな布越しに、彼の手のひらが触れる。 その瞬間、龍之介の分厚い胸板が、激しく波打った。 「……そうか。そうか……」 彼は桔梗の腹部に額を押し当て、そのまま彼女の腰に腕を回して強く抱きしめた。 「桔梗。……ありがとう。俺みたいなクズに……家族を、くれて」 彼の背中が、微かに震えているのがわかった。 桔梗は、彼の硬い髪を優しく撫でながら、静かに涙を流した。 だが、この新しい命の誕生は、ただの幸福な出来事では終わらなかった。 守るべきものが増えたという事実は、龍之介の中にある「飢え」を、決定的な形へと変質させてしまったのだ。 ◇ 数日後の夜。 アパートに帰ってきた龍之介は、作業着ではなく、どこかで手に入れた黒いスーツを着ていた。 肩幅が合っておらず、生地も安っぽい。だが、その背中から立ち上る気配は、これまでとは全く異なっていた。 「……その服、どうしたんですか」 ちゃぶ台の前で編み物をしていた桔梗が、訝しげに尋ねる。 龍之介は無言でスーツの上着を脱ぎ、乱暴に畳へ放り投げた。 シャツの袖をまくり上げると、彼の太い前腕には、生々しい刃物の切り傷が一本、真っ直ぐに走っていた。 「龍之介さん! その腕……」 「騒ぐな。かすり傷だ」 桔梗が慌てて立ち上がろうとするの
二人だけの、誰にも邪魔されない世界。 だが、そんなささやかな平穏が、いつまでも続くほど、外の世界は甘くなかった。 ◇ 数ヶ月が過ぎた頃から、龍之介の持ち帰る「匂い」が変わり始めた。 土と汗の匂いに混じって、生々しい鉄の匂い──血の匂いが、頻繁に嗅ぎ取れるようになったのだ。 ある夜、帰ってきた龍之介の右目の上に、パックリと開いた新しい裂傷があった。 「現場で資材が崩れただけだ」と彼は短く吐き捨てたが、桔梗にはそれが嘘だとわかっていた。 傷の形状は、どう見ても鋭利な刃物や鈍器で殴られたものだ。 さらに、彼が長続きさせていた工事現場の仕事が、次々と理由もなく打ち切られるようになった。 「……また、明日から別の現場を探さなきゃなんねぇ」 ちゃぶ台の前で、安酒の入った湯飲みを呷りながら、龍之介が忌々しそうに舌打ちをした。 「どうしてですか。あんなに、親方さんに気に入られていたのに」 「さあな。上の方から、俺を雇うなって圧力がかかったらしい。……どこのどいつの差し金か、見当はついてるがな」 龍之介の目が、ギラリと暗い光を放つ。 桔梗は、息を呑んだ。 白河の家か。あるいは、あの男──不来方玄か。 警察組織や行政の末端にまで影響力を持つ彼らなら、一人の名もない日雇い労働者を社会の底辺からさらにその下へと追いやることなど、造作もないことだ。 桔梗を自分の箱庭から連れ出した野良犬に対する、陰湿で徹底的な兵糧攻め。 「……私の、せいですね」 桔梗が膝の上で両手を固く握りしめると、龍之介は湯飲みをドンと音を立てて置いた。 「馬鹿言ってんじゃねぇ。お前のせいじゃねぇ。世の中の仕組みがクソなだけだ」 「でも、私が彼らの誘いに乗っていれば、あなたがこんな目に……」 「桔梗」 龍之介が、低い声で彼女の言葉を遮った。 彼が立ち上がり、桔梗の前に膝をつく。 両手が、彼女の華奢な肩を強く掴んだ。 「あの息の詰まる屋敷に戻りたいか? あの気取った検事の隣で、一生人形みたいに笑って過ごしたいか?」
六畳一間、隙間風の入り込む古い木造アパート。 それが、白河の家を捨てた桔梗と、スラムの野良犬だった龍之介の、最初の「城」だった。 天井の隅には雨漏りの茶色いシミが広がり、歩くたびに床板がミシ、ミシと甲高い音を立てる。共同便所の水が流れる音が、薄い壁を隔てて容赦なく響いてくるような、生活のノイズにまみれた空間。 かつて桔梗が暮らしていた、塵一つ落ちていない広大な屋敷とは、文字通り天地の開きがあった。 だが、桔梗は、剥げかけたちゃぶ台を水拭きしながら、不思議なほどの充足感に包まれていた。 雑巾を絞る指先は、冷たい水道水で赤く悴んでいる。爪は短く切り揃えられ、かつての白魚のような滑らかさは失われつつあった。 それでも、この狭い四角い部屋の空気は、あの豪邸の無菌室よりもはるかに呼吸がしやすかった。 ガラリ、と。 建て付けの悪い玄関の引き戸が、重たい音を立てて開いた。 「……ただいま」 低い、ひどく疲労の滲んだ声。 桔梗は弾かれたように振り返り、立ち上がった。 「お帰りなさい、龍之介さん」 上がり框に腰を下ろした男は、作業着の肩にべっとりと泥とセメントの粉を付着させていた。汗と土埃、そして安煙草の匂いが、狭い玄関にむわっと広がる。 龍之介は重い安全靴を脱ぐと、どさりと板の間に仰向けに倒れ込んだ。 「……あー、クソ。腰が痛ぇ」 「今日もお疲れ様です。お茶を淹れますね」 「いや、いい。……ちょっと、こっち来い」 龍之介が、太く節くれだった手を桔梗へと伸ばす。 桔梗は膝をつき、彼の傍らに座った。 伸ばされた大きな手が、桔梗の首の後ろに回り、ぐいと強引に引き寄せる。 「あっ……」 顔が、彼の熱い胸板に押し付けられた。 作業着の粗い布地が頬を擦る。土の匂いと、一日中肉体を酷使した男の汗の匂い。 ドクン、ドクンという力強い心音が、ダイレクトに耳を打つ。 「……龍之介さん、泥がついてしまいますよ」 「構うか。俺の女なんだから、俺の泥くらい被っとけ」 乱暴な口調とは裏腹に、背中を撫