第1話

「ママ！ママ！」

信号待ちでスマホをいじっていた私の太ももに、突然温かい感触が伝わった。下を向くと、可愛いらしい顔立ちの小さな女の子が私の脚にしがみつき、大きな丸い瞳でじっと見つめている。

「間違えたでしょ、お嬢ちゃん。私はママじゃないのよ」

そう言いながら足を引こうとしたが、女の子はその場から離れる気配もない。困った表情を浮かべながら彼女が言った。

「でも、パパが言ってたの。あなたが私のママだって」

驚いて女の子の後ろを見上げると、そこには無表情のまま立つ正木昊瑛の顔があった。その瞬間、私の体中の血液が凍りついたかのようだった。

何も考えずに女の子の手を引き剥がし、急いで走り出した。

「システム、システム！早く道具をちょうだい！また死んだフリしてる場合じゃないよ、早く！」

しかし、システムは冷たく答えた。

「この前、宿主が使った偽装死の道具は借りったんだぞ。まだ三万ポイント以上の借金が残ってるってのに、どこにそんな余裕があるんだ？」

私は全力で走りながら叫んだ。

「役立たず！なんでこんな無能が相棒なのよ！」

するとシステムが皮肉たっぷりに言い返してきた。

「どの口が言うんだ？お前こそ、八年もかけてこの男も攻略できなかった上、結婚式前夜に、全財産を凍結されて仕事まで失ったんだぞ。お前と組んでる私の方が不幸だよ」

その直後、つまずいて転びそうになった私の手首を、誰かがしっかりと掴んだ。振り返る暇もなく、その力強い手に引き寄せられるように体が傾いた。

「離せ！」

私は必死に手を振り払おうとしたが、振り向いた先にいたのは、やはり正木昊瑛だった。

「お前、頭おかしいの？放してよ！」

声を荒げても、彼の冷たい表情は変わらない。逆に彼の手はさらに強くなり、そのまま私を車に押し込んだ。

「家に帰るぞ」

彼が運転手にそう指示すると、後部座席に座る小さな女の子が振り返ってきた。

「パパ、ママどうしてそんなに不機嫌なの？」

私は何も言えず硬直してしまった。

開けようとしたドアの取っ手を握る私の手を、正木昊瑛がぐっと押さえつける。力任せに私を引き寄せ、体が彼の肩に倒れ込んだ。慌てて身を起こそうとする私を、彼は軽く押さえつけ、なんと私の手の甲にそっと唇を寄せた。

冷たい瞳で私を見つめながら、彼は低い声で言った。

「娘がお前に聞いてるぞ。どうして俺たちに会って、そんなに機嫌が悪いんだ？」

「頭おかしいんじゃないの？この子、どこの女との間にできたのよ！私に母親役を押し付けるなんて、恥知らずにもほどがあるわ！さっさと降ろして！さもないと……」

私は声を荒げた。

しかし、彼は一瞬口元に微かな笑みを浮かべ、私の頬を軽く叩いた。

「それで、さもないと、なに？」

私は、力の限り彼の顔を平手打ちした。

車内に響く音と共に、彼の顔が少し横を向く。

その光景を見た女の子が泣き出した。

「ママ……ママ、パパを叩かないで、喧嘩しないでよ……」

その直後、私の唇に激痛が走った。なんと噛みつかれたのだ。そのまま逃れられないほど深く、息ができなくなるまでキスをされ、私の視界は真っ暗になりかけた。

彼がようやく私を放すと、ティッシュを取り出して女の子の涙を拭き、優しい声で言った。

「泣かなくていい。ほら、パパとママは仲良しだろ？」

正木昊瑛に連れ戻されたのは、どうやら彼の新居らしいが、私はここに住んだことなど一度もない。

家に入ると、あの小さな女の子がジュースを注ぎ、小さな手で大事そうに私の前に差し出してきた。

「ママ、ジュース飲んで。暑い？お風呂のお湯、入れてあげようか？」

この子が私の実の娘ではないことは確信している。なぜなら、私は子供を産んだこともないし、記憶を失ったこともないからだ。つまり、これは正木昊瑛とどこかの女が作った子に違いない。

それに、この子は少なくとも五歳くらいだろう。五年前、私と正木昊瑛はまだ仲睦まじかったのだ！

子供に罪はない。だから、怒りを抑えつつジュースを受け取り、「ありがとう。でもお風呂はいいから、遊んどいで」と優しく言った。

あの女の子は何度も振り返りながら、自分の部屋に戻っていった。その隙に、正木昊瑛が私の手からジュースを奪い取り、テーブルに置いて、ソファへ向けて私を軽く押した。

負けじと私は彼を突き返し、「触るな、最低！」と罵る。

正木昊瑛は、落ち着いた仕草でネクタイを緩め、ジャケットを脱ぎ、シャツの袖口のボタンを外しながら、一歩こちらに近づいてきた。

彼は私より頭一つ分ほど背が高く、肩幅も広い。引き締まった体は威圧感そのものだった。

その時、システムが皮肉に茶化してきた。

「宿主、彼を怒らせるなって。元は地下闘技場の格闘家だったんだから、また一からやり直す羽目になるよ？」

これ言葉に、私の怒りはすでに頂点に達し、思わず正木昊瑛を指さして怒鳴った。

「道徳がないか？地下格闘で虫のように生きてた時のこと、忘れたわけ？ゴミ捨て場で拾って、治療に連れて行って、八年間支え続けてやったのは誰だと思ってんの？」

「君だ」

彼の声は冷静で、後悔の色など微塵もない。その平静さに、私の怒りは水をかけられたように消え、残ったのは心の痛みと憎しみの名残だった。

「苦境の出会いでも、互いを見捨てず」――たった一言で、私が捧げた全てが片付けられてしまったのだ。

初めて彼に会ったのは、彼が十九歳の時だった。不正試合で勝ってしまい、上司に損害を与えた罰として、半死半生になるまで殴られ、雨の中でゴミのように横たわっていた。

私は彼を家に連れ帰り、真剣に世話をした。でも、彼は誰かに世話をされることに慣れていないようで、私に対して礼儀正しいけど距離感のある態度を取った。同じ屋根の下で暮らしていても、まるで赤の他人のようだった。

ある日、彼が突然いなくなった。私はひどく落ち込んだ。システムの任務が達成できなかっただけでなく、彼に嫌われたのだと思うと、その理由が分からず、ますます辛くなった。誕生日ケーキを用意していたテーブルの前で、涙を抑えきれなくなった。

すると、彼が突然帰ってきた。「どうした？なんで泣いてるんだ？」と驚いた表情で聞いてきたので、私は抑えきれずに心の内をぶちまけた。

「なんで出て行くとき、教えてくれないの？私のことが嫌いなの？どうして、いつも無口で怖い顔してるの？私のどこが悪いの？」

今となっては、彼がその時にどう答えたかは覚えていない。ただ、それ以来、彼は毎日私にたくさん話しかけるようになり、出かける時は、必ず私に一言残すようになった。

そのとき、お金がなかったので、私たちはいつも窮屈な生活を送っていた。彼の治療費が足りない時、私は唯一持っていた価値のあるアクセサリーを売ったこともあった。

やがて、彼を高く評価する兄貴分が現れ、彼は一緒にビジネスを始めることになった。でも、出張先で地震に巻き込まれた時、連絡が取れなくなった。私は心配のあまり余震をものともせず、夜通し彼を探しに行った。しかし、彼は私が来るとは思っていなかったようで、しばらく呆然とした後、自分が滞在している場所へ案内してくれた。

あの夜のことは今でも覚えている。停電で、部屋は蒸し風呂のように暑かった。彼はベッドで扇子を持って私を扇いでくれた。その時、彼がこう聞いた。

「どうして、そんなに俺に優しいんだ？」

私はこう答えた。

「誰もあんたに優しくしないから。なんだか可哀想に思えたの」

その後、私たちが付き合い始めてからも、彼は時折この話を持ち出して、「落ちぶれていた頃、世界中が俺を見下していた。君だけが俺を可哀想だと言って優しくしてくれた」と言っていた。

でも、結局人の心なんて変わるものだ。当時はこの人の心を垣間見たと思っていたけれど、今ではその心がどう変わったかを思い知らされている。私は、気づかないうちにもうアウトになっていた。全てを捧げても、誰も気にしてくれない。

私は本当は聞きたい。こんな仕打ちをして、真心を捧げた相手に対して良心が痛まないのか、と。

でも、そんなことを聞けば、劣勢に立たされるだけだ。もう彼の前で、感情的になりたくなかった。だから、怒りを装うしかなかった。

「よくもそんなことが言えるわね！八年間も無駄にした私の気持ち、どうしてくれるの！結婚するって騙しといて、私の事務所を潰し、銀行口座を凍結させ、結婚式まで取り消したくせに、お前は……」

そこまで言って、私は堪えきれずに、彼を平手打ちした。整った顔には赤い跡がくっきり残ったが、正木昊瑛は痛みなど感じないかのように無反応だった。

「二年前、結婚式が取り消された後のこと、まだ覚えてるか？」

彼が昔の話を持ち出した途端、私は喉が詰まった。

結婚式の前夜、私の銀行口座は凍結され、事務所も閉鎖された。まるで孤立したかのようだった。その直後、親しい友人たちから驚きの声で、「どうして結婚式が中止になったの？」と、次々に問い合わせが来た。

その状況を整理する間もなく、正木昊瑛が現れた。私は彼に何が起きたのか尋ねた。普段は、私の質問に一つ残らず答える彼が、あの時は一言も口を開かなかった。

その代わり、彼は私を閉じ込めた。そして昼夜を問わず、毎晩怒りをぶつけるように私を抱いた。

あの時、私は初めて彼の私への憎しみを感じ始めた。それは、彼の皮膚や骨格を突き抜けるように噴き出していた。

精神が限界に達し、意識を失うまで、私は彼に許しを乞い続けた。窓の前に跪き、涙ながらに「お願いだから、もう許して」と何度も懇願した。

それでも、彼は聞く耳を持たなかった。

最後の手段として、私はシステムに頼んで、偽装死の道具を使い、ようやく彼から逃れることができた。それが二年前のことだ。

「この二年、他の男と関係を持ったか？」彼が突然聞いてきた。

「関係ある？毎晩男のモデルを数人呼んで、楽しんでたわよ！」私は嘲るように答えた。

すると、正木昊瑛は笑いを浮かべ、白い犬歯を少し見せながらこう言った。

「数人合わせても、俺のほうが長かったんじゃないか？」