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All Chapters of 桜華、戦場に舞う: Chapter 1161 - Chapter 1170

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第1161話

ところが思いもよらぬことに、甲虎は守が邪馬台に来たことを知ると、自ら元帥邸の私兵として彼を指名した。元帥邸の私兵といえば、甲虎の外出時の警護や身辺の安全確保が主な任務だった。敵の刺客が主帥を狙って潜入することも少なくない。もっとも、親房の時代にはそのような事態は起きていなかったが、上原洋平や影森玄武が在任していた頃は、刺客の襲撃が絶えなかったという。甲虎は都にいる老夫人からの手紙で、北條守が親房夕美と離縁したことを既に知っていた。実の妹への思いはさておき、今の自分の立場からすれば、守のこの仕打ちは自分への挑戦であり、権威を蔑ろにする行為に他ならなかった。そこで守を呼び寄せ、水汲みや薪割り、掃除、庭の水やりといった雑用をさせ始めた。台所での配膳や給仕まで命じたのだった。守は無言で言いつけに従った。すでに塵にまで貶められた身、踏みにじられるような誇りなど何も残っていなかった。数日が過ぎ、元帥邸の隅々まで見て回るうちに、以前自分がいた頃とは様変わりしていることに気づいた。建物の外観こそ変わらないものの、中身は完全に様変わりしていた。かつては台所の女たち以外、ほとんどが男の職員で占められていた元帥邸。今では女官や侍女が数多く仕えており、さらには懐妊五、六ヶ月ほどの主母の存在も目にした。幾度か顔を合わせる機会があったが、元帥邸には人の出入りが多いため、彼女は薄絹の面紗を纏っていた。その面紗越しに覗く眸は魂を奪うような妖艶さを湛えていた。彼女の素性を詮索することはしなかったが、噂は自然と耳に入ってきた。屋敷の者たちの話によれば、彼女は元帥の平妻で、その座についてからは他の妾たちは皆追い払われ、元帥と共に邪馬台へ来た側室も何やら訳ありで亡くなったという。時折、下人たちの噂話に耳を傾けると、元帥が彼女を溺愛し、欲しいものは何でも与え、まるで天の月や星までも摘み取って捧げようとしているかのようだった。守は、彼女の身の回りの品々があまりにも贅を尽くしていることにも気づいた。高級な絹織物に身を包み、髪には豪奢な簪や玉飾りを煌めかせる彼女は、戦後の邪馬台にあって、贅沢な滋養品を水のように消費していた。つがいの燕の巣を朝夕二度も口にし、沐浴には羊乳と花びらを使い、それも毎日欠かさなかった。邪馬台では羊乳も花びらも手に入りやすいと
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第1162話

甲虎は、おそらく守に十分な見せしめをしたと判断したのだろう。ようやく彼を呼び出した。邪馬台での二年に満たない月日で、甲虎は随分と体格が良くなっていた。肥満とまではいかないものの、虎の皮を敷いたひじ掛け椅子に座ると、二重顎が目立った。高みから守を見下ろす甲虎の眼差しには、威圧感が満ちていた。「夕美との一件は聞き及んでおる」甲虎は威厳に満ちた口調でゆっくりと語り始めた。「まあよい。お前のような凡庸な男は、わが妹には相応しくなかったのだ」守は目を伏せ、小さく返事をしただけだった。「ふん」甲虎は冷ややかに鼻を鳴らし、叱責を続けた。「まさかお前がこれほど役立たずとは。玄鉄衛副将の座すら失い、北條家には使い物になる者が一人もおらん。お前たちのような無能な屑どもの様を見たら、お前の祖父の御霊も浮かばれまい」守は黙ったまま額に青筋を浮かべた。「不服そうな面をするな。見てみろ、お前の将軍家からろくな者が出たためしがあるか?お前自身を見ても、一人の女にこれほどまでに翻弄されおって。三人の女に次々と手玉に取られ、男の面汚しよ」甲虎は今や意気揚々としていた。傍らには絶世の美女がおり、その腹には親房家の血を引く子が宿っている。それ以前も、この邪馬台の地では好みの女を思いのままに手に入れることができた。女たちが彼に取り入ろうとするばかりで、その逆などありえなかった。だからこそ、北條守など心底軽蔑できたのだ。十分に威厳を示したと思うと、甲虎は尋ねた。「都に何か大きな動きでもあったか?」「特にございません」甲虎は肘掛けをゆっくりと撫で、唇の端に冷たい笑みを浮かべた。「そうか?ところで、お前は都を発つ前に三姫子に会ったか?」守は顔を上げた。「元帥様は西平大名夫人のことをお尋ねでしょうか?」甲虎は守を睨みつけ、その意図的な物言いを見抜くと、冷笑を漏らした。「なんだ?わが女をどう呼ぶかまで、お前に指図されねばならんのか?」「そのような意図はございません。ただ、『三姫子』とお呼びになる方を存じ上げませんでしたので、西平大名夫人のことかと確認させていただいただけです」「腰抜けめ。そこまで言っておきながら、認める勇気もないか」甲虎は心底軽蔑の念を込めて言った。だが、やはり西平大名家の様子は気になった。「そうだ、三姫子のことだ。親房家に何か
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第1163話

翌日になって、いわゆる「集合訓練」の正体が明らかになった。それは戦術訓練ではなく、農作業だった。九月は冬小麦の種蒔きに最適な時期。戦後の邪馬台では物資が不足し、度重なる戦乱で人手も少なく、兵士たちが農作業を手伝わねばならなかった。冬小麦の他にも、白菜、大根、瓜類も植えられた。「よい時期に来たな」許夫は守に言った。「農繁期の真っ最中だ」守は日の出から日没まで働き詰めだったが、それでも合間を縫って山田鉄男に手紙を書いた。京都では、その手紙を受け取った鉄男が首を傾げた。しばらく呆然と立ち尽くした後、頭を掻きながら考え込んだ。二人の仲がそこまで……手紙は三枚の紙にびっしりと埋め尽くされ、以前酒に酔った時の饒舌さを彷彿とさせる些細な出来事が綴られていた。元帥邸での様子が詳しく書かれ、その豪華さは親王家をも凌ぐほどだという。邸内は下僕たちで溢れ返り、まるで蟻の行列のように絶え間なく往来している。その中心には懐妊した女主人がいて、周りの者たちが蜜を運ぶ蜂のように世話を焼いているとのこと。その女主人の身の回りの品々は贅を極め、その装いは千金の価値があるという。農繁期の今は兵士たちが農作業に励み、訓練は後回し。皆が日に焼けて真っ黒になる中、元帥だけが豚のように白い肌を保っているとも。取り留めのない話の後に、西平大名夫人によろしくと伝えてほしいと書かれていた。そして自分も以前は同じ過ちを犯したが、他人が同じ轍を踏むのを見過ごせない、と延々と続いていた。鉄男はその底意を見抜いた。これらの情報を西平大名夫人に伝え、心の準備をさせようという魂胆だ。だが鉄男には余計なことに思えた。あの聡明な西平大名夫人が、甲虎の状況を把握していないはずがない。ただし、元帥邸の豪奢さと贅沢な暮らしぶりについては、上原殿に報告し、玄武様にお伝えいただく必要があるだろう。鉄男さくらに手紙を差し出すと、彼女は受け取らず「要点だけ話してください」と言った。鉄男は概要を説明し、続けた。「沢村夫人の件はさておき、元帥邸があれほどの贅沢な暮らしをしているのが気になります。西平大名家からの援助なのか、それとも軍費の……いや、まあ……民からの……その……」以前の率直さは影を潜め、狡猾な老狐のような物言いになっていた。さくらは特に何も言わず、すぐに玄武のもとへ
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第1164話

「そうだ」玄武は思い出したように言った。「以前、三姫子夫人から頼まれた件だが、五郎師兄は承諾したのか?」「お話はしたけど、まだ考えさせてほしいって言ってたわ」「この件を伝えてみてはどうだ?判断の材料になるはずだ。そもそも彼も三姫子が手放した資産を買い取っているのだから、西平大名家を助ける気はあるはずだ」さくらは一度頷いてから、首を振って訂正した。「西平大名家というより……彼を大切に思ってくれる人たち、そして子どもたちのためよ」日に日に新しい事実が明らかになるにつれ、さくらは当時の老夫人も親房展の計画に加担していたのではないかと考え始めていた。ただ、どこかで良心の呵責を感じ、楽章を訪ねたのだろう。そして楽章が焼死したと思い込み、その怒りを親房展に向けたのは、自身の罪悪感から逃れるためだったのかもしれない。それが、楽章と再会した時に作り話で許しを乞い、その後の境遇には無関心でいられた理由。補償を約束しながら、誰一人として様子を見に寄越さなかった理由。要は自分の心を慰めたかっただけで、手元で育てなかった子に対して、甲虎や夕美への愛情ほどの深い感情は持ち合わせていなかったのだ。「私が五郎師兄に会ってくるわ」さくらはそう告げた。話を聞き終えた楽章は冷ややかに吐き捨てた。「なんだと?邪馬台で贅沢三昧か?しかも子までできて、夫人だと?正室は何だ、世話女か?」「三姫子様はご存知だったからこそ、あのようなお願いをなさったのでしょう。五郎師兄、あとはあなたの判断次第よ」楽章は迷いなく答えた。「伝えてくれ。明日から始める。転換できる物は全て転換しろと。ことは表立って行う。大名家の出費が膨らみすぎて支えきれず、資産の売却に追い込まれたと、皆に知らしめるのだ」これで甲虎の本質が明らかになる。家族の生活など顧みず、側室との贅沢な暮らしに耽る男。これまで家から送られる金に頼り切り、今や家が立ち行かなくなり、先祖代々の資産まで手放さねばならなくなった、と。「分かったわ。すぐに粉蝶を遣わして伝えさせるわ」この手続きは、早くも遅くもなりうる事態だったが、役所に味方がいれば話は早かった。さくらは潤の叔父である沖田陽に助力を求めた。沖田が一声かければ、数日のうちに売買証書が手に入った。取引はすべて相場通りの価格で行われ、三姫子は帳簿も作らせた。売
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第1165話

有田先生の徹底的な調査により、数名の容疑者が浮かび上がり、密かな監視の目が向けられることとなった。だが、疑惑は表面的なものに過ぎず、確たる証拠は得られていなかった。無相が燕良州に戻って以降、淡嶋親王以外との接触は皆無で、沢村家への訪問もなかった。例の黒幕は、まるで深淵の底に潜む影のように、その正体を巧みに隠していた。最新の諜報によれば、私兵は牟婁郡に潜伏していたものの、突如として移動を開始。あまりの急な移動に、多くの物資を置き去りにしたという。しかし、その移動先はいまだ不明のままだった。一方、燕良州では以前まで統制を欠いていた勢力が、無相の帰還後、急速にまとまりを見せ始めた。地方官僚たちが燕良親王邸に頻繁に出入りし、宴席を共にする様子が目撃されている。これらの名簿は玄武の手を経て、清和天皇の御手に渡った。しかし、依然として首謀者不在の状態を示すのみで、淡嶋親王と無相を首謀者と断定するには至らなかった。天皇は玄武との協議の末、燕良親王を早急に燕良州へ戻す必要があるとの結論に至った。少なくとも、燕良親王の存在があの者の急速な勢力拡大を抑制できるはずだった。あの者が燕良親王から権力と資源を完全に奪うには、親王不在の今こそが好機だ。親王が戻れば、これまで築き上げた人脈や資源はすべて親王の手中に戻る。それを奪うには相当の手間と時間を要するだろう。天皇は燕良親王に勅を下した。傷の養生も十分であろうから、燕良州への帰還を命じる、という内容だった。燕良親王も今や矢も楯もたまらぬ様子だった。療養中もずっと燕良州の情勢を案じ、沢村家との関係修復に思いを巡らせていた。勅が下るや否や、榮乃皇太妃への暇乞いすら省き、家族を連れて都を後にした。肉体の不自由さと、あの方面での不能を抱えながらも、一時の落胆を経て、かえって闘志を燃やしていた。野心は昔からあったが、以前は体面を保ち、名分を重んじて天下を狙っていた。今では帰国早々にでも兵を挙げたい衝動に駆られていた。もちろん、時期尚早だと理解してもいた。今挙兵すれば、千々に引き裂かれる運命が待っているだけだ。だからこそ、まずは地盤の再構築に専念せねばならなかった。榮乃皇太妃付きの高松内侍は、恵子皇太妃に仕える高松ばあやを訪ね、母娘の情を繋ぐべく、影森茨子への品物を託すよう懇願した
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第1166話

高松内侍は涙を流しながら跪き、「公主様」と一声上げると、地面に伏して嗚咽を漏らした。しかし茨子は目を上げることもなく、まるで痴呆に陥ったかのように、何も見えず、何も聞こえていないようだった。しばらく泣き続けた後、高松内侍は重箱から菓子の盆を取り出した。新田が検査しようとしたが、粉蝶が制した。「親王様のお言葉です。菓子は検査不要とのこと」地面に跪いたまま、真っ赤な目で震える声を絞り出す。「公主様、一口だけでも召し上がってください。榮乃皇太妃様が特にお選びになった、公主様の大好きな甘菓子でございます。他にもお菓子がたくさんございます。ゆっくりとお召し上がりください」「榮乃皇太妃」という言葉に、茨子の目がようやく動いた。その顔は痩せ細り、垢で黒ずんでいた。目の周りまで灰色に汚れているが、その眼窩だけが赤く染まっているのが見て取れた。「そこに……置いて」歯を失った口からは不明瞭な言葉が漏れたが、皆には聞き取れた。「お召物もございます。お着替えのお手伝いを」高松内侍は着物を抱えながら近寄り、茨子の不潔な体も厭わず、その痩せた体を引き起こした。自分の体に寄り掛からせるようにして、ゆっくりと奥へ進んでいく。「このまま放っておいて大丈夫なのか?」新田は粉蝶と高松ばあやを見やった。「お任せしましょう」粉蝶はそう言いながら、さりげなく一つの菓子を袖に忍ばせた。新田は困惑の表情を浮かべたが、親王様と王妃の意向とあれば、黙るしかなかった。半刻ほどして、高松内侍は茨子を背負って現れた。新しい着物に着替えてはいたが、極度の痩せ衰えにより、まるで竹竿に掛けたかのようにだぶだぶとしていた。菓子の側に下ろされた茨子は、再び体を丸めた。布団や着物などの品々も中に運び込まれた。「もう良いでしょう。新田様のお立場もございますから」粉蝶が促した。高松内侍は涙を浮かべながら、最後に一度茨子を見つめ、名残惜しそうに立ち去った。茨子は彼らの後ろ姿を見つめ続けた。重い扉が閉じられ、その姿が完全に見えなくなった時、ようやく喉から嗚咽が漏れ始めた。粉蝶は菓子を薬王堂の青雀のもとへ持ち込み、劇毒の反応を確認してから、王様と王妃に報告に戻った。「食べたかしら?」さくらが尋ねた。「お暇する時にはまだでしたが、高松内侍様は毒の件をお伝えしたはずです
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第1167話

冬至の日、宮廷での宴に先立ち、内外の貴婦人たちが参内し、御機嫌伺いに訪れていた。太后さまは普段から静かな時間を好まれていたが、この日ばかりは各家の貴婦人たちとの対面を許され、言葉を交わされていた。皇后は最初しばらくの間、太后に付き添っていたが、その後、春長殿に戻り、実家からの来客を待っていた。しかし、待てど暮らせど母の斎藤夫人の姿は見えず、代わりに叔母や従姉妹たちが大勢参内してきた。訊ねてみると、母は体調を崩しており、風邪を引いているため、太后さまにお会いすれば病気をうつしかねないということで、参内を控えたのだという。斎藤皇后はもちろんそれを信じなかった。前回、伊織屋の件で母と話した際、自分が断ったことで、母の表情に失望と戸惑いが浮かんでいたのを覚えていた。きっと、拗ねているのだろう。皇后は落胆していたものの、それを表には出さず、ただ密かに吉備蘭子に母への言付けと心づけを託した。煩わしい儀式が終わると、皇后は末の従妹である斎藤礼子を殿中に残して話を交わした。この斎藤礼子といえば、女学で赤野間将軍の孫娘・赤野間羽菜や広陵侯爵の末娘・向井玉穂と共に騒ぎを起こし、相良玉葉に意地悪をした張本人である。一度こっぴどく叱られてからは少しは大人しくなったものの、時折、相良玉葉を挑発して怒らせようとし、女学の教師として相応しくないという評判を立てようと企んでいた。そうすれば、女学校の名声も半ば失墜することになるだろう。斎藤礼子は唇を尖らせ、「お姉さま、国太夫人があまりにも厳しくて、深水先生にも叱られてしまいました。しばらくは大人しくしていようと思います。このまま諦めて、太后さまのお耳に入るようなことは避けたほうが……」皇后は体を少し傾けながら、冷ややかな目線を礼子に向けた。「まさか、私が女学校と敵対したいだけだと思っているの?陛下もお考えがあってのこと。そもそも女学校が創設された時から、上原さくらが目立ちすぎることを懸念されていたのよ。ただ、女学校は太后さまのご意向だったから、表立って反対はできなかった。だから、女学校の評判を少し落とすしかない。そうすれば、たとえ太后さまが追及なさっても、塾長としての上原さくらの責任を問うことができる。それに、私も彼女は相応しくないと思うわ。軍の出身者が、雅君女学の塾長を務めるなんて、笑止千万じゃない
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第1168話

皇后は礼子に大皇子と姫君を連れて遊びに行くよう促すと、礼子の母である景子を呼び入れた。「天方十一郎のことですが……」と聞いた景子は、眉を寄せた。「皇后様、あの方は礼子より余りにも年上かと。それよりも広陵侯爵家の向井三郎様は、若くして優秀で、すでに挙人の資格もお持ちです。確かに爵位は継げませんが、あの方の才能に我が斎藤家の後ろ盾があれば、きっと……」向井三郎は端正な容姿の持ち主で、今年わずか十九歳。去年すでに挙人に合格し、文章生に及第すれば、前途洋々というところだった。景子の言葉に、傍らにいた吉備蘭子が笑みを浮かべた。「奥様、斎藤家の若様方で、出世なさる方は多いとお考えですか?」「もちろんですとも」景子は誇らしげに答えた。「我が斎藤家には役立たずなど一人もおりません。三男家の方が一番の問題児でしたが、六郎でさえ姫君を娶ることができましたわ」「叔父上は役立たずではありませんわ」皇后は微笑みながら言った。「あの方は頭を打ってからそうなられただけ。それまでは聡明で機転の利く方でした。確かに、我が斎藤家には役立たずなどおりません。これほど大きな家で、優秀な若様方も多く、すでに官位に就いている方も、これから官途に就く方も大勢いらっしゃる」皇后は自分の指先を見つめながら、さも何気なく付け加えた。「となれば、外戚の後ろ盾だけで向井三郎にどれほどの官位が望めますかしら?まさか、娘婿にあなたの息子と争わせるおつもりでは?」景子の表情が一気に引き締まった。吉備蘭子はすかさず言葉を継いだ。「そういうことでございます。奥様、官職は限られております。ならば、礼子様の夫君は斎藤家の若様方と競合しない道を選ぶべきではありませんか?確かに天方十一郎様は礼子様より年上ですが、すでに従三位の総兵官の位にあり、母君も誥命夫人の身分を賜っております。礼子様がお嫁ぎになれば、十一郎様が誥命を願い出ることもできましょう。そうすれば、礼子様はまだお若いうちから誥命夫人としての栄誉を手にされる。これほどの栄達が目の前にあるのに、遠くを求める必要がございましょうか?」景子は二人の分析に耳を傾け、しばらく思案に沈んだ。確かに魅力的な話ではあったが、まだ完全には心が動かなかった。ただ、広陵侯爵家の向井三郎が、先ほどほど魅力的には思えなくなっていた。「でも皇后様」景子は眉間に皺を
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第1169話

恵子皇太妃は参内するや否や、淑徳貴太妃と斎藤貴太妃を誘い、庭園へと急いだ。今日の紅玉の頭飾りが肌の色を一層引き立てることを、誰もが、特に二人に見てもらいたかった。玄武はさくらと共に、太后の御殿で御機嫌伺いをしていた。太后との歓談の最中、次々と内外の貴婦人たちが集まってきた。折しも、十一郎の母、村松裕子も太后への御機嫌伺いに訪れた。太后は思いがけなくも、これだけの貴婦人たちの前で、十一郎の縁談について尋ねられた。裕子は胸に苦い思いを抱えながらも、太后の前では一言も漏らすまいと、笑顔を作って答えた。「はい、縁とは急いで参るものではございませんので」「お気の毒なことです」太后は溜息をつかれた。「いわれのない災難に巻き込まれて。天方家はこれ以上ないほど温厚な家柄というのに、よからぬ輩に掻き回されて、すっかり……」裕子はその時悟った。太后が突然この話題を持ち出されたのは、十一郎と天方家の名誉を守ろうとされてのことだと。感動で目に熱いものが溢れ、声を詰まらせながら答えた。「やはり、十一郎の福運が浅かったのでしょうか……」「とんでもない」太后は即座に打ち消された。「彼は我が大和国の勇将。陛下の御恩を深く受けているお方です。どうして福運が浅いなどということがありましょう。定められた縁は、必ず巡り会うときが来るものです」裕子は慌てて深々と御礼を述べた。「太后さまのお心遣い、誠に恐れ入ります」その場にいた貴婦人たちの視線が、一瞬にして変化した。先ほどまでは嘲笑を隠しきれない目付きで裕子を見ていた。あれほどの醜聞が起きた以上、誰も無実を主張できないと思っていたのだ。だが、太后さまのお言葉が全てを変えた。しかも、どのような言葉で呼ばれたことか。「大和国の勇将」である。太后さまは決して朝廷の事など口にされない方。それなのに、十一郎のためにこのような言葉を。座に連なる者たちは皆、只者ではない。その言外の意味を聞き漏らす者などいようはずもない。これからは誰一人として天方家を軽んじることなどできまい。まして、噂話など口にする者などあるまい。太后は必要以上の言葉は付け加えず、さりげなく各家の様子を尋ねられた。斎藤夫人の姿が見えないことに目を留められると、折よく吉備蘭子の使いが参上し、「体調を崩されており、太后さまにご病気がうつることを懸念され、改め
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第1170話

そのとき、榮乃皇太妃からの使いが参り、さくらを個人的に招かれているとの伝言があった。さくらは太后の許可を得てから、その招きに応じることにした。榮乃皇太妃は文利天皇の妃であった方で、本来なら息子の封地で安寧な暮らしを送るはずだったのに、今は宮廷の片隅の殿で孤独に暮らしていた。高松内侍に導かれて寧寿殿に足を踏み入れた時、さくらは身を切るような寂寥感に包まれた。祝いの雰囲気など微塵もない。まるで他の殿舎とは数棟の距離だけでなく、天と地ほどの隔たりがあるかのようだった。冬の訪れと共に榮乃皇太妃の容態は重くなり、燕良親王の息子である影森哉年が都に残って祖母の看病をしていた。今日も参内し、祖母の傍らで付き添っていた。さくらの姿を認めると、彼は立ち上がって礼を述べた。「王妃様、よくお出でくださいました」さくらは冷ややかな目線を送った。「哉年様もいらしたのですね」「はい、祖母の看病に」哉年はさくらの前では頭が上がらず、まともに目を合わせることすらできなかった。さくらは彼には目もくれず、榮乃皇太妃に御機嫌伺いの挨拶をした。寝台に横たわる皇太妃は、錦織りの柔らかな枕を二つ背に当て、蝋のように黄ばんだ青ざめた顔色で、目は窪み、髪も結わず、白髪交じりの髪は肩に散らばっていた。寝たきりの生活で、髪は乱れたままだった。皇太妃はさくらを見つめ、一つ咳をしてから言った。「王妃、どうぞお座りなさい。堅苦しいことは無用です」その声は遅く、力なく響いた。宮女が寝台の傍らに椅子を運んでくると、高松内侍が「王妃様、どうぞこちらへ。皇太妃様はお声が弱くていらっしゃいますので、お近くでないと」と勧めた。ありがとうございます」さくらは皇太妃に礼を言って腰を下ろすと、「お具合はいかがですか」と尋ねた。「もう良くなることはないでしょう」皇太妃は乾いた唇に薄く紅を引いていたが、それは顔色を良くするどころか、かえって蝋のように青白い顔を際立たせていた。「ゆっくりお養いになれば、きっと」さくらは優しく声をかけた。殿内は炭火で温められ、さくらにはむしろ暑いほどだった。それでいて煙一つ立たない。さすがに上質な白炭を使っているのだろう。清和天皇は、彼女が燕良親王の生母だからといって粗末に扱うことはなかった。「王妃をお呼びしたのは、影森茨子の代わりに上原家の方
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