All Chapters of 契約終了、霜村様に手放して欲しい: Chapter 1161 - Chapter 1170

意識が朦朧とし始めたその時、玄関のドアをノックする音が響いた。何度も何度も、激しくドアを叩く音が続いた......杏奈は無視しようとしたが、和泉夕子の焦った声がかすかに聞こえてきた......「杏奈、開けて！」和泉夕子と白石沙耶香は、桐生文子の事件を知ってから、何度も杏奈の様子を見に来ていた。しかし、杏奈は「大丈夫」と言って二人を追い返していた。杏奈は普段通りに仕事をし、きちんと家に帰って休んでいた。以前と全く変わらない様子に、二人は杏奈が何とか立ち直れたのだと安心していた。しかし今夜、和泉夕子はどうしても寝付けなかった。胸騒ぎがして、杏奈のことが頭から離れない。杏奈が経験したことは、ただの辛い出来事ではない。幼い頃から肉親に利用され、大人になってからは愛する人を自らの手で殺めてしまったのだ。そんな苦しみを、彼女が一人で抱え込んでいると思うと、いても立ってもいられなくなった。杏奈が表面上は平気なふりをしながら、実は一人で苦しみに耐えているのではないかと、和泉夕子はいてもたってもいられなくなった。ベットから跳ね起き、適当に服を羽織ると、杏奈の家へ向かった。霜村冷司も同行していた。車のシートに深く腰掛け、ドアをノックする和泉夕子の姿を心配そうに見つめている。なかなかドアが開かないのを見て、整った顔に不安の色が浮かんだ......霜村冷司が長い指を伸ばし、車から降りようとしたその時、ドアが開いた。ずぶ濡れの杏奈が、街灯の光に照らされ、青白い顔で立っている。まるで死闘を繰り広げた後のように、顔色は悪く、ひどく弱々しく見えた......杏奈はバスタオルを巻いて出てきた。霜村冷司は疑問に思ったが、詮索することはせず、視線を前に向けた......ようやく杏奈がドアを開けたのを見て、和泉夕子は駆け寄り、彼女の手を握った。「杏奈、顔色がすごく悪いけど、大丈夫？具合悪いの？」杏奈はこのまま死んでしまおうと考えていた。しかし、まだ伝えなければならないことがたくさんあること、少なくとも自分のことを心配してくれる人たちに、何も言わずに消えてはいけないと思い直し、浴槽から上がったのだった......杏奈は和泉夕子の手を握り返し、笑顔で首を横に振った。「お風呂に入ってたの。のぼせて、顔が白くなっちゃったのかも......」そう言って、和泉夕子の

和泉夕子たちだけでなく、相川涼介と滝川舞もよく杏奈の家を訪ねていた。滝川舞は優しい義姉で、妊娠中にもかかわらず、杏奈の家に来て料理を作ったり、話をしたりしてくれた。ただ、子供の話だけは避けていたが。杏奈に子宮がないことは誰もが知っていたため、滝川舞は、たとえおめでたい話であっても、子供の話はしないように気を使っていた。しかし、杏奈は気にする様子もなく、よく滝川舞のお腹を撫で、お腹の赤ちゃんに話しかけていた。一番よく言っていたのは、子供が生まれたら、大きなプレゼントをあげると......そのプレゼントとは何かを杏奈は遺書にこう記していた。【全ての財産を、従兄弟である相川涼介の子供に譲る】と......杏奈は弁護士に依頼し、遺言書を作成し、必要な手続きを終えると、スマホを取り出し、和泉夕子に電話をかけた。穂果ちゃんと手をつなぎ、出かけようとしていた和泉夕子は、杏奈からの電話に少し驚いた。「杏奈、どうしたの？」杏奈は腕時計を見て言った。「夕子、急な話なんだけど、海外の医療ボランティアに参加することになったの。一ヶ月くらい行ってくるから、今日は遊べないと思うわ」和泉夕子は足を止め、眉をひそめて尋ねた。「一ヶ月も行くの？」杏奈は頷いた。「ええ、ボランティアって、どうしても長期間になるでしょ。一ヶ月なんて、あっという間よ」和泉夕子は尋ねた。「どうして急にそんな仕事を引き受けたの？」院長である杏奈は、管理業務だけしていればいいのに、いつも現場に出て、様々な仕事を引き受けている。今度は、医療ボランティアにまで自ら参加すると言うのだ。杏奈は言った。「時間を無駄にするより何か意義のあることをした方がいいでしょ」その言葉に、和泉夕子は何も言えなかった。杏奈が人のためになることをしようとしているのに、止めるわけにはいかない。「誰か一緒に行く人はいるの？」杏奈は頷いた。「ええ、各科から医者が派遣されることになってるの。ちゃんとした団体よ」和泉夕子は少し安心した。「じゃあ、毎日ビデオ通話と電話をして。何かあったら、すぐに連絡してね」杏奈は微笑んだ。「大丈夫、連絡するわ」和泉夕子はさらにいくつかの条件を出したが、杏奈は全て了承した。電話を切ると、準備しておいたスーツケースを持って、車で空港へ向かった。医療ボランティアの件は事実で、参

杏奈はビデオ通話には出ずに、ただ着信音を消した。すると、世界が静まり返った。まるで時間が止まったかのように、静寂に包まれた世界で、聞こえるのは窓の外を飛び交う鳥たちの声だけだった。体から血が流れ出ていくのを感じながら、杏奈は、相川言成が血を流して死んでいった時の苦しみを、身をもって体感していた。青白い唇に、かすかな笑みが浮かんだ......血が尽きるまで待つのは、こんなに苦しいものだったのか......杏奈はもがくことなく、全身の力を抜いて窓に寄りかかった。澄んだ瞳は、ゆっくりと窓の外の海へと移っていった......相川言成は、ここから、振り返らなかった自分を見ていたのだろう。だから、遺書を書き終えることもなく、逝ってしまったのだ。自分が戻ってこないこと、誰も彼を弔ってくれないことを悟っていたのだろう。杏奈の澄んだ瞳に、涙が浮かんだ。涙に霞む視界の中で、かすかな安堵感を感じながら、杏奈の脳裏には、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡った......一番多く思い出されるのは、桐生文子のことだと思っていた。しかし、杏奈の頭の中を埋め尽くしたのは、これまで見て見ぬふりをしていた、相川言成との思い出だった......幼い相川言成が、自分の後ろをついてきて、自分が転びそうになった時に、小さな手で支えてくれたこと。自分が泣いていると、相川言成が執事にクッキーをねだり、こっそり自分の机の上に置いてくれたこと。大人になった相川言成が、自分が寝静まった後に部屋に来て、こっそりキスをしてくれたこと。学校でさえ、相川言成は教科書で顔を隠しながら、机に突っ伏して眠っている自分に、こっそりキスをしてくれたこと......この時初めて、杏奈は自分のファーストキスを奪ったのは、あのチンピラたちではなく、相川言成だったのだと気づいた......杏奈は微笑んだ。涙が溢れ、頬を伝った......意識が朦朧とする中、杏奈は黒いスーツを着た相川言成が、眩しい光に包まれながら、こちらへ歩いてくるのが見えた。彼は杏奈の前に来ると、片膝をついて、優しく彼女の顔に手を添えた。「杏奈、お前の作った豚の角煮、食べたよ。美味しかった」杏奈は、ぼんやりと頷いた。「来世でも、作ってあげる。いいかしら？」相川言成は長いまつげを伏せ、来世でまた会うべきかど

和泉夕子たちは、寝る間も惜しんでパナマへ飛んだ。窓辺に寄りかかる杏奈の姿は、相川言成が死んだ時の姿と全く同じだった。杏奈は、この方法で罪を償い、生きている人にも、死んでいる人にも、自分がまだ彼を愛していることを伝えたかったのだろう......死んだ杏奈の姿を見た相川涼介は、その場に崩れ落ち、泣き崩れた。普段は感情を表に出さない彼だったが、この時は涙が止まらなかった。杏奈、自分のせいだ。もっとお前の面倒を見て、守ってあげればよかった。いとことして、何もしてあげられなかった。お前をこんな目に遭わせたのは、自分だ。自分さえいなければ、お前はあんな目に遭わずに済んだのに。全ては、自分のせいだ......相川涼介は自責の念に駆られ、壁を激しく殴り続けた。隣にいた滝川舞は、慌てて彼の腕を掴み、止めようとした。そして、ゆっくりとしゃがみ込み、相川涼介の腕に抱きつき、静かに涙を流した。霜村冷司に支えられていた和泉夕子は、彼の手を離し、杏奈のそばまで歩いて行った。血の気の引いた杏奈の顔を見つめ、言葉が出なかった......ほんの1ヶ月前まで、杏奈は穂果ちゃんと手をつなぎ、砂浜を元気に走り回っていた。明るい笑顔と風に舞うスカートは、生命力に満ち溢れていた。あんなに生き生きとしていた杏奈が、どうして......和泉夕子は信じられない思いでしゃがみ込み、恐る恐る杏奈の顔に触れた。冷たく、硬い。もう長い時間、この世に存在しておらず、温もりはもうそこにはなかった......和泉夕子は、ここに来るまでに涙を流し尽くしていた。今はただ、杏奈の顔を見つめ、胸が締め付けられるような苦しさを感じていた。白石沙耶香は杏奈の手を握り、必死に擦っていた。自分の体温で、冷たくなった杏奈の体を温めようとしていたが、無駄だった。魂は既にこの世を去り、残されたのは、ただの抜け殻......「杏奈、穂果ちゃんの名付け親になるって約束したじゃない。一緒に大きくなるのを見守るって約束したじゃない。どうして、どうしてこんなことを......」白石沙耶香は杏奈の手を握りしめ、声を震わせながら泣いていた。杏奈の手の甲に落ちた涙は、そのまま留まり、転がり落ちなかった。まるで、友人の死を悼む涙に、杏奈も心を痛めているかのように......杏奈が死んだ、相川言成の後を追って逝ってしまったとい

痩せ細った大西渉の体は、雷に打たれたように震えていた。内側から溢れ出すような痛みが、全身に広がり、指先まで激痛が走った。体に力が入らず、歩くこともできない。大西渉は、床に手をつき、這うようにして杏奈のそばまで行った。触れることさえ怖かったが、震える手で、そっと彼女の頬に触れた......冷たい頬に触れた瞬間、医師である大西渉は悟った。杏奈は、本当に逝ってしまったのだと。心から愛した女性が、もうこの世にはいないのだと......大西渉の顔から血の気が失せ、大粒の涙が、窓の外の雨粒のように、とめどなく流れ落ちた......自分の惨めな姿を見られたくなくて、大西渉はうつむいたまま、和泉夕子から杏奈の遺体を受け取った。そして、まるで大切な宝物を抱きしめるように、全身の力で彼女を抱き寄せた。大西渉は、杏奈の冷たくなった頬に自分の顔をすり寄せた。しかし、すぐに力を緩め、そっと顔を離した......大西渉が俯いた時、彼の涙が杏奈の顔に落ちた。ちょうど彼女の目尻に落ちた涙は、そのまま留まり、まるで杏奈の肌と一体化したかのようだった。それはなんだか彼に、泣かないで、と言っているかのようだった......しかし、大西渉の涙は止まらなかった。胸の痛みは激しく、涙腺が決壊したように、涙が溢れ続けた......杏奈の弁護士は、静かに涙を流している男性が大西渉であることを確認すると、彼に歩み寄り、手書きの遺書を手渡した......「これは、杏奈さんが生前に書いた遺書です。大西さんに直接渡すように言われていました」涙で濡れた目で封筒を見つめた後、大西渉はゆっくりと手を伸ばした。滑らかな紙に指先が触れた瞬間、まるで山頂に到達したかのように、息苦しくなった......大西渉は遺書を受け取ると、すぐには開けずに、杏奈の遺体と共に抱きしめた。これが最後の機会だと思ったのか、なかなか手を離そうとはしなかった......しかし、いつまでもこのままではいられない。警察は霜村冷司に配慮し、遺体に触れずに待っていたが、これ以上時間を置けば、規則に反してしまう。医師である大西渉は冷静であるべきなのに、今回は和泉夕子や白石沙耶香以上に感情的になっていた。杏奈の遺体をどうしても手放そうとせず、強く抱きしめていた。何人もの警官が遺体を引き離そうとしたが、大西渉は微動