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All Chapters of 偽りの愛: Chapter 1 - Chapter 10

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第001話

柏木和也(かしわぎ かずや)と入籍するはずだった日。彼の初恋の人が帰国した。彼がそっちを優先したせいで、私は市役所に一人置き去りにされた。「夜道は危ないから」と言い訳をして、彼はあろうことか私たちの新居に彼女を連れ込んだ。行き場を失って夜の街を彷徨うことになった私は、そこで暴漢に襲われてしまう。九死に一生を得て、ようやく彼から離れる覚悟を決めた。すると今度は、彼の方が「行かないでくれ」と泣いてすがってきた。私は鼻で笑い捨てた。「まさか、そんな他人の手垢がついた汚い男を、私がいつまでも受け入れるとでも思ったの?」……白川美咲(しらかわ みさき)が帰国した日は、奇しくも私と和也の入籍日だった。どれほど最悪なタイミングかと言えば――ふたりでサインを済ませ、まさに婚姻届を窓口の職員に手渡した、その瞬間である。和也のスマホが鳴った。いつも冷静沈着な彼には珍しく、その顔には明らかな焦りが広がっている。ペンを握りしめた手は小刻みに震えていた。電話に出た彼の声は、ひどく興奮しながらも、呆れるほどに甘く優しかった。隣で呆然と立ち尽くす私は、その横顔に、初めて恋を知った少年だった頃の彼を幻視していた。「泣かなくていい。まだ間に合うから……空港から動かないで。俺が今から迎えに行く」通話を切るなり、和也は職員へと乱暴に手を伸ばした。「その書類、返してください。今のなしだ」最初から最後まで、彼はただの一度も私へ視線を向けることはなかった。周囲の人間が怪訝な顔でこちらを見すえる中、私は思わず彼の手を掴んだ。「和也、とにかく手続きだけは済ませちゃおう、ね?」そこで初めて私の存在に気づいたかのように、彼はビクッと背筋を強張らせた。私の切羽詰まったような哀願の目が気になったのか、彼は口を開けたまましばらく言葉を発さなかった。私はなんとか笑顔の形を取り繕い、窓口の職員に続きをお願いしようとした。だが、彼は突然立ち上がると、窓口に出したばかりの書類一式をひったくり、振り返りもせずに足早に歩き出してしまった。市役所のロビーがざわめく中、私は衝動のままに彼を追いかけ、外に停めてあった車に乗り込もうとする背中を引き止めた。「彼女が、帰ってきた」私の中で湧き上がっていた抗議の言葉は、その一言で見事に喉
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第002話

彼は昔出会った頃のまま自信に満ち溢れているというのに、気がつけば私は、身も心も傷だらけになっていた。どっと全身に重い疲労感が押し寄せてくる。私たちの関係は、もうすぐ終わりを迎えるのだ。そうはっきりと悟った。外のベンチでどれくらい呆然と座り込んでいただろうか。時間をかけて重い足取りでようやく家へ帰りつき、玄関のドアを開けると、飼い猫の団子が足元にすり寄り、甘ったるい声で鳴き続けた。こらえきれずに涙がこぼれ落ち、私は鼻声で呟いた。「団子……あなただけは、ずっと変わらないでいてくれるね」しゃがみ込んで抱き上げると、団子はいつものように私の胸元に何度も鼻先をこすりつけてきた。心に重く垂れ込めていた暗雲がほんの少しだけ晴れるのを感じながら、私はその柔らかい毛並みを撫で続け、必死で温もりを分け与えてもらった。しばらくして、玄関の鍵が開くガチャという音がした。足音は上がり框のところで止まり、和也はすぐには電気を点けなかった。「無茶言うなよ!夜遅くにお前みたいな女の子が一人でホテルなんか泊まれるわけないだろ!」団子の頭を撫でていた私の手がピクリと止まる。顔を上げ、暗闇の中にうっすらと浮かび上がる男のシルエットを見つめた。和也の声はグッと低く柔らかくなり、無意識のうちに電話口の相手を甘やかすような響きを帯びていた。「ここは俺が自分で買ったマンションなんだから、誰を泊めようが俺の勝手だ。大丈夫だってば。あいつだってそこまで心の狭い女じゃない。ちゃんと分かってくれるって」そう言いながら彼が壁のスイッチを押した瞬間、パッとまばゆい照明がついた。ドンピシャで私と目が合い、彼の顔に浮かんでいただらしない笑顔が完全に凍りついた。その浮かれた表情は、ひどく私の目を刺した。「おふたりの甘い時間を、邪魔しちゃったかしら?」彼はハッとしてスマホの通話を切ると、慌てたように私の方へ二歩近づき、何か弁解しようと口を開きかけた。だが、突然思い直したようにピタリと足を止め、その場に立ち尽くした。「俺と縁を切るなんて息巻いてたくせに。……なんだ、結局俺がいないと生きていけないんじゃないか」全身に苦い感情が広がり、麻痺していたはずの心が再びじくじくと痛み出した。何か口走ろうとしたが声にならず、ただとめどなく涙がこぼれ落ちる。
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第003話

慌ててアプリを開くと、二つの人影がリビングに入ってくるのが映った。イヤホン越しに、女の弾んだ声が鼓膜を打つ。「へえ、このインテリア、柚子ちゃんの趣味?私もこういうの好きだなあ」長い髪を揺らし、淡い黄色のドレスを身にまとった女――美咲が、和也の腕に自然としなだれかかる。次の瞬間、彼女の声色は一転して不安と罪悪感に濡れたものへと変わった。「ねえ和也、私、二人の入籍日を台無しにしちゃったよね……でも、和也からのLINEを見たら、居ても立ってもいられなくて。私、もう忘れられちゃったんじゃないかって怖かったの!」――ドクン。全身の血液が逆流するような衝撃で、足が地面に縫い付けられた。そういうことか。全部、繋がった。なぜ美咲が、このタイミングを計ったように帰国したのか。なぜ和也が、午後になるまで家を出ようとしなかったのか。私は何だったの?二人の愛を燃え上がらせるための、ただの薪?画面の中の和也は、泣きじゃくる美咲を優しく抱き寄せ、私には向けたこともない深情けな声で囁いている。「お前のせいじゃない。俺の方こそ、あいつとは結婚したくなかったんだ。そもそも俺たちとは住む世界が違う」私にだってプライドはある。マゾヒストでもない。最初に「君は太陽みたいだ」なんて言って近づいてきたのは彼の方だ。別れようとした時に「行かないでくれ」とすがりついたのも、結婚を前提に付き合おうと言ったのも、全部和也じゃないか!私が捧げた五年という歳月すら、今の彼にとっては、美咲への愛を証明して彼女を安心させるための、ただの踏み台でしかなかった。絶望で手足が冷たくなり、私は周囲への警戒を完全に忘れていた。「フーーッ!!」ふと、手に持っていたケージの中で、普段は臆病で大人しい団子が、毛を逆立てて激しく威嚇する声を上げた。その鋭い鳴き声で、ハッと我に返った。背後の暗闇から、何者かの気配が音もなく忍び寄ってきている。月明かりに照らされた地面に、私のものではない影が長く伸びていた。誰もいない、薄暗い工事現場の近く。心臓が口から飛び出しそうなほどの恐怖に襲われ、私は震える指で反射的に和也へSOSを送った。【助けて。再開発エリアの近くにいるの。誰かにつけられてる!】掌にじっとりと汗が滲み、足は無意識にガクガクと震え出していた。私は
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第004話

「あいつ?どうせ俺のもとを出ていったこと後悔して、適当な言い訳作って気を引きたいだけだろ。放っとけ。どうせそのうち、自分からすり寄ってくる」声もなく涙が溢れた。その瞬間、私の心は本当の意味で、完全な絶望の底へと沈み込んでいった。頭を激しく打ち付けられたせいで、視界がぐらぐらと揺れている。氷のように冷たい地面に倒れ込んだまま、指先一つ動かすことができない。「ネコの次は、お前の番だ」男が這いずるように顔を近づけ、耳元でねっとりと囁いた。その声には、下劣で邪悪な嘲笑が混じっている。まるで、私の命のカウントダウンのように。恐怖で頭が真っ白になり、ただ無意識のうちに「やめて」「見逃して」とうわ言のように繰り返すしかなかった。だが、ずしりとした重みが全身にのしかかり、露出した肌に生温かく湿った息が這い回った瞬間、私はハッと我に返った。必死で抵抗しようとすると、容赦なく何度か平手打ちを食らった。火の出るような痛みの中、薄れゆく意識を必死に繋ぎ止め、地面を這わせた手で周囲を探る。やがて、指先がひんやりとした滑らかな硬いものに触れた。――酒の空き瓶だ。ためらいはなかった。残された全ての力を振り絞り、自分にのしかかる男の頭めがけてそれを力いっぱい振り下ろす。「ぐあっ!」ガシャンという鋭い音と共に瓶が砕け散り、破片が私の顔にもバラバラと降り注いだ。私はそのまま、手に残った鋭利なガラスの破片を男の首元へ突き立て、一気に引き裂こうとした。だが、無情にもそれは空を切った。男は再び私を押し倒し、今度は太い両手で私の首をギリギリと締め上げてきた。凶暴な怒声が降ってくる。「このクソアマ! ぶっ殺してやる!!」頼りない街灯の光の下、血まみれになった男の顔の半分がはっきりと見えた。その目は血走り、異常なほどの殺意を湛えて見開かれている。強烈な窒息感に肺が悲鳴を上げ、いよいよ意識が闇に沈み込もうとしたその時――突然、目が眩むような強い光がこちらを真っ直ぐに照らした。同時に、首を絞め上げていた凄まじい圧迫感がフッと消え失せる。私は激しくむせ返りながら、貪るように新鮮な空気を吸い込んだ。それでも頭の中はまだ真っ白なままだ。時間の流れが奇妙に間延びしたように感じられた。周囲の怒号も物音もまったく耳に入らず、全身を覆っていたはずの
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第005話

私が気を遣うと思ったのか、彼女は焦ったように言葉を付け足す。「あ、これでも別に恩を売ろうってわけじゃないんだよ!ただの一人の働き手として見てやってよ。もしプロの家政婦さんの方がいいってなら、遠慮なく断ってくれてもいいんだからね!」そこまで一気にまくしたててから、林さんは「あちゃー」という顔で自分の頭をわしゃわしゃと掻きむしった。「いや、恩を売るとかじゃなくて、ええと、なんて言えばいいのかな、つまり、その……」不器用で真っ直ぐなその優しさに、私は思わず林さんの手をこちらから両手で包み込んだ。「私からも、ぜひお願いしたいです。でも、林さんの普段のお仕事の邪魔にならないか心配で……本当に、何から何までありがとうございます」人生で一番暗いどん底に突き落とされた私に、見ず知らずの人が、こうして何度も温かい手を差し伸べてくれている。その事実が、凍りついていた心を少しだけ溶かしてくれた。トイレへ連れて行ってもらい、鏡の前に立った時、私は初めて自分の悲惨な姿を目の当たりにした。後頭部は分厚いガーゼでぐるぐる巻きにされ、顔面、特に首の周りには赤黒い内出血が痛々しく広がっている。左腕は石膏のギプスでガチガチに固定され、全体的にひどくむくみ、生気のない青白い顔をしていた。「保険証の写真、すっごく美人だったから、傷さえ治れば絶対に元通りになるわよ」林さんは私が顔の傷を気にしているのだと勘違いしたようだが、死の淵をさまよった今の私にあるのは、ただ命拾いしたという安堵感だけだった。もう二度と会うことはないと思っていた人物が、こんなに早く、しかもこれほど不意打ちで目の前に現れることになるとは。美咲は具合が悪いのか、ぐったりとした様子で和也の隣に座り、彼に体重を預けて思い切り甘えていた。和也は微笑みを浮かべながら身を屈め、彼女を優しくなだめている。その度、美咲の顔にふわりと笑みがこぼれた。「わあ、見てよあのカップル。すっごいラブラブ」隣に並んでいた若い女の子が羨ましそうに囁くのを、私は能面のような顔で聞いていた。私の心の中は、すでによどんだ沼のように底冷えして、少しの波風も立たない。私の心情の変化に気づいていない林さんは、車椅子を邪魔にならない隅に停めると、受付へ向かって小走りで駆けていった。美咲が何を言ったのか、和也の顔からふい
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第006話

その一瞬、私の中に様々な感情が渦巻き、どうしても彼を突き放すことができなくなった。それどころか、両親に代わって彼が私の新しい「家族」になってくれるとさえ信じてしまったのだ。だからこそ、昨夜あえて私の電話を無視したと彼が自慢げに語るのを聞いて、私はスマホを握る手にぐっと力を込めた。――男への同情は、一生の不覚。まさにその通りだ。彼が並べ立てた言い訳は、間違いなく自分に対する後ろめたさの裏返しだ。だが、彼はその非を認めたくないがために、先回りして全ての責任を私になすりつけているだけ。私が一向に口を開かないのを見て、彼は突然おかしそうに笑い出した。「分かった分かった。昨日入籍しなかったから怒ってるんだろ?俺が帰ったら、ちゃんと美咲を紹介してやるから。本当に彼女のせいじゃないんだって」彼は少し言葉を区切り、さらに続けた。「それにしても、次からはもう少しマシな嘘をつけよ。本当に殺人未遂の犯人に襲われたなら、どうやって逃げ延びたって言うんだ? お前……」彼の言葉を遮るように、突然、病院の待合室にアナウンスが響き渡った。『桑原柚子さん、桑原柚子さん、2番診察室までお入りください』アナウンスを聞いた途端、激しく動揺する彼の顔を見て、私は思わず乾いた笑い声を漏らした。ちょうどそのタイミングで林さんが私を押し出し、陰から姿を現した瞬間、和也とバッチリ目が合った。ほんの数分前まで電話越しに私を嘲笑っていた男は、まるで突然糸が切れた操り人形のように力なくよろめきながら私の前に走り寄り、その場にがっくりと膝をついた。「嘘だろ……本当、だったのか……?」私に触れようと伸ばされた彼の手を、私は冷たく払い除けた。そして、この上なく残酷な響きを込めて言い放った。「悪魔の強運のおかげで、死にぞこなっちゃったみたい。残念だった?」林さんは和也を避けながら、診察室へ私を押し進めようとした。しかし、彼が車椅子のひじ掛けを強引に掴み、私たちの行く手を阻んだ。「お前……」いい加減うんざりしていた私は、そっけなく頷いてみせた。「そうよ。あなたが可愛い初恋の人の夜道を心配していた頃、あなたたちがソファでいちゃついてた頃……あなたのせいで、私は殺人未遂の犯人と鉢合わせしてたわ。私が助けを求めて電話した時、あなたはなんて答えたんだったっけ?」
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第007話

彼は私の手を握ろうと伸ばしかけ、傷だらけの腕を見てハッと手を引っ込めた。昨夜彼と美咲が交わした会話を思い出すと、猛烈な苛立ちがこみ上げてきた。「白々しいこと言わないで。白川さんをホテルに泊まらせるのは心配でたまらないのに、私が一人で夜道に出るのは単なるわがままだって言ったじゃない。私を追い出す時、口を開けば彼女のことばかりだったでしょ。あれが強がりだったのか本音だったのかなんて、お互いよく分かってるはずよ」和也の顔色がサッと青ざめる。彼は私のベッド脇にしゃがみ込み、パイプ椅子の背もたれにすがりついた。「許してくれ、頼む……! 俺はただ、美咲に対して昔の未練が捨てきれなかっただけで、それ以上の感情はないんだ」耳元でぶつぶつと言い訳を並べ立てる彼の声に、ただでさえ重い頭がさらにガンガンと痛み出す。私は限界に達し、サイドテーブルの上の水の入ったコップを掴んで、彼めがけて力一杯投げつけた。和也は避けようともしなかった。水と一緒に投げつけられたコップが額に命中し、みるみるうちに赤く腫れ上がる。顔じゅうを濡らしたまま、それでも彼は私を見つめていた。その目を見た瞬間、私の中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。心の奥底に押し込めていた苦痛が、とうとう限界に達してあふれ出したのだ。私はボロボロと涙をこぼし、泣き叫んだ。「団子が死んだわ! 団子は……私を守ろうとして、地面に叩きつけられて、死んだのよ……!」「和也、あの時あなたは何をしてた!? 私が勝手に出て行ってくれて、二人きりになれてラッキーだって喜んでたんでしょ! それとも、腕の中で泣きじゃくる白川さんを慰めるのに夢中だった!?」私が泣き喚きながら暴れるのを、林さんが必死に取り押さえようと抱きしめてくれた。和也はようやく事の重大さに気づき、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、その場に崩れ落ちるように土下座した。「柚子、落ち着いてくれ……! 頼むよ、俺が悪かった。お前を置いて美咲のところに行ったのも、あいつを新居に連れ込んだのも、全部俺が間違ってた。どんな罰でも受けるから……だから、これ以上自分を痛めつけないでくれ。本当にごめん……!」駆けつけた医師に鎮静剤を打たれる間、私はベッドのシーツを指が白くなるほど強く握りしめ、和也を恨み骨髄に徹するような目で睨みつけな
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第008話

和也は息を呑み、何かを言い訳しようと口を動かしたが、声にはならなかった。これ以上、彼の言葉を待つ義理はない。私は静かにドアを閉め、その哀れな姿を視界から完全に締め出した。病室のソファに腰を下ろすなり、安奈は怒りを爆発させた。「信じらんない!あのクズ、私の前じゃ一途で苦労人のいい彼氏ぶってたのに、その愛情は全部あの女への当てつけだったってわけ!?」安奈の執拗な追及に抗いきれず、私はあの日起きたことのすべてを淡々と語った。婚約を反故にされ見捨てられたこと、暗い路地で暴漢に襲われたこと、絶望のなかで電話越しに嘲笑われたこと、そして——私をかばって、団子が凄惨な死を遂げたこと。すべてを聞き終えた安奈は、ソファに座り込んだまましばらく身動きすらしなかった。てっきり「今からあいつら二人を半殺しにしてくる!」とでも暴れ出すだろうと思っていたのに。ふと見ると、彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていた。「あの日……運転手さんが偶然通りかからなかったら、私、もう二度とあんたに会えなかったってことじゃない……」震える両手で顔を覆い、安奈は声を上げて泣き崩れた。出会ってから今日まで、こんなに気が強く、弱音一つ吐かない彼女の涙を見たのは初めてだった。その無防備な泣き声を聞いた瞬間、凍りついて死んだようになっていた私の胸の奥が、ギリギリと軋むように痛んだ。「……ごめん、ごめんね安奈」私は包帯の巻かれた腕で不器用に安奈の肩を引き寄せ、その震える温かい身体に顔をうずめた。ずっと無理やり抑え込んでいた恐怖や絶望が、親友の体温を通して堰を切ったように溢れ出し、私はようやく、子どものように声を出してしゃくりあげた。「やっぱり腹の虫が治まらない! あんたがこんな理不尽な目に遭って、このまま泣き寝入りなんて絶対に許さない。あんたには私がついてるんだからね、この安奈様がどんな女か、あいつらに思い知らせてやる!」彼女は昔から猪突猛進なところがあるが、特に私のこととなると、火のついた爆竹のように後先考えずに突っ走ってしまう。私は慌てて彼女の腕を引き、宥めるように言った。「分かってる、分かってるから。でも……この件は、私自身の手で決着をつけさせてくれないかな?」そうして迎えた、退院前夜の深夜のこと。暗い病室に忍び込んできた和
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第009話

「なんか……お前、変わったよな」ちょうど安奈から送られてきた留学先での裏情報——とあるゴシップをスマホで眺めていた私は、すこぶる機嫌が良かった。「どこが?」「分かんないけど。……もう俺のこと、好きじゃないみたいだ」私は少し口をつぐんだまま、何も答えなかった。すると和也は、何かを証明しようと焦るように、私の首筋へと執拗に唇を這わせてきた。――その瞬間、あの夜、路地裏で私を襲った男の口から放たれた悍ましい悪臭がフラッシュバックした。私は反射的に和也を全力で突き飛ばし、ゴミ箱を抱え込んで胃の底から激しく嘔吐した。酔いから覚めた和也は、コップの水を持って私の背中をさすっていたが、その顔色はひどく強張っていた。もう、この薄ら寒い茶番をぶち壊してやりたかった。私は彼が差し出したコップを払い落とし、指を突きつけて怒鳴りつけた。「どうして白川のところへ行かないのよ?今度は彼女をどこのマンションに囲ってるの? 和也、今のあんたを見てるだけでひどく吐き気がする!」和也は途端に狼狽えだした。「ち、違う、あの日以来、あいつとは一度も会ってない!」私は冷たく鼻で笑った。「やったことの責任も取れないのね! 忘れられない初恋の女がいることなんて一言も言わず、この四年、私に尽くしてくれたあの優しさも……結局は全部ただの偽善じゃない!」そうして、私たちはこの五年間で最大の口論に発展した。彼は美咲との関係を頑なに否定し続け、私は決して信じようとはしなかった。実際のところ、この期間、彼が美咲に会うような真似ができないことは分かっていた。でも、私は和也という人間を誰より熟知している。どこをどう抉れば彼が一番苦しむか、手に取るように分かっていたのだ。あの夜の激しい口論を境に、私と和也はまるであの入籍の日の前――何事もなかった穏やかな生活に戻ったかのようだった。深夜、SNSのタイムラインに流れてきた美咲の「やけ酒」を匂わせる投稿を見て、私は彼女がいよいよ焦り始めていることを悟った。私はわざと和也にべったりと甘えるようになった。家では彼に抱きついて愛の言葉を囁き、彼が外にいる時はひっきりなしに連絡を入れて束縛した。最初はそんな私の変化を喜んでいた彼だが、次第にその態度は生返事ばかりの雑なものになっていった。和也がまた
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第010話

【私の愛しい人は、もう別の人のものになってしまった。こんな悲しい場所には、二度と戻りたくない】私は隣で自分のスマホをいじりながら、全く気づいていないふりをした。警察署の前に到着すると、和也は私の免許証や手続きの書類を林さんに渡し、私を少し離れた場所へ引き寄せた。「会社で深刻なミスが見つかって、どうしても俺が行って対応しなきゃならなくなった。先に入っててくれ、後ですぐ迎えに来るから」私は笑みを完全に消し、底なし沼のような昏い瞳で彼を見据えた。和也の額には、じっとりと冷や汗が滲んでいた。私は無言で彼の手を冷たく振り払い、林さんのもとへズカズカと歩み寄った。「行きましょう。また置いてきぼりにされちゃった。でも、私はすごく嬉しいの」林さん夫婦は何も言わず、ただ私の背後にいる和也を鋭く睨みつけ、私と他愛のない会話をしながら署内へ入っていった。私は一度も後ろを振り返らなかった。だから、和也が私が想像していたほど呆気なく立ち去ったわけではなく、署内へ消えていく私の背中をいつまでも見つめ、その場を長いこと彷徨った末にようやくこの場を離れたことなど、知る由もなかった。けれど、仮に知っていたとして。今さらそんな未練がましい姿を、一体誰に見せようというのだろうか。和也は美咲を追ってそのままE国へ飛び立った。案の定、私にはメッセージの一つも、電話の一本も寄こさなかった。翌朝、遅く起きてからSNSを開くと、美咲の新しい投稿が目に入った。【自分があなたの心の中でこんなに大きな存在だったなんて。もう、自信をなくしたりしない】添えられていたのは、上半身裸の男の胸に彼女が寄りかかっている写真だった。その男が誰なのか、推理するまでもない。私は迷わずその投稿に「いいね」を押し、スクリーンショットを撮って和也に送りつけた。【何度も私を放り出して彼女のところへ行くの、そんなにスリルがあって楽しい?】その日の午後、私は解体業者の男たちを数人手配し、半年以上の時間と情熱を注ぎ込んだこの部屋の真ん中に立って、冷徹に言い放った。「全部、ぶっ壊してください」取り外してまだ使える家電類は、すべて下の階で入居準備をしていた新婚夫婦に破格の値段で譲り渡した。持ち出せなかった家具や建具、果ては床のタイルに至るまで、残ったものはどれもこれも、作
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