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All Chapters of 水鏡の星詠: Chapter 141 - Chapter 150

182 Chapters

フェルミナ・アーク ⑥

 木々の隙間を縫うように差し込む光が、記憶の断片にそっと触れるように揺れていた。そのやわらかな光の中で、エレナがゆるやかに森を見上げる。 隣に立つリノアは、言葉にならない想いを胸の底へ沈めるように、ただ静かにその風景に身を預けていた。そのとき── 森の奥で、ひときわ大きな音がした。 音は空気の表面を裂くように吹き抜け、ひと筋の流れとなって二人の間を吹き抜ける。 リノアとエレナの髪がその風に揺らされ、後ろへなびいた。 はっとしたリノアが顔を上げて、その視線を森の奥へと向けた。 気配を探るように、息をひそめ、耳を澄ます。──今のは風の音ではない。 空気そのものが意志を帯び、まるで誰かがそこにいると告げているかのような確かなものだった。 羽ばたきの音だろうか。けれど、ただの鳥のそれとは違う。 空気を斜めに裂くような音だった。「今の音、何だろう?」 リノアの囁くような声が宙にほどけた瞬間、森の空気がほんのわずかに緊張の色を帯びた。 リノアは身を寄せるように身体を傾け、エレナの肩越しに森の奥を見つめる。「何かいる……」 枝先がかすかに揺れ、落ち葉の上に音もなく何かが降り立った。 その存在は囁きと呼ぶにはあまりに濃く、空気を震わせるには十分な重さをまとっている。 目には見えない。けれど、確実に何かがこちらを見ている──そんな感覚が肌の上を這った。 リノアの胸の奥で鼓動がゆるやかに高鳴っていく。 その時、森の奥で再び空気が揺らいだ。まるでリノアの内に芽吹いたざわめきに呼応するかのように──「リノア、下がって」 エレナが静かに告げた。 その声が届くよりも早く、気配の異変を感じ取ったリノアは、すっと後方へ身を引いた。 戦闘――それはエレナの領域だ。 エレナの視線が森の奥を射抜く。 その視線の先、樹影の間で何かがゆっくりとずれた。本来、何もないはずの空間に、じわりと何かが満ちてゆく。 それは音も形も持たず、それでいて確かな存在感だけを連れて、そこに現れようとしていた。 エレナが弓に手をかけ、気配ひとつ立てずに一歩踏み出す。 張りつめた空気の中、エレナの呼吸が整えられていく。リノアは視線を逸らさぬまま、袋に入った鉱石に手を伸ばした。 音が消えていく── まるで森そのものが息を殺して、何かの接近を知らせようとしているかのよう
last updateLast Updated : 2025-06-27
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フェルミナ・アーク ⑦

 その沈黙の中心で、何かがじわりと形を取り始める。 樹々の隙間が、まるで布を裂くようにゆっくりと割れた。 そこから姿を現したのは、影よりも深く、霧よりも曖昧な存在── 森の光を吸い込みながら、黒に近い灰色の身体が音ひとつ立てずに地を踏む。 エレナが弦に指をかけ、一本目の矢を放った。──矢が静寂と空気を鋭く切り裂いていく。 だが、影は不規則な動きで身を逸らし、矢は背後の樹に突き刺さったまま震えた。「こっちの動きを読んでる!」 エレナが呻くように言い、咄嗟に一歩、後退した。その足音さえ、張りつめた空気に吸い込まれていく。 その瞬間、影が再び動いた。 エレナのわずかな後退──その一拍をそれは見逃さなかった。 影が地を舐めるような動きで迫ってくる。 輪郭の縁が脈動しながら歪み、低く身を伏せて地を掴んだその影は、次の瞬間、ひび割れた空間から弾けるように跳びかかってきた。 形状の定かでない四肢が宙に広がり、エレナの胸元へ迫り来る。 衝撃で空気が震える。「──くっ!」 エレナは身を捻り、間一髪で攻撃の軸を逸らした。 背後の樹皮に濁った爪痕のような痕が刻まれ、細かい木屑がふたりの足元へと舞った。 目には見えず、形も定かではない。けれど、それの狙いは確実に定まっていた。エレナの一射ごとに込められる力そのものに向けられている。 リノアは足元の石を蹴り上げた。 跳ねた石が鋭く軌道を描き、空気を裂く。 影の意識が一瞬、そちらに逸れた。──今だ。 リノアは腰の袋に手を突っ込み、《凍結の晶核》を掴む。 その瞬間、凍結の晶核が脈打ち、リノアの鼓動と共鳴するように冷気が走った。 指先に宿る冷気── 影は姿を現すたびに数歩分、近づいてくる──その動きは風と共に断続的に姿を断つものだった。 明確な移動ではなく、こちらとの距離そのものが削られていくような不気味さがそこにある。「間に合って……」 祈りに似た言葉がリノアの口から漏れた。 迫り来る影は霧を引きずるように加速し、なおもエレナを追っている。 リノアが指先に集まった冷気に集中した瞬間──冷気が音を伴って解き放たれた。 冷気が空気を裂く音が響き渡り、振動と共に氷の蔦が波紋のように空中を伝っていく。 氷の蔦が影の脚元を捉え、鋭く、美しく、その輪郭を凍結させていった。 影の動きが徐々に
last updateLast Updated : 2025-06-28
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誰かのために動く時 ①

 アリシアとセラは壁伝いに歩きながら、周囲に目を配った。 広場を囲むように並んだ建物は、どれも古びた石造りで、窓には色褪せた布が垂れている。通りすがりの足音もなく、空気はひどく静かだった。「アリシア、こっち」 セラの声はひそやかで、かすかに緊張を帯びている。 セラは広場の一角、木製の扉がわずかに傾いた古い店へ向かい、慎重に押し開けた。 扉が震えながら開かれ、軋む音を立てる。 アリシアとセラはひと呼吸おいてから、中へと足を踏み入れた。 店内が薄暗がりに包まれている。 棚の上には年代も定かでない薬瓶と刻まれた石片が並び、床に敷かれた絨毯はすでに模様が擦り切れてほとんど見えない。 埃と乾いた香草の匂いが微かに漂い、空間そのものが隔絶されているような感覚に包まれる。 セラはまっすぐ奥のカウンターへ向かった。そこには誰の姿もなかったが、セラは躊躇うことなく、指先でカウンターの天板を軽く叩いた。 三度、短く。「……合図?」 アリシアが囁くと、セラは小さく頷いた。「この店は仮の顔。奥に本当の扉があるの」 沈黙が二人の間を満たす。 時間の流れが淀み、思考と感覚だけが濃密に残された重く湿った静けさ。その奥で、何かがゆっくりと動き出す気配が確かにあった。 アリシアたちが扉の前に立って、音ひとつ立てずに様子を窺っていると、扉の向こうから誰かが近づいてくる足音が聞こえた。「開けていいぜ。ここまで来たんだ、引き返す気はないんだろ?」 静寂が破られる。 アリシアがセラにそっと視線を送った。わずかに目を細めたその眼差しを見て、セラが頷き、無言のまま扉にゆっくりと手を伸ばした。 鈍い音と共に扉が軋みながら開き、冷たい空気が隙間から漏れ出す。古びた羊皮紙と煤けた木の匂い。「久しぶりだな、黒い瞳。確かセラだったよな?」 男が微かに口角を上げた。 鋼のような無表情の奥に滲んだその笑みは、感情というより、長く忘れられていた記憶が軋みながら目を覚ます──そのような笑みだった。 懐かしさとも敵意とも判断がつかない。 セラは眉ひとつ動かさず、足を一歩踏み入れた。 その足取りには迷いも戸惑いもない。しかし微細に張りつめた空気がセラの内側を確かに揺らしていた。 男は懐から古びた羊皮紙を取り出し、開きもせずに指先で軽く弾いた。乾いた音が空間に跳ね、白く古びた繊維
last updateLast Updated : 2025-06-28
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誰かのために動く時 ②

 男は小さく鼻で笑った。 それは相手の言葉を歓迎しているのか、それともそうではないのか判断しかねる仕草だった。「覚えてるさ。おまえが最後にこちらを見たときの目……まだ脳裏に焼きついてるよ」 その声は穏やかでありながらも、どこか熱を帯びていた。 表面上の平静の奥に、手放したはずの何かがまだ燻っている。そのような気配を孕んでいた。 セラは男を見据え、沈黙し続けた。 声に出す言葉よりも、沈黙が雄弁に語ることをセラはよく知っているからだ。その視線は鋭く、男の言葉の裏の意味さえ一言も残さず読み取ろうとしている。 だが何も語らぬ仮面のように、男は表情ひとつ動かさない。さすが情報屋といったところか。沈黙の中でも言葉を仕込む術に長けている。 情報屋にとって、口を開くことも、口をつぐむことも、すべてが情報なのだ。 読まれることすら織り込み済みなのだろう。注意しなければならない。それ自体が罠の一部である可能性がある。下手に相手の心理を読めば深みに嵌ってしまいかねない。 二人の様子を眺めていると、セラの視線が、わずかに揺れたことにアリシアは気付いた。 しかし揺れたのは感情ではない。セラは目の奥で過去の記憶と現在の目的を天秤にかけているだけなのだ。「過去のことなんて、どうでもいいの」 セラは冷ややかに言った。 それを受けた男が眉をひそめる。 苦笑にも警戒にも見えるその仕草──それが演技か本心か、見分けるのは難しい。「……ふむ。だったら、今日ここへ来た本題は別にあると?」 セラは頷かなかったが、否定もしなかった。男の視線を真正面から受け止め、そのまま逸らさない。「訊きたいことは一つ。ヴィクターのことよ。あなたの元に、この人の情報が流れてきたことはある? 最近、このヴィクターがアークセリアで不審な行動を取っていると聞いたのだけど」 その名を口にした瞬間、男の指が軽く動いた。 表情は変わらなかったが、そのわずかな癖は男が何かを知っていると告げるには十分だった。 男は肩を竦めた。「はて、ヴィクター……。そんな名前は聞いたことがあるような、ないような」 煙に巻くような言い方だったが、セラは問い詰めなかった。「その手の遊びには付き合うつもりはないの。私はあなたと違って、ここで情報を得たことを他言するつもりはない」 言葉の重さと沈黙の密度を秤にかけるよう
last updateLast Updated : 2025-06-29
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フェルミナ・アーク ⑧

 霧の残響がまだ空中に揺れている。 空中で冷気に縫い留められている影を見て、リノアとエレナは息を吐いた。「危なかったー」 リノアの安堵の声が張りつめていた空気をふっと和らげた。 リノアは膝をついてその場に座り込むと、両手をついて深く呼吸を整えた。緊張がほどけていくのを感じる。「ねえ、リノア。どうやったの? あれだけ冷気を放ったのに周囲は何ともないなんて……。普通なら私たちも巻き込まれて凍っているんじゃない?」 エレナが肩の力を抜き、ぽつりと口を開いた。 リノアは視線を逸らさず、凍りついた空間の中心──氷の檻に囚われた影をじっと見つめた。「凍らせたのは温度じゃないの。影の輪郭」 リノアは氷の余韻を見つめたまま、言葉を落とすように語った。「動きが速くて不規則だったから、影の位置が定まらなかった。だから、あいつの動きの形に集中したの。残像とか、軌道とか──何度か繰り返された流れを絵のように想像して」 リノアは指先を軽く空に描いてみせた。「その流れを一瞬でも捉えられたら、そこを氷で縫い留めることができる。実体がなくても通る道は封じられるから。言ってみればイメージかな」 エレナは目を瞬かせた。理解が追いつかないというよりも、信じがたい、という反応だ。「全てじゃなく、凍らせたいものだけを……か。それ真似できる人いないと思うよ」 エレナは苦笑しながら頭をかいた。 その目には少しだけ尊敬と焦りが滲んでいる。「今回は封じることができたけど、いつも上手く行くとは限らない……」 リノアは口元にわずかな笑みを浮かべていたが、それをすぐに消して険しい表情へと戻した。 その時 パキン──と乾いた音が静寂を破った。 二人が同時に振り返る。 氷の檻の中心、影を縫い留めていた結晶の一角に蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。 エレナが瞬時に身を低くし、リノアもそれに続いた。「エレナ、今の音……」 氷が割れる音の前、確かに聞こえた。何かが空気を裂く音──「何か飛んできたよね」 エレナが囁いた。「うん。森の奥から……」 リノアの言葉が終わる前に、バキンッと乾いた破裂音が響き、氷が鋭く裂けた。先ほどよりも大きな音だ。抑えきれない圧力が内側から結晶を軋ませている。──壊れる! リノアが腰の袋から凍結の晶核を引き抜いた。 その表面に指が触れた瞬間、
last updateLast Updated : 2025-06-29
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フェルミナ・アーク ⑨

 霧と影が溶け合い、視界は捻じれていた。 空間そのものが脈動し、黒い質量が、その中心で静かにうねりを上げている。 エレナに襲いかかる影── それは音を立てず、空を裂くように舞い上がり、氷と霧の破片を払いのけながら進んで行った。 切っ先のように鋭く、そして躊躇いもなく。 その場に立ち尽くすエレナ。 呼吸も、瞬きも、そして思考さえも、どこかに置き忘れてきたかのように── 影の一部が菌糸のように輪郭を伸ばし、エレナへと手を伸ばした。「エレナ逃げて!」 リノアが叫んだ。 だがエレナは反応しない。声が霧の帳に吸われるように消えていった。──まさかエレナの周辺だけ、空間が屈折している? 空気の層が幾重にも重なり、そこだけ光が濁ったように揺らめいている。熱気が立ち上る日の地面のように背景が微かに歪み、木々の輪郭が波打って見えた。 リノアの視線がその膜を越そうとするたび、焦点が滲む。 音という音が、すべて吸い込まれていく空間── エレナのいる向こう側の世界とリノアが立つこちら側の世界との間には、明らかに隔たりがある。二人を隔てるのは距離ではなく、存在そのものを別つ何かだ。 目に見えない薄いガラス越しに揺れるエレナの姿。 時間の流れも緩くなっているのかもしれない。きっと、もう触れることさえできないのだろう。おそらく空間ごと現実から引き剥がされている。 エレナの表情が見える。 それは、あまりにも穏やかな表情だった。 シオンにだけ向けられていた柔らかな笑顔。久しく見ていなかった表情だ。 それが今、あの影の中心で浮かんでいる。 危険の渦中にいるというのに、まるで夢の続きを見ているかのようにエレナの顔が安らいでいる。 それは、あまりに静かで美しく、そして……どこか壊れていた。──エレナが影に取り込まれている。 リノアの足が、かすかに前へ動いた。 けれど、その一歩は宙で溶けてしまった。踏み出してしまえば、自分も同じ場所に堕ちていくかもしれない…… そんな確かな予感が足首に冷たい鎖のように絡みついた。 霧が一筋、風もなく流れていく。 その奥で揺れるエレナの輪郭が、少しずつ遠ざかっていくように見えた。「……エレナ」 声に出したつもりの名が、音になる前に搔き消される。 エレナの眼差しの先にあるのは──おそらく、シオンだろう。 だが、
last updateLast Updated : 2025-06-30
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誰かのために動く時 ③

「さっきから気になっているのだが、そこに居る綺麗なお姉さんは誰なんだ?」 どこか飄々とした声音だったが、その奥には鋭く研がれた刃のような気配が潜んでいる。 セラの口がわずかに開きかけて、すぐに閉じた。 目線が一瞬アリシアへと移る。 語るべきか、それとも沈黙を貫くべきか。セラはその答えを天秤にかけているようだった。 その一瞬の逡巡を男は見逃さない。 だが、煽ることはせず、ただ退屈そうに指を鳴らしただけだった。「……答えたくないなら、それも一つの選択だ。沈黙は悪くない。だが情報屋は沈黙の理由にすら値をつけるぞ」 その言葉を受けたアリシアが、ゆっくりと前に歩み出た。 椅子にもたれたままの男の視線を正面から受け止める。「私は──セラの友人よ」 その声には張りがあった。刺々しさはない。必要以上に誇張せず、言葉には必要なだけの重さが込められていた。 言葉の端に、これ以上の詮索は無用だと言いたげな気配がある。「ヴィクターを追っているのは私。その男が村を裏切った可能性があるの」。 アリシアは村を出た時に見た光景を思い出した。 森林の一角が根こそぎ焼き払われていた。ヴィクターの痕跡を残して…… 男の目の奥に光が灯った。それが興味なのか、別の意図なのかは判別できない。「なるほど。だから、そいつを追って、ここまで来たわけか……。裏切り行為は重罪だからな」 男の言葉に場の温度がわずかに変わる。 セラが反射的に視線を逸らした。一瞬だけ、その表情に影が差す。それは言葉にならない何かが、過去の奥底から顔を覗かせたかのようだった。 男はゆったりと身を起こすと、机の奥に手を伸ばし、埃のたまった紙束の間から一通の封筒を手に取った。 その仕草に無駄はない。予め用意してあったかのような動きだ。「じゃあ一つ訊こうか、嬢ちゃん」 声に熱はない。すでに答えを知っている者の口調だ。「グレタ──その名を出しても、まだ探す覚悟はあるか?」 男の視線が真っ直ぐアリシアを射抜く。しかしアリシアは答えない。微動だにせず、その言葉をただ受け止めただけだった。 沈黙を破るように、隣でセラが小さく息を吐く。 何か話すわけではない。セラは無言のまま男を睨みつけている。じっと男を睨むその瞳が代わりに何かを物語っている。 男との遣り取りを想い出し、うんざりしている様子が見て取れる
last updateLast Updated : 2025-06-30
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誰かのために動く時 ④

 男は手にしていた封筒を少し傾けて重さを確かめると、それを机の上へ滑らせた。 木の表面を紙が這うわずかな擦過音が、沈黙の空間にやけに鮮明に響きわたる。 アリシアの前でぴたりと止まる封筒──「中は見ても構わない。ただし──理解できるかは別の話だ」 男の手つきには一切の虚勢も演出もなく、もはや試すような気配もない。こちらに、すべてを委ねている。 アリシアは封筒を手元に引き寄せて、封の切れ目に指を滑り込ませると、ひと息で破った。 中から現れたのは、羊皮紙のような質感を持つ古びた報告書と、乾いた葉を挟んだ一枚の地図だった。 黄ばんだ報告書の端には日に焼かれたような跡が走り、所々、文字がかすれている。「この葉は?」 折りたたまれた地図に押し花のように挟まれた葉……。 その葉は生命の気配はないが、不思議と色褪せてはいない。「それは境界を越えた者が持ち帰って来たものだ」 アリシアは視線を地図の上に走らせた。「どいつもこいつも他所の者は素知らぬ顔をして、この地を蹂躙する」 ぽつりとこぼれた言葉に苦々しさが混ざる。「だがな……この土地は生きているんだ」 男は背もたれに身を沈め、アリシアの手元をじっと見据えた。「敬意と畏れを忘れた者には罰を、触れた者には代償を払ってもらわなければならない」 男はそれ以上、何も言わずに口を閉ざした。 それは耳に届かぬ誰かに向けて、幾度となく語り続けた者の声だった。もう語る行為そのものに疲れているような……「境界というと……エクレシス」 アリシアが名を確かめるように口にした。 エクレシス──それはフェルミナ・アークの北辺に広がる区域の一つだ。人々はそこを、いつからか『眠りの森』と呼ぶようになった。 地図の一角には、煤けたように色の薄れた円が記されている。その中心に、『エクレシス』という名が殆ど消えかけた古語で刻まれていた。 そこは本来なら誰一人として踏み入ってはならない場所、命じられても欲しても、森の理は訪れを許さない。 なのに、なぜこの地図を私に? アリシアの胸裏に生まれた疑問は、声にならぬまま空気の底で揺らいだ。「その葉は普通なら数時間で崩れ落ちる。だがエクレシアの、ある一画に生える植物は三年経っても瑞々しく形を保っていられる」 男は淡々と既知の事実をなぞるように語った。「持ち帰ったのはヴィクタ
last updateLast Updated : 2025-07-01
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夢と記憶のあわい ①

 影の中で揺れるエレナの姿が見える。 記憶の底に沈み、穏やかに微笑むエレナ── エレナを救わなければ。 リノアは、その微笑みに導かれるまま、そっと手を伸ばした。それは触れるというより、記憶と夢のあわいにひとすじの祈りを浸すような動作だった。 触れた瞬間、世界がわずかに揺らいだ。 冷たくもなく、熱くもない、境目のない感触———— ひとしずくの沈黙が降り立ち、見えない波紋が空気の奥深くへと広がっていく。幾重にも折り重なった空気の層がたわみ、世界の輪郭が緩やかにほどけていった。 世界の色が失われ、音が遠ざかっていく……                   ◇ 懐かしい風の匂い。そして、どこか遠くで私を呼ぶ誰かの声── 気づけば、そこには森が広がっていた。 木々の影が長く伸び、空がやけに高い。 リノアは目の前に聳え立つ大きな木を見つめた。幹は両腕では抱えきれないほどの幅を持っている。 その木の根元に佇む一人の幼い少女──「ここで待っていて。すぐに戻ってくるから」 そう言って、背を向けて去っていく母の姿……──これは幼い頃に見た、あの日の光景だ。 その背中を見送った時のことはよく覚えている。空の色も、風の匂いも何もかも。 追いかけたいと、本心では思っていた。だけど私はその場から動くことができなかったのだ。 母を困らせてはいけない。言いつけは守るべきだと思っていたから…… 足に絡みつく”待つことの正しさ”という名の鎖。それが、どこかひどく冷たかったことを私はずっと言葉にできずにいた。 あの時、なぜ追いかけなかったのだろう── なぜ、あのとき声を上げなかったのだろう──「……ずっと後悔してた」 呟いたその声は、年を重ねた今のリノア自身のものだった。 幼い頃の自分と今の自分が緩やかに重なっていく。 胸の奥にぽっかりと空いた空白は、どこか風の抜ける静かな窪みに似ていた。 それは「寂しい」と一言で括るにはあまりにも深く、静かで、形のないまま棲みついていた感情。 それが自分の中にずっと在り続けていたことを──今、ようやく知った。 リノアは幼い日のリノアに近づいていき、何かを取り戻すように、そっと身を寄せた。 温かさも言葉もない、ただ沈黙だけが二人の間を満たしていく。 振り返らない母の後ろ姿をじっと見送った小さな存在。 どれだ
last updateLast Updated : 2025-07-02
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夢と記憶のあわい ②

「お母さん、どこ?」 涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえ、リノアが小さな声で呟く。しかし、母の姿は見えない。 ただ風が木々を揺らす音だけが聞こえる。「お母さん!」 我慢しきれず、リノアは立ち上がって、母が消えた方向へ駆け出した。「リノア。まだ、ここにいた方がいいよ」 どこからか聞こえる優しく、包み込むような声── 幼い頃のリノアが一瞬、立ち止まる。だけど振り返ることなく、そのまま森の中へと走り去っていった。 その気持ちは良く分かる。今、行かなければ、もう一生会えなくなってしまう。──私には止めることができない。 幼い頃のリノアが母の名を呼びながら枝葉をかき分けていく。 その小さな背中が遠ざかっていくのを見届けていた時、ふいに風向きが変わった。 この焦げた匂い── 封じ込めていた記憶が熱を帯びて変質していく。 リノアは目を細めた。 森の彼方で、橙と紅の光が揺らめいている。──あれは火事だ。 記憶の底に沈んでいた光景が、ゆっくりと浮かび上がる。 あの時も、火はこのオークの大木まで迫ってきた…… 風が熱を運び、葉擦れの音がざわめきのように乱れ始める。 森の奥で橙色の閃きが跳ね、バチッ、と乾いた音と共に時おり遠くの枝が爆ぜた。 だけど、まだ火の手はそこまで届いていない。──今なら、まだ間に合う。「戻ってきて……お願いだから」 リノアは祈るように声を張り上げた。しかし返事はない。返答の代わりに返ってきたのは、燃え広がる息吹だった。 熱のうねりが地を這い、木々の間をすり抜けていく。 静けさはもう、どこにもない。 リノアはその場に立ち尽くしたまま、その炎の中に目を凝らした。 あの時と同じように激しく森が燃えている。 葉の縁を焦がす匂いが立ち込め、熱を含んだ空気がじわりと皮膚を撫でた。 乾いた火花が、音もなく風に舞う。 記憶の裂け目からこぼれ落ちる断片のように──「どこにいるの……戻ってきて!」 焦燥に突き動かされたリノアは木々の間を駆け出した。 燃えさかる影と光が幾重にも折り重なり、世界が赤く脈打つ。 炎が森を飲み込んでいく……リノアの声も、想いも…… あきらめかけた、その時── 開けた一角に幼い頃の自分がいるのが見えた。 炎の色も熱も届かない、時間が降り積もるような静けさの中、 ただ一人ぽつんと
last updateLast Updated : 2025-07-03
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