All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 681 - Chapter 690

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第681話

翔雅は深夜に帰宅した。玄関の灯りは明るく、珍しく真琴が外出せず、しとやかに食卓を整えて待っていた。翔雅が戻ると、真琴はすぐに駆け寄り、彼のブリーフケースを受け取りながら、甘えた声を落とした。「翔雅、すっぽんのスープを煮てもらったの。何度も温め直してたのに、なかなか帰ってこないから……」翔雅は気まずく笑う。「すっぽん汁?」真琴は睨むように目を細めた。「男の人に一番効くのよ」翔雅は淡く笑っただけだった。だが食卓の上のすっぽんスープには、一口も箸をつけなかった。食事を終えると、彼は書斎で仕事を口実に新婚の妻を冷たくあしらった。数日も経つと、真琴の胸に溜まった苛立ちは爆発寸前で、もう我慢できなくなった。午後二時、彼女は使用人に「ちょっと麻雀に行ってくる」と告げ、車を走らせ、あのホテルへ向かった。だが、その車にはすでに位置情報の発信器が仕込まれていた。一時間後、黒塗りの車がゆっくりとホテルの前に停まった。後部座席の窓が下がり、精悍な顔立ちが現れる。冬の朝の霜のように冷ややかで、触れれば砕けそうなほど硬い表情だった。翔雅だった。古びたホテルの外壁を見上げ、彼は息苦しいほどの嫌悪感を覚える。そこは淫靡な気配に満ちた、男女の密会のための場所にしか見えなかった。やがて翔雅はドアを押し開け、ホテルに足を踏み入れた。わずかな心付けで、すぐに真琴のいる部屋の前まで辿り着く。中からは軋むベッドの音と、激しい息遣いが漏れ聞こえた。中で何が行われているのか、想像するまでもない。——俺が救った女が……これか?翔雅の胸に冷笑が浮かぶ。真琴は、まるで娼婦のように、下卑た男と交わりを楽しんでいる。あの日の強姦事件も、本当に被害だったのか?彼女の様子を思うと、むしろ快楽に慣れきっていたのではないかと疑わずにいられなかった。扉を押し開ければ、そこには必死に腰を振る男の姿があっただろう。——羽村克也だった。だが、翔雅は真実に手を伸ばしながらも、結局、その瞬間を見届けることはなかった。……夜更け、真琴は満ち足りた顔で帰宅した。相手の羽村は決して容姿端麗ではなかったが、ベッドでの腕前は悪くなかった。玄関に入った彼女に、使用人が小声で告げる。「旦那様は夕方にはお戻りでした。ご機嫌が……あまり良
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第682話

翔雅は振り返りもせず、背を向けて去った。彼はマンションに移り住み、すぐに三城弁護士へ電話をかけ、離婚の手続きを一任した。すべて終わったのは深夜だった。シャワーを浴び、ベッドに横たわると、思わず過去を呼び起こしてしまう。——澄佳はどうしているのか。芽衣と章真は元気にしているのか。普段なら、智也のことを鼻にもかけなかった。だが、その夜、頼れるのは彼しかいなかった。翔雅は思わずLINEでメッセージを送った。【澄佳は大丈夫か?子どもたちはどうしてる?】返事は期待していなかった。少なくとも、すぐには返ってこないと思っていた。ところが五分後、智也から返信が届いた。その内容は、翔雅を絶望へと突き落とすものだった。彼は携帯を置き、両手で顔を覆った。株なんてどうでもいい。裏切られたこともどうでもいい。ただ——澄佳が生きていてほしい。それだけを願った。……やがて翔雅は、半月に一度はベルリンへ飛ぶようになった。ガラス越しに、静かに眠る彼女を見つめる。命が少しずつ削られていく姿を見届ける。大半の時間、彼は病室に張り付き、彼女の傍らにいることを選んだ。子どもたちの存在すら忘れるほどに。ある夜更け、冷たい空気の中、彼はふと足音に気づいた。振り向くと、白衣姿の佐伯楓人が立っていた。疲れの色を帯びた顔で、彼もまた病室を見つめる。医師である彼は、生と死を幾度も見てきた。だがベッドに横たわるのが、自分の愛した女である以上、慣れることなどできなかった。楓人の声はかすかに掠れていた。「この状態では、正月まで持たせるのも難しい。もし実験が進まなければ、春を迎えるのは……」翔雅は一分間、沈黙した。脳裏が真っ白になり、言葉を失っていた。気づけば楓人は去っていた。ただ恐怖だけが残った。永遠の別れへの恐怖が。彼はベルリンに滞在する時間を延ばし、十日、二週間と居座ることも珍しくなくなった。その頃、立都市では真琴が離婚を拒み、訴訟へと進んでいた。夏が過ぎ、秋が駆け足で過ぎ去る。冬になると、澄佳の身体は薄紙のようにやせ細り、顔色から生気はすっかり失われていた。時折、芽衣や章真が見舞いに来て、母の枕元で声を詰まらせ泣いた。智也が子どもたちをそっと連れ出す。そしてある日、翔雅は自分の両親もベルリンに
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第683話

京介の目から、止めどなく涙がこぼれ落ちていた。若き日の婚姻は波乱に満ち、それでもこの年齢に至って、なお愛娘を先に見送らねばならぬとは。澄佳——それは舞との愛の結晶であり、長女にして、京介の誇りだった。いま彼は、澄佳を故郷へ連れ帰ろうとしている。生まれ育った土地に戻し、最後に雪を見せてやろうと。その想いだけで、胸は張り裂け、京介は涙がとめどなく頬を伝った。舞もまた泣き崩れそうになりながら、子どもたちを悲しませまいと、翔雅の両親に子どもを寄り添わせた。やがて、周防寛とその妻が姿を見せた。続いて周防夫人も現れ、声を上げて泣き崩れた。数多の孫の中で、澄佳は彼女によく似ていた。幼い頃、小さな手を引かれ、立都市の街を共に歩いた。「おばあちゃん、おばあちゃん」と呼ぶ声が、今も耳に残っている。周防夫人はこらえきれず、震える手で孫娘の頬に触れた。涙がぽとりぽとりと滴り落ちる。「澄佳……おばあちゃんはお前を手放せないよ。おばあちゃんはこの歳まで何不自由なく生きてきた。お爺さんに大事にされ、お父さんとお母さんにも孝行されて……欲しいものなんてもう何もない。もしできるなら、代わりに私が逝って、お爺さんの傍に行ってやりたい」そして地に伏し、声を荒らげた。「礼!周防礼!あの世から澄佳のことを見守ってくれるよ!金ならいくらでもある!周防家には金が余ってる!礼、あんたは何をしてる!役立たずめ!」……悲しみに押し潰され、言葉は乱れに乱れた。京介は慌てて母を支え起こした。ほどなく、周防輝と赤坂瑠璃も一家を連れて駆けつけた。茉莉は岸本琢真の肩に身を寄せ、絶え間なく涙を拭った。周防家の長女であるはずの彼女を、澄佳はいつも姉のように守り、出張の度に土産を欠かさなかった。その悲しみは、澪安や願乃にとってさらに深かった。願乃は兄の胸にすがり、「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と泣き叫ぶ。普段は強い澪安の頬も、涙でずぶ濡れだった。澄佳は彼の唯一の双子の姉妹。胎の中で共に育った命。彼は全力を尽くしたが、愛しい妹を救うことはできなかった。——かつては華やかで、今は枯れ枝のように痩せ細った妹。澪安は黙って、その魂に別れを告げた。もはや誰も希望を抱いてはいなかった。京介が「立都市へ戻ろう」と告げ、故郷の
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第684話

京介は苦しげに妻・舞を見やった。舞は歩み寄り、愛娘の傍らに腰を下ろすと、その頬にそっと手を当てた。涙が衣を濡らし、目を逸らすこともできない。周防夫人が声を荒げた。「舞、まさか私にまで跪かせるつもりなの?」その言葉が響くより早く、翔雅が舞の前に膝をつき、嗚咽まじりに懇願した。「お義母さん……お願いします。どうか……どうか」舞は胸を押し裂かれるような叫びをあげた。「京介……!」京介は目を固く閉じ、答えを飲み込んだ。……窓の外、ベルリンには細雪が舞っていた。氷の花がガラスに貼り付き、やがて溶けて消える。そのたびに、子どもたちは透明なガラスに息をかけながら、冬のロマンをそっと言葉にした。周防夫人の言う通りだった。家族が揃っているここが、すなわち立都市なのだ。ベルリンの雪こそが、澄佳の命を最後に繋ぎとめていた。最期の時を前に、皆が衣を脱ぐ暇もなく傍らに寄り添った。楓人は恩師と共に、ほとんど不可能に近い実験を繰り返し続ける。ベルリンの雪は、その不眠の夜々を見届けていた。翔雅は次第に安宿へ戻らなくなった。疲れ果てれば廊下に身を横たえ、仮眠をとる。一週間、風呂にも入らず、髭も剃らず。もとより体毛の濃い男は、まるで野人のようにやつれ果てていった。そして迎えた大晦日の夜。誰一人、年を祝う気分ではなかった。せめて子どもたちにと、鍋を囲ませ、温かいものを食べさせた。翔雅は冷えた廊下で、ハンバーガーをかじって腹を満たす。そのとき、澪安が木製の弁当箱を提げて現れた。彼は無言で翔雅の前に放り投げた。「ラムチョップだ。食え」翔雅は驚いて蓋を開けた。芳しい香りとともに、肉汁したたる小羊のグリルが顔をのぞかせる。彼はむさぼるように齧りついた。澪安は隣に腰を下ろし、膝を立てながら喉を鳴らした。「勘違いするなよ。許したわけでも、仲直りしたわけでもない。一ノ瀬……お前の犯した愚行は一生消えない。良心があるなら、せめて死ぬまで悔い続ければいい。そして、あの下劣な妻相沢真琴を抱えたまま一生を終えろ」真琴の名を出された途端、翔雅の手が止まった。彼は呟くように答えた。「離婚を申し出た」澪安は知っていた。だがあえて口にしたのは、翔雅をえぐるためだった。
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第685話

澪安はただ静かに翔雅を見つめ、それから廊下の奥へ視線を移した。冬のベルリン、雪は果てしなく降り続いていた。そのとき。廊下に、急いた足音が響いた。近づいてきた人影は楓人だった。彼は澪安の前に立ち、喉を上下させながら抑えた声で言った。「実験の初期段階が形になった。だが、澄佳に残された時間はもうない。だから、叔父さんの許可を得て、今すぐ新技術で治療を始めたい」澪安の身体が、思わず震えた。翔雅もまた全身を固くし、言葉を失った。半分ほどの沈黙ののち、澪安は携帯を取り出し、父に電話をかけた。声を必死に抑え、楓人の言葉を伝えた。張り裂けんばかりの胸の内を押し殺しながら。やがて周防一族は、大晦日の晩に勢揃いした。新年まで、あと二時間。芽衣と章真も悠に抱かれてやってきた。手術の前、澄佳に会うのを許されたのは京介と舞だけだった。もし万一のことがあれば、それが最後の別れになる。京介は言葉を残さなかった。彼の澄佳は家を愛している。必ず戻ってくる。そう信じていた。……大晦日、雪の夜。誰もが不安に胸を灼かれながら静かに待った。遠くで鐘の音が響く。新年だ。世界が一斉に新しい年を迎え、祝福に沸き立つその時。時間は遅々として過ぎ、外の雪は腰ほどまで積もった。やがて夜明けの光が差し込み、薄明がすべての希望となった。明け方、手術室から楓人が現れた。顔は厳粛に引き締まり、感情は読み取れない。皆の心臓は喉元までせり上がった。周防夫人が涙声で問う。「澄佳は……澄佳は生きてるの?」楓人はゆっくりとマスクを外し、そして……微笑んだ。「成功しました。手術は成功です」一瞬、全員が凍りついた。周防夫人は両手を合わせ、涙を流した。「礼……あんた、やっと役に立ったね」だが、その言葉を口にした直後、彼女の身体はふいに崩れ落ちた。周囲は悲鳴と慌ただしさに包まれた。——彼女はそのまま帰らぬ人となった。新年のその日、ベルリンの地で。愛する孫のために、立都市の最後の雪も見ず、夫の墓前で別れを告げることもなく。最期の兆しすら見せず、静かに逝った。その胸の奥には、ただ一つの想いが残されていた。——礼、私の一生で誇れることは何もない。ただ一つ、京介と舞に澄佳を残
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第686話

一週間後、翔雅は澄佳と再び顔を合わせた。半年にわたる闘病で、彼女の体はすっかり削り取られたように弱々しかったが、それでも立って翔雅を迎えた。その日、立都市の雪はようやく止んでいた。病院の建物は徹底的に清掃され、窓は澄み切っていた。病室の外では、願乃が静かに立っていた。翔雅の姿を見つけると、小さな声で告げた。「お姉ちゃん、待ってるよ」翔雅の胸が震え、頷いて扉を押し開けた。澄佳は別の病室に移されていた。そこは春のように暖かく、果物や料理の香りが漂い、人の営みを思わせる温もりがあった。彼女は相変わらず痩せ細っていた。大きな窓の前に立ち、揺れる白いレースのカーテン越しに、積もった雪をどれほど長く見つめていたのか分からない。テーブルの上には手をつけていない粥が置かれている。翔雅は思わず声をかけた。「少しは食べないと。今は体を養う時だろう?」澄佳は首を振った。病み上がりの身は、食べたいと思っても口に入らない。今も栄養剤に頼る日々だった。やがて彼女はゆっくりと振り返り、翔雅の視線を恐れることなく受け止めた。黒い瞳からは、かつての輝きは消えていたが、その顔は静かな安らぎを湛えていた。「翔雅……私をベルリンに留まらせてくれて、ありがとう」その唇に淡い笑みが浮かんだ。翔雅は、その先に続く言葉を予感して、掠れた声で問い返した。「でも……赦す気はない。もう俺と関わりたくないし、顔も見たくない……そうなんだろう?」「ええ」女は一片の迷いもなく言い切った。翔雅は、心を削がれるような痛みに立ち尽くした。それでも覚悟はしていた。笑みを崩さず、かろうじて体裁を保つ。「病状が落ち着いたら、俺は出ていくよ」澄佳は答えず、ただ彼を静かに見つめた。皮膚の奥、そのさらに奥に、かつて自分が心を寄せた男の影を探すかのように。翔雅の頬が痙攣した。沈黙ののち、やっと低く声を絞り出す。「俺が悪かった。お前を裏切った。俺はお前の心を信じなかった。あの時の俺にとって、お前はただの商売相手にすぎなかった。相沢真琴の嘘に惑わされ、お前を誤解した。もう離婚を申し立てた。澄佳……すまない。あの夜は本当に俺が悪かった。二度と同じ過ちはしない。許してくれないか。お前と、子どもたちに償わせてほしい」……二人の間
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第687話

翔雅は芽衣を抱きしめた。小さな体がふわりと胸に収まり、柔らかなぬくもりが腕に広がる。章真も駆け寄り、しっかりと抱きついてきた。しばらくして、翔雅は低く囁いた。「パパは先に帰るよ。お前たちが立都市に戻ったら、また会いに行く」二人をそっと離すと、振り返ることなく病院を後にした。ベルリンの街路はまだ雪が片付けられておらず、車はのろのろと進んでいた。翔雅は雪を踏みしめ、ひとり言をつぶやきながら歩いた。宿に戻ると、部屋の扉を閉め、シャツを引き裂くように脱ぎ捨て、裸の上半身で浴室に入った。熱いシャワーを頭から浴び、顔にも体にも容赦なく打ちつける。天を仰ぎ、熱い水に身を委ねながら、目尻からこぼれたのは涙だった。男は叫んだ。抑えきれないものを吐き出すように。やがてすべてが静まり、翔雅は熱いタイルに手をつき、虚ろな目で佇んだ。衣服をすべて脱ぎ去り、シャワーを終えると、荷物をまとめ始めた。枕元で携帯が鳴る。画面に表示されたのは真琴の名だった。通話を取ると、甘えるような声が響いた。「翔雅、私たちやり直しましょうよ。子どもが好きなんでしょう?私、養女を迎えたの。名前は一ノ瀬萌音(いちのせもね)。これからはせもねって呼びましょう」翔雅の声は凍りついていた。「相沢真琴……お前は本当に狂ってる」……二月の春浅き頃、澄佳は退院した。あの別荘に二晩だけ滞在し、周防夫人の霊前に寄り添った。澄佳の命は、まさに周防夫人の死と引き換えに繋がれたものだった。祭壇には白木の位牌が置かれ、そこには「周防夫人之霊位」と記されていた。舞が蝋燭を差し出す。「おばあさまに、灯して差し上げて」澄佳は両手で受け取り、心を込めて火を点け、位牌の前に供えた。その後、静かに合掌し、長く頭を垂れて動かなかった。顔を上げたとき、涙が頬を濡らしていた。「おばあちゃん……澄佳、帰ってきたよ……帰ってきたの」夜風が吹き抜け、蝋燭の火が揺らめく。まるで周防夫人が、まだここにいるかのように。だが彼女はもう、玉のもとへと向かうのだ。……二日後、周防一族は故郷へ帰還した。周防夫人の遺骨を携えて。栄光グループの専用機が運んだのは澄佳ではなく、周防夫人だった。飛行機は立都市の上空を旋回し、周防邸の上を幾度も通り過ぎた後、立都市空港に降り立
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第688話

周防邸。夜の帳が降りるなか、使用人が慌ただしく階下へ駆けてきた。翔雅の前に立つと、苦笑を浮かべながら口を開いた。「一ノ瀬様、確かにお取次ぎはしましたが、澄佳さまは『お会いになる必要はない』と……どうか、今日はお帰りになって、またの機会に」翔雅の胸に失望が広がる。声を抑えて問うた。「ほんの一目……それも駄目なのか?他意はない」使用人は困ったように肩をすくめた。「どうかご無理をなさらないでください。私どもも雇われの身でございますので」翔雅は落胆を抱えたまま、駐車場へと歩いた。車に乗り込もうとしたその時、白いベントレーが滑り込んでくる。後部座席から飛び出したのは、小さな二人の子ども。芽衣と章真だった。章真は落ち着いた様子だったが、芽衣は運転席から降りた楓人を見るなり、猿のように飛びついた。「楓さん!」甘えるように声をあげる。楓人は片腕で小さな身体を抱き上げ、もう片方の手で車から玩具を二つ取り出し、それぞれに手渡した。章真も笑顔を見せる。だが次の瞬間、章真の表情がこわばった。翔雅の姿を見つけたからだ。翔雅の胸は締め付けられた。羨望、嫉妬、悔恨——入り混じった感情が渦を巻く。——自分は通るたびに使用人に取り次ぎを頼み、結局会うことも叶わない。一方で楓人は自由に出入りし、子どもたちはまるで実の父のように懐いている。芽衣に至っては、いまだに自分を「叔父さん」と呼ぶ始末だ。翔雅の顔はみるみる険しくなった。芽衣と章真は黙り込み、怯えたように彼を見上げる。翔雅は胸の痛みを押し隠し、歩み寄って二人の頭を順に撫でた。「遊びは楽しかったか?」芽衣は楓人の首に腕を回し、無邪気に笑った。「楽しかった!」翔雅は言葉を失い、ただ微笑みを作った。「そうか。もう中に入りなさい」楓人は子どもを両腕に抱え、玄関へ。周防家の使用人たちが迎えに出て、彼と談笑する。その光景は、まるで楓人がこの家の一員であるかのようだった。翔雅の胸は沈み、黒いレンジローバーのドアを開けると、アクセルを踏み込んだ。……最近、翔雅はかつて澄佳と暮らした別荘に戻っていた。夕闇が迫る頃、厨房からは食事の香りが漂う。車を降り、屋敷へ向かおうとしたとき、一人の使用人が慌てて駆け寄ってきた。「旦那様、奥
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第689話

少女は小さく頷き、椅子から飛び降りて駆け出していった。真琴はその背を見送りながら、慈母そのものの微笑を浮かべていた。だが次の瞬間——頭をピアノに打ちつけた。鈍い衝撃音が響き、まるで冬の空に落ちる雷鳴のようだった。翔雅の目に、もはや憐憫の色はない。冷ややかに笑い放つ。「相沢真琴……頭がおかしくなったのか?離婚するって言ってるのに、子どもを連れてきてどうする。あの子を巻き込むつもりか?それに、誰がここに入っていいと許した?お前にこの家にいる資格なんてない」真琴の額から血が流れ落ちたが、意にも介さず震える体で笑みを浮かべた。「あの子は養子じゃない……私の実の子よ。翔雅、彼女は私が生んだ子なの」震える指先でバッグを探り、親子鑑定書を取り出す。「一ノ瀬病院で調べたもの。信じられるでしょ?それに言っておくけど、翔雅、あなたの子じゃない。ただの私の子よ。以前は手元で育てられなくて、他所に預けていただけ。今は戻してきただけなの。私はもう産めないけど、昔は産めたのよ」……翔雅の瞳に興味の光は宿らなかった。「俺の子じゃないなら、関係ない」彼は慈善家ではない。悪人ではない。だが、聖人のような善人でも決してなかった一度でも哀れみを抱けば、真琴は一生まとわりついて離れないと知っていた。翔雅はピアノの蓋に腰を下ろし、ズボンのポケットから煙草を一本取り出し、唇に咥えて火を点けた。紫煙を吐きながら、冷たく言い放つ。「今すぐ、あの小娘を連れて出て行け。ここで終わりにするなら、持たせた一割の株で十分だ。それを俺の『授業料』だと思え。だが二度と俺の前に現れるな。もし逆らえば、株どころかお前を一文無しにして、その小娘と一緒に路頭に迷わせてやる」……真琴の顔が強ばった。「翔雅……あなた、そこまで冷たいの?」翔雅は苦く笑った。「お前のせいで、俺は妻も子も失ったんだ。それ以上、何を望む」……真琴は悔しげに唇を噛み、萌音を連れて屋敷を去った。スポーツカーに乗り込むと、少女は怯えた声で尋ねた。「ママ、これからどこへ行くの?」真琴は答えず、むしろ煩わしそうに顔を背けた。本来なら、翔雅に「完璧な家族」を見せつけるためでなければ、こんな足手まといを引き取ることはなかった。自分の人生を乱すだけの存在——
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第690話

真琴が去った後、翔雅は激しい怒りを爆発させた。その夜以降、別荘の使用人たちは二度と彼女を勝手に中へ入れまいと固く心に誓った。その晩、専門の清掃業者が屋敷に呼ばれ、内外を三度磨き上げた。翔雅はようやく落ち着きを取り戻す。夏の終わり、翔雅と真琴は正式に離婚した。耀石グループから譲渡された株式には「売却禁止」の条件が付されていた。だが真琴は資金を欲し、幾度もの交渉を経て、最終的に翔雅が二百億円で一割の株を買い戻すこととなった。それは彼自身「愚かさの授業料」と苦笑するしかなかった。日々は、少しずつ静けさを取り戻していった。彼はずっと澄佳に会いたかった。だが彼女は一度も面会を許さず、周防邸に通っても、せいぜい芽衣と章真に会えるだけだった。せめて芽衣が再び「パパ」と呼んでくれるようになったのが救いだった。彼は待ち続けた。澄佳が心を変えてくれるその日を。だが一ノ瀬夫人は「夢を見るな」と突き放した。「澄佳のように美しく、財もある娘が、どうして拾い物をしなければならないの。翔雅、あなたには別の縁談を考えるべきよ。立都市には良家の娘がいくらでもいる。芽衣と章真は、もう『一ノ瀬』の姓を持つことはないでしょう」翔雅は口先では頷いたが、見合いには一度も出席しなかった。……秋。翔雅はある慈善晩餐会に出席した。そこで澄佳と再会する。星耀エンターテインメントは結局、智也には譲渡されず、依然として澄佳が経営していた。ただし細かい実務は篠宮に一任し、この晩餐会も星耀が主催だった。まさか彼女に会うとは思わなかった。澄佳は気晴らしに姿を見せただけのようだった。大きなガラス窓の前に立つ姿。黒のシルクのバックレスドレス。背中のカット部分は真珠のチェーンで飾られ、肌の露出を抑えつつも白い肌を引き立てていた。照明に照らされたその姿は、あまりに眩しかった。彼女が振り返る。かつてと変わらぬ、世を惑わすほどの美貌。再びの対面に、翔雅の心臓は高鳴り、少年のように胸を打ち震わせた。自然を装いながら、思わず声をかける。「澄佳……」澄佳が目を上げる。光の下で、絵のような顔立ちにかすかな潤みが宿っていた。翔雅の胸はさらに波立った。ただ一言でもいい。声を聞けるだけで満たされる——そう思った。澄佳は気負いもせず、手にしたシャン
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