LOGIN結婚して四年、周防 舞(すおう まい)(旧姓:葉山)の夫はふたりの結婚を裏切った。彼はかつて好きだった女性を狂ったように追いかけ、若い頃の後悔を埋め合わせようとした。 舞は彼を心から愛し、必死に引き止めようとした。 けれど、夫はあの女を抱き寄せながら冷笑した。「舞、お前には女らしさが微塵もない。その冷たい顔を見てると、男としての気持ちなんてこれっぽっちも湧かない」 その瞬間、舞の心は音を立てて崩れ落ちた。 もう未練はなかった。彼女は静かにその場を去った。 …… 再会の日、周防京介(すおう きょうすけ)は彼女を見ても、かつての妻だとは気づかなかった。 舞はデキる女の鎧を脱ぎ捨て、しなやかで艶やかな女性へと変わっていた。彼女のもとには名だたる者たちが群がり、権力者として名高い九条慕人(くじょうぼじん)でさえ、彼の舞にだけは微笑んだ。 京介は正気を失ったかのようだった。彼は毎晩、舞の家の前で待ち、小切手や宝石などのプレゼントを贈り続け、挙げ句の果てには心まで差し出そうとした。 周囲の人々が舞と京介の関係を不思議がると、舞はさらりと笑った。「周防さん?あの人なんて、私が寝る前に読んで閉じた、ただの本よ」
View More藤井先生は、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。それでも心のどこかでは、まだ信じられない。黛衣が勤めている栄光グループは、時価総額が何兆円にもなる巨大企業だ。そのトップが――黛衣と結婚する?ということは、氷室校長の家は一気にとんでもないことになるということではないか。藤井先生は、思慕から渡された贈答品の箱に目を落とした。どう見ても高級品だ。1箱だけで十数万円はするだろう。普通の家庭なら、そう簡単に買えるものではない。受け取る手がわずかに震えた。その頃には、思慕はすでに黛衣の両親の前まで歩いていた。態度は驚くほど丁寧だった。「朝早くから待っていただいて、すみません。今日は大安だから、午前中のうちにご挨拶に伺ったほうがいい、と言われていたんです。二人とも黛衣のことをとても気に入っています」黛衣の父は、しばらくしてようやく声を取り戻した。「そうですか……それは、よかった」普段あれほど厳格な人なのに、完全に調子を崩している。娘に恋人ができたとは聞いていた。だから、親として少しくらい釘を刺しておこうとも思っていた。まさか連れて帰ってきた相手が、こんな大物だとは夢にも思わなかった。――困ったな。家があまりにも普通すぎる。思慕は一度振り返り、後ろからついてきたアシスタントに声をかけた。「車は先に38号棟の前へ回しておいて。俺は叔父さんたちと歩いて戻る」「承知しました」黛衣の父は、改めて4台の黒い高級車を見た。鏡のように磨き上げられた車体が、冬の日差しを受けて光っている。思わずごくりと唾を呑み込んだ。人生を通して冷静で厳格だった男が、本気で圧倒されていた。一方、藤井先生は高級な贈答品を抱えたまま、しばらく呆然としていた。そして我に返ると、すぐに学校関係者のグループチャットを開いた。【氷室校長の娘さん、恋人できたって】【誰だと思う?】【栄光グループの社長】【もう本当にびっくりした。あのお婿さん、ものすごく格好いいの。全身きらきらして見えるくらい。話し始めたら周りが全部霞んで、その人しか目に入らないのよ。黛衣ちゃん、あんな人と毎日一緒に暮らしてるなんて、毎日不老長寿の果実でも食べてるようなものじゃない?滋養たっぷりよ】グループチャットは、一瞬で大騒
黛衣の母は眉をひそめた。「いくら交通が便利になったって、こんなに早く着く?いったい何時に起きて新幹線に乗ったのよ。大変だったでしょうに。その周防さんって、黛衣の同僚なのかしら。なんとなくエンジニアっぽいのよね。時間に追われて、いつも仕事ばっかりしてそうな感じ。まあ、人柄さえよければいいわ。あなた、あとで絶対に細かいこと言わないでよ。相手を怖がらせたらだめだからね。黛衣ももう30よ。やっと家に連れてくる相手ができたんだから。あなた知らないでしょうけど、職場の人たちなんて最近、再婚の人まで紹介してくるのよ。私はその周防さんがどんな人でも、少なくともそういう相手よりはいいと思う」父は小さくため息をついた。「向こうも32だそうだ」どれほど条件がよくても、たかが知れているだろう。普通の家のまともな男なら、32まで独身でいるものだろうか。そう思うと、父としても高望みなどできなかった。そのときだった。数台の黒い高級車が、前後に連なってこちらへ近づいてきた。フロントに輝いているのは、ロールス・ロイスのエンブレム。J市ではほとんど見かけることがない車だ。黛衣の両親も、テレビでしか見たことがない。それが今、4台も続けてこちらへ向かってくるものだから、その異様な存在感に思わず目を奪われた。この住宅街は、学校関係者向けに整備された職員住宅だった。住んでいるのは、ほとんどが同じ教育関係者だ。ちょうど通りかかった顔見知りが、黛衣の両親を見つけて声をかけてきた。「黛衣ちゃん、三連休には帰ってくるの?この前紹介した人、どう?考えてくれた?再婚ではあるけど、資産は2億円近くあるのよ。J市じゃ、あんな条件の人そうそういないわよ。ちゃんと考えたほうがいいって。黛衣ちゃんも、あんないい子なのに30まで独身なんてもったいない。女の人は30を過ぎると、どうしても条件が厳しくなるでしょう?白井さんくらいが、もう十分いいところだと思うわ」黛衣の母は、腹が立ちすぎて頬が引きつりそうになった。それでもどうにか笑顔を保つ。「藤井先生、ご心配ありがとうございます。でも、うちの黛衣にはもう恋人がいるんです。同じ会社の人で、都会で働いていて。今日もこれから一緒に来るんですよ」すると藤井先生は笑った。「都会で働いてるって言っても
黛衣の前に影が落ちた。顔を上げると、そこに思慕が立っていた。黛衣はそのまま、じっと彼を見つめる。どこから聞かれていたのかは分からない。けれど思慕は何事もなかったように、雅乃に声をかけた。「黛衣に付き合ってくれてありがとう」雅乃は軽く鼻を鳴らす。「はいはい。今は二人きりでいたいんでしょ。帰ればいいんでしょ?」思慕はすっと身体を横にずらし、出口を空けた。「察しがよくて助かる」雅乃が帰ったあとも、黛衣の瞳はきらきらと輝いていた。彼女は相変わらずソファにもたれたまま、柔らかな声で思慕に尋ねる。「思慕、雅乃とは昔から知り合いで、今も一緒に住んでるんでしょ?今まで付き合ってみようと思ったこと、一度もなかったの?」本当に、ただの好奇心だった。思慕は彼女のそばまで歩いてくると、さっきまで雅乃が座っていた場所に腰を下ろした。長い脚を伸ばし、片腕もゆったりとソファに預けながら、呆れたような、おかしいような顔で黛衣を見る。「同じマンションに住んでるだけだろ。何だよ、『一緒に住んでる』って」そう言って、小さく笑った。「知り合いとしては古すぎるんだよ。子どもの頃から知ってる。あいつの親父が映画監督で、昔から俺の叔父の朝倉寒真と仕事で付き合いがあってさ。小さい頃から雅乃を連れて、しょっちゅううちに来てたんだ。あいつ、昔は男の子みたいだったぞ。スクリーンで見る姿とは全然違う。だから最初から、そういう対象として見たことがない」黛衣は素直に頷いた。なるほど。だから二人はあれほど親しいのに、どこか会えば憎まれ口ばかり叩いているような関係なのだ。思慕は今度、一日中ほとんど仕事らしい仕事をしていない元・氷室秘書を眺めた。付き合い始めてから、彼は黛衣の仕事をほぼすべて外していた。そもそも栄光グループでは社内恋愛を原則として認めていない。社長である思慕だけが例外というわけにもいかなかった。幸い、黛衣自身も仕事への執着はそれほど強くない。昔からどこかマイペースで、出世欲も薄かった。そうでなければ、あれだけの学歴と能力がありながら、ずっと機密業務を扱う秘書の立場に留まっているはずもない。そういえば、二人は同じ大学の出身だ。学生時代の黛衣も、それなりに有名だった。確か、かなり多くの男に言い寄られていた
思慕は、背後からふいに抱きつかれた。振り返ってみれば、そこにいるのは黛衣だった。その表情を見れば、彼女が何を望んでいるのか分からないはずもない。思慕は腕時計に目を落とし、感情を押し隠したまま低い声で尋ねた。「黛衣……本当にいいんだな?」黛衣は答える代わりに、彼の腰に回した腕に少しだけ力を込めた。朝の思慕からは、清潔で心地よい香りがする。身体も綺麗だった。しっかりした骨格を覆うのは、長年鍛えてきた薄い筋肉。そのどこに触れても温かい。そもそも二人は、ずっと互いを求めていたのだ。ただ、10年という時間を無駄にしてしまっただけ。いったん想いが通じてしまえば、長いあいだ押し込めていたものが一気に溢れ出す。欲しいと思うのは、男だけではない。黛衣だって、思慕が欲しかった。彼女は柔らかく彼に寄り添い、甘えるように離れようとしない。本当は先に朝食を作り終えるつもりだった。けれど、さすがの思慕にも無理だった。30年以上ほとんど女っ気のない生活を送ってきた男が、好きな女性からこんなふうに求められて、平然としていられるはずがない。思慕は火を止めると、黛衣を抱き上げ、そのまま寝室へ戻った。ベッドの端にそっと下ろし、深く唇を重ねる。経験と呼べるものは10年前の一度きりだったが、こういうことは相手を好きで、感覚の鋭い男なら自然と覚えていくものらしい。やがて黛衣は堪えきれず、涙声で彼の名を呼んだ。思慕はそのたびに宥めるように抱きしめながら、それでも彼女を離そうとはしなかった。――どうしようもないほど、夢中になった。気づけば、とっくに出勤時間を過ぎていた。すべてが落ち着いた頃には、もう午前10時近かった。3時間近く、二人きりで過ごしていたことになる。それでも思慕にはまだ名残惜しさがあったが、黛衣はもうすっかり疲れ果てていた。枕に伏せたまま片手で彼を押し返し、これ以上近づかないで、と無言で訴える。本当なら、思慕も一日中そばにいるつもりだった。けれど午後には、どうしても外せない重要な会議がある。それでもぎりぎりまで黛衣に付き添い、午後になってようやく家を出た。その頃、栄光グループ社内では――すでに大騒ぎになっていた。噂は朝から社内中を駆け巡っている。何しろ、その噂の当事者二
輝が英国へ発ってから、もう一ヶ月が経っていた。年の瀬が迫っても、帰国の知らせはない。瑠璃は迷いながらも、何度か電話をかけてみた。だが繋がらず、代わりに会合の席で秘書の白川と顔を合わせた。「帰ってくるのは……年明け半ば頃ですね」あと半月——細かく詮索するのも気が引けて、瑠璃は軽く世間話をしてその場を離れた。会所の廊下は明るく、煌びやかな光に包まれていた。背後で、白川がふっとため息を洩らしたのに、瑠璃は気づかなかった。……個室に戻ると、場の空気はちょうど良く温まっており、岸本が二人の投資家を上手くもてなしてくれていた。酒はすべて岸本が引き受けている。「いやぁ
結局のところ、翠乃は男に折れた。車は朝倉家の本邸へと入る。翠乃が身にまとっているのは、寒笙がいつも着ているアンゴラレッドのセーター。下のパンツも彼のものだった。毛皮を除けば、全身が寒笙の服である。父の晴臣が自ら魚を提げて出迎えた。翠乃の格好を見るなり、顔を真っ赤にして息子を叱る。「家がそんなに貧乏か?翠乃に服一着買う金も出せんのか」彼は懐から一枚のカードを取り出し、翠乃に差し出した。「イギリスでちゃんと揃えなさい。母さんと時間を作って様子を見に行く。こんな馬鹿の言うことは聞くな、絶対に甘やかすなよ」寒笙は上品に微笑んだ。「全部、僕が翠乃に譲ってるだけだ」
本当に、ほんのひとときだった。それで、終わった。終わったあと、寒笙は頭を翠乃の薄い肩に預け、すぐに離れようとはしなかった。彼女の腰を抱いたまま、ひと月ぶりの温もりを惜しむように味わっている。こうして抱き合いながら、他愛もない話をする。イギリスの天気のこと、久石先生の手強さのこと――話しているうちに、彼はふっと笑った。やがて、翠乃も少しずつ口を開く。愛樹と愛夕の成績の話、最近また寒真のところで食事をしたこと、寒真が新しい料理を覚えたこと。寒笙は彼女の頬を撫で、低い声で言った。「イギリスのアパートはキッチンが広い。よかったら、時々俺が行って料理する。最近は腕も悪
寒笙は今も大学で教鞭を執っている。准教授だ。外目には穏やかで知的だが、願乃に言わせれば、清貧ぶりが行き過ぎて、何ひとつ得にならない男だ。だが、朝倉家の御曹司であることに変わりはない。彼は一枚の小切手を願乃に渡し、洗練された仕草で言った。「翠乃と少し、プライベートな話をさせてもらえないか?」願乃はニコニコして答えた。「H市の男のこういうスマートなところ、好きよ」寒笙は夕梨にも視線を向け、合図を送った。「義姉さん」夕梨は義姉としての威厳を見せ、真剣な顔で言った。「翠乃さんを困らせないでね。公の場で恥をかくようなことは許さないわよ」「いつからうちの母親
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