ログイン結婚して四年、周防 舞(すおう まい)(旧姓:葉山)の夫はふたりの結婚を裏切った。彼はかつて好きだった女性を狂ったように追いかけ、若い頃の後悔を埋め合わせようとした。 舞は彼を心から愛し、必死に引き止めようとした。 けれど、夫はあの女を抱き寄せながら冷笑した。「舞、お前には女らしさが微塵もない。その冷たい顔を見てると、男としての気持ちなんてこれっぽっちも湧かない」 その瞬間、舞の心は音を立てて崩れ落ちた。 もう未練はなかった。彼女は静かにその場を去った。 …… 再会の日、周防京介(すおう きょうすけ)は彼女を見ても、かつての妻だとは気づかなかった。 舞はデキる女の鎧を脱ぎ捨て、しなやかで艶やかな女性へと変わっていた。彼女のもとには名だたる者たちが群がり、権力者として名高い九条慕人(くじょうぼじん)でさえ、彼の舞にだけは微笑んだ。 京介は正気を失ったかのようだった。彼は毎晩、舞の家の前で待ち、小切手や宝石などのプレゼントを贈り続け、挙げ句の果てには心まで差し出そうとした。 周囲の人々が舞と京介の関係を不思議がると、舞はさらりと笑った。「周防さん?あの人なんて、私が寝る前に読んで閉じた、ただの本よ」
もっと見る澪安は鈍い男ではない。恬奈の言葉が告白に近いものであることなど、聞けばすぐにわかる。恬奈は確かに優秀だ。外見も家柄も、教養も立ち居振る舞いも、どれを取っても栄光グループの夫人として申し分ない。だが、澪安にとって恬奈は、それ以上にも以下にもならなかった。ただの妹分で、男女の感情の対象ではない。彼は少し考え、柔らかく言葉を選んだ。「恬奈……感情ってさ、理屈じゃないんだ。一緒に一生を過ごしたいって……そう思える渇望がないと続かない。たとえその人が不完全でも、他にもっと良い条件の人がいても……それでも迷わない、そんな気持ちが必要なんだ」恬奈はすぐに悟った。澪安の答えを。その黒い瞳に涙が滲んだが、彼女は必死に笑おうとした。「わかってるよ、澪安さん」彼は短く息をつき、視線を逸らした。「俺も、そんなに立派じゃない。若い頃は……それなりに荒れてたしな」恬奈は小さく苦笑した。「私だって、誰かを好きになったことくらいあるよ」二人の会話はそこで途切れた。……宴のあと、澪安は恬奈を家まで送り届けた。別邸に帰り着いた頃には、すでに深夜十二時近くになっていた。運転手がドアを開け、澪安は車の中でしばらく頭を冷やしてから玄関へ向かった。屋敷はしんと静まり返り、橘色の小さな常夜灯だけが灯っている。使用人が出迎え、問いかけた。「お夜食はいかがですか?」「いや、いい。慕美は?」「早めに二階へ。さっき果物を持って行った時、外国人の言葉を覚えていましたよ」――外国人の言葉?数秒の間を置いてから、澪安は苦笑した。英語のことだ。二階に上がり、主寝室の扉を押し開けると、リビングのソファの上には、開きっぱなしの英単語帳。手つかずの果物が置かれていた。数冊の参考書。澪安は静かに腰を下ろし、何冊かを手に取ってページをめくった。――努力したって、無駄なんだがな。彼の胸に浮かんだ感想は、残酷なほど正直だった。もう遅い。彼と並んで社交の場に立てるほど、慕美の基盤は強くない。次元が違う。彼女がその時間で美容院へ行き、ネイルを整え、名家の令嬢たちのようにジュエリーを選んでいれば、そのほうがよほど彼の世界と馴染むのに。でも――そんなことは、本人が気づくまで言うつもりはない。
実際には、あれはスキャンダルではなかった。あくまでビジネス目的の晩餐会。画面の中、澪安は三つ揃えのスーツを纏い、端正で隙のない美しさをまとっていた。その隣では、恬奈がしっかりと彼の腕に手を添え、シンガポール企業の重役らしき中年男性と談笑している。音声は消されていなかった。恬奈は時に英語で、時に流暢なフランス語で、滑らかに会話を繋いでいく。ビジネスの最前線で、まるで舞台の主役のように。澪安は横で微笑み、彼女を見て穏やかに頷いていた。その目には、確かな評価の色。――当然だ。慕美は理解できる。理解できるのに、胸がひりりと痛んだ。彼のひと言を受けて、彼に恥をかかせたくなくて、彼の隣に立てる人間になりたくて、慕美は二晩、睡魔と戦いながら英語を覚えた。けれど、恬奈のように多言語を軽やかに操る姿を見ると、自分が滑稽に思えた。――自分みたいなのが、あの場所に立てると思ったなんて……慕美、あなたって本当に可笑しい。怒ることすら許されないのだろうか。器が小さいと思われたら終わりだ。でも――本当に、何も感じてはいけないの?周防家は大企業だ。語学に堪能なアシスタントなんて、いくらでもいる。なのに、なぜ恬奈なのか。澪安に「私の気持ちを考えてほしい」なんて、そんなわがままは言えない。立場的にも、彼の忙しさを思っても――言えない。だけど……せめて、少しは気を遣ってくれてもいいんじゃない?そう思ってしまう自分がいる。誰にも言えず、胸に沈んでいく疑問だけが残った。慕美はテレビを最後まで見届け、そのまま力が抜けたようにソファへ沈み込んだ。手から落ちた英単語帳が、乾いた音を立てて床に転がる。……夜が深まっても、澪安は帰らなかった。十一時頃になってようやく電話が鳴り、「打ち上げがあるから遅くなる。先に寝てて」そう淡々と告げられた。慕美は震える声を必死に抑えた。「うん。うまくいったんだね。おめでとう、澪安」けれど、澪安は気づかない。彼女の声が今にも泣き出しそうだということに。彼は成功の余韻に浸り、プロジェクトリーダーたちと酒を酌み交わしていた。個室では大きな笑い声が響き、仕事の高揚感のままに杯を重ねる。恬奈は、ずっと彼の隣にいた。酒がまわった女の同僚が、
運転手は、慕美の勢いにすっかり負けてしまい、もう何も言えなかった。彼女は節約家というわけではないが、今朝は時間がなかったのでタクシーを選んだ。ただ、澪安の別荘の敷地内にはタクシーが入れない。仕方なく一キロほど走って一般道まで出て、ようやく拾えた。会社に着いたのは――九時五分前。入口では、腕時計を睨むように見つめる江原玲子(えばら れいこ)が立っていた。無駄のない雰囲気と、張り詰めた空気。――あ……厳しい人だ。慕美は深くお辞儀をした。「江原さん、おはようございます」玲子は表情を変えず、ただ一言。「次はギリギリに来ないこと」「はい!」慕美が席に着くと、隣の席の若い女性が椅子を滑らせて近づいてきた。「小城詩(こじょう うた)。詩って呼んで」「私は九条慕美。慕美でいいよ」二人は握手を交わし、ぱっと笑い合う。「私、サイトのメンテ担当ね」「私は……雑用係、かな?」思わず二人同時に吹き出した。慕美は、この新しい職場が早くも好きになっていた。少し怖そうな玲子も、心は悪くない。社員を酷使しないし、六時きっかりに退勤できるらしい。一日働いてみると、仕事量は多くなかった。詩がこっそりささやく。「うちはね、基本、日々をやり過ごす職場なのよ。会社の業績がいいから、みんな気楽」慕美はくすりと微笑んだ。退勤時間になると、詩はバッグを肩にかけ、目をきらりと輝かせた。「ねぇ、新人歓迎で今夜みんなで焼き鳥行かない?私が段取りするよ。ここの人たち、いい意味で気さくで働きやすいから、すぐ馴染めるって」慕美は心の底から行きたい、と思った。でも――今週は英語を覚えると澪安と約束した。「ごめん……今週ちょっと家のことで。来週でもいい?」詩はあっさり笑ってうなずいた。「OK!じゃ、来週は私が仕切る!」慕美も荷物をまとめ、外へ出た。今日は時間に余裕があるので、バスで帰ることにした。バス停から家まで二十分歩けば着く。――この普通さが、落ち着く。彼女の人生はまだ始まったばかり。だからこそ、庶民的な暮らしのほうが、今の彼女にはちょうどいい。運転手付きの車で通勤なんて、どうも馴染まなかった。その行動は運転手によって澪安にも伝わったが、澪安は忙しいのと、今は慕美を甘やかし
主寝室へ戻った慕美の胸は、まだふわりと甘く弾んでいた。けれど同時に、澪安の疲れた声を思い出して、胸の奥がきゅっと締めつけられる。シャワーを浴びて部屋に戻ると、書斎の灯りがまだついているのに気づいた。その明かりを見ると、じっとしていられなくて――慕美はそっと階下へ降りていった。冷蔵庫にあるもので、簡単なチャーハンを作った。決して上手ではない。けれど心を込めて混ぜて、盛り付けて、味噌汁まで添えた。でも、書斎には持っていかなかった。――邪魔したくない……ただ、その気持ちだけでも伝わるようにと、リビングのテーブルに整えて置いた。澪安が仕事を終えて部屋に戻った時、一目で気づける場所に。慕美は、小さなことですぐ幸せになれる人だった。仕事が決まったことも嬉しい。澪安を大切に思う気持ちも、嘘じゃない。そして彼に迷惑をかけず、自分も少しずつ成長して――いつか胸を張って隣に立てるようになりたい。ふと、澪安の言葉がよみがえった。「簡単な英会話も復習しておいて」土曜日まで、あと四日。慕美は眠気を振り払って、英会話アプリをダウンロードした。発音はたどたどしく、覚えるのも遅い。それでも彼の役に立てるならと、必死で口を動かす。夜が深くなるにつれて、頭がゆらゆらと揺れ始めた。それでも、澪安はまだ帰って来ない。――もう少しだけ……そんな思いで続けていたが、深夜二時になる頃には限界がきて、ソファに寄りかかったまま、静かに眠り落ちた。……鳥の声で目を覚ました。携帯を見ると七時。――よかった、まだ間に合う。周りを見渡すと、昨夜置いた保温ボックスも味噌汁も、少しでも触れられた跡がなかった。――澪安、寝室に戻ってない?胸がざわつき、彼女は書斎へ駆けていった。だが、書斎はきれいに整えられ、煙草の匂いも残っていない。代わりに漂うのは、沈香の落ち着いた香りだけ。まるで昨夜、誰もここにいなかったように。慕美はしばらく呆然と立ち尽くし、それから主寝室に戻った。扉を開けると、ちょうどクローゼットから澪安が出てきた。三つ揃えのスーツに身を包んだその姿は、今日は明らかにフォーマルな場へ向かう人のそれだった。澪安は腕時計を確認すると、簡潔に告げた。「時間がない。今日は送って
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