All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 151 - Chapter 160

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第150話:再会の軌跡

アルヴァレスの空は、王都よりも少しだけ低く、色濃く感じられた。長い旅路を越えて辿り着いたその門の前に、リリウスはふと足を止めた。風が頬を撫でる。懐かしいような、けれどどこか遠ざかっていた記憶の匂いを運んでくる。そして、門が開いた。「――おかえりなさい、リリウス」迎えに立っていたのは、カイルの母、リーネ・ヴァルドだった。鎧こそ纏っていないが、背筋の通った立ち姿は、かつて戦場に立った女のそれだ。長い髪をひとまとめに結い上げ、淡い色の上着の下には、簡素な装具が覗いている。けれどその視線は、どこまでも柔らかく、リリウスに向けられていた。「あなたがこうして戻ってきてくれたこと、それだけで充分よ」その言葉の温かさに、リリウスは胸の奥で何かがゆっくりほどけていくのを感じた。「……ただいま戻りました。お心遣い、ありがとうございます」「礼などいらないわ。……でも、まずは訊かせて。体調は本当に、大丈夫なの?」その言葉は、ごく自然な問いだった。だが、その瞬間、リリウスの笑みがごくわずかに揺らいだ。「……ええ、大丈夫です。心配には及びません」柔らかな声で返しながらも、胸の奥にひとつ小さな波が立った。(また、これだ)優しさだとわかっている。思いやりだと理解している。けれど、自分が「何かに気をつけなければならない存在」として扱われていることが、どこか遠い違和感として、じわじわと滲んでくる。――あの日のように。流産した直後、誰もが「休め」と言った。「無理をしないで」と。けれど自分は、ただでさえ奪われた命のことを、何ひとつ守れなかった己の存在の空虚さを、胸の中に抱えていたのに――さらに「弱いもの」として包まれていく感覚が、皮膚の下に冷たく染みこんでくる。(僕は……まだ、壊れて見えるんだろうか)だからこそ、リリウスはまた微笑んだ。誰にも見せぬように、やわらかく。人を傷つけぬように、自分の輪郭をなぞるように。「ご心配、痛み入ります。……ですが、もう本当に、何ともありません」その声に、リーネは少しだけ視線を鋭くしたが、それ以上は何も言わずに頷いた。「……なら、よかったわ」彼女の後ろから、使用人たちが控えめに現れ、次々と頭を下げる。「殿下、何かお入り用のものは?」「すぐにお部屋をご用意いたします。お茶もお淹れしましょうか?」「お身体
last updateLast Updated : 2025-10-04
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第151話:柘榴の実の下で

クラウディアから戻り、忙しくも穏やかに時間は過ぎていた。夏が過ぎ、ほんの少しだけ冷えを孕んだ風が、屋敷の中庭を抜けていく。朝の陽射しは柔らかく、けれど確かに季節の移ろいを告げていた。石畳に落ちる影の形が、どことなく角ばって見えるのは、太陽の角度のせいだろう。庭の中央。ひときわ大きな柘榴の木の下に、リリウスは一人、静かに立っていた。枝には、赤く染まりはじめた小さな実がいくつも膨らんでいる。春に花を咲かせたその姿を、確かこの目で見たはずだが――いざこうして“実り”の兆しを前にすると、なぜか心がそっと揺れる。「……こんなふうに、何かが実るって……信じていいのかな」ひとりごとのように、誰に聞かせるでもなく呟いた言葉が、風に溶けて消える。その時だった。足音も立てずに現れた気配に、リリウスは振り向かずとも誰かを察した。「いつからそこに?」「最初から」カイルの声は短く、それでいて優しい響きを帯びていた。声をかけるでもなく、邪魔をするでもなく、ただそこにいる――その距離感が、いまのリリウスにはありがたかった。「……目覚めたとき、君がいなかったから」「少し、歩きたくなっただけ。眠れなかった?」「眠れたさ。でも……起きてしまった」カイルの歩みが、木の傍まで来て止まる。やがて二人は、柘榴の木の下に並んで腰を下ろした。石のひんやりとした感触が背中に残り、朝露に湿った空気が肺に染み込む。しばらく、どちらからともなく黙っていた。「……怖い夢でも見たのか?」「ううん、そうじゃない。……たぶん」リリウスは枝を見上げたまま、ぽつりと声を落とした。「ただ、時々思うんだ。“これでよかったのかな”って」「何が?」「全部。……僕が、ここにいていいのか、って」ふっと風が吹いた。柘榴の葉がさやさやと鳴る。実の重みでわずかに傾いだ枝先が、空の蒼にそっと揺れた。「皆が優しくしてくれる。でも、だからこそ時々、怖くなるんだ。まるで、僕が“壊れ物”のように扱われてる気がして……」「……」「それが間違ってるなんて、思ってないよ。ほんとうに、感謝してる。君にも、リーネさんにも、皆にも。でも……でもね、時々思う。もしもまた、何かが僕から奪われたらって。そうなったとき、きっと僕は、“もうだめ”になってしまうだろうなって」淡々と語られていた声が、最後の一言で
last updateLast Updated : 2025-10-05
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第152話:日々の輪郭

屋敷の中庭。高くなった陽のもとで、風は静かに吹き抜けていく。柘榴の葉が揺れ、赤く色づきかけた実が枝先に微かに揺れた。先ほどの問いに、リリウスはすぐには答えなかった。「ずっとここで――いたいか?」カイルの言葉は、真っ直ぐだった。けれどそれは、リリウスの自由を奪う問いではなく、選ぶ権利を差し出すものだった。やがてリリウスは、そっと目を伏せる。「……今なら、ちゃんと答えが言えそうな気がする。でも、もう少しだけ、考えたい」「いいさ」カイルはそれ以上何も言わず、ふたりの間にしばしの静寂が流れた。それは決して重苦しいものではなく、まるで枝にとまる陽の光のように、やわらかく温かな空気だった。※午後、リリウスは自室に戻っていた。机の上には、先ほどカイルが渡してくれた数通の文書がある。アルヴァレス各地の状況報告、都市復興の進捗、難民支援の提案――その中に、ヴァルドの封蝋がされた手紙が混ざっていた。宛名はないが、開けられた様子が残っている。「……え?」現時点でヴァルドが直接、リリウスに何かを言ってくることはなかった。異質にも思えるその手紙。リリウスがそれを開けると、中身はたった一文が書かれていた。『いつまで軍を放っておくつもりですか?』その後に続いた差出人の名前は──ユリウス・ヴァルド。(カイルの弟だ……)短いが、決して刺すような物言いではなく、どこか“弟らしさ”を含んだ不器用な問いだった。「……これ」そう呟いたリリウスに、カイルは扉の向こうから返すように声をかける。「すまない、そちらに混ざっていたか……まあ、見ての通りだ」声には、わずかな後悔がにじんでいた。それは、カイルがこの手紙をリリウスに見せるつもりがなかったからだ。(……そうだ、この人はヴァルドの軍総帥だった。本来なら、僕のそばにずっといていい立場じゃないのに……)胸に冷たいものが差し込んでくる。自分のことで精一杯で、それに気づきもしなかった自分が、急に情けなく思えた。「……ごめん。僕、自分のことばかりで……」きゅ、と唇を噛んだリリウスに、カイルは小さくため息を吐いた。「そういう顔、させたくなかったんだがな。色々とあっただろ。……俺もだ。気づけば、ずいぶん時間が経っていた。それだけだ」その言葉に、リリウスは少しだけ目を伏せる。「でも、気づくべきだった。
last updateLast Updated : 2025-10-06
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第153話:静かなる問答

午前の陽が傾きかけたころだった。屋敷の門が開き、見慣れぬ馬車が控えめに中庭に入り込んでくる。使用人のひとりが駆け足で報せに来たとき、リリウスは丁度、回廊に面した窓辺で風に当たっていた。「客人がいらっしゃいました。ヴァルドの──」言い終える前に、リリウスは察する。このタイミングで来るのは、ほかに思い当たる者がいない。「……ユリウスさんだね」名前を呼べば、胸のどこかがわずかにざわついた。記憶に残る彼は、よく通る声と几帳面な所作を持ち、兄であるカイルとは似ても似つかぬ理知的な青年だった。そして、その背後に控えているはずの男の顔も思い浮かぶ。ディラン。最初こそ懐疑的だった彼の視線を、リリウスは忘れていない。玄関先に足を運ぶと、予想通りのふたりが並んでいた。「ご無沙汰しております、殿下。アルヴァレスでお元気にしておられるようで、安心しました」ユリウスは丁寧に一礼し、穏やかな口調で言った。その背後、やや無愛想に立つディランも、リリウスに気づいた瞬間だけ、眉をわずかに持ち上げた。「……久しぶりだな……いや、お久しぶりですね、殿下」目が合った瞬間、ディランは無意識に“いつもの調子”で口を開き、すぐに言い直した。「失礼しました、……つい癖で」リリウスは小さく笑って首を振る。「構わないよ。あなたの前ではそう言う立場ではなかったのだし」その言葉に、ディランは照れくさそうに頭を掻き、ユリウスはほんの少し目を伏せた。「けれど、あなたはクラウディアの王子であられることをやめたわけではない。……そうでしょう?」その言葉の中に、柔らかな肯定と、わずかな探りが混ざっているのを、リリウスは感じ取る。「……さあ、どうだろう。少なくとも今は、ただの一個人でいられるよう、努力してるところかな」そう言って微笑めば、ユリウスはそれ以上詮索せず、静かに頷いた。※応接室に通された彼らは、久しぶりの訪問とは思えないほど自然にその場に馴染んだ。カイルが現れると、ユリウスはすっと姿勢を正して立ち上がる。「お忙しい中、時間を割いていただき恐縮です。父──元首からの正式な命ではありません。ただ、私の判断で伺いました」「……なるほど。だから政庁ではなくこちらか」カイルは頷きつつ、視線をユリウスとディランに流す。「何か問題でも起きたか?」「いえ。むしろ、アルヴァレ
last updateLast Updated : 2025-10-07
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第154話:心の声

午後の陽が、少しだけ陰りはじめた。ユリウスとディランが政庁裏の屋敷へ向かったあと、玄関先の空気は急に軽くなったように感じられた。けれどそれは単に人数が減ったからというより、どこかで無意識に張っていた神経がほどけたからだろう。リリウスは扉が閉まる音を聞いてからもしばらく動けずにいたが、やがてカイルが肩を軽く叩く。「少し、歩くか?」「……うん」屋敷の脇を抜けて、中庭へ出る。柘榴の木とは反対の、まだ若い樹木の植えられた静かな一角だった。風が吹き抜けて、小さな葉擦れの音が続いている。カイルは何も言わずに、石縁に腰をかけた。リリウスもその隣に座る。そして、しばしの沈黙。やがてカイルが、息をゆっくり吐いた。「……また余計なことを考えてないか?」その声に、リリウスの肩がぴくりと揺れる。「余計なこと……って。大事なことだよ。だって、カイルは“ヴァルドの人”でしょう」その声音には、抑えようとしても滲んでしまった苦味がある。「あなたの立場は――軽いものじゃない。国家の軍を束ねてきた人が、こんなふうにずっと、僕のそばにいていいの? って……思うのは、おかしくないと思う」リリウスは視線を落としたまま、手のひらを握りしめる。その横でカイルは目を伏せ、ほんの僅かに口角を引いた。「……だから、どうした? 俺は君といると決めた。それだけのことだ」「あなただけの問題じゃない。責任って、そういうものじゃないよ」吐き出すように言ってから、リリウスはすぐに後悔した。けれど、引き返すにはもう遅い。感情の芯に、火がつきかけている。それは怒りというより、焦りだ。手放したくない。けれど、抱きしめてもいいのかわからない。「……ヴァルドにとっての軍総帥は、他の人間でも大丈夫だろう。そんなやわな軍じゃない。俺がそうしてきた」「でも、それは――!」声が上擦る。堪えようとしたのに、揺れてしまった。「それは……あなたがいたから、そうなったんだよ。あなただから……」声の尾が消える。リリウスは唇を噛んで、それ以上言えなかった。言ってしまえば、ただの我儘になる。“いてほしい”なんて、どの口で言える?けれどそのとき、不意にカイルがこちらを向いた。そして、まっすぐに問う。「君は――俺と離れたいのか?」「……っ、そんな……こと、あるわけ……」言葉が途中で途切れた
last updateLast Updated : 2025-10-08
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第155話 夜を越えて

夜が深まるにつれ、屋敷の廊下を吹き抜ける風が、昼とは異なる静けさを運んでくる。窓の隙間から漏れる月光が、白く長い影を床に落とし、部屋の中を淡く照らしていた。カイルは小さな鞄を手元に置き、衣類を詰めていた。と言っても必要な荷はほとんどなく、形式的な準備にすぎなかったが、それでも指先の動きには、どこか無意識な緊張が滲んでいた。リリウスはその様子を部屋の隅で黙って見つめていた。肩にかけた薄手のショールを、握りしめては緩める。何も言えずに、何もできずに、ただその背中を見つめている。「……明日の朝、発つんだよね?」ぽつりと落ちたその言葉に、カイルの手が止まった。しばらくの間、部屋には物音ひとつなく、ふたりの呼吸だけが微かに重なっていた。「早朝に。あまり大事にせずに出るさ。ディランもそう言っていた」「……」リリウスはうつむいたまま、静かに首を縦に振る。だが、その瞳は揺れていた。何も言わないかわりに、言葉にならない問いが、すでに表情に浮かんでいた。カイルはゆっくりと息を吸い、ひとつだけ荷を鞄に収めてから、リリウスの前に立った。そして、その頬にそっと手を添える。「……また、余計なことを考えてるな?」その声音は優しいのに、少しだけ怒っているようにも聞こえた。「……何も言ってないよ」「言わなくても、顔に書いてある」そう言って、カイルはリリウスの額に唇を落とした。触れるか触れないかの距離で、息の温度だけが伝わるような、淡いキスだった。「君の隣にいると決めた。……何度言えば、信じる?」リリウスは目を伏せ、唇をきゅっと結ぶ。「でも、カイルは……軍の、総帥で……国家を背負ってる。僕といることで、その何かを犠牲にするなら――」「……君のその言い方、少し卑怯だ」不意にカイルの声が低くなった。「誰かのために、何かを犠牲にすることは、軍でも、政治でも、どこにいたってある。だが、君は“犠牲にされた側”だから、自分をそこに置いて話す。まるで、俺がそうすると決まってるような言い方だ。俺をあの男と一緒にするな」「違う、僕はそんな……」否定しかけて、声が揺れた。だが、次の瞬間、カイルの手がリリウスの頬から顎へと移動し、軽く顔を引き上げる。「違わない。君はずっと、そうやって人を試す。失うのが怖くて、言葉の刃を握ってる」リリウスは息を飲んだ。責めるよ
last updateLast Updated : 2025-10-09
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第156話:見送る朝

淡い灰色の光が、窓の隙間から薄く室内を照らしていた。まだ眠いまま開いた瞼の裏に、昨夜の記憶の残滓が揺れている。彼がそこにいないことが、妙に鮮やかに在る。布団の端に残る彼の温もりを探りながら、リリウスはゆっくりと体を起こした。枕元に置かれたクッション、膝にかかった薄掛けの重み。すべてが、ほんの少しだけ「ずれて」いて、胸の奥が疼いた。息を整え、呼吸音を確かめながら、リリウスは部屋の外へ一歩を踏み出す。廊下に出ると、冷たい床が足裏にひんやりと伝わる。空気は静かで、鳥の声すら聞こえず、屋敷全体が眠りに包まれているようだった。(カイルがいないだけで……こんなにも弱くなるのか僕は……)情けなさを潰しながら中庭へ向かう石畳を、一歩ずつ進む。柘榴の木を背にして立つと、昨夜の月光に染まる枝葉が揺れ、影を揺らす。その向こうには、朝を待つ庭の空。露に濡れた葉がきらりと光った。手を伸ばして、ひとつ実に触れる。冷たく硬い感触。まだ熟しきってはいない、その実は、これから変わろうとする証。指先から掌を通して、胸に小さな震えが伝わる。(今どのあたりだろう……ヴァルドは遠い……だけど、戻ると誓ってくれた)カイルの言葉が、胸の奥で反響する。けれど、戻るという保証が、安心そのものではない。しばらく、風の音だけが支配的だった。鳥の羽ばたきすら、その間で消え入りそうなほど。やがて、使用人の一人が遠くで挨拶を交わす声が聞こえ、それが日常の足音を思い出させる。この世界は動いている。誰も待ってはくれない。部屋へ戻る途中、リリウスは書庫に立ち寄る。書架に並ぶ古文書、学術書、呪詛の断片、神子に関する古い記録。その一冊を手に取るが、目がほとんど通らない。文字より、空白より、心が騒ぐ。結局何も頭に入らず、執務室へと戻った。そこで、リリウスは机の上に置かれていた小さな紙片に気付いた。(これ、もしかして……)目を落とすと、見慣れた手跡が並んでいる。書いたのは──カイルだ。いつの間にか置いてあった手紙。言葉が、そこにあった。 君の存在が、俺の選択を変えた。 戻る。整理をつけて、そして――必ず戻ってくる。その言葉を目で追いながら、リリウスは指先で文字の端をなぞる。胸の内で小さく、確かな決意が灯るような感覚。(僕は、ただ待つのではなく、在ることを示した
last updateLast Updated : 2025-10-10
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第157話:帰還の城壁

馬の背にある時間というものは、思考を静かに押し広げる。風の音が耳にまとわりつき、蹄の音が地を刻むたびに、心はあるべき場所と、かつていた場所の狭間で揺れ続ける。アルヴァレスの城壁が遠ざかり、空の青がわずかに冷たさを帯びた色に変わり始めたころ。カイルは手綱を握ったまま、ふと後ろを振り返る。そこに見えるのは、連なる山の陰と、ぼんやりと白く霞む石造りの塔――もう、屋敷は見えない。それでも、柘榴の枝が揺れていた景色だけが、まぶたの裏にこびりついたように離れない。「……兄上」並ぶ馬上から、ユリウスの声が届いた。「アルヴァレスは、居心地がよかったようですね」「……ああ」カイルは短く答えた。“よかった”という言葉の手前で、一瞬だけ喉が詰まりそうになったのは、今の自分がその地を“離れている”ことに、あらためて痛みを覚えたからかもしれない。「悪くはなかった。だが“よかった”と言うには、まだ足りない。あの街は……まだ立ち直りきっていない」「ですが、再建の兆しは確かに見えました。兄上の……いえ、あなたの選択は正しかったのだと思います」「選択か……」ぽつりと繰り返す言葉に、自分でも気づかぬうちに熱が滲んでいた。選んだのは、国家ではなく、あの人だった。軍でも、家でもない。――リリウスという“人間”を、選んだ。道はまだ正解かどうかもわからない。だが、それでも“選び続ける”ことだけは、間違えたくないと思った。*ヴァルドの城壁が見えてきたとき、カイルはわずかに背筋を伸ばした。それは矜持でも誇りでもなく、この地に立つ者としての礼節だ。門番の兵が即座に敬礼し、城門が重たい音を立てて開く。「総帥殿、ヴァルドに帰還されました!」その声が城内に響いた瞬間、空気が変わるのがわかった。懐かしい気配。けれど、あまりにも久しぶりで、逆にぎこちなさが伴う。出迎えの執務官たちが並ぶ中を抜けながら、ユリウスが前に出て小声で告げる。「執務室へご案内します。父上も、すでにお待ちです」「……そうか」無駄な言葉は交わさず、カイルはそのまま階段を上がった。*父がいるのは、王城の西棟にある重厚な執務室だ。冷えた石壁、年季の入った木製の机。そして、そこに座す男――ヴァルド連邦の元首、カイルの父。齢を重ねた今もなお、背筋はまっすぐで、目の光は鋼のように鋭かった。「久
last updateLast Updated : 2025-10-11
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第158話:決別の時

静かに降りてきた朝の光が、書斎の木床を細長く照らしている。その上に置かれた地図は、昨夜からのまま開かれていた。ヴァルドの各州をつなぐ街道。赤のインクで引かれた道筋の先、地図の端には、アルヴァレスの名。カイルは椅子に深く背を預け、指先で地図の角を軽く押さえた。紙がかすかに浮き、ぴり、と乾いた音を立てる。もう二週間が経っていた。自分が育てた場所を一通り見て周り、書類仕事もこなした。彼が離れていた時間のぶんだけ、ユリウスもディランも、良く動いていた。その事実が、むしろ決意を強くさせる。(俺がいなくても、もう回る。……だから)「カイル」父の声が扉越しに届いた。返事を待たずに、元首――カイルの父は、重厚な扉を押して入ってくる。裾を掃く衣の音。椅子の背をゆっくり回すと、父と目が合った。「もう、行くつもりなのか?」「はい。明日の夜明けに」「随分と早いな」「……引き延ばしても、決断が鈍るだけです。あの国に、あの人に、今の自分を見せたい。それだけです」父は一歩進み、机に手を置く。視線が書類を撫で、ふと止まった。「リーネを……」「アルヴァレスがもう少し再建したら、こちらに帰るように言いますよ。……父上にもいなければならない人でしょう」父は声を立てずに笑った。しかしその笑みは、かつての冷厳な支配者のものではなかった。「ならば、よし。あれがいないと、どうにも調子が狂う……案外、おまえが一番“人が分かる”ようになったな」「周囲に良い人間ばかりいたんでしょうね。俺を育ててくれるような」静かに、だが力強くそう言うと、父はようやく一歩下がった。「おまえの選んだ者が、戦を終わらせた。国よりも、もっと重たい命の使い方だ」その声に、かつての威厳が戻る。だがそれは、押しつけるための重さではない。「後ろを気にするな。前だけを見ていけ。……父としても、それを望む」カイルは、その一言を胸の奥深くで噛みしめるように、ただ黙礼を返した。※書斎を出ると、廊下の奥にふたりの人影があった。ユリウスとディラン。どちらも、立ったまま動かない。けれど、待っていたのだろう。彼が父と話し終えるのを。「……兄上、本当に行くんですか」最初に口を開いたのは、ユリウスだった。いつもより声が硬い。敬語の中に、どうにも消せない“情”が滲む。「準備は整った。
last updateLast Updated : 2025-10-12
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第159話 その手を迎えるために

朝の光が、まだ柔らかさを帯びて屋敷の壁を撫でていた。淡く青みがかった光は、石造りの柱や窓の縁にひそやかな陰影を落とし、夏の終わりを確かに告げている。その気配に、リリウスはふと顔を上げた。広げたままの文書は、もう三度は読み返している。目を走らせるたびに、意味は染み渡っていくのに、なぜか胸の奥が少しだけ乾いたままだ。机の上には、数通の報告書と一通の短い書簡。その紙片は、他のどの文書とも異なる佇まいをしていた。カイルからだった。ヴァルドに着いて一週間ほどで届いた書簡の末尾には、報告書のような堅い筆致で、しかしたった一文だけが添えられていた。 君がそこにいることで、あの国は呼吸をしているように思える。それは何の強制でもなく、ましてや甘やかな慰めでもない。けれど、その一文を読むたびに、胸の奥に波紋が広がった。ゆっくりと、けれど確かに、自分の存在に意味があるのだと教えてくれる言葉だった。(“いる”だけで、いい……?)けれど、それは本当に「ただ存在しているだけ」で、果たしていいのだろうか。数日前にリーネが言っていた。“リリウス、そろそろ肩書きの外に出てみたらどう?”何気ない言葉だった。茶を注ぎながらの、柔らかい口調。だがその背後には、明確な意図があったのだろうと、今なら思う。「神子でも王子でもない、僕……」※午前の政庁は、予想以上に喧噪に満ちていた。書類を抱えて走る文官、細かな報告を交わす補佐官たち。すれ違う人々の表情は忙しげながらも、どこか晴れやかだった。リリウスはその流れの中に、まだうまく溶け込めずにいる。だが、それが悪いとは思わなかった。きっと今の自分は「そういう位置」に立っているのだ。柘榴の木の影が、政庁の庭にも広がっていた。中庭を抜け、彼は書庫の奥で足を止める。書架の影。数日前と同じ場所。けれど、胸にある気配は違っていた。(カイルは、今ごろどうしているだろう)書庫の隅には、小さな机がある。そこに腰かけて、何も書かれていない羊皮紙を前に、ただ静かに指先を動かした。言葉はまだ綴れない。けれど、心のなかには確かな“芽”がある。(待っているだけじゃ、駄目だ。あなたの帰る場所でありたいなら、僕も歩いていかなくちゃ)そう思ったとき、不意に頭上の窓から、陽が差し込んできた。細い一筋の光。静かな祝福のように、
last updateLast Updated : 2025-10-13
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