番に捨てられ、雪の中に置き去りにされたΩ・リリウス。 魔力を封じられた彼を拾ったのは、“沈黙の王”と呼ばれる軍総帥カイルだった。 「役に立つなら使う」──そう言いながらも、冷たいはずの手はなぜか優しい。 やがて始まる、命令でも義務でもない愛。 そしてリリウスを捨てた番は、全てを奪われていく。
View More雪が降っていた。
目の前の世界が、ただ白く、遠ざかっていくようだった。
その中に、馬車の車輪がきしむ音だけが、現実を引きずっていた。
「これで終わりだ。番なんて幻想、今さら引きずってどうするんだよ」
淡々とした声だった。
その声を出した男──レオンは、もうこちらを見てもいなかった。
ただ背を向け、黒い外套の裾を翻して、雪の中に消えかけている。
リリウスは唇を噛んだ。けれど、血の味さえもうわからなかった。
手の甲に、淡い蒼の刻印が光っている。
番の契約。それは「誰かに選ばれた」という証だったはずだった。
「……君は……番だろう……?」
言葉を吐きかけたその瞬間だった。
馬車の陰から現れた影が、リリウスの首筋に触れた。
「これだから、あの国の人間は嫌いなんですよ……」
それは魔術師だった。
魔術師は基本的にクラウディアの魔塔に所属している。
そうでない魔術師は魔術師と認められない。
しかし、リリウスがその顔を見たことはなかった。
彼は淡々と呪文を紡ぎ、掌に輝く印をリリウスの身体に刻んだ。
そしてその瞬間、世界からすべての音が消えた。
魔力が沈黙する。声が届かない。
神への祈りも、家族への叫びも、何一つ反応しない空白の中。
雪が、ただ落ちてくる。
それだけが、世界の答えだった。
彼は捨てられたのだ。
番としてではなく、Ωとしてでもなく、
ただ“リリウス”という存在そのものが、価値を剥奪されて――
世界はその事実に、静かに、知らぬふりをした。
目覚めたとき、部屋の空気はわずかに変わっていた。あの夜から、何かが少しだけ動き出していた気がする。 リリウスは手を見つめた。指先には、昨夜触れた熱がまだ残っているようだった。誰かの感情が、自分の内側に少しだけ残っている。それは、心を揺らす重さでもあり──不思議な心地よさでもあった。しばらくして扉が開く音がした。現れたのはカイルだった。軍服姿のまま、いつものように無表情で。 「体調はどうだ」「悪くはないです。けれど……魔力が深いところで塞がれてる感じがします」カイルは少しだけ目を細めた。「……沈黙の封印、か」「……それは?」「異国系の魔術だ。“声”や“魔力”といった影響力を根ごと奪う。痕跡の性質からして、それが使われた可能性が高い」リリウスは短く息を吸った。「やはり……あれは、そういう類の……」カイルは頷く。「時間はかかる。だが、手段はある」「え?」「解除はできる。ただし、完全に元通りになるとは限らない」カイルは淡々と言った。「……なるほど……何事も都合よくは行かない、か……」リリウスはうなずき、視線を外す。彼の言葉には慰めも脅しもない。ただの事実だけがある。だが、それが今は少しだけありがたかった。「……君は、僕をどうするつもりですか?」リリウスは聞いた。カイルは答えるまでに少しだけ間を置いた。「ここにいるかどうかは、お前が決めろ」「は……?」「お前が決めろ。残るか、去るか」「……去る?」リリウスは微かに笑った。「それはつまり、この国の外に放り出すってこと?」「そうだ。連邦の街に降ろしてもいい。望むなら馬も渡す」 その提案は、まっすぐだった。だからこそ、少しだけ怖かった。ここを出たら、今度こそ本当にひとりになる。誰にも拾われず、誰にも求められず、ただ“棄てられたΩ”として雪のなかに消えるだけ。それを、彼は選ばせようとしている。 「……どうして、僕に選択肢を?」「お前は、“選べなかった人生”を送ってきた顔をしていた」静かに、けれど決定的な声だった。 リリウスは息を詰めた。その言葉は、鎧の奥のどこか──まだ傷が生々しく残っている部分に触れた。「……誰も、そんなこと言わなかった」「だろうな。だから言っておく。俺は、命令するのが面倒なんだ」「……ずいぶん勝手な……」ゆっくり
格子の向こうに、今日もぼんやりとした空が浮かんでいる。時間の感覚はない。けれど空の色が少し変わったことで、日が傾いたのだと気づく。リリウスは窓辺から動かなかった。空の広さは、かつては希望だった。けれど今は、ただの“届かない景色”でしかない。閉ざされたこの部屋では、声も魔力も反響しない。言葉を紡いでも、空気に吸い込まれて消えていく。ただ、昨日だけは──違っていた。カイルの外套に触れた瞬間、世界が軋んだ。視界が白く染まり、空気が微かに震える。 ──血の匂いがあった。剣戟。絶叫。焼ける煙と崩れる壁。その中央に、若いカイルがいた。まだ軍章もない、兵士の一人として剣を振るっている。「Ωは後方に下げろ!」叫び声が飛ぶ。けれどその場に踏みとどまっていたのは、一人の少年だった。軍服すら似合わないほどの細さ。だが剣を持つ手は、確かに前を向いていた。その時だった。敵兵の刃が横から飛び込む。カイルが叫ぶ。だが剣の方が早かった。少年の身体が崩れ落ち、血が地を染める。沈黙のなか、カイルの瞳から温度が消えた。「……だから、弱いものは……嫌いなんだ」誰にも届かない声が、残響のように胸を打った。現実に戻った時、リリウスの指にはカイルの外套が握られていた。まだ、あの匂いが残っている。魔力の共鳴。記憶と感情に触れた、わずかな時間。自分の“異質さ”を、久しぶりに思い出した。(あれが……怒り)ただの兵士ではない。あれほど深く、凍てついた怒りを抱える男が、なぜ自分を拾った?「……共鳴」静かに口にしたその言葉が、部屋に吸い込まれて消えていく。沈黙の中で、それでも確かに心臓だけが打ち続けていた。 その夜、カイルがやってきた。「お前、外套に触ったな」入ってくるなり、静かな声が降りる。問いではない。断定だった。リリウスはベッドの上で体を起こし、ただ頷いた。「見えた。あの戦場。……あなたが“要らない”と呟いたあの瞬間も」カイルの金の瞳が、鋭く光った。「どこまで見た?」「全部じゃない、と……思う」リリウスはまっすぐにカイルを見返す。怯えも媚びもなかった。「僕は“感応者”だ。他者の強い感情に、反応してしまう」「クラウディア特有の神託体質か」「……そう。だから王家に生まれた」「厄介だな。都合よく心を読まれるのは気に入らない」カイルは
リリウスはゆっくりと身を起こし、部屋の隅に置かれた鏡に目をやった。少しの間、そこを見つめたあと、静かに立ち上がる。足元の毛布が落ちる音だけが、部屋に響いた。やがて彼は鏡の前にたどり着き、真っ直ぐに立つ。歪みのない銀の縁が、静かにその姿を映していた。白銀の髪。冴えた紫の瞳。そのどちらも、光の角度によって柔らかく色を変える。肌は透けるように白く、唇はわずかに血の気を宿していた。中性的で、どこか儚げな顔立ち──それは、王族として育てられた彼にとって、何度も“美しい”と評された顔だった。けれど、今はもうその価値を、自分では測れない。「……意味なんて、ない」鏡に向けられたその声は、誰にも聞かれることのない、沈んだ独白だった。そのとき、扉が叩かれた。声はかけられない。けれど、すぐに鍵が外される音が続く。開いた扉の向こうに立っていたのは、カイルだった。漆黒の軍服に、同じ色の外套。淡い金の瞳が、リリウスを見下ろす。「ああ、立てるようになったか」問うでもなく、命じるでもなく。ただ、そう言った。リリウスはゆっくりと頷いた。カイルは部屋に入り、持っていた小さな文書をテーブルの上に置いた。「これはアルヴァレス王国からの通達。お前は“外交任務中に失踪”という扱いらしい。よって、“捜索の義務も責任もない”と明言されている」声の調子は淡々としていた。けれど、どこかに“切り捨てられたこと”への明示が込められているように思えた。リリウスは視線を落としたまま問う。「……それを、僕に読ませて、どうする?」「別に。知らないまま朽ちられても困る」「僕は……使える道具、ということか」「そうだ。まあ、今はな」カイルの答えは容赦がなかった。けれど、不思議とリリウスはそれを受け入れた。少なくとも、嘘ではなかったからだ。 沈黙が落ちる。鏡の前で立ち尽くすリリウスの背後に、カイルは無言で歩み寄った。外套がわずかに揺れ、軍靴の音が石床に響く。その気配に気づき、リリウスが振り返ろうとした瞬間、カイルの手が、静かにその顎をすくった。驚きに眉がわずかに動く。だが拒む隙など与えず、カイルは顔を近づける。「俺は、役に立つ者しか手元に置かない」低く抑えた声が、耳の奥を打った。目線が交わるほど近い距離。指先はゆっくりと顎を離れたが、その
部屋の空気は、日ごとに少しずつ変わっていた。魔力の気配がないことには変わりはない。けれど、リリウスの中にある沈黙は、ほんのわずかに揺れていた。それは、訪問者のせいだった。青年──シアン。彼の声も、動きも、空気を壊さない。それでいて、確実に何かを投げかけてくる。この日も変わらず、食事と薬を携えてやってきた。けれど、彼はベッドに近づく前に一つだけ問いを放った。「……どうして、名前を隠すんですか?」リリウスは視線を上げなかった。けれど、確かに少しだけ、瞼が動いた。「クラウディアの王子にして、アルヴァレスの王子妃。その肩書きなら、本来もっと偉そうにしていてもおかしくないのに」シアンの声には、からかいはなかった。ただ、まっすぐな興味がそこにあった。リリウスはゆっくりと上体を起こした。それを見て、シアンはわずかに目を見張った。ここ数日、彼が自発的に起き上がるのは初めてだった。「……隠してなど、いないよ」かすれた声だった。けれど、それは確かに“言葉”だった。シアンが目を見開く。「え、喋れるんですか……?」リリウスは頷きもせず、ただ淡々と続けた。「訊かれてないだけだ。名乗る理由も、必要もなかった」「……ああ、なるほど」シアンは口元に手を当て、笑うでもなく首を傾ける。「でも、それだけじゃないですよね」「……肩書に意味などないよ」沈黙が、少しだけ形を変えた。シアンは、食事をベッド脇の小机に並べながら言った。「あなたの“番”って、どんな人だったんですか?」その一言に、リリウスの手が止まる。目線が、一瞬だけシアンに向けられた。それは、今までのどの視線とも違っていた。「……もう、関係ない」それだけを告げて、リリウスはベッドのシーツを掴む。爪が食い込み、白い布がわずかに皺を刻んだ。シアンは何も言わなかった。ただ、整えた食器の横に、スプーンを一つ置いて立ち上がった。「じゃあ、“今のあなた”に関係あることが見つかればいいですね」それだけを言って、部屋を後にした。その会話のすべてを、隣室の小窓からカイルが見ていた。扉の外ではなく、壁の裏に作られた観察窓。一方通行の強化ガラス越しに、彼は黙って立っていた。「……やっと口を開いたか」小さく呟いて、彼は外套の裾を翻す。その背中に、誰の声も届かない。だが確かに、
朝なのか夜なのか、その判断さえつかない。窓はあるが、格子の向こうにはぼんやりとした空しか見えない。魔法灯が一定の光を保っているせいで、部屋の中に時間の感覚はなかった。リリウスは一度も声を出していない。問われても、頷かず、否定せず。ただ、淡々と日々の流れに身を任せていた。この部屋は牢ではなかった。鍵もない。外に兵士が立っている気配もない。けれど、リリウスはそれを“牢”だと理解していた。魔力が遮断されている。その理由を問いただす術もなく、ただ静かに横たわる。身体は十分に動くが、外に出ようとした瞬間に空間が歪む。まるで、“ここ”だけが何かの結界で覆われているようだった。(……僕一人に随分と念入りなことだ……)唯一の訪問者は、薬と食事を運んでくる青年──シアンだった。年若く、軍服の袖がやや大きすぎるその姿は、どこか場にそぐわない。けれど、足取りも所作も正確で、訓練された人間だというのはすぐに分かった。「無理に食べなくてもいい。ただ、拒む必要もないですよね?」毎日同じ言葉を残して、彼は部屋を後にする。その距離感は、慣れているのか、それとも訓練された癖か。数日目、シアンがぽつりと話しかけた。「あなた……魔力がまったく反応しない。あれは呪いですか?」リリウスは視線だけを動かした。その目は、答えを拒否するものではなかった。ただ、問いに意味を見出していない目だった。シアンは少し考えてから言った。「この部屋は、魔力遮断のフィールドが張られています。あなたが暴走するタイプなら、こちらも困るから」リリウスは、それでも黙っていた。暴走などしない。する力さえ、もうないのだ。シアンは困ったように肩をすくめて、出口に向かう。けれど、ふと何かに気づいたように立ち止まった。「……あなた、クラウディアの人ですよね?」その言葉に、リリウスの指先がわずかに動いた。気づかれた──そう思ったが、すぐに思いなおす。この部屋に来るということは、既に何らかの情報共有はされているのだろう。「“神託の血”──王族でしょう?」部屋の空気が変わった。リリウスは目を伏せる。問いかけでもなく、否定でもない沈黙。けれど、それが答えだった。「やっぱりか。ここに送られた時、“特別枠”って書類がついてたんですよね。うちの部隊じゃ扱えないって」呟くように
静かな部屋だった。壁は石造りで、窓には鉄格子。寝具は清潔だったが、軍用のそれであることはすぐに分かった。殺風景な天井を見つめながら、リリウスはゆっくりと瞬きをした。喉が焼けるように痛い。声を出そうとすれば、咳が止まらなくなりそうだった。何より、魔力の気配が自分の身体からすっぽり抜け落ちている。──まだ、封じられている。思考だけが妙に冴えていた。夢と現実がどこまで分離できているのかも曖昧なまま、彼は静かに横たわっていた。やがて、扉が開いた。革のブーツが床を叩く音。視界の隅に、黒の外套と鋭い輪郭が映る。男が立っていた。黒い髪に、金の瞳。魔法灯の白光を受けながらも、どこか温度を感じさせない色彩だった。軍服の上から羽織られた外套には、見たこともない金糸の紋章が縫い取られている。息を呑む。あの時、雪の中で自分を拾った、あの男──ただの軍人ではない。命を指揮する者の気配があった。「目は覚めたか」男はそう言いながら、無遠慮に椅子を引き、ベッドの脇に腰を下ろした。リリウスは声を返さなかった。返せなかった。喉の痛みもあるが、何より“言葉”というものに価値を感じていなかった。男は構わず続けた。「ここはヴァルド連邦。俺はカイル=ヴァルド。……軍の人間だ」その名を聞いた瞬間、リリウスの睫毛がわずかに震えた。──カイル=ヴァルド。ヴァルド連邦第一軍管区総帥、“沈黙の王”と呼ばれる男。アルヴァレスであれ、クラウディアであれ、その名を知らぬものはいないだろう。(……馬鹿な、そんな男がなぜアルヴァレスの近くに……)けれど、リリウスは表情を変えなかった。ただ、ゆっくりと目を伏せ、体の奥にある疑念を呑み込んだ。「……僕、は……」「リリウス=クラウディアだろう?ああ、婚姻してリリウス=アルヴァレスか。クラウディア王国の王子にして、アルヴァレスの王子妃」(……まさか、そこまで把握しているとは……いや、指輪を見れば、誰でも気づくか)目を落とした左手には、王子妃の証である指輪が光っていた。おそらく、捨てられる際に外し忘れられたのだろう。もはや自分でも、その存在すら意識していなかった。リリウスは、ゆっくりと一つ息を吐く。カイルは懐から何かの紙片を取り出し、ベッドに放り投げた。「お前に番の刻印があることは確認済みだ。だが、契約はも
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