風が少し変わった。昼過ぎ、政庁の窓をすり抜ける風が、それまでと違う温度を帯びていることに、リリウスはなんとなく気づいていた。けれど、風の向きが変わるくらいのことで心がざわめくのは、何かを予感していたからだろう。書簡を閉じる手の先で、扉が控えめに叩かれた。すぐに続いたのは、焦りに満ちた声だった。「失礼します、急報です!」机の向こうで視線を上げるよりも早く、扉が勢いよく開かれる。入ってきたのは、放牧地からの連絡を受け持つ若い兵士だった。彼は息を整える暇も惜しむように、リリウスの前に膝をつく。「アルヴァレス南東、第四放牧地にて――」一拍、呼吸。「……カイル様が、何者かに襲撃されたという報せが入りました」時が止まった。報せを聞いた瞬間、リリウスの思考は真っ白になった。顔から血の気が引いていくのがわかる。指先が冷たくなり、手に持っていた羽根ペンが、かすかに震えた。「……うそ、だ」誰に向けたものでもない声が、喉から零れた。兵士は、たじろぎながらも続ける。「詳細はまだ……。襲撃という表現も、現場の混乱から出たものかと……ですが、怪我をされたのは確かとのことです」「怪我って、それは軽いものなのか?!命に関わるようなことは……」「わかりません、情報が錯綜していて……」身体が立ち上がるのを意識できなかった。次の瞬間には椅子を蹴って立ち、机を回り込んでいた。鼓動が荒くなる。肺が酸素を欲しているのに、呼吸がうまくできない。頭の奥で、何かが軋んだ。「馬を――用意して!」叫びに近い声を上げたところで、背後から手が伸びた。「リリウス!」リーネの声だった。彼女は扉のそばにいて、リリウスの腕を強く掴む。「落ち着いて。あなたが崩れたら、行くにも行けなくなるでしょう!」「でも……!」「たいしたことじゃないかもしれない。誤報かもしれないのよ。襲撃って、どこから来た話? 誰が言ったの?」冷静で的確な指摘に、リリウスの足が止まる。しかし、脳裏にはもう“最悪の像”が焼きついてしまっていた。(もしも……もう、声が聞けなかったら。もしも……)感情が喉元で詰まりかけたとき、不意に思い出す――あのときの痛み。まだ産声も上げていない命が、静かに消えていった日の、深く冷たい絶望。胸の奥に、同じ冷たさが押し寄せてくる。「……また、何もできないの
Last Updated : 2025-10-14 Read more