All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 161 - Chapter 170

181 Chapters

第160話:風の向こうの報せ

風が少し変わった。昼過ぎ、政庁の窓をすり抜ける風が、それまでと違う温度を帯びていることに、リリウスはなんとなく気づいていた。けれど、風の向きが変わるくらいのことで心がざわめくのは、何かを予感していたからだろう。書簡を閉じる手の先で、扉が控えめに叩かれた。すぐに続いたのは、焦りに満ちた声だった。「失礼します、急報です!」机の向こうで視線を上げるよりも早く、扉が勢いよく開かれる。入ってきたのは、放牧地からの連絡を受け持つ若い兵士だった。彼は息を整える暇も惜しむように、リリウスの前に膝をつく。「アルヴァレス南東、第四放牧地にて――」一拍、呼吸。「……カイル様が、何者かに襲撃されたという報せが入りました」時が止まった。報せを聞いた瞬間、リリウスの思考は真っ白になった。顔から血の気が引いていくのがわかる。指先が冷たくなり、手に持っていた羽根ペンが、かすかに震えた。「……うそ、だ」誰に向けたものでもない声が、喉から零れた。兵士は、たじろぎながらも続ける。「詳細はまだ……。襲撃という表現も、現場の混乱から出たものかと……ですが、怪我をされたのは確かとのことです」「怪我って、それは軽いものなのか?!命に関わるようなことは……」「わかりません、情報が錯綜していて……」身体が立ち上がるのを意識できなかった。次の瞬間には椅子を蹴って立ち、机を回り込んでいた。鼓動が荒くなる。肺が酸素を欲しているのに、呼吸がうまくできない。頭の奥で、何かが軋んだ。「馬を――用意して!」叫びに近い声を上げたところで、背後から手が伸びた。「リリウス!」リーネの声だった。彼女は扉のそばにいて、リリウスの腕を強く掴む。「落ち着いて。あなたが崩れたら、行くにも行けなくなるでしょう!」「でも……!」「たいしたことじゃないかもしれない。誤報かもしれないのよ。襲撃って、どこから来た話? 誰が言ったの?」冷静で的確な指摘に、リリウスの足が止まる。しかし、脳裏にはもう“最悪の像”が焼きついてしまっていた。(もしも……もう、声が聞けなかったら。もしも……)感情が喉元で詰まりかけたとき、不意に思い出す――あのときの痛み。まだ産声も上げていない命が、静かに消えていった日の、深く冷たい絶望。胸の奥に、同じ冷たさが押し寄せてくる。「……また、何もできないの
last updateLast Updated : 2025-10-14
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第161話:あなたを失いたくない

馬が地を打つ音が止んだとき、リリウスはまだ鞍から降りられずにいた。眼前には、人の輪。放牧地の柵のあたりで数人が集まっており、誰かが立ち上がる気配がした。(ここに……いる?)息を殺して視線を走らせる。その真ん中に、ひときわ背の高い男がいた。風になびく暗い髪、黒の外套、その右肩を手で押さえている。「カイル……!」ほとんど声ではなかった。喉の奥から飛び出した、願いの名残。彼は気づいたのか、こちらへ振り向く。「……リリウス?」のんびりとした声色だった。その瞬間、胸に張り詰めていたものがぷつりと切れる音がした。鞍から飛び降りた足元がもつれそうになるのを無理に支えながら、リリウスは一直線に駆け寄った。「どうしたんだ……そんな顔して」彼が言いかけた瞬間、その胸元を平手で叩いていた。「なに……してるんだよ……! 馬鹿ッ……!」怒りとも安堵とも言いきれない言葉が、喉の奥で噛み砕かれていく。その目の端に、涙がにじみ、こぼれ、頬を伝う。「襲われたって……何者かにって……! 死んだかもしれないって……っ!」声が震える。周囲の人々が気まずそうに視線を逸らし、やがてそっと場を離れていった。残されたのは、リリウスとカイル、そして薄く舞う牧草の香りだけだった。カイルはしばらく呆気に取られたような顔をしていたが、やがて苦笑しながらそっと言った。「すまない……ほんの、かすり傷だ。牛が暴れて、馬が驚いてな。まあ、ちょっと落とされただけだ……」「牛……!?」「そう。俺がぼんやりしてたのが悪い。後ろから来てるのに気づかなくて……」言い訳のような声だった。その口調が、むしろ生きているという証拠のようで、リリウスは一歩だけにじり寄った。そのとき、視線の端に、何かが落ちているのを見つけた。土の上、草にまみれて半分埋もれた――「これ……カイルのだ」それは、彼がいつも腰に下げていた小さな革のポーチ。中には、以前リリウスが調合して渡した薬草の包みが入っていたはずだ。「気づかなかった……落としたんだな、どこかで」カイルがポーチを受け取る手が、少しだけ震えていた。「使った?」「ああ。包帯を巻くときに、薬草をな。助かったよ。これがなかったら、もう少し派手に血が出てたかもしれない」冗談のように笑うその顔を、リリウスはしばらく見つめていた。目元に、土
last updateLast Updated : 2025-10-15
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第162話:静かな季節の兆し

朝の光は、どこか柔らかく、まるで昨日までのざわめきを包み込むようだった。カイルが帰還して数日が経っていた。秋の気配がゆるやかに空を満たし、屋敷の廊下を抜ける風もまた、どこか落ち着いている。こうしてようやく、時間が自分たちの速度を取り戻しはじめたのだと、リリウスはふと感じた。柘榴の実はまだ割れぬまま、枝先に重たげにぶら下がっている。その下の縁台に、カイルがひとり腰をかけていた。「……あの牛、まだ怒ってるらしい」セロからの報告書に、そう読み上げながら笑うその背中に、リリウスは湯気の立つ茶を渡した。「じゃあ、また蹴られないようにね。恨みを買ったかもしれない」「はは、かもな。もう少しで“ヴァルドの将軍、牛に敗れる”って歴史に残るところだった」どこか楽しげにこぼされたその冗談に、リリウスは苦笑を返しながら隣に腰を下ろした。ふたりきりの、静かな朝。こうして同じ時間に座って、同じ湯気に目を細め、互いの呼吸を確かめるように会話を重ねる――そんな日々が、どれだけ尊いものだったかを、ようやく思い出す余裕が戻ってきていた。「君は、俺がいないあいだどうしてた? ……泣いてたんじゃないのか?」そう訊ねたカイルの言葉に、リリウスは少しだけ頬を膨らませる。「泣いてない。泣きそうにはなったけど。……でも、泣いてもよかった?」「いいとも。泣きたくなるほど、心配してくれてたってことだろ?」「じゃあ、次に泣いたら、責任とってもらわなきゃ」「その責任、けっこう重いな」そう言いながらカイルがリリウスの肩に額を落とす。その動きが自然すぎて、リリウスは抗議の言葉すら忘れてしまう。「……戻ってきてくれて、ありがとう」「当たり前だ。戻ると言ったろ」どちらの声も小さくて、それでいて、心に深く沈んでいった。※午前のうちに、リーネが屋敷までやってきた。手に書類を抱え、いかにも不機嫌そうな顔つきでふたりを見下ろす。けれどその足取りは軽く、目の奥には安心の色がうっすらと混ざっている。「そろそろ“回復祝い”の甘やかしは終わりよ。いい加減、働きなさい」「おかしいな、俺は療養中なんだけど」「肩のかすり傷で療養とは。ディランが聞いたら噛みつくわね」言われてみればと、カイルが苦笑を漏らす。リリウスは隣で肩をすくめて、茶をひと口。「それと……父上が、そろそろ限界みたい
last updateLast Updated : 2025-10-16
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第163話:熱を知る刻

扉が静かに開いた。まるで音を殺すように、慎重に、けれど迷いなく。その先に立つ人影を、リリウスはただ見つめていた。カイルの姿がそこにある。「……リリウス?」名を呼ばれた瞬間、肺の奥が熱に包まれた。何かが、爆ぜるように身体の奥底から這い上がる。喉の奥が焼け、腹の底が軋む。頭の奥が、ぐらりと揺れるような浮遊感に襲われ――それが、止まらない。(なに、これ……)立ち上がろうとした足が、力を失う。がくりと膝が折れかけたところを、すぐにカイルの腕が受け止めた。「リリウス……!」名前を呼ぶ声は、いつもより低く、切迫していて。その瞬間、さらに強く――香りが、溢れた。甘く、濃く、湿った花のような――空気ごと塗り替えてしまうほどの熱の香り。カイルの身体がびくりと反応し、リリウスを抱えた腕に力がこもる。「……これは、きついな」耳元でそう呟いた声は、押し殺した欲望の色をしていた。リリウスの呼吸はすでに浅く、熱を含んだ吐息がカイルの喉元にかかる。「帰ろう。リリウス」言葉に、ただ小さく頷くしかできなかった。何も考えられなかった。カイルの肌が近い。それだけで、また一層の熱が駆け上がってくる。今までだってオメガとして発情期を乗り越えてきた。今はいないあの子を授かった夜だって、そうだったはずだ。けれど、どれも番の契約を結べるほどではなかった。それが、今、大きな波となってリリウスを襲っている。ふわりと身体が浮かぶ。カイルが、横抱きにした。そのまま歩き出す直前、彼の顔が近づいたと思った瞬間――唇が、重なった。ほんの一瞬、やわらかく触れただけなのに、すべての感覚がそこに集まって震える。リリウスの身体から、もう何もかもが零れていきそうだった。※屋敷の寝室。白いカーテンが風に揺れていたが、それが見える余裕もない。カイルに連れられてたどり着いたその部屋で、リリウスはもう布団の上にいた。衣服は乱れ、熱に濡れた額に汗が滲んでいる。唇はかすかに開かれ、息をするたび、切羽詰まった吐息が喉から漏れた。「……っ、あ……」それは、言葉にならない名前。けれど、何度も、何度もカイルを呼んでいた。「リリウス……」彼の名を呼ぶたび、カイルの顔が苦しげに歪む。香りが、濃く満ちていた。カイルの指が、リリウスの頬に触れ、汗を払う。その熱に、リリ
last updateLast Updated : 2025-10-17
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第164話:誓いの疼き

唇が、再び重なった。深く、熱く、そして、ためらいなく。触れるたびに、リリウスの中の熱が跳ね、何もかもが溶けていくようだった。カイルの手が頬をなぞる。耳の裏、顎の下、そして首筋へ。震えた指先がそこに添えられただけで、身体がびくりと跳ねた。(なんで……こんなに……)身体を重ねるのは初めてではない。むしろ幾度も夜を共にしてきた。なのに、息が浅くなる。心臓が、もう鼓動というより打ち上がるように脈打っている。カイルの手が、そっと襟元をほどく。露になった肩口に、唇が触れた。「……熱いな」低く落ちたその声が、耳の奥に絡まって離れない。それだけでまた、リリウスの胸の奥に、新しい熱が波紋のように広がった。首筋へと降りてくるキスは、まるで追い詰めるように、じわり、じわりと甘さを増す。皮膚を這う唇が、そこに何度も、何度も落ちてきて――「ああ……たまらないな」吐息に濡れた声は、感情よりも本能に近かった。その言葉が皮膚を打ち、火照りが一層強くなる。リリウスは、カイルの肩にしがみついていた。指先が力なくも必死に布をつかみ、唇が震える。「カイル……っ、カイル……」繰り返される名は、懇願のようで、祈りのようでもあった。その声に応えるように、カイルがリリウスをゆっくりと横たえる。額と額を重ね、目を合わせたまま、繋がる。どこか痛みすら伴うその感覚に、リリウスは目を見開いて――そして、また溶けていく。(この人と――繋がってる)そんな当たり前の事実に、胸が苦しくなる。カイルは動かない。ただ、リリウスの頬を撫で、瞳を覗き込む。「……まだ大丈夫か?」「うん……だいじょうぶ、だよ……」微かに掠れた声がそう答えると、カイルはその額にそっと唇を落とした。そのあとで、ゆっくりと動き始める。揺れる身体に合わせて、布の擦れる音と息遣いが重なっていく。苦しげに眉を寄せながら、リリウスは胸元をつかんだ。視界が熱に霞む。けれど、痛くはない。ただ、深くて、満ちていく。――何かが、自分の中に入ってくる。それは、単なる身体の交わりを超えて、魂に触れるような――そんな錯覚すら与えた。やがて、カイルの手がリリウスの背に回る。身体を抱き起こし、身体の向きを変えさせて、その華奢な背から包み込むようにしっかりと支える。「苦しくないか……?」「だいじょうぶ……も
last updateLast Updated : 2025-10-18
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第165話:熱の名残

目が覚めたとき、まず最初に感じたのは――静けさだった。外の光はやわらかく、窓辺をすり抜けた風が、薄くかすかに柘榴の香りを運んでくる。けれど、その香りに含まれていたはずの“熱”は、もうなかった。(……落ち着いてる)呼吸を整えながら、リリウスはゆっくりと瞼を上げた。陽が傾きかけた部屋の中で、自分がきちんと寝台に横たえられていることに気づく。肌に張りついた汗は拭われ、衣服も、さらりとした清潔なものに替えられていた。なのに、胸の奥だけが、かすかにざわめいている。カイルが――いない。それに気づいた瞬間、理屈の通らない不安が、胸の奥からじわじわと這い上がってくる。(どこかに、行った? ……いや、でも)起き上がろうとする前に、扉の開く音が聞こえた。「リリウス?」その声は、胸を撫で下ろさせるには十分だった。姿を現したカイルの腕には、銀盆が一枚。その上には湯気を立てるスープと、薄く切られた果物が丁寧に並んでいた。「そろそろ目を覚ます頃だと思ってな。……食べられそうか?」リリウスは頷く代わりに、小さく微笑んだ。カイルは静かに盆をサイドテーブルへと置き、そのまま、寝台の端に腰を下ろす。――次の瞬間。何かに突き動かされるように、リリウスの腕が伸びた。ためらいも予告もなく、カイルの胸に抱きついた。「……どうした? 嫌な夢でも見たか?」カイルの声が、頭上から落ちてくる。けれど、リリウスは首を振った。「……カイルがいなかったから」その言葉に、カイルはふ、と眉を下げて笑った。静かに、優しく。その指先が、リリウスのうなじへと伸びる。そこに触れた指が、ゆるやかに撫でる。「リリウス。……ここには、もう俺の噛み跡がある」リリウスは、小さく頷いた。「うん……」「……あの男と結んだ、魔術による偽りの“美しい紋様”じゃない」再び、同じ場所を指がなぞる。「これは、俺の――噛み跡だ」リリウスの肩が、ほんのわずか震えた。心が動いたときの、あの柔らかな揺れが、身体の奥から湧き上がる。「……カイル」名を呼んだだけなのに、感情が胸いっぱいに広がる。すると、カイルはリリウスを腕の中に引き寄せて、ぽすりと顎を乗せた。「俺の番は、困ったことに疑り深いようだが……」肩を抱く腕に、力がこもる。「君は俺が、嫉妬深いことも知るべきだな」「カイルが?
last updateLast Updated : 2025-10-19
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第166話:暖かい眼差し

政庁の空気は、午前の光にしては少しばかり、重かった。無理もない、とリリウスは思う。ここ数日、屋敷の外に顔を出していなかったのだから。自身の体調が落ち着き、ようやく着替えて執務に向かったその朝、廊下に立つセロがまず眉をひそめて、それから何かを悟ったように小さく息を吐いた。「……お目覚めになりましたか」言葉は形式的だったが、視線は違った。それは、慎重な観察者の目――変化を探し、読み取り、測ろうとするまなざし。「おはよう。心配かけて、ごめんね」そう返せば、セロはわずかに首を横に振った。「いいえ。ただ、カイル様から“暫く近づくな”とだけ……言われましたので」その一言に、胸が少し熱くなる。「セロは大丈夫なのにね……」小さくリリウスが笑う。“番になった”――それがどういう意味を持つのか。制度でも、法律でもなく、香りと本能と誓いによって結ばれた、ただひとつの絆。セロはおそらくすべてを察していて、それでもいつものように丁寧に、境界線の内側には踏み込まない。リリウスは、ほんの少しだけ歩調を緩めた。「……ありがとう」そして言った。それは、今この瞬間に“言っておかなくてはならない”と直感した言葉だった。その昼下がり、リーネが政庁を訪れた。書状の束を小脇に抱えたその姿は、いつも通りに隙がない。それでいて、リリウスを見るなり、唇の端をわずかに持ち上げた。「ようやく?」「まあ、そのええ……」「じゃあ、そろそろ私を『お母様」と呼ばないといけないわね。……家族なったのだから。いえ、“あの子”を通じてあなたはとっくに家族だったわね」その指摘に、思わず言葉を失った。けれど、リーネの目はどこまでも真剣だった。からかい混じりの調子の裏にあるものを、リリウスはよく知っている。「さて、じゃあこれを渡すわね。正式な──婚姻書よ」「婚姻書……」ふいに、書状の束から一枚の紙が差し出された。そこには、正式な“番”契約を公文書として登録するための文面が記されていた。「――でも僕は……本当に良いのでしょうか?」自分でも、あまり自信のない言い回しだった。でも、リーネはあっさりと頷いた。「必要よ。とくに、君が“ただのリリウス”でなく、“この国の番の一人”として見られるようになるためにはね」「カイルの……番、として?」「そう。あの人はもう、将軍である以
last updateLast Updated : 2025-10-20
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第167話:祝福

その日、陽の光はどこまでもやわらかく、風には花の終わりを告げるかすかな土の匂いが混じっていた。午后の陽ざしが寝台の木枠を撫でるころ、控えめなノックが響いた。扉を開けた先にいたのは、マリアンだった。「リリウス様、少し……お時間、いただけますか?ちょっとおでかけしたくて。……一緒に、良いですか?」その声音には、いつもの柔らかな調子に微かな含みがあった。胸の奥がくすぐったくなるような、そんな声。「うん。大丈夫、どこに行くんだい?」そう言って身支度を始めたリリウスに、マリアンは白の上衣を渡す。「こちらをお召しください」「え?ああ、うん」言われるままにリリウスはそれを羽織った。政庁を出て辿り着いたのは、街はずれの小さな礼拝堂。石造りの扉は少し苔が生えていて、それでもどこか静謐で、澄んだ空気に満ちていた。「ここは……?」「お式があるんです」「そうなんだね?えっと、僕は何をすれば良い?」リリウスが首を傾げたとき、マリアンが自身の荷物の中から繊細な刺繍が施されたヴェールを取り出す。ふんわりとそれをリリウスの頭に被せた。「リリウス様はそのまま中に入られるだけで大丈夫ですわ」マリアンが開けた扉の向こう――リリウスは、思わず小さく息を呑んだ。祭壇の前に立つ人影。陽の逆光に縁取られて、そこにいたのは、きっちりと軍装を纏ったカイルだった。制服は紺の深みを持ち、左肩の礼装章が光を弾いていた。表情は厳しく、けれど目元にはいつもよりも深い、静かな色が宿っている。「さ、総帥……カイル様の元へ」戸惑いながらも、マリアンに背を押されてゆっくりと、リリウスは歩き出した。リーネをはじめ、ヴェイルやセロ、ハーグの姿もそこにはあった。足元に響く音はなぜだか心地よく、ヴェールが肩にふわりと落ちて、光を受けてきらめく。やがて二人の距離が縮まり、目の前に立ったとき、カイルが手を差し出した。「来てくれて、ありがとう」「……カイル、これ……」リリウスが問いかけるよりも早く、カイルはまっすぐに言葉を紡いだ。「リリウス。俺は、君をただの番としてでなく、人生を並んで歩く相手として選んだ。だから今日、この名に誓う。“君のために剣を納め、盾を掲げ、手を離さない”と」それは、騎士としての誓いでもあり、愛する者への告白でもあった。硬質で、まっすぐで、それゆえに優しい響
last updateLast Updated : 2025-10-21
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第168話:芽吹きの兆し

朝露が石畳に散っていく音すら聞こえそうな、穏やかな朝だった。目を覚ました瞬間、リリウスはその“静けさ”がどこか違っていることに気づいた。いつもの寝台、いつもの天蓋。外では鳥が鳴き、風が白いカーテンを膨らませている。けれど、肌に触れる空気が、まるで“呼吸をしている”ようだった。ゆっくりと身を起こし、裸足のまま床に降りる。まだカイルの姿はなく、執務に出たのだろう。リリウスは軽い寝間着のまま、薄い羽織を引っかけて庭に出た。陽はすでに高く、花壇の縁に植えられたラベンダーが光を吸い込んでいる。その隣には、昨日までしおれていたはずの、名も知れぬ白い花。葉がふにゃりと垂れていたその草が、今は、ふっくらと膨らんで蕾を持っていた。「……え?」しゃがみ込み、そっと指を伸ばす。触れるか触れないかの距離で、その花の茎がふるふると震え、太陽の方へ伸びようとした。まるで、呼ばれたかのように。息を呑んだまま、リリウスは手のひらを静かに浮かせた。空気の中に、微細な光の粒子のようなものが揺れている――錯覚ではなく、確かな“気配”。(なに、これ……)目を閉じると、内側から湧き上がる何かがあった。魔力、と呼ぶには温かく、精霊、と言い切るにはあまりに“生身”だった。それは、まだ確かに“形”を持っていない。けれど、それでもこの身のどこかに根を下ろし始めていて、リリウスの存在そのものに同化しようとしていた。「リリウス様」背後から声がかかった。振り返ると、マリアンが湯気の立つカップを持って立っていた。「あれ、どうかした?今日は僕が起きるより早くきたんだね?」「はい。リリウス様がお好きな茶葉を手に入れたから、一緒に飲みたくて。あの……」「うん?」「いえ、なんでもありません。冷めないうちに、飲みましょう?」マリアンは微笑みながら、そっとリリウスにカップを渡す。しかしその視線は、リリウスの指先から立ち上るかすかな揺らぎを逃さず見つめていた。※「“芽吹きの揺れ”が?」政庁の執務室。その一角で、セロは密やかに報告を届けていた。「今朝、庭に出られた際に、枯れかけていた草花が一斉に生気を取り戻しました。魔力の外漏れは微量ながら、規則的で、……胎動のような波形であった、と」「“波形”……?なるほど」書類に目を落としていたリーネが、ペンを止めた。「それが、“宿り”の兆
last updateLast Updated : 2025-10-22
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第169話:失われた季節のはざまで

陽が沈みかけたころ、屋敷の二階の広間には、言葉にできないほどの静けさがあった。古い石造りの壁が、夏の終わりを思わせる風を受けてかすかに軋み、開け放たれた窓の隙間からは、遠くで誰かが通り過ぎる馬車の鈴の音が届いていた。それは、忙しなく通り過ぎてゆく日々の音とは少し違っていて、どこか、時間の縁に引っかかっているような――忘れ去られた記憶を、指先でなぞるような、そんな響きだった。リリウスは、カイルに連れられるようにして広間の奥へと進み、くたびれた布地のかかった長椅子へ腰を下ろす。そのすぐ隣、間を空けずにカイルも並んで座った。柔らかな音を立ててソファのクッションが沈み、互いの衣擦れがふれあう程度の距離。リリウスが手を膝の上に重ねると、カイルは何も言わず、その肩にゆっくりと腕を回した。それは、慰めでも支配でもなく、どこまでも“そこにいる”という意志の動作だった。ただ、一緒にいる。そうして並んで同じ風景を見る。それだけのことが、今は何よりも意味を持っているように思えた。「……あのさ」リリウスがぽつりと呟くと、カイルはただ、ほんの少しだけその腕に力をこめた。問いは返さない。ただ、続きを待っている。そういう人なのだと、リリウスは知っている。「僕ね、あの子のこと……まだちゃんと、見送れてなかったかもしれない」その言葉は、ごく淡く、けれど息を止めたくなるほどまっすぐで――まるで静かな湖面に落ちた小石のように、心の深い部分をひとつ、確かに揺らした。「そう思うんだ、最近、ずっと」そう言ってリリウスは、カイルの方を見ずに、窓の外へと視線をやる。夕陽は雲の切れ間から差し込み、庭の芝生を金色に染めていた。「僕、あのとき、“起こったこと”に蓋をしていたんだと思う。きっとあれは、悲しくて、辛くて、……怖かった。夢だったらよかったのにって、何度も思った。だからなのかな。あの夜も、あの朝も、まるで何もなかったみたいにしてしまってた」そう語るリリウスの声は、細く、時おり途切れがちで、それでもひとつひとつの言葉が、どこか剥き出しの温度を持っていた。「それって、……ちゃんと送ってなかったってことだよね。名前も、呼べなかった。思い出も、残すことが怖かった。なのに、いま……」リリウスはカイルの腕のなかで少しだけ体を傾け、寄りかかるようにして、囁くように言った。「戻ってこようとして
last updateLast Updated : 2025-10-23
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