All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 31 - Chapter 40

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第30話:再訪の道

まだ夜が明けきらぬ薄明の空の下、リリウスはひとりカイルの部屋の前に立っていた。軍服の襟を正し、窓から差し込む冷たい空気に、そっと目を細める。荷物は小さな鞄ひとつだけ。必要最低限の衣類、数枚の書類、そして抑制剤。“また戻るんだ、あの場所へ”心の奥に、わずかにざわつく何かを感じた。だが今の彼には、それに呑まれるほどの脆さはなかった。扉が静かに開く。「……もう、行くのか」低く、よく通る声。カイルだった。軍装はそのままに、だが胸元のボタンだけが外れている。昨夜、眠らずにいたのだとわかる。「……はい。先に、お礼を言っておこうと思って」リリウスがそう言うと、カイルは何も言わず、ただゆっくりと歩み寄ってきた。そして、腕を伸ばす。「……っ」驚いた声も出せぬまま、リリウスはその胸に引き寄せられた。広く、温かく、しっかりとした腕だった。それは保護ではない。庇護でも、命令でもない。ただ、彼を“人”として包もうとする、等しい者としての抱擁だった。「気をつけろ。……あいつらは、お前をまた“道具”として扱うかもしれない」囁くように耳元で紡がれた声が、皮膚の奥まで染み入る。そのとき、カイルはわずかに顔を伏せ――リリウスの首筋、うなじへと鼻先を寄せた。「……?」リリウスが反射的に体を強張らせたとき、カイルは静かに、そこへ呼気を吹きかけた。それはまるで、匂い付けのような動きだった。αがΩに対して本能的に行う、所有の意思表示。意味をなすものではないのに、リリウスの心に小さな衝撃が走る。部屋の外で、ディランが足を止めた。扉の隙間から覗いた彼の眉がぴくりと動く。(……やってるな。完全に意図的じゃない。けど無意識なら、それはそれで問題だ)軍人として数多のαの動きを見てきた彼には、その行動の意味が明白だった。支配でも、所有でもなく――縄張り本能に近い感情の現れ。「……はぁ」小さくつぶやき、ディランはノックもせず踵を返す。一方、リリウスは抱かれたまま、少し遅れてその意味に気づいた。「……それ、意味は……」「知ってる。意味はない。だが……しておきたかった」そう答えたカイルの声は低く、どこまでも穏やかだった。「……お前が帰ってきたら……話したいことがある」「……話したいこと……?」「そうだ。だから、必ずここに帰ってこい」リリウスの胸に
last updateLast Updated : 2025-06-06
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第31話:偽りの王城

王城の客間に通されたリリウスは、じっと壁に目を据えていた。簡素な木椅子に腰掛け、両手は膝の上で揃えられている。拘束はされていなかった。けれど、それ以上に重い「空気」が、彼の動きを縛っていた。──逃げることは許されない。それは、部屋に入った瞬間から突きつけられた「空気」だった。扉の外には護衛兵が控え、廊下の先には王太子直属の諜報部の者らが配されている。リリウスは再び、王都の中心で「閉じ込められた」のだった。「……ご苦労だったな」開かれた扉の奥、現れたのはレオン・アルヴァレス。飾り気のない白の軍服のまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。その手には、何故か一輪の白い百合。「お前がここに戻ると信じていた」「……信じていた?」リリウスは冷ややかに言い返した。胸の奥に、乾いた笑いが込み上げる。「雪の中でのことはお忘れですか?」「雪の中?」レオンは微笑を浮かべたまま、軽く首を傾ける。「どういう話だっただろうか?」「……あなたが“捨てた”んです。僕を、番だと呼びながら、雪の中にね。たった一度も見ようとしなかった」レオンの微笑がわずかに歪む。「違う。あれは……術式だ。惑わされたんだ。お前も、俺も」「惑わされた」リリウスが目をわずかに見開き繰り返す。そして小さく笑った後にレオンがそうしたように、首を傾げた。「あれがあなたの意思ではなかった。……便利ですね。すべてを“魔術”のせいにすれば、何もかも帳消しになると思ってる」「リリウス」レオンの声が低くなる。「お前は戻ってきた。今さらここから出られると思うな。お前は王命によりここへ戻された。すでにクラウディアの使節団が到着している。彼らに“番”が不在と知られれば、取り交わした協定は白紙だ」リリウスの眉が動く。クラウディアの使節団。自分の想定がここまで合っていたことに、内心声を出して笑いたいぐらいだった。そしてカイルの言葉──“あいつらは、お前をまた“道具”として扱うかもしれない”も見事に合っている。「……じゃあ、僕は“契約書のハンコ”みたいなものですね」「違う。“象徴”だ。お前は我が家門の誇り、未来そのものだ」「なら、せめて誇りらしく扱ってくれればよかった」その言葉に、レオンの目の色が変わる。彼の手が伸び、リリウスの腕を掴んだ。「……お前は俺のものだ。他の誰にも触れさせない」
last updateLast Updated : 2025-06-07
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第32話:再会の爪痕

クラウディア使節団が王城へと入城したのは、午前の陽光がまだ柔らかさを残す頃だった。旗印を掲げ、整然と行進するその一行は、リリウスの目にまぶしすぎるほど鮮やかに映った。銀糸を織り込んだ藍色の軍装、見慣れた紋章。そしてその中央、馬を降りる青年の姿に、リリウスの胸が痛むほど波打つ。──ヴェイル=アランディス。かつての幼馴染。王家に連なる分家の生まれであり、すでに自らの番を持つα。そして何より、リリウスが“本当の自分”でいられた数少ない相手だった。「リリウス……無事で、本当に良かった」ヴェイルが口を開く。声音も、表情も、あの頃のままだった。「……ヴェイル……」声が出そうになる。そのときだった。「これ以上の会話は許可していない」横から伸びてきた手が、リリウスの腕を乱暴に引いた。レオン=アルヴァレス。「リリウスは我が国の王太子妃の位にある。クラウディアの王子であったのは以前のことだ。外交儀礼の名のもとに不必要な接触は控えていただこう」その言葉に、ヴェイルの視線がわずかに鋭くなる。「……必要か否かを判断するのは、王太子殿下ではなく我々です」背後に控えていたマリアン──ヴェイルの番であり、外交官としての地位を持つオメガの女性が静かに進み出た。「リリウス=クラウディア様の心身の安全を確認するのは、クラウディアから派遣された使節団の正当な権利と認識しております」王太子の眉間にかすかな皺が刻まれる。「……ならば、その確認はこれで十分だ。彼は無事だ。この国でも丁重に扱っている。これ以上深入りする必要はない」その言葉の端々に滲む苛立ち。ヴェイルは、リリウスへと視線を戻す。「本当に、大丈夫か?」その目には、飾らぬ友情と憂慮があった。リリウスは短く頷きかけ──それすらもレオンの視線に遮られた。「リリウス、そろそろ下がれ」「……っ」その場を立ち去るよう強く促され、リリウスは一礼し使節団の前を離れた。だがその背には、ヴェイルとマリアン、双方の視線が確かにあった。***その日の夕刻、王城内の応接室。リリウスは無言のまま、机上に置かれた茶に手を伸ばすことなく座っていた。レオンは椅子にもたれ、窓の外を見やる。「クラウディアは、お前を必要としている。だがそれは、今のままでは不可能だ。だからこそ、我々が“正しい番”であることを示さねばならない」「…
last updateLast Updated : 2025-06-08
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第33話:繋がる意図

夜の帳が下りる直前、王城の西翼にある来賓専用の応接室には、ひっそりとした緊張が満ちていた。この場に揃っているのは、クラウディア使節団の中心人物であるヴェイル=アランディスとその番であり外交官のマリアン、そしてヴァルド連邦のカイル=ヴァルド。この会合は公式な記録には残らない。王太子の目をかいくぐり、秘密裏に設けられた短い時間。カイルは護衛すら伴わず、あくまで“個人”としてこの場に現れていた。黒のマントで姿を覆い、窓からの侵入という手段さえ選んだその行動に、ヴェイルとマリアンは驚きつつも敬意を滲ませた。「まずは……我が同胞、リリウス=クラウディアの身を預かっていただいた件、心から感謝申し上げる」ヴェイルの口調は礼儀を保ちつつも、言葉の端々に真摯な情が宿っていた。マリアンも一歩前に出て、深く頭を下げる。「彼があなたのもとで回復していたと聞いて、安心いたしました。王太子による扱いの件、我々はすでに把握しています。……あれが、国を背負う者のなすべき行為とは思っておりません」カイルはその言葉を静かに受け止め、表情を崩さずに頷いた。「彼がこちらで過ごした時間は、我々にとっても重要だった。……俺個人にとっても、な」「では、あなたが水面下で我が国と接触していたという話は……」と、マリアンが続ける。「伝える必要はない。俺が勝手にやったことだ。リリウス殿下がアルヴァレスに戻るつもりがないと判断した時点で。俺は彼の“自由”にしてやりたいと思っている」「……それでこそ、彼が信じた“カイル=ヴァルト”なのでしょうね」ヴェイルの声に、かすかな安堵が混じった。応接室には一瞬、静寂が訪れる。だがその静けさは、信頼と決意に裏打ちされたものだった。「このままアルヴァレス王家が、リリウスを“番”として外交の道具に使い続けるなら──我々は正式に提言します」マリアンの瞳は、鋭く光っていた。「クラウディアとして、そしてヴァルド連邦として、彼を“取り戻す”方法を探るつもりです」それは、宣戦布告ではなかった。だが、明確な警告だった。カイルは静かに立ち上がる。「その時が来たら、俺は味方になる。それまで……まだ少し、俺に任せてほしい」窓辺へと向かうその背に、ヴェイルが言葉を送る。「リリウスがあなたのもとで、何かを取り戻せたなら……本当に、ありがとう」答えはなかった。ただ
last updateLast Updated : 2025-06-09
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第34話:仮面の晩餐

王城の大広間には、晩餐の準備が整っていた。絢爛なシャンデリアが天井から垂れ下がり、銀の食器がずらりと並ぶ長テーブルには、王国とクラウディア、双方の国章が飾られている。この夜の饗宴は、クラウディア使節団と王家の交流を目的とした外交行事。その本質がどれほど歪んでいようとも、外面は華やかに整えられていた。リリウスは、重たく着飾った礼服のまま、一歩ずつその場に歩みを進める。堂々とした振る舞いを保ちつつも、心の奥では何かが冷たく沈んでいた。──演じるしかない。ここでは。自分の意思など、誰も問わない。それでも、演技が必要だとわかっている。この場での一挙手一投足が、国の命運に関わるからだ。「リリウス様、こちらへ」案内役の侍従に導かれ、リリウスは王太子レオンの隣席に着く。そこにはすでに、ヴェイルとマリアンの姿もあった。二人とも、形式を崩さぬまま、それでもリリウスに向けてわずかに頷く。──大丈夫。言葉にはせずとも、その視線が伝えてくる。リリウスはそれに静かに頷き返した。「本日は、クラウディアからの賓客を迎えるにあたり、王国の誠意を示す場である」レオンの声が、大広間に響く。王としての立場からの挨拶。どこまでも滑らかで、完璧に磨かれたものだった。だがリリウスには、それが空虚に聞こえてならなかった。(どの口で……)思いが喉元までせり上がるが、飲み込む。今この場で、怒りをぶつけるのは得策ではない。マリアンが命を賭けて仕込んだこの舞台を壊すわけにはいかなかった。乾杯の儀が終わり、料理が運ばれる。銀器が静かに音を立て、香り高い肉料理がテーブルを満たしていく。フルコースの中盤、場が一段落し始めた頃──その沈黙を割るように、マリアンが口を開いた。「王太子殿下、失礼ながら──一つお伺いしても?」声は柔らかく、礼を尽くしたものだった。だがその奥には、確かな意思が宿っていた。レオンはグラスの縁を指でなぞりながら、視線だけをマリアンに向ける。「どうぞ」「我がクラウディアは、かねてより貴国との友好関係を望んでおります。しかし、その中心にいらっしゃるリリウス殿下のお立場について、いまだ明確な説明をいただけておりません」場に、緊張が走る。「王太子妃として迎えられているのであれば、それに伴う公式の式典や発表があるべきかと。我々としても、今後の対応の
last updateLast Updated : 2025-06-10
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第35話:囚われの塔

晩餐会が終わると同時に、王太子の侍従たちは素早く動き出した。「リリウス様は、お部屋を移していただきます」形式ばった丁寧な言い回しの裏には、有無を言わせぬ圧力があった。王城の西翼──表向きは静養のためとされたが、そこはかつて罪人や異端者を幽閉していた、古い塔の一角だった。重くきしむ扉が閉められ、鍵が内外からかけられる音が響く。室内は美しく整っていたが、明らかに人を閉じ込めるための作りだ。リリウスは小さく息を吐き、静かに窓辺へ向かった。鉄格子越しに見えるのは、月と遠くの森影。この部屋は、王太子の「私的な」管理下にある。法も理性も届かない場所。やがて扉が再び開いた。足音一つで誰かがわかるようになってしまった。レオン=アルヴァレスだ。「気に入ってもらえたか?」レオンは、さも当然のように部屋に入り、扉を内側から鍵で閉めた。鍵束が腰に揺れている。誰も入れない。誰も、助けには来られない。「……幽閉の部屋を“寝室”と呼ぶなら、ね」リリウスの皮肉に、レオンは微笑んだ。「誤解だ。ここは“静かに二人で過ごすための部屋”だ。……誰にも邪魔されたくなかった」その言葉の異常さに、リリウスの背筋がぞっとする。「レオン、やめてください。僕を何だと思って……興味なんかなかったでしょう、君は僕に」「……番だろう?」囁くように、レオンが言った。次の瞬間、彼の指がリリウスの顎を強引に掴み──そのまま唇を奪った。無理やりに重ねられる熱。リリウスは一瞬、凍りついたように動けなかった。(違う、違う……これは、違う……!)身体が反射的に拒絶を訴える。脳裏に浮かんだのは黒い髪と琥珀の目を持つ男で目の前の男ではない。全身の力を使って、レオンの胸を強く押し返す。唇が離れた。「やめてください!」息を荒げながら、リリウスは声を上げた。袖で唇を拭い、睨む。「あなたに触れられる理由は、もうどこにもない」レオンはしばらく無言だった。だが、やがて笑った。苦いような、歪んだ笑みだった。「……本当に、俺に何も感じないのか?」「ええ。僕の中の“あなた”は、あの日、雪に捨てられたままです。そうまでされて愛する愚かな人間はいない、……でしょう?」はっきりとした拒絶に、レオンの目が細くなる。だが、それ以上は強引に触れてこなかった。「……薬は飲んだほうがいい
last updateLast Updated : 2025-06-11
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第36話:仮面の崩れ目

夜の帳が下りて久しい王城の西翼。その一角にある幽閉の塔では、時間さえも沈黙に閉ざされていた。リリウスは窓際に立ち、冷たい空気を肌に感じながら、静かに目を閉じていた。あの時のレオンの囁きが、耳の奥に張り付いて離れない。“番だろう?”それはただの言葉だった。なのに、皮膚の裏まで染み込んでくるような不快感をもたらす。嫌悪。拒絶。そして──怒り。「番」という言葉の意味を、あの男は知っていて、なお口にした。だからこそ、許せない。“これは番ではない。あれは、愛でも絆でもない。”鉄格子の向こうに、夜風がかすかに木々を揺らす音がした。──コン、コン──小さなノック音。通常の扉ではありえない音が、魔術による暗号のように響く。次の瞬間、気配を押し殺して滑り込んだのは、黒のケープをまとったマリアンだった。目元を覆っていたヴェールを下ろし、彼女はひざまずくように身を屈める。「こんばんは、リリウス様」「マリアン……あまり危ないことはしないでくれ。こうして来てくれるのは嬉しいけれど」マリアンは唇に笑みを浮かべて、首を小さく横に振った。「ふふ。私、ですよ?警戒は強まっていますが、この程度ならば突破できない術式ではありません。それに……少し急ぎたくて」マリアンは懐から、封のされた小箱を取り出した。木製のそれは、クラウディア国内で使われる貴族階級の“私的遺贈箱”だった。「これは……?」「そちらは個人的な所持品で、あなた宛てです」中には、小ぶりな皮製の手帳と、装飾の施された指輪、そして一枚の紙片──見覚えのある、リリウスが書き残した“逃亡計画”の断片だった。「……これ……まさか」「あの方は、あなたの決意を見て、すぐに理解されたそうです。彼は今、あなたのすぐ傍にいる」驚きとともに、リリウスの喉奥が熱くなる。「本当に……?」「ええ。もっとも、今はまだ動けません。ですが……」マリアンは、顔を伏せたまま言葉を選んだ。「レオン殿下があなたのことをどう扱っていたのか。どのような経緯で、あなたがあの雪原に一人取り残されたのか──私たちは、すべて把握しています」リリウスの指が、拳に変わる。「なぜ……知って……?」一拍の間を置いて、彼女は続けた。「あなたの兄上である、神王陛下が個人的に調査を命じていました。……調査は、クラウディア単独ではありません。ヴ
last updateLast Updated : 2025-06-12
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第37話:目覚める足音

静けさに満ちた王城の西塔。リリウスは、マリアンが去った後も手帳を胸に抱いたまま、しばらく動けずにいた。仮面のように張り付いていた感情が、ほんの少しだけ揺らぎを見せる。この場所では、言葉にできない思いだけが、確かに生きている。──迷ったら振り返れ。俺はここにいるカイルの筆跡は、いつかの夜に聞いた声と重なり、思考の隙間に静かに染み込んでくる。「……カイル……」名前を口にした途端、視界の奥に淡い影が揺らめいた。声も、気配も、何もないはずなのに──感覚だけが、まるで感応するように呼び覚まされる。かつて、彼が言っていた。オメガの共感能力は、特定の個体と繰り返し接すると感応が残ることがある。意図しなくても、ふとした瞬間に共鳴するように思い出す、と。──今が、まさにそうだった。リリウスの内奥に、柔らかい温もりが滲むように広がっていく。これは記憶ではない。今、この瞬間に確かに届いた“気配”だ。「……本当に、近くにいるんだ」実感とともに、涙が滲んだ。レオンの強引な接触、冷たい幽閉、消えない恐怖の記憶。そのすべてを塗り潰すように、カイルの存在が静かに寄り添ってくれる。(レオンなどに、負けるものか)それは祈りに似た願いだった。しかし今、祈りは意志に変わっていた。その時──「失礼します、リリウス様」外から、控えめなノックと声。扉の向こうで控えるのは、若い侍従の声だった。日常的な報告──のように聞こえた。だがその語調に、わずかな違和感。扉が開くと、銀盆を携えた少年が立っていた。一見、普段と変わらぬ食事の配膳。だが、目が合った瞬間、その瞳に宿る光が異質だった。「……このスープには、決して手を付けないでください」少年は銀盆を置くと同時に、唇の動きだけで告げた。音にせず、口の形だけで。リリウスは咄嗟に頷く。少年は何もなかったかのように頭を下げ、扉を閉めた。「……セロ、と呼んでください」去り際、ほんの一瞬だけ振り返り、そう囁いた声がかすかに残る。クラウディアか、はたまたヴァルド連邦か。どちらかの人間がすでに入り込んでいることに、心が少し安堵した。銀盆に視線を落とす。──罠、か。薬か──魔術的な何かが含まれている。明確な敵意ではないが、これは“操作”の兆候。リリウスは銀盆の中身を慎重に確認した。スープ皿の底に、微細
last updateLast Updated : 2025-06-13
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第38話:揺らぐ城

王城の朝は、夜の静けさを引きずるように始まった。西塔の幽閉部屋も例外ではない。薄い朝日が格子越しに差し込み、床に影を落とす。リリウスは眠りから目覚めてすぐ、胸に抱いた手帳に指を添えた。──あの人がいる。その確信が、体の芯に熱を灯している。そこへ、控えめなノックが響いた。「失礼します、朝食をお持ちしました」聞き慣れた声。扉が開き、昨日と同じ少年──セロが銀盆を手に入室する。彼は誰にも気づかれぬよう、盆を机に置きながら、布の下に隠された小さな紙片を滑らせた。「……“通気口”を」唇の動きだけで告げられた言葉。リリウスは何気ない仕草でそれを掌に取り、袖に隠す。セロは微笑を浮かべながら頭を下げ、何事もなかったかのように退室した。扉が閉まり、鍵がかかる音を確認してから、リリウスは紙片を広げる。──『東塔の通気口、未封鎖。結界の緩む日曜深夜、2時間。城外への隠し路あり』手がわずかに震える。それは恐れではなかった。(……動ける)鼓動が速まる。血が巡る音すら、今は頼もしい。窓辺に立ち、鉄格子の向こうに広がる灰色の空を見上げる。「カイル……もうすぐ、あなたに会えますか」誰に聞かせるでもないその言葉に、ふと、胸の奥が温かくなる。感応──確かに何かが共鳴した。言葉も、姿もない。ただ、微かなぬくもりだけが、確かに彼を包んだ。──僕は、待ってるだけじゃない。お姫様ではないのだから。***その頃、王宮本館の執務室。レオン=アルヴァレスは、机の上に積まれた報告書に目を通していた。クラウディア使節団は、王国の動向を一手先で見越す動きを見せている。それだけでなく、ヴァルド連邦の密偵が、王城内部に潜んでいる可能性も高い。「……間者の侵入を許すなど」レオンの眉間に深い皺が刻まれる。しかし怒りの色は、表層ではなく奥深くで静かに燃えていた。「式典を前倒しする。三日後に決行だ」側仕えの者が目を見開くも、口を挟む余地はない。レオンは視線を窓の外に投げる。「彼を、あの手に渡すわけにはいかない。俺の番だ。……誰にも、渡さない」彼の心の奥で膨れ上がっているのは、もはや「愛」などという美辞では収まらない感情だった。それは──失ったと気づいた瞬間に初めて自覚した、激しい執着。自ら手放したという最悪の事実を、何者かに奪われるという恐れがかき消してい
last updateLast Updated : 2025-06-14
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第39話:潜熱

王城の深夜は、凍てついた静寂に包まれていた。幽閉部屋の片隅で、リリウスは膝をつき、壁際に隠された小さな装飾──封印の印を指先でなぞっていた。淡い光が、彼の手から流れ出る。微かに魔力が振動し、結界の一部が解ける。「……第一解除、完了」額から汗が一滴落ちた。小さな魔術だ。けれど、これを使えば使うほど、術式が逆流する危険もある。それでも止まれなかったし、止まるつもりもなかった。床の隅に指をかけると、ぎしり、と古い金属の音を立てて通気口の蓋が持ち上がった。「……ここから、か」通気口の前で、リリウスは一度だけ振り返る。冷たい石壁、誰の声も届かない空間。この塔に幽閉されてから、いくつの夜を数えただろうか。指先が震えていた。恐怖ではない。まだ“躊躇”が残っている。「……カイル」名前を呼ぶと、胸の奥に共鳴するような感覚が返ってくる。届いている。確かに、どこかで。あの日、彼が言っていた。──必ずここに帰ってこい。クラウディアにいた日々は平穏だった。王族として、オメガとして、大切にされていた。けれどそれは“自分”という個人に向けられたものではなかった。立場、属性、血統に向けられた好意だ。本当は、それだけじゃ足りなかった。もっと自分という存在そのものを、見てほしかった。だからこそ、リリウスはレオンに求めてしまったのだ。――最も近くにいた“はず”の、レオンに。けれどそれは、最悪の形で裏切られた。何もかも踏みにじられ、奪われた。思えば、贅沢な暮らしに甘えていたのかもしれない。わがままで、身勝手だったのかもしれない。──それでも。「……カイルは、言ってくれたんだ」──必ず、ここに帰ってこい。あの人だけは、望んでくれた。“自分”として、手を伸ばしてくれた。だから、もう。「……怖くない、僕はもう……閉じ込められない」リリウスはゆっくりと通気口に手をかけて、中を覗き込んだ。──狭い。子供でも這うのがやっとだ。だが、迷わず身体を滑り込ませる。鉄の縁で掌を切り、肘をぶつけ、肩を擦った。けれど痛みは遠かった。奥へ、ただ奥へ。この先の闇の向こうに、微かに漂う“外”の空気がある。──お前の居場所は、もうできている。迷ったら振り返れ。俺はここにいる。手帳の最後に記された一文を、唇で音無くそっとなぞる。(進め、進
last updateLast Updated : 2025-06-15
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