まだ夜が明けきらぬ薄明の空の下、リリウスはひとりカイルの部屋の前に立っていた。軍服の襟を正し、窓から差し込む冷たい空気に、そっと目を細める。荷物は小さな鞄ひとつだけ。必要最低限の衣類、数枚の書類、そして抑制剤。“また戻るんだ、あの場所へ”心の奥に、わずかにざわつく何かを感じた。だが今の彼には、それに呑まれるほどの脆さはなかった。扉が静かに開く。「……もう、行くのか」低く、よく通る声。カイルだった。軍装はそのままに、だが胸元のボタンだけが外れている。昨夜、眠らずにいたのだとわかる。「……はい。先に、お礼を言っておこうと思って」リリウスがそう言うと、カイルは何も言わず、ただゆっくりと歩み寄ってきた。そして、腕を伸ばす。「……っ」驚いた声も出せぬまま、リリウスはその胸に引き寄せられた。広く、温かく、しっかりとした腕だった。それは保護ではない。庇護でも、命令でもない。ただ、彼を“人”として包もうとする、等しい者としての抱擁だった。「気をつけろ。……あいつらは、お前をまた“道具”として扱うかもしれない」囁くように耳元で紡がれた声が、皮膚の奥まで染み入る。そのとき、カイルはわずかに顔を伏せ――リリウスの首筋、うなじへと鼻先を寄せた。「……?」リリウスが反射的に体を強張らせたとき、カイルは静かに、そこへ呼気を吹きかけた。それはまるで、匂い付けのような動きだった。αがΩに対して本能的に行う、所有の意思表示。意味をなすものではないのに、リリウスの心に小さな衝撃が走る。部屋の外で、ディランが足を止めた。扉の隙間から覗いた彼の眉がぴくりと動く。(……やってるな。完全に意図的じゃない。けど無意識なら、それはそれで問題だ)軍人として数多のαの動きを見てきた彼には、その行動の意味が明白だった。支配でも、所有でもなく――縄張り本能に近い感情の現れ。「……はぁ」小さくつぶやき、ディランはノックもせず踵を返す。一方、リリウスは抱かれたまま、少し遅れてその意味に気づいた。「……それ、意味は……」「知ってる。意味はない。だが……しておきたかった」そう答えたカイルの声は低く、どこまでも穏やかだった。「……お前が帰ってきたら……話したいことがある」「……話したいこと……?」「そうだ。だから、必ずここに帰ってこい」リリウスの胸
Terakhir Diperbarui : 2025-06-06 Baca selengkapnya