All Chapters of 喫茶「ベゴニア」の奇跡: Chapter 21 - Chapter 30

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第4話 この気持ちに名前をつけたら楽になれる1

今朝は電話の着信音で目が覚めた。相手は母親からで、少々面倒だと思いながらも応答ボタンを押すと、今度の年末年始はいつ帰ってくるのかという内容だった。もうそんな時期なのか。現実に体が追いついていない。カレンダーを見てみると、もう12月20日。あと10日余りで年が明けてしまう。部屋の片付けですら出来ていない、というかあの日から私の時間が止まっているのだ。実家はここから1時間ほどの割と近い場所にあるのだが、朝がとてつも弱い私は就職すると共に一人暮らしを始めた。実家が近すぎてホームシックなんて起こることもなく、休日は家でダラダラするばかりで、自ら率先して帰省することがない。何より1人だったら、毎日母親から結婚をせびられることもないから楽だ。 今の所は年末年始は特に用事もないから、休み丸々実家に帰るよ。そう伝えておいた。それだけの用だったら良いのだが、やはり電話を切る前には「早く結婚して孫の顔を見せてくれ」とそんな話題に持っていかれる。早く切ってしまえば良かったと、一気に面倒臭くなり一方的に切ってしまった。お母さんごめん、別に結婚したくないわけではないのだが。なんせ寝起きが悪い上に、数日前の告白で、正直それどころではないのだ。仕事の時でもふと気が抜けると頭に浮かんでくるのはあの日の出来事で、それ以外の思考が全て停止してしまう。集中しようと思えば思うほど、普段の生活すらままならなくなっている。それほどに私は十分に機能していなかった。こんなこと初めてで、解決方法が分からない。思い出せば頰が熱くなり、それを紛らわすかのように冷たい枕に顔を埋めた。「ーー奈央ちゃんのことが好きなんだ」あの日、額の感じた優しくて温かいものは紛れもなく水樹くんのそれによって伝わったもの。そんな展開を予想だにしなかった私は、その時どんな顔をしていたのかも覚えていない。身体が離れていった後、「別に返事は今じゃなくて良いよ」と告げて最後はマンションの下まで送っていってくれたことだけは覚えている。姿が見えなくなったのと同時に、遅れてきたように心臓が大きく暴れまわっていたことも。
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第4話 この気持ちに名前をつけたら楽になれる2

いつから、思っていたのだろうか。そもそも店員と客から友達に昇格してまだ日が浅いこの付き合いで、気持ちに名前をつけてしまうのは幾ら何でも早すぎやしないか。私が彼に何をしたというのだ。それとも一瞬と気の迷いか。クリスマス前は彼氏彼女が欲しくなる時期だと大学時代の友人らは口を揃えて話していた。・・・いや、そんなのあの目を見たら、あの真剣な表情を見てしまったら、そんなこと言えない。あれから喫茶店には行けていない。気まづいとか返事がどうとか、そういう訳ではない。単にタイミングが合わないだけだ。仕事が忙しいとは思っていたが、よく考えれば年末なのだ。決算が近づいているだろうし、残業が続くわけである。世間が年越しの準備で忙しくしている中、1人私ぼーっといつものように時を過ごしている。目が覚めても、そのまま布団の中でゴロゴロしている。しかし結局は何も考えがまとまらないまま、結局時間が経ち時計の針はすでに正午を回っていた。「・・・外に出よう」そう思い立ち、適当に着替えて財布だけ持って外出した。***「さ、寒い・・・」外に出たのは良いものの、この突き刺すような冷たい風が体温だけではなく思考も奪っていく。もっと暖かくしてくればよかった。無意識に足を運んだ先は、あの日水樹くんと訪れた公園。この公園を通ることなんて日常的な普遍的な行動の1つに過ぎなかったのに、通るだけでフワフワした浮遊感を覚える。柄にもなく、浮き足立っているのだろうか。それが答えの全てを示しているのだろうか。でも、何かがせきとめるように蓋をしている。この蓋が外れてしまえば、とんでもないものが溢れ出しそうで、飲み込まれそうで、恐怖心ですら覚えた。
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第4話 この気持ちに名前をつけたら楽になれる3

道の脇にあるベンチに座って、ふと冬の空を眺める。雲ひとつない快晴なのに無機質なその青さは、キャパシティオーバーしそうな私に追い打ちをかけるように重くのしかかってきた。いっそ考えることを放棄したら楽になるのに。でも放棄できないのが今の私である。ああ、コーヒー飲みたいなぁ。味気ないインスタントでもなく、缶コーヒーでもなく・・・水樹くんが淹れたコーヒーが。彼の淹れたコーヒーがどのコーヒーよりも美味しさ以上に何かを満たしてくれる気分になるのは、きっとコーヒーにではなく水樹くん個人に特別な何かがあるのだろう。それは今までずっと、顔が綺麗だからとか、目が綺麗だとか、所作が綺麗だとか、そういうミーハーな心で見ていた対象だからだと思っていた。それを「好きだから」という気持ちにはシフトすることをしない・・・いや、気づかなかったフリをした覚えは大いにある。恋愛の相談なんて今まで友人にもしてこなかったような私にとって試練のようで、重苦しいため息をついた。その時。「あっれ〜、奈央ちゃん?」「・・・由希くん?」そのため息を吹き飛ばすくらいの陽気な声が聞こえてきた。少し前に知り合った恋愛小説家の早乙女由希である。「よ!」と左手を上げて、フェンス向こう側から声をかけてきたのだ。今日も個性的だがとてもオシャレな格好をしており、背には大きなリュック、右腕には茶色の紙袋を抱えていた。「どうしてここに?」「この辺で仕事の用事があってさ。奈央ちゃんの家この辺なの?偶然だね」「うん。ここから歩いて割とすぐだよ」「えへへ、そうなんだ」と言いながら由希くんは、私の隣に腰掛けた。そして抱えていた紙袋から取り出したのはこの公園の向かいの道沿いにあるベーカリーのパン。彼は2つあるうちの1つを差し出す。どうやらくれるらしい。しかし残りの1つだけでは由希くんがお腹を満たせないだろうと気が引けたが、私自身も起きてから水分しか口にしておらずお腹は空いている訳で、遠慮なく頂くことにした。「美味しいよね、あのお店のパン」「うん。私はハムサンドがお気に入りなの」
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第4話 この気持ちに名前をつけたら楽になれる4

「ハムサンドか・・・今度買ってみるよ」由希くんからもらったパンは、メープルメロンパンで、甘党の彼らしいチョイスである。いつもはサンドイッチを買うことが多い私だが、今この働かない頭を休めるにはこの甘さがとても有難い。このお礼に今度オススメのサンドイッチを由希くんに奢ってあげよう、そう思いながらメープルメロンパンに舌鼓を打っていると、由希くんが「そうだ」と思い出したように話を始める。「水樹とはどう?うまくやってるの?」「・・・へ、」「お、その様子じゃもう言っちゃったみたいだね」「やっとか」と母親のように頰を緩めながら嬉しそうにする由希くん。その話が彼の口から出るとは思っておらず、思わずパンを喉に詰まらせそうになる。ああ、苦しい。喉も胸も。「全部、知ってたの?」「もちろん。何度も言うけど俺と水樹は親友なわけよ、知ってて当たり前でしょ」「いつから?」「奈央ちゃんと俺が出会う、ず〜っと前から」ずっと前から、とはいつだよ。詳しいことを聞きたいのは山々だが、彼は「これ以上は水樹に怒られるから」と言って深くは教えてくれなかった。そういえばーー初めて喫茶店で顔を合わせた時、私が店内に足を踏み込んだ時彼は言っていた。「お、噂の橋本ちゃん?」と。私の姿を見てすぐに橋本だと理解していたとなる。まあ情報源は水樹くん以外他はいないが、一方的に由希くんは私のことを知っていたことになるのだ。全てを知っていて、わざわざ私を隣の席に座らせていたのか。わざわざ下の名前で呼ぶように、連絡先を交換するように、全部分かっていて由希くんは動いていたのだ。「で?まだ返事はしていないんだ」「・・・その通りです」ある程度お見通しなのだろう。私の表情を見て何でも察してしまう彼はさすが恋愛の代弁者だと自ら胸を張っていただけのことはあると思った。顔をずっと曇らせているのを見て、由希くんはどこか呆れたような表情になりため息をついた。「何がご不満なわけ?性格はともかく顔はいい方だと思うんだけどな」「いや別に顔を重視しているわけでもないし、性格も良いと思うよ」「そう?まぁ恋愛なんて所詮勢いなんだから、そんなに慎重にならなくても良いんじゃない?」「そりゃ慎重にはなるよ」
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第4話 この気持ちに名前をつけたら楽になれる5

なりふり構わず「好き」だと言う気持ちで返事をしてしまえば、どれほど楽なことか。ピカピカな社会人になって大人の仲間入りを果たしたかと思えば、いつの間にかアラサーになってしまった。周りは結婚ラッシュで、中にはすでに2人も子供ができている夫婦をいる。もともと恋愛気質ではない私は春人と別れてから、最初は気を使って合コンや婚活に誘ってくれていた友人も私がその気がないのを知ってからかパッタリとそう言うお話は無くなってしまった。「電話をするたびに母親も孫はまだかと言われるの。30歳手前になると考えたくなくても考えてしまうなぁ」「つまり、未来への確約がないとダメだってこと?」「・・・さすがにそれは、」言葉に詰まる。由希くんが核心を突くような言葉を私に浴びせたから。そのあと「ない」と否定すことができなかったのは、つまりそう言う気持ちが少しでもあるのだろうか。未だ付き合ってもない、返事すらもしていない、それなのに未来への約束がないと不安になる。とてつもなく嫌な女じゃないか。しかしやはりすぐに返事ができない理由は、今までそう言う対象として見ようと私がしてこなかったことにある。それに、勢いだけで「好き」だなんて、そんな軽率に返事をしたくない。もっとこの気持ちを整理をしっかりして、その上で伝えたいのだ。「ずっと綺麗な店員さんがいるなって興味本位で見ていただけだった。眺めるばかりで、恋愛に結びつけようとしなかったんだよね」「まだ元彼に未練があったり?」「それはないよ。ただ、恋愛に関しては自分から動くことが今までなかったから、できなかったんだと思う」要するに子供だったのだ。ろくに恋愛の仕方もわからない。だから春人にも振られることになるのだ。恋愛に疎いにもほどがある。「・・・ま、水樹は良い奴だよ。少しわがままで頑固で子供みたいなところもあるけどね」「でも人の悪口は言わないし、軽口を叩くような奴じゃないし、大事なものはとことん大切にするし、料理もできるし、あとはね・・・」と水樹くんの売り込みを始める由希くん。「あと物凄く健康体!」とあまりの必死さに思わず吹き出して笑ってしまう。「ずいぶん由希くんは私と水樹くんをくっつけだがるんだね」友人のためだとはいえ、此処まで一生懸命教えてくれるのだ。そんなにつらつら並べなくても、水樹くんが素敵で良い人で私にはとても勿体無い人だと重々分かって
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第4話 この気持ちに名前をつけたら楽になれる6

残業終わりに向かった喫茶店で、初めて話しかけてくれた時から・・・いや、それよりずっと前から水樹くんの世界の中には私が存在していたのだ。水樹くんがどうして私を好きになったのか、そのきっかけは分からないけれど、こんなに知らないうちに私を知ろうとしていてくれていたことに胸の奥が温かくなる。「僕が淹れたコーヒーで、大切な人を笑顔にしたい。今はそれだけです」初めて名前を教えてもらった日、水樹くんがそう言っていた。精神安定剤のように水樹くんが淹れるコーヒーを渇望していた私は、喫茶「ベコニア」に来るたびに幾度となく幸せを貰っていたのだ。口に含むだけで、体全体が安心するように力が抜ける。あの水樹くんの淹れたコーヒー。しかし由希くんは言っていた。「自分で自分を幸せにすることはできない」と。私はコーヒーを淹れてくれる水樹くんに幸せにしてもらっている。だったら水樹くんは誰が幸せにするのだろうか。時折見せる嬉しさが滲み出たような笑顔を彼にこれからずっともたらすのは誰なのだろうか。「ま、そんな頑張った甲斐があったみたいだけどね。こんなに寒いのに奈央ちゃんの顔は真っ赤だね」クスクスと隣で笑う由希くんを睨む。「・・・うるさい」それは、私であってほしい。と素直に思ってしまった。他の人であって欲しくない。それが今まで悩んできた答えの結果だった。由希くんが言ったみたいに冷たい風を遮るものもない場所なのに、体全体が熱くなってきた。水樹くんの姿、声、目、何もかも思い出すたびに胸の内が熱くなる。オーバーヒートしてしまいそうだ。「私のどこをどう見ても好きになる要素なんてないのにね」「本当だよね、飛び抜けて美人というわけでもないし」「ねえ、聞こえてるよ」私の文句に由希くんはまたもや意地悪そうに笑う。でもその表情はとても楽しそうで、これからの将来を祝福してくれているのだ。「ごめんって」と謝っているが、全くその気がないくらい笑っている。由希くんは「でも、きっとそれは」と言葉を続ける。「惚れた弱みっていう奴じゃない?」それはそれで恥ずかしくなってくるが、そうだったらいいなと嬉しさの方が勝っている。私ももっと、他の人がまだ知らない水樹くんの良いところを知っていきたい。理解したい。気づけは時間が結構経っていて、由希くんは慌てて立ち上がる。どうやらこれから別件の仕事に行かないといけないら
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第5話 これが神様が決めた運命1

「それじゃ、また喫茶店「ベコニア」で」そう言って、自称恋愛の代弁者である早乙女由希は軽快なステップを踏みながら帰って行ってしまった。私をこれからの未来に後押ししてくれるような言葉を置いて行ってくれた。”また”、この言葉はとても心を落ち着かせてくれて安心するものである。彼と別れ後、お腹も満たせた私は特に用事もなくそのまま帰路についていた。家を出た時は凍え死んじゃうかと思うくらいに寒かったのに、不思議と今は体がポカポカしている。いざ自分のこの気持ちに名前をつけてしまえば、それからは頭の中が水樹くん一色に染められていた。それがむず痒くて、でも楽しくて嬉しくて、それはそれで悪い気は一切しない。恋の力って凄いなぁ、なんて中学生じみたことを思っていたらあっと言う間にマンションまでたどり着いてしまった。明日は月曜日で、例え私が水樹くんに恋い焦がれていても、地球がひっくり返っても、もちろん仕事である。溜まっていた家事を片付けて、今日は1日ゆっくり過ごそう。家の鍵を探そうとカバンの中をゴソゴソと手探ってエントランスに向かっていた時。マンションの入り口に見慣れた姿があった。寒そうに身体を縮こませて、柱にもたれ掛かっている人物を確認する。「・・・春人、どうしているの?」「あー、やっときた。・・・寒い」両手をポッケに突っ込んで、マフラーに顔を埋めていたのは、少し前にショッピングモールで遭遇した春人だった。私の姿を確認すると、安心したかのようにその場にしゃがみ込む。具合でも悪いのかと慌てて彼の側に駆け寄る。春人の腕に手をかけると、とても冷たい。どのくらいの間ここに立ったままだったのだろう。「当たり前でしょ。こんなに寒いのに馬鹿なの?」「馬鹿って、そんなに言う?」馬鹿は流石に言い過ぎかと思ったが、この寒さだ。せめて風を凌ぐ場所で待っていればいいのに。「でも、どうしても直接奈央に会いたくて」「そんなの連絡すればいいでしょ?」へらっと笑う春人に、思わずため息が出る。もう怒る気力もなくしてしまった。彼は「よっこいしょ」とその場にゆっくりと立ち上がる。そして私と向かい合うように正面に移動した。「会うのを拒絶されるのが怖くて、突然押しかけた」そう言われて私は何も言い返せず、ただ黙っていた。確かに春人からの電話は取ろうとしなかっただろうし、某メッセージアプリから連絡が来たとして
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第5話 これが神様が決めた運命2

彼は私と似ていて、仕事が忙しかったり疲れていると食事を後回しにしてとにかく寝てしまうタイプだったのだ。私が春人の家で帰りを待っている時も、仕事からクタクタな状態で帰宅してそのままベッドにダイブなんてよくあること。その時に美味しいご飯でも作ってあげれば良かった。なんて随分可愛げのない彼女だったと思う。「ーーあの日は、本当にごめん」そして彼は私に謝罪をした。別れた日と同じような苦しくて後悔を滲ませたような声で。横に座っているから表情は分からないが、その声色が春人の感情全てを表していた。「一方的に傷つけて、突き放してしまった」春人の言葉に私は横に首を振る。「全部私が原因だよ。ちゃんと分かってるから」「違う、そうじゃない。俺が馬鹿だったんだ。ずっと、奈央のことをちゃんと理解していたはずなのに」春人はちゃんと私を分かっていてくれた。嫌いになる日なんて一度もなかった。そして私も春人をのことを理解していた・・・つもりだったのだ。こんな大人になってまで、子供みたいな恋愛をしていたのは私の方だったのだ。他の女の子みたいにオシャレな料理は作れないし、可愛くおねだりなんてできないし、他の女の人と一緒にいるところを見ても何も思わないし。彼女らしい行動を何1つしなかった私はよく当時はずっと一緒にいてくれるだなんて強気でいたもんだ。ふとまだ付き合っていた頃の記憶が蘇ってくる。「どうした、具合でも悪いか?」「・・・ううん、別になんでもない」「はい嘘つき。さ、今日はおうちデートに変更!ほら、手を話すんじゃねぇぞ」お互い仕事が忙しくて、久しぶりのデートの日。疲労が積み重なり朝から体調に違和感があったが、久々のお出かけということで何も言わずに待ち合わせの場所まで言ってのだ。しかし、待ち合わせ場所に着いた途端、私の体調が優れないことをすぐに春人は察してくれたのだ。薬を飲んでいたから体自体はきつくはなかったから何故バレたのだろうと思っていた。それくらい私が甘えていられる環境を作ってくれていたのに、その優しさを突き放したのは私の方。「結局、会社の後輩にも振られた。俺に1人で舞い上がって、馬鹿みたいだよな」自分に呆れるように乾いた笑いがエントランスに響く。会社の後輩、と言うのはあの日言っていた「好きな人」のことだろうか。私は横に首を振った。「私が悪いよ。他に好きな子ができちゃっ
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第5話 これが神様が決めた運命3

そのまま彼は続ける。「ずっと考えることは奈央のことばかりで、これからもずっと一緒に過ごしたい。好きなんだ」「だからやり直したい」と願うように、春人は言った。ゴクリと息を飲む。真っ直ぐなその瞳に心が苦しくなった。春人のことを頭から消し去っている、その間でも彼は私のことを思ってくれていたのだ。それでも今から春人の気持ちを踏みにじらないといけない。無下にしないといけない。今から己がやろうとしていることに、目頭がジワジワと熱を持ち始める。しばらく沈黙を貫いた後、私は静かに口を開いた。「・・・友達が最近教えてくれたことがあるの」「友達?」「うん。人間は何のために生まれてくるのか?って聞いてきたんだよね」最近知り合ったばかりの、春人と比べればうんと浅い付き合いだけれども、自称天才小説家は教えてくれたのだ。「その人は、自分以外の他の誰かを幸せにすることだって言っていたの」最初は初対面で何を言っているんだと思っていたが、彼の言っていた答えは私の中にストンと落ちてきた。「私もそう思う」質問をされた時、正直自分が何と答えたかもう覚えていない。きっと、とても難しい答え方をしたと思う。由希くんの言葉はとてもシンプルで、でも深いものだった。多分私は恋愛に関しても難しく考えすぎていたのだろう。ああ、恋愛なんて「好き」だと言うシンプルな感情で成り立つものなのか。「春人は私のことをずっと思っていてくれた。嬉しい以外の感情なんてない」春人の顔を見て、今度はしっかり言葉にして伝えたい。「でも、春人を幸せにできる自信が、今の私にはないの」それでも、私がもう一度春人と幸せになれる未来をどうしても想像することができないのだ。本当に人間というものは不思議な生き物だ。付き合っていた頃なんて、1人で勝手にいつ入籍して何年後に子供が生まれてなんて将来設計までしていたのに。「それが答え・・・?」「うん。ごめんね」明らかに表情に影が差した彼に心が痛くなる。一度深まった溝を埋める自信が私にはないのだ。元通りの関係に戻れるか、前ように接することができるか、そう言われれば答えはノーだ。嫌いじゃないけれど、愛せる自信がない。この水樹くんで溢れている頭の中を消し去ることができないのだ。こうして春人と2人でいる空間の中でも、水樹くんの顔がちらついて離れない。「そっか。そうだよな・・・。一度振っ
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第5話 これが神様が決めた運命4

「あの時、ほら、ショッピングセンターで一緒だった人。優しそうな人だったもんな・・・嫉妬深そうだけど」嫉妬深そう。それは置いておくとして。優しそうな人、それは水樹くんを差しているのだろう。「彼氏か?」と聞かれた時は、違うと答えたことを覚えている。しかし春人の発言からして、私がすでに水樹くんに惹かれていたことを特別な何かを感じていたことも、ショッピングセンターで会った時点ですでにバレていたのかもしれない。「そんな人じゃないと思うけど、良い人だよとっても」「今の奈央、見たことがないくらいすごく幸せそうな顔してるから」でももう隠す必要も、恥ずかしがる必要も、ない。幸せそうな顔を表立ってしている自覚はないが、彼がそう言っているのであればきっとそうなのだろう。「春人といるときも、すごく幸せだったよ」春人と付き合っていた頃だって幸せだったのだ。インドア派で狭い世界を生きてきた私を初めて見る景色に連れ出してくれたのは春人で、好きに偽りは当然なかったのだ。「そっか、良かった」春人がふわりと笑う。私つられて笑ってしまった。そしてお互いの視線が交差する。これが、本当に最後だと。そんな空気が2人の間に流れた。「なあ、はっきり振ってくれないか。じゃないと次に進めない気がする」そして最後のお願いに、私はゆっくり頷いた。「ーーー私、好きな人がいるの。だから春人とは戻れない」目を瞑ると浮かんでくるのはいつだって水樹くんの姿。笑った顔が綺麗で、声が綺麗で、とても美味しいコーヒー淹れてくれる魔法の手を持っていて、少し毛先が癖っ毛で可愛くて、温かい人。思い浮かべるだけで胸の内側からじわりじわりと温かくなってくる。まるで、コーヒーを飲んだ時のように。「今までありがとう。出会えて良かった」「こちらこそ。春人も、幸せになってね」「ああ、奈央以上に幸せになってやるからな」そう言って、エントランスの扉に手をかける。「ええ、私だって負けないんだから」「「ーーさようなら」」最後に見送った背中は以前よりも小さく感じたけれど、前を向いた強さが滲み出た安心できる背中だった。数ヶ月前のあの日とは違って、涙でぼやけることなんてしない。その姿が見えなくなるまで、私はしっかりとこの目に焼き付けた。次は、私が。携帯を取り出し、今もコーヒーの香りに包まれて仕事をしているであろうあの人の名前を探し出
last updateLast Updated : 2025-07-09
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