恋人に別れを告げられた橋本奈央は商店街にある喫茶「ベゴニア」のコーヒーに心を奪われた。精神安定剤とも言えるコーヒーを淹れる桐山水樹は恐ろしく美しい青年で、人間観察と称して通うことになる。私だけが取り残されるように時が流れ、いつの間にか街全体はクリスマス一色。後押しされるように2人の距離が一気に縮まっていく。
View More***彼女がいつものように来店した。もうそこは特等席と化したカウンターの1番奥の席。注文したのはもちろんホットコーヒー。僕は毎週火曜日と木曜日の夜に彼女が訪れていることに気づいた。年齢は同じくらいだと思うけれど、名前も何も分からない。話しかけてみようかな、なんて幾度となく思ったが上手く話が切り出せないのだ。自分は男子中学生かよと呆れる。他のお客さんのように世間話や天気の話をしたらいいのに。そのもどかしさを抱えたままここ最近は働いている。とにかく、今日も彼女を笑顔にしよう。気合を入れていつもの器具を手にかける。淹れているこのコーヒーを今から彼女が飲むのだと考えたら、少し手が震えた。早くコーヒーを飲んで欲しい、彼女が最初のひと口を運ぶ間、ドキドキしていた。あともう少し。あともう少し。早くその笑顔を見せてほしい。そして、彼女はまた笑った。すると僕の胸の内側からポカポカと暖かくなる。嬉しくなる。顔が緩んでしまう。どうかして彼女と話してみたい。いつも昼間の時間に訪れる腐れ縁の由紀に相談してみた。一応小説家の端くれだし、高校大学とずっと一緒に過ごしてきたのは彼だから。相談を持ちかけた時、彼は少し驚いたような顔をしていたけれど、ちゃんとアドバイスをくれた。***今日は彼女が来店する日。でも、まだこない。時間はもう過ぎているのに。接客をしている時も、コーヒーを淹れている時も、ドアの方を気にして仕事にならなかった。もしかして他のお店に行ってしまったのではないか、なんて彼女には関係ないことなのにただ不安になってしまった。好きなこの喫茶「ベコニア」の場所さえ、少し色褪せて見える。彼女がいつきた時でも座れるように、「予約席」なんて暇な時間帯に作ってみたプレートが寂しくカウンターの一番奥の席にポツンと置かれている。やがて彼女はやってきた。同時に僕の視界は彩度が上がる。少し疲労を見せた表情をしていた。きっと残業でもしてきたのだろう。ホッとした気分になった。良かった、また会えて。そして彼女が注文したのはやっぱりホットコーヒー。笑顔にさせたい、そう思いながら淹れていたコーヒー。今日、話しかけてみようかな。早く、早く、と気持ちばかりが先を行く。今日きたらサービスしようと思っていたクッキーもそろそろ焼ける頃だろう。皿洗いや明日の準備なんて全て後回しにして、全力で彼
目の前で一杯のコーヒーと向き合う彼女を見ていた。己の手で淹れたコーヒーを運ぶなり、待ちわびたかのような恍惚とした表情を見せる。そして最初のひと口を噛み締めるように味わった。間も無く、彼女は笑みを浮かべる。実際は目に見えるほど表情の変化はないが、なんだろう。こう、なんとなく。接客を生業としているからか、感覚で分かる。または、惚れた弱みなのだろう。「水樹くん、水樹くん、・・・大丈夫?」「・・・あ、ごめん。」昔のことを思い出していたからか、ボーッと立ち尽くしていた僕の顔を奈央は心配そうに下から覗き込む。上目遣いをされているみたいで、思わず「可愛い」という言葉が仕事中にも関わらず口から飛び出しそうになったのを抑える。代わりに「考えてごとをしてただけだから、大丈夫だよ」と言うと、彼女は安心したようで「そっか」と再びコーヒーに視線を落とす。本当に彼女は僕ではなく、僕が淹れるコーヒーの方が好きなのではないかと思う。いや、それはそれで嬉しいことなのだが。コーヒーの香りを全身で感じて、飲んで、うっとりしている奈央を見ていると、また出会った頃の彼女が頭の中に浮かんできた。***彼女の第一印象と言えば、泣いている人、だっと思う。幼い頃からこの喫茶「ベコニア」に足を運んでいたから、初めて来店する人は顔を見ればわかるものだ。あの日、扉を開けて入ってきたのは初めてみる泣いている女性だった。泣いている・・・というか泣いていた、の方が正しいのだろう。涙の跡が薄暗いこの照明の下でも分かるくらいに、くっきりと残っていた。カウンターの1番窓際の席に座る彼女に、メニューだけ手渡し待つ事数分。化粧が崩れているその表情からは思い浮かばなかった、透明感のある声で呼ばれる。注文したのはシンプルにホットコーヒーのみ。特にコーヒーを淹れるために、特別なことはしていなかったと思う。普通にいつもの器具を準備してお湯を沸かしてコーヒーを入れて下がっていくのを待つだけ。なんら普段と変わらない手法で淹れたコーヒー。それなのに。コーヒーをひと口、それだけなのに。彼女の表情は一変した。綻ぶような笑顔で、目尻を下げて、内側から湧いてくる感動を滲ませたような表情になったのだ。あの時、僕は目を逸らすことが出来なかった。僕の入れたコーヒーが、この人を笑顔にさせたんだと。もちろん今までも他のお客さんから幾度
読者の皆様へ初めまして、岩瀬みさきと申します。この度喫茶「ベコニア」の奇跡を無事に完結させることができて嬉しく思っています。この物語の構想を練り始めたのが、9月末頃。何か今年中に1つ書きたいな、そんなことを思っていました。実は短編でもなんでも完結したのは、今回が初めてです。今まで趣味で色々なジャンルを模索してきましたが、完結までに至らず。短編でもなんでもいいから完結作品を作りたい。そういう思いで書いていたら、いつの間にかクリスマスギリギリの完結になってしまいました。感想など良ければお聞かせください。次の活力にします。この物語の中で、何度か「人は他の誰かを幸せにするために生まれてきた」と書かせて頂きました。今年に入って生活環境を変えた私がずっと思っていたことです。結局自分自身で自分の幸せを掴むことは難しかったのだと。周りの人の支えや思いがあって今自分は幸せを感じているだと、思う思うようになりました。この手で他の誰を幸せにできた時、笑顔を見せてくれた時、見ていた景色がより一層美しく見えると思います。どうか、この小説をお読みくださった皆様の幸せへの手がかりになりますように。2019.12.22 岩瀬みさき
「ふふん!なんと新作が書き終わった!」「へえ・・!すごいじゃん!」嬉しそうにバタバタと動かすその大量の紙束はここ数ヶ月書きためていた小説とのこと。なかなか進まないと隣で嘆いていたことを思い出す。まだ下書き段階で、数回チェックを重ねて製本するまでにはまだ時間がかかるらしい。一体どんな内容なのか、完結したとなれば少し気になったしまう。「どんなお話なの?」「奈央、それは聞かない方がいいかも、」水樹くんがそう言って私を止める。その制止を遮るように由希くんは「ズバリ」と人差し指を天井に向ける。私は次の言葉を待つようにごくりと唾をのみこむ。「喫茶店店員と客から始まるラブストーリー」「・・・・うん?」私の反応とは違い、水樹くんは「こいつ・・・」と顔を引きつらせていた。そう、あの日小説のモデルを知っているのかと聞いた時みたいな反応だ。しかし、まあ喫茶店店員と客なんてどこぞかでよく知っている光景。水樹くん様子にピンときてしまった私は、由希くんをじとりと睨むように見る。「いやあ、2人がくっついてくれたおかげで完結できたよありがとう」「待って、前に言ってたモデルって」「もちろん水樹だよ。もちろん奈央ちゃんもね」当たり前かのようにツラツラとこの作品を書き始めた経緯を話し出す。あの日喫茶店で由希くんと私が初めて会った日、あれはどうやら本人に合わないとイメージが湧かないと待ち伏せをされていたらしい。公園で会った時もあれよあれよというまに由希くんの言葉に乗せられたのも全て彼の計画通りだったということか。友人から恋人になるということも、全部最初から予想して通りだったというのか。「・・・・」「ちゃんと形になったら2人にはプレゼントするよ。もちろん俺のサイン付きで」そう言ってバチリとウインクを決める由希くん。いや、それでも私が水樹くんと一緒になれたのも彼のおかげなのは変わりないのだが。それでも由希くんの手のひらの上で転がされた感が否めない。「でも本当に嬉しい、心から祝福するよ」でも目に薄膜を貼らせて喜びを伝えてくれる彼を見て、私たちは何も文句は言えないのだ。「さあ、コーヒーで乾杯しよう」と由希くんは2人分のコーヒーと1杯の砂糖たっぷりのカフェオレを注文をする。普通乾杯ってお酒じゃないのかなと思うが、まあ私たちには合っている気がする。それぞれ飲み物を受け取る。しかしそこで水樹
どこかで私たちのことを祝福してくれているかのように鐘の音が聞こえる。ふと視線を水樹くんに向けると、私を見ていたその目と重なる。お互い顔を合わせてクスリと微笑む。それが合図かのように自然と落ちていく瞼。間も無く降りてくる温もりにこれ以上ないくらいに心臓が高鳴った。12月25日の0時0分。私はこの世界で誰よりも最高のクリスマスプレゼントをもらった。ーーー後日、晴れて友人から恋人になれたのはいいものの、仕事が忙しさは金曜日まで続いた。結局次に喫茶「ベコニア」に足を運ぶことができたのは土曜日の午前中。いつものようにカウンターの奥の席に座る。もう商店街の飾り付けはなくなり少し寂しい景色に戻ってしまったが、今ではすっかりお気に入りの街になってしまった。「はい、お待たせ」「ありがとう・・・はあ、すごく良い香り。落ち着く」そして私が来ること事前に知っていた水樹くんは、すぐにコーヒーを淹れてくれる。朝から水樹くんが淹れたコーヒーを飲めるなんて、なんて最高な週末なんだ。仕事納めを無事に終え、忘年会で疲れた心身によく染み込んでくる。ああ、落ち着く。私の正面に立っていた水樹くんは「そういえば」と口を開く。「年始いつか空いてる?」「?うん・・・特に用ないけど」「良かった。初詣一緒に行かない?」デートのお誘いだとすぐに分かり、コーヒーの魔法で半分溶けていた私はバッと身体を勢いよく起こす。もちろん答えは一択だ。「いく・・・!行きたい!」最近目紛しい毎日で実感はなかったが、初詣と言う言葉を聞いてもうあと数日後には今年が終わってしまうのかと驚く。デートの約束に舞い上がっていることを察したのか、水樹くんは嬉しそうに微笑む。ーーその次の瞬間、勢いよくドアを開ける音が聞こえる「よーっ、お二人さん!」扉を開けて入ってきたのは由希くんだった。いつものように思い荷物は抱えておらず今日はトートバック1つ。あまりのハイテンションでの登場に水樹くんは「由希?」と声を掛ける。初めて由希くんとここで会った時にように、彼はニタリニタリとした表情をして、そのまま私たちの元へズカズカと歩いてくる。私の隣に立ち止まったかと思えば、カウンターの奥に身を乗り出して水樹くんの両肩に手を置いて大きく揺さぶる。「やっとくっついてくれて俺は嬉しいよもう」何かと思えば、私たちの祝福の言葉だった。私たち以上に
「ありがとう」水樹くんの言葉に、私は返すように腕を彼の背中に回した。とても暖かくて、気を抜けば涙が流れてきそうだ。目頭が少し熱い。しばらくこの温もりに浸っていると、肩がかすかに震えていることに気がつく。「・・・もしかして水樹くん、泣いてる?」「泣いてない。・・・すっごく嬉しいよ」少し肩が冷たいけれど・・・まあ、そういうことにしておこう。「なんて言葉に表したらいいかわからないくらい、幸せだ」それは私も同じだ。こんなにも思っていることを言葉にするのが難しくて歯がゆい気持ちになるのは初めてだ。この腕の中の温もりを身体全体で感じていると、好きというシンプルで簡単な愛情表現だけでは物足りなくなってくるようにさえ思う。言葉にならない嬉しさと愛しさが溢れ出す、この気持ちを汲み取ってくれるように腕の力がより一層強まった。「でも良かった・・・奈央ちゃんは僕の淹れたコーヒーにしか興味がないと思っていたから」「ええ・・・確かに最初はそうだったかもしれないけれど」この喫茶「ベコニア」に通う最初の理由は確かにコーヒーだった。でもーーー「今は水樹くんが淹れてくれたコーヒーが毎日のみたいな」このカウンターの一番奥の席で、水樹くんの淹れたコーヒーを飲みながら、水樹くんとお喋りして、水樹くんと一緒にもっと沢山の思い出を作っていきたいのだ。たまには由希くんも一緒に。そんな毎日を過ごす未来に胸が弾む。こんな気持ちは初めてだ。「・・・それってなんだかプロポーズみたいだね」「いや、そ、そういうつもりは全く・・・」「うん。分かってるよ、ちゃんと」“毎日君のお味噌汁が飲みたい”のようなプロポーズの言葉。そういうつもりはないが、指摘されたらそれはそれで恥ずかしくなってくる。顔を赤くした私に水樹くんはクスリと笑う。「でも、その時が来たら僕から言うから。それだけは覚えていて」「・・・楽しみに待ってるよ」その時、とは詳しくはあえて聞かなかった。まだ知り合ってたった数ヶ月。週に2回ほどのペースで顔を合わせるのも数時間だけ。「僕は桐山水樹といいます、よろしくお願いします」「・・・は、橋本奈央です。今日のコーヒーもとても美味しいです」しかしその短時間の中でも密度の濃い時間を過ごしてきた。きっと名前を知るずっと前からお互いのことを理解しようとしてきた私たちには、十分恋心を育んできたのだろう
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