喫茶「ベゴニア」の奇跡

喫茶「ベゴニア」の奇跡

last updateLast Updated : 2025-07-09
By:  岩瀬れんUpdated just now
Language: Japanese
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恋人に別れを告げられた橋本奈央は商店街にある喫茶「ベゴニア」のコーヒーに心を奪われた。精神安定剤とも言えるコーヒーを淹れる桐山水樹は恐ろしく美しい青年で、人間観察と称して通うことになる。私だけが取り残されるように時が流れ、いつの間にか街全体はクリスマス一色。後押しされるように2人の距離が一気に縮まっていく。

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Chapter 1

第1話 コーヒーは私の精神安定剤1

ふわり、と立ち昇ってくる香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

それが喉を通り、やがて鼻から抜けてくる独特な香りは精神安定剤のように私の心をひどく落ち着かせた。安心していいよ、大丈夫だよ、心配しなくていいよ、そう言わんばかりに。

 喫煙者にとったらタバコと同じように、私にはコーヒーが必要不可欠なものだった。身体がカフェインを欲しているとか、そういう訳ではない。ただ、その香りを身に纏うだけで気分をリセットできるのだ。

 その香りに身を委ねながら、今日もこっそり私は人間観察をしていた。

 小さな商店街の片隅に、ひっそり通い詰めている喫茶店がある。1階に古書堂を構えるその上の階、そこに老夫婦が営む喫茶「ベコニア」は存在していた。入り口に立てかけられている黒板のフレームスタンドには、「本日のおすすめ」としてコーヒー豆の種類やフードメニューがいくつか描かれている。夜の店内は会話の邪魔にならないくらいのジャズがかかっており、暖かみを灯す照明は程よく落とされていた。配置されている家具や、装飾品、この手に持っているカップもアンティークもので、非現実世界に足を踏み入れたような感覚に陥ることができる。そして商店街の道路に面する席は全てガラス張り。この時間になるとシャッターを下ろしてしまう店もあ理、閑散とした商店街に寂しく感じる。そう感じた時、寂しさを埋めるようにコーヒーを飲む癖があった。

 私が喫茶「ベコニア」に初めて足を踏み入れたのは、約3ヶ月前。誰かに教えてもらってとか、口コミで来たとか、そういう訳ではなくただ単にふらっと立ち寄った場所である。最初に訪れた日は確か・・・あぁ、元彼に振られたその足でここへ辿り着いたのだ。化粧も涙で崩れた酷い顔をして。家に帰った後鏡で自分の顔を見てとても驚いた。とても人に見せられないような顔をしていたから。

しかし自身の思っていた以上に元彼への未練は早くも消え、それからは少なくとも週に2回は通っている。もちろん化粧が崩れていないか要確認している。

仕事帰りに寄っては、定位置であるカウンター席の奥、カラス張りの壁に一番近い席に座り、1杯だけコーヒーを飲んで帰る。それが私の1つ目の日課だった。

 ところで話は変わるが、私には気になる人がいる。言っておくが気になるとは言っても、恋愛の意味ではない。ただ、同じ人間として興味があると言った方が近いのかもしれない。喫茶「ベコニア」で働く、“桐山水樹”という店員。彼が私のもう1つの日課である人間観察の対象人物であった。少しだけ毛先に癖のある黒髪に、白いシャツ、濃いブラウンのエプロンを身につけている男の人。もう1度言っておくが“好き”とかその様な感情ではない。ただ、手が綺麗だな、とか、所作が綺麗だな、とか。声が綺麗だな、笑った顔が綺麗だな、とか。もはや「綺麗」とでしか表現できない私の語彙力の低さに頭を抱えたくなるが、第一印象はとにかく「綺麗」な人だった。

もちろん彼とは会話する時やその暖かみを感じる綺麗な瞳に私が映る機会なんて注文や会計の時以外にはない。その“桐山水樹”という名前も他の常連客が言っていたのを盗み聞きしたから知っているのである。言葉遣いや接客も丁寧で、年齢は私と同じくらいだと踏んでいるが、歳の離れた常連客や子供にもとても気に入られていた。

 ちなみに喫茶「ベコニア」にはサイフォンという水蒸気を利用してコーヒーを淹れる器具がある。今日はサイフォンを使って彼の手で丁寧に淹れられたコーヒーがこの手元にあるのだ。今日はブラジルが原産国のノンカフェインのコーヒーを選んだ。口の中に含むと一瞬で広がる大好きな香り。自分で淹れるインスタントコーヒーや、他のお店で飲むコーヒー、それらには感じられないものが、彼のコーヒーには感じる。その感じる“何か”を言葉にするのは難しい。表現できないもどかしさとまたもや語彙力の低さに頭を抱えたくなった。

 ---彼はどんな魔法をこの一杯にかけたのだろう。なんて20代後半になっても少女漫画脳である私は今日も1人で桐山水樹を観察していた。別に仲良くなりたいなんて、そんなおこがましいことは思っていない。遠くから見ているくらいが丁度良い。

そう思っていたのに。

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第1話 コーヒーは私の精神安定剤1
ふわり、と立ち昇ってくる香ばしい匂いが鼻をくすぐる。 それが喉を通り、やがて鼻から抜けてくる独特な香りは精神安定剤のように私の心をひどく落ち着かせた。安心していいよ、大丈夫だよ、心配しなくていいよ、そう言わんばかりに。  喫煙者にとったらタバコと同じように、私にはコーヒーが必要不可欠なものだった。身体がカフェインを欲しているとか、そういう訳ではない。ただ、その香りを身に纏うだけで気分をリセットできるのだ。  その香りに身を委ねながら、今日もこっそり私は人間観察をしていた。  小さな商店街の片隅に、ひっそり通い詰めている喫茶店がある。1階に古書堂を構えるその上の階、そこに老夫婦が営む喫茶「ベコニア」は存在していた。入り口に立てかけられている黒板のフレームスタンドには、「本日のおすすめ」としてコーヒー豆の種類やフードメニューがいくつか描かれている。夜の店内は会話の邪魔にならないくらいのジャズがかかっており、暖かみを灯す照明は程よく落とされていた。配置されている家具や、装飾品、この手に持っているカップもアンティークもので、非現実世界に足を踏み入れたような感覚に陥ることができる。そして商店街の道路に面する席は全てガラス張り。この時間になるとシャッターを下ろしてしまう店もあ理、閑散とした商店街に寂しく感じる。そう感じた時、寂しさを埋めるようにコーヒーを飲む癖があった。  私が喫茶「ベコニア」に初めて足を踏み入れたのは、約3ヶ月前。誰かに教えてもらってとか、口コミで来たとか、そういう訳ではなくただ単にふらっと立ち寄った場所である。最初に訪れた日は確か・・・あぁ、元彼に振られたその足でここへ辿り着いたのだ。化粧も涙で崩れた酷い顔をして。家に帰った後鏡で自分の顔を見てとても驚いた。とても人に見せられないような顔をしていたから。 しかし自身の思っていた以上に元彼への未練は早くも消え、それからは少なくとも週に2回は通っている。もちろん化粧が崩れていないか要確認している。 仕事帰りに寄っては、定位置であるカウンター席の奥、カラス張りの壁に一番近い席に座り、1杯だけコーヒーを飲んで帰る。それが私の1つ目の日課だった。    ところで話は変わるが、私には気になる人がいる。言っておくが気になるとは言っても、恋愛の意味ではない。ただ、同じ人間として興味があると言った方が近い
last updateLast Updated : 2025-07-03
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第1話 コーヒーは私の精神安定剤2
「今日の香りは気にいってくれましたか?」 いつもは少し離れた場所で聞いていたその低すぎず高すぎない心地よい声が、すぐ傍で聞こえる。幻聴かとパッと視線をコーヒーから離すと、カウンターの向かい、つまり私の正面に桐山さんが立っていた。自分自身に向けられて話しかけられたのだと理解するまで少し時間がかかってしまった。 まさか話しかけられる日が来るなんて。その綺麗な瞳の奥に私の姿を確認する日が来るなんて。驚愕のあまり思わず「へ?」と変な声を出し、マヌケな面のままフリーズしてしまった。無反応だった私を見てか、桐山さんは「すみません」と慌てふためく。 「いつもは19時過ぎにはお越しになるのに、今日は遅かったなと思って、話しかけてしまいました」 そう言って彼は、壁掛けのアンティークの時計を指差す。そのオシャレで可愛い2本の針はすでに時刻は20時半を指していた。いつもならすでにお会計を済ませて帰宅する時間帯である。 変な緊張で思うように言葉を口にすることができない。平常心を取り戻すためにコーヒーを一口飲んでみるが、それでも声が少し震えてしまった。 「・・・お、お察しの通りです。残業でこの時間になってしまいまして。」 「そうなんですか。お疲れさまです」 “お疲れさま”、不思議とその言葉がとても残業をして疲弊した体に染み込んでくる。コーヒーを飲んだ時と同じような感覚だ。今日は朝から部署内で仕事の不備が見つかり、その作業と通常業務で忙しかったのだ。昼食をとったのも14時くらいで、1時間も休憩する間もなかった。もちろん定時に帰ることはできなかったが、それでも残業を1時間で終えられたことは奇跡だった。思い出すだけでも体が重くなっていく。その疲れを取るためにも、どれだけ残業しようと喫茶「ベコニア」に行かない選択肢はなかったのだ。 「私のこと、知っていたんですか」 「もちろん。常連のお客様は覚えていますから」 「いつも火曜日と木曜日に来てくれますよね」と桐山さんは微笑みながら少し長めの前髪を揺らす。来る曜日まで把握されていたことに驚きを隠せない。が、そんなことどうでもいい。それよりどうか私が人間観察のためにチラチラと彼を目で追っていたことには気づいていないことを祈る。 「・・・じょ、常連、ですかね。私。」 「夏の終わり頃からずっと通ってくれるお客様は、立派な常連ですよ」
last updateLast Updated : 2025-07-03
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第1話 コーヒーは私の精神安定剤3
そう思っていた事が顔に出ていたのか、またはテレパシーなのか、彼は「祖父が来る日は、土日が多いですよ」とクスクス笑っていた。 「でも気まぐれな人だから、こればかりは運かもしれない」 そう言って目線を下におろす。今まで真正面でまじまじと見る機会がなかったから気づかなかったけれど、まつ毛も長くて綺麗である。天井から下げられている間接照明によって、その影が白い頬に落ちていた。 「私ももっと通い詰めたら会えますかね」 「きっと会えますよ。僕もその方が嬉しいです」 「へ?」 「はい、どうぞ。良かったら食べてください」 私の目の前に手のひらに乗るくらいのお皿が置かれた。その上にはチョコチップクッキーが2枚。焼きたてなのか、まだ温かい。コーヒーとは違う甘くて香ばしい匂いが身体中を駆け巡る。注文した覚えはないはずだ、と首をかしげると彼は口を開く。 「試作品です。女性に食べてもらった方が参考になるので」 「わ・・・ありがとうございます」 他の人には内緒ですよと言わんばかりに、人差し指を口元に当てる。クッキーをサービスしてもらえるなんて、たまには残業も悪くないと思った私は単純である。もう一度小声でお礼を告げて、頂くことにした。 冷え切っていないそのクッキーはすぐに口の中でほろほろに崩れ、チョコレートが甘い分、生地自体の甘さは控えめにしてある。コーヒーとも相性抜群である。クッキーというどこにでも売ってあり、誰でも作れるであろう、一般的菓子を少々バカにしていたと思う。 「お、おいひい・・・」 思わず声に出してしまった。同時に桐山さんの方に興奮したままのテンションで顔を向けると、彼もこちらを見ていたようですぐにバチりと目と目が会う。クッキー1枚で元気になった私のちょろさに驚いたのかもしれない。 「それは良かったです。たまには甘いものも欲しくなりますよね」 「本当です。今日は忙しくてそんなのこと考える暇もなかったので」   そんな日もありますよね、と桐山さんは返した後、来店を知らせるベルの方へ歩いて行ってしまった。 離れていく背中を見つめながら物思いにふけっていると、現実を知らせるように母親からの連絡の通知の効果音が鳴る。アプリを開いて中身を確認すると、またいつもの内容が記されてあった。 “結婚はまだしないの?”と、表示されてある文字にため息が溢れる。
last updateLast Updated : 2025-07-03
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第1話 コーヒーは私の精神安定剤4
「橋本さんは何のお仕事をされているんですか?」 「普通のOLです。極めて普通の。」 出勤から帰るまで社内にこもり、そのほとんどの時間をパソコンと向き合って過ごす。ずっと接客をしている彼とは全く違う業種であった。残業もほとんどなくこのご時世の中で超ホワイト企業だが、そのあとは合コンや飲み会に行くこともない。直帰するか、喫茶「ベコニア」にいることがほとんどである。普通の毎日を過ごしているただのOLをしているのだ。 「普通?」 「普通です。この仕事帰りの一杯のコーヒーを楽しみにしているただのOLです」 もう残り少なくなったコーヒーカップを手に持ちながらそう言うと、少し間を置いて桐山さんは吹き出すようにプハッと笑った。何かおかしなことを言ったのだろうか。そう首を傾げていると、少し目尻を下げた彼は「すみません」とまた微笑む。 「橋本さんは、本当にコーヒーがお好きなんだと思って」 「そりゃあそうですよ。私の生きがいですからね」 少し自慢げな顔をすると、彼は「ありがとうございます」と丁寧に返す。その丁寧さを感じる声色と動作に思わず私も反射的に会釈をしてしまった。目が合って、お互いにクスリと笑いをこぼす。 「桐山さんは、どうしてこのお仕事をしようと思ったんですか?」 「んー・・・何となく、かな」 少し間を置いてそう答える。予想外の回答に思わず「え?」と声を漏らす。コーヒーが好きだからとか、この喫茶店が好きだから、とかそんな答えだと思っていたのだ。それ以上に会話を広げることもできずに、それ以上私が口を広げることはなかった。 「僕、小さい頃は両親が仕事で忙しくてしばらく祖父のところに預けられていたんです」 そうポツリと、桐山さんは話し始めた。決して家族仲が悪くなかったが、両親の仕事の都合でやむお得ず祖父母と一緒に過ごす時間が多かったらしい。とは言っても祖父母も喫茶店で働いているため、学校帰りには此処にきて宿題をしたり時々お手伝いをしておこずかいをもらっていただとか。幼い頃からこの喫茶店に出入りし、祖父の仕事姿を眺めるうちにこの職業に憧れていたらしい。きっと大人びた子供だったのだろう。私の小学生時代の同じクラスの男の子はだいたいスポーツ選手やヒーローだったような気がする。 そのまま大人びた子供のまま成長している彼は、コーヒーカップを手に持ち大切そうに見つめ
last updateLast Updated : 2025-07-03
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第2話 自称恋愛の代弁者1
 今日の天気は雲ひとつない快晴。12月にしては暖かい日差しだが、下から足元を掬うような冬の風が突き刺すような冷たさで身体を縮こまらせる。暖かいのはカイロを貼った腰だけ。 最近買ったキャメル色のコートを羽織り、仕事用のパンプスとは今日はスニーカーを履いてみた。どこまででも歩いて行けそうなくらい楽である。服装もいつもであればブラウスとフレアスカートだが、今日はニットにスキニーパンツ。かなりカジュアルな服装だが、この方が動きやすいのだ。しょうがない。あとは携帯と財布とリップをしまいこんだ小さめのカバンを肩にかける。 私にしては、随分早い休日の朝が始まった。 『OPEN』と書かれてあるプレートに頰を緩めながら、ドアノブに手を掛ける。 桐山さんのおじいさんにに会えるかも、そう期待を胸に込めて。 喫茶「ベコニア」に足を踏み入れた土曜日の朝。休日に来るのは初めてで、こんなに明るい時間に来ることも初めてである。 ドアノブを回し、店内へ足を踏み入れる。ぶわっと、欲していたコーヒーの香ばしい匂いする。これだ、この香りだ。冬の寒さで固まっていた身体は一気に力が抜ける。 が、結果的には今日はハズレの日だったらしい。 カウンターの奥にいるのは桐山さんだけ、というのは失礼だが、彼1人だったのである。今日も今日とて目に入れても痛くない。ブラウンのタートルネックもよく似合っている。もちろん何を着ても似合っているのだけれど。 眼福タイムはここまでにして、さてと。いつものように席に着くために、足を進め・・・ようとしたところでピタリと止まる。 いつも私が座る席・・・の、その隣の席にすでに誰かが座っていた。 金髪の男が。 綺麗に染められている金髪を、襟足だけ伸ばしてゴムでくくっている。ぱっと見た目は喫茶店に似合わない髪の毛だが、服装的にはレトロで全体的にブラウンでまとめられており、この店内の雰囲気とよくマッチしていた。 先客がいるとなれば、わざわざ定位置だからと言って隣に座るのは気が引ける。しかも金髪イケメン。どこに座ろうかと悩んでいると、表に出てきた桐山さんと目が合った。 「橋本さん、今日は早いですね」 朝一の桐山さんはとても眩しい。思わず目を細めたくなる。先日の黒のエプロンも似合っていたが、今日のデニム生地のエプロンも良く似合っている。
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第2話 自称恋愛の代弁者2
「こんにちは桐山さん。朝早く目覚めてしまって来ちゃいました」「そうなんですね。・・・でも、今日は残念ながら祖父はいないんです」「みたいですね」と店内をキョロキョロ見回す。せっかく来たんだ。帰る気なんてさらさらなくて、朝ごはんをかねてモーニングでも食べようと席を探す。店内に入る前に見たボードにモーニング限定メニューの内容とイラストを見てきたのだ。卵サンドとシーザーサラダにコーヒーがセットで590円。カウンターはやめて、2人がけのテーブルに座ろうか。そう思っていた時だった。「お、噂の橋本ちゃん?」「・・・ハ、ハシモトちゃん?」私の名字を呼ぶ声が聞こえた。桐山さんを通り越したその奥から。少し体をずらすと、こちらに体ごと向けていた例の金髪男とばちりと目が合う。すると彼は、友達かのように手を振ってきた。誰だ、と桐山さんへ視線を向けると彼は彼で困ったように手を額に当てていた。「由希、橋本さんが困っているでしょう」「橋本ちゃん、こっちに座りなよ」ため息をこぼす桐山さんとは裏腹に、ポンポンと楽しそうに自身の隣の席を叩く男。そこは私のいつもの特等席だった。行こうかどうしようかと迷っていると、桐山さんが困ったような微笑で「良ければ、彼の隣にどうぞ」と金髪男の隣の席へ促すように通路をあける。戸惑いながらも、せっかく桐山さんがそう言うのだから座らせてもらうことにした。恐る恐る近づくと、金髪男ーーー“ユキ”と呼ばれていた彼はにたりと面白いものを見るかのように笑う。その視線を浴びたまま、彼の隣にゆっくりと腰をおろした。いつもは落ち着くこの一番窓際の席も、今日は外も明るいせいか、落ち着かずにそわそわしてしまう。「えっと、桐山さんのお知り合い、で合ってますか?」「そうそう。オトモダチの早乙女由希です。ね、水樹」そう言って同意を求めるように声をかけた先には、メニューを片手に桐山さんがこちらへ歩いてきていた。どうやら私のために持って来てくれたらしい。一言お礼を告げて、それを受け取る。「高校からの腐れ縁なんですよ。女の子みたいな名前だけど正真正銘の男」「君は橋本奈央ちゃん。でしょ?」「よろしくね」と差し出された手を握り返すと、以外にも優しみのある手だった。話を聞いていると、高校3年間同じクラスで、学部は違うが大学も同じだったらしい。大学名を聞けば、このあたりでは有名なマンモス校
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第2話 自称恋愛の代弁者3
学生の頃の桐山さん、か。なぜ私の名前を知られているのか。それは置いておいて、10代の桐山さんには少し興味がある。そんなストーカーじみた考えは頭から追い払い、心のうちに留めておくことにした。だって私はまだずっと桐山さんを観察してみたい。「由希、彼女が困ってるよ」「え〜?困ってないよね?だって俺たち友達だもん。ね、奈央ちゃん」「すみません橋本さん、適当にあしらって大丈夫ですから」「はあ」と何ともおぼつかない返事をする。随分早乙女さんは人懐っこくてコミュニケーションが上手な男である。つい自分自身と比べてしまうくらいに。今までの私の学生生活といえば、派手でもなけれな地味でもなく、波風立てないようにおとなしく過ごしていたい派だった。そのためか、こういうタイプに関してはどう会話を返していけばいいか経験値が足りないのだ。どうも会話がたどたどしくなる。「さ、早乙女さんは、」「由希でいいよ由希で。ほら、友達だから」「はあ・・そうですか」「もちろん敬語もいらないよ」とバチりとウインクしてくる早乙女さ・・・由希くんの取扱説明書が全力で欲しい。最近桐山さんを目で追っていたからか、とてもキラキラした金髪に目がチカチカする。流石にため口はと思ったが、何と私たちは同じ年らしい。もちろん桐山さんを含めたこの3人が。そういうことならばと、ありがたく敬語を外させてもらうことにした。「・・・由希くんは本当に桐山さんのお友達なの?」外見や雰囲気から、2人は全然違うタイプ。優等生とチャラ男。もちろん高校生の時は由希くんも金髪ではなかっただろうが、仲良くなった経緯だとか興味がある。疑うようなトーンで聞くと、由希くんは少し呆れたような怒ったような声で言い返してきた。「疑ってるの?本当だから!それに水樹が同じ大学に入れたのは俺のおかげだからね」「・・・え、逆じゃなくて?」「こう見えても成績は高校も大学も首席で卒業だからね」人は見た目で判断してはいけないことを痛感する。素直に大人しく「ごめんなさい」と謝罪をして、さっき桐山さんから受け取ったメニューを開くことにした。モーニングとランチだけが載っている初めて見るメニュー。見開きの左のページには一番大きく、ボードに書かれてある同じ内容のたまごサンドセットが載せてあった。他にも一通りメニューを確認したが、なんだかんだ一番食欲をそそられたそのメニューを
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第2話 自称恋愛の代弁者4
彼の正面のテーブルには某フルーツのマークが中央に入っているパソコンが一台と、傍にはカフェオレ。右の席には重そうな本がたくさん入っているカバンが置かれていた。「よくこの喫茶店にはくるの?」「ああ、うん。仕事を持ち込んでよくね。昼間がほとんどだから奈央ちゃんとは今日が初めてだね」多いときは週の半分のお昼はここで過ごすこともあるらしい。だからここの常連客は全員俺のファンであり支援者であり友達なんだよと自慢気に語り始めた。「何の仕事しているの?」「小説家」「へぇ・・・小説家。なるほ、・・・小説家?!」「そ。早乙女ゆきって知らない?」早乙女ゆき。もちろん知っている名前だった。だって、世の中の女の子の間ではかなり有名な恋愛小説家の名前なのだから。青春でピュアなストーリーが多く、読んでいるこっちが少し恥ずかしくなるくらいで、この前もウェブ限定放送で短編ドラマ化されたばかりなのだ。「早乙女ゆきってそりゃあみんな知ってる・・・って、あの早乙女ゆきなの?ほ、本物?」「当たり前だろうよ。恋愛の代弁者とは俺のことよ」こんなピュアっピュアな小説をかけるなんて、さぞかし可愛くて可憐な女の人なんだろうな。そう思っていた。本当に人は見た目で判断してはいけないことを反省。しかし、本物に会えるだなんてと私は感激してしまった。まさかその本人が金髪のコミュ力が高いアラサー男性だとは思わなかったけれども。自身の胸をトントンと叩く由希くんは顔も良くて頭も良くて服のセンスも抜群で小説家だなんて、とんだ高スペック人間である。さすが桐山さんのお友達。「じゃあそれも仕事道具?」「その通り。次回作の途中。なかなか進まないからこうやって奈央ちゃんとお話ししているんだけどね」「へえ・・・大変なんだね」「モデルにしている奴がいるんだけど、こいつがなかなかねぇ・・・」話が進まないんだよ、そう言ってため息をつく由希くんはだらっと背もたれにもたれかかり遠い目をしていた。どうやら早乙女ゆき様でも上手くいかない時があるらしい。一読者が悩み話を掘り下げることはできないから、何も詳しいことは聞くことはしなかったけれども。言葉のかけ方がわからず適当に「大変だね」とだけ告げて労っておいた。きっとただのOLの私では一緒に悩めないような内容なんだろう。「小説書くのって難しそうだね」「俺には才能があるから」「・・・・・そう」
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第2話 自称恋愛の代弁者5
確かに男性が恋愛小説家とはあまり一般庶民からして想像がつかない。それも純文学とかではなくてピュアピュアな恋愛ものだ。しかし彼の言葉には驚いた。だって今まで変だなとか気持ち悪ななんて思ったこともないのだ。「カッコ良いじゃん。だってこんな素敵な小説が書けるんだもん。そんなこと思う人なんていないと思うけどなぁ」自由に小説が投稿できる時代になった今、良い話でも押し寄せてくるたくさんの小説に埋もれてしまうこともあるはずだ。男性が女性を喜ばせる小説を書いて人気が出るなんてある意味本当に才能とでしか言えない。「・・・そっか、ありがとう。嬉しいよ」由希くんは嬉しそうに笑う。流石にイケメンにそんなに笑顔を向けられたらときめいてしまうからやめてほしい。「由希、橋本さんを困らせるなよ」「・・・わ、いい香おり!」「何だよ。仲良くおしゃべりしているだけじゃん」「嫉妬ですか?」と嫌味垂らしな由希くんを無視して、カウンターに現れた桐山さん。肘をついて不貞腐れる由希くんを無視して桐山さんは、カタリと私の目の前にワンプレートのお皿とコーヒーを並べる。一気にコーヒーの好きな匂いが全身を包み込んで、幸せな気分になった。ああ、これだ。と、体が求めるように引き寄せられるような。そんな気分。「本当に奈央ちゃんはコーヒー好きなんだねぇ」「由希とは違って大人だからね」「え?由希くんコーヒー苦手なの?」「苦手じゃないから。カフェオレ派なだけ」そうは言っても得意気じゃなさそうな表情の由希くんに桐山さんが「砂糖たっぷりのね」とツッコミを入れる。思わずクスッと笑いがこぼれてしまった。可愛いところがあるじゃないかと。とはいえ、甘いカフェオレが飲みたい時もあるから彼の気持ちも分かる。まあ両者で比べたら圧倒的に好きなのはコーヒーだが。まずコーヒーカップを手に取り、ひとくち、ゆっくりと口に含む。スっと喉を通り、休日のだらけた体をシャキッとさせる。ああ、何とも言えない開放感。至福の時間である。「気に入ってくれましたか?」「はい。さすが桐山さんのコーヒーです」「良かったです。はい、カフェオレ」そう言って由希くんの前に置かれたミルク感たっぷりのカフェオレ。待ってましたと言わんばかりに由希くんはすぐに口をつける。これで仕事が捗るぞ、そう言ってパソコンに向き合い始めた。どうかモデルの方の恋が実りますように。しかし
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第2話 自称恋愛の代弁者6
「由希の考えはどうなの?」「もちろん固まってるよ。今のところはそれ以上の答えは見つからないね」そう聞かれるのを待っていましたと言わんばかりに、嬉しそうに笑う。それでもその表情も目も、面白半分ではなく真剣そのもの。そして彼は一息ついた後、その真っ直ぐな瞳のまま告げる。「ーーー自分以外の他の誰かを幸せにするため」そう思うんだよね。そう言って、カフェオレを飲んで一息ついた。そして彼はさらに続けた。自分で自分を幸せにすることはできないのだと。例え今、自分で幸せを掴んでいる思っていてもそれはきっと自己満足にすぎない。その自己満足の先で待っているのは寂しいことに虚無感だけ。それじゃあじゃあ俺たち人間はどうしたら幸せを得られるのか。それは周囲の人間からもたらされるものだと。そう言い切った由希くんの言葉には、同じ年に生まれた私よりずっと長い人生を歩んできたようなそんな納得感があった。その言葉はするすると私の中に溶け込んで、それが完璧な答えに近いのではないのかと思うくらいにしっくりときた。「誰かを幸せにするため、か・・・」そう呟いていた桐山さんも私と同じ事を感じていたらしい。「俺だって小説家の駆け出しの頃は、何作も書きまくっていた。作品が評価されて書籍化、それが幸せへの終着点だと思っていた。でも今は違う。この本の読者・・・たった1人でもいい、誰かが夢を持ったり勇気を出したり、その人の幸せに繋がっていくかもしれない。その人の行動で周囲の人間に幸せをもたらしてくれる」何かしらその人が踏み出すきっかけの1つになればいいと思う。他の誰かの幸せになるまでの糧になれる存在で居たい。由希くんの強い意思を込めた目を見て、私も桐山さんもただ黙っていた。「じゃあもし、自分の行動によって幸せになる人がいて。その裏で不幸の人が出てくるってことはないのかな」「それはまた他の誰かがその人を幸せにする。全員を幸せにするなんてそんなことはできない。思い人を幸せにしたいのなら、少なからずとも多少の犠牲は必要だ。その犠牲がもしかしたら自分自身かもしれない。全く知らない第三者かもしれない」「そうやって残酷だけど世界は回っているんだよ」と話す由希くんはとても格好良くて素敵だった。「ま、もちろんさっきの奈央ちゃんと一緒で、ただの一意見にすぎないから。これが完璧な答えじゃないと思うし、賛否両論も
last updateLast Updated : 2025-07-09
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