斎藤の下宿に通うようになったのは、中学三年の夏休みが始まる少し前だった。母親は仕事で帰りが遅くなり、家にひとりきりでいることが増えた。家にいても居場所はどこにもなく、静けさと薄暗さだけが部屋を満たしていた。だから、斎藤から「いつでも来てええよ」と言われたとき、断る理由はなかった。いや、本当は、誰かに「来てほしい」と言ってもらいたかっただけなのかもしれなかった。斎藤の部屋は、小さなワンルームだった。窓辺に簡素なカーテンがかかっていて、夕方になると西日が差し込んだ。壁際には古い本棚とベッド、狭いキッチンには洗い物が残っている。小阪はスニーカーを脱いで、畳の上に素足を投げ出す。その瞬間、室内の埃っぽい匂いと、どこか大人びた生活の痕跡に包まれる。斎藤はいつも、ゆっくりとした手つきで缶コーヒーをふたつ差し出す。「飲む?」と聞かれて、小阪はうなずくだけだった。テーブル越しに視線が合う。斎藤は笑ってみせるが、その目には微かな曇りが浮かんでいるようだった。けれど、その曇りが自分には心地よかった。どこか満たされていないものを持っている大人、というその物足りなさが、なぜか魅力的に見えた。「宿題、やってきたか?」「うん」「見せてみ」答える声は素直だ。ノートを差し出すと、斎藤はそれをひと通り眺めてから「偉いな」と微笑む。その何気ない言葉のひとつひとつが、じわりと身体に染みていく。やがて、ふたりはベッドサイドに並んで座る。日が沈むにつれて部屋は薄暗くなり、電気をつけるのも忘れたまま、沈黙が伸びていく。沈黙の中で、斎藤がぽつりと「陸」と囁く。その低い声が、直接肌を撫でるように鼓膜に届く。名前を呼ばれるだけで、身体が緩むのが自分でもわかった。心のどこかで「自分が特別に選ばれている」と信じたかった。しかし、斎藤のまなざしに愛情らしいものはなかった。指先は優しく、言葉も穏やかだが、それはあくまで従わせるためのやさしさだった。自分がここにいる意味を、相手の欲望に委ねることしかできなかった。愛されているのではなく、ただ“所有物”として扱われているだけなのだと、どこかで気づきながらも、小阪は抗えなかった。時折、斎藤は髪を撫で、顔を覗き
Terakhir Diperbarui : 2025-08-01 Baca selengkapnya