「好き」って言えなかったあの夜を、超えて~壊れた心と身体を、少しずつ繋ぎ直す恋

「好き」って言えなかったあの夜を、超えて~壊れた心と身体を、少しずつ繋ぎ直す恋

last update최신 업데이트 : 2025-08-09
에:  中岡 始참여
언어: Japanese
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言葉がなくても、愛はあると信じていた―― でも、本当はずっと「好き」と言ってほしかった。 家庭教師との歪んだ初体験に傷ついた小阪。 過去の恋人を守れず、逃げた河内。 ふたりはゲイバーで出会い、 やがて、音のあるセックスを通して“つながる”。 身体より先に心が開いていく、繊細で情感豊かな官能描写。 ピアスを外す日、タバコを咥える朝、 “言葉にできなかった感情”が、ようやく確かな愛へ変わるまで。 壊れても、もう一度だけ信じたくなる恋が、ここにある。

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1화

エレベーターの軽口

入江静真(いりえ しずま)と結婚して以来、綾辻月子(あやつじ つきこ)は離婚なんて考えたこともなかった。

だって、彼女は静真に心底惚れていたから。彼の為なら死ねるくらいに。

しかし、彼の初恋の人が帰ってきた。

……

その時、月子は病院にいた。

医者の声は冷淡だった。「綾辻さん、今回の流産は子宮に深刻なダメージを与えています。今後妊娠の可能性は低いでしょう。心の準備をしておいてください」

月子の頭はガンと鳴った。

この子の為に、彼女は三年もの間、辛い妊活を続けてきた。そして二ヶ月前、やっと妊娠できたのだ。

今日の午後、外出中に突然車が飛び出してきて、彼女は転倒してしまった……

医者は眉をひそめた。「綾辻さん?」

「……はい、分かりました。先生、ありがとうございます」

月子は人前で弱みを見せるのが好きじゃなかった。瞬きをして、涙をこらえ、立ち上がってその場を去った。

背後で看護師たちの噂話が聞こえてきた。「こんな大変な事なのに、旦那さん、見かけないわね」

「本当よね。さっき子宮内容除去術を受けて、泣き崩れそうになってたわ。旦那さんに電話して、病院に来てくれるように頼んでたけど、結局来なかったみたい」

「ひどい!愛してないのがバレバレじゃない。こんなの、離婚するしかないでしょ!」

月子は遠くまで行っていたので、その後の言葉は聞こえなかった。

実際、静真は病院に来るのを拒否しただけでなく、電話でこう言ったのだ。「子供がダメになったなら仕方ないだろ。何泣いてんだ?

今忙しいんだ。邪魔するな!」

その後、月子は何度か電話をかけたが、彼は一度も出なかった。

この三年間、静真はずっと彼女に冷たかった。

正直、彼女はもう慣れていた。

三年前に月子が偶然入江会長の命を救ったことがあり、会長は彼女を気に入り、二人をくっつけた。そうでなければ、彼女のような身分で入江家の妻になることなんてできなかったのだ。

だから、そもそも静真は彼女と結婚したくなかったのだ。

今日、彼に連絡を取り続けたのは、生まれてくるはずだった子供のためだと思ったから……

やっぱり、期待するべきじゃなかった。

月子は気持ちを切り替え、タクシーで帰って休もうと携帯を取り出した途端、メッセージが届いた。

静真の親友、佐藤一樹(さとう かずき)から動画が送られてきたのだ。

月子は動画を再生する。

動画の冒頭は大きなバラの花束だった。少なくとも999本はあるだろう。多すぎて画面に入りきらない。

カメラが左に移動すると、静真の姿が現れた。彼の隣にはある女が寄り添っている。

夏目霞(なつめ かすみ)だった。

月子は瞳孔を縮め、指先にぐっと力が入った。

動画の中で誰かが囃し立てている。「霞さん、静真さんは今日のお前の帰国を知ってて、とっくに歓迎会を準備してたんだぞ!絶対、心を込めて準備したんだ!」

「ハグくらいしろよ!早く静真さんに感謝を伝えろ!」

「ハグだけじゃ足りないだろ!キスしろよ、前にもしてたんだし!お前らのフレンチキス三分の動画、俺まだ消してないぞ」

霞は首を横に振った。「今は立場上ちょっと……」

彼女が言葉を言い終わらないうちに、静真は自ら霞を抱き寄せた。「霞、おかえり」

その口調と仕草は、とても優しく、自然だった。

周りの人たちは黄色い声を上げた。「見て、静真さん全然気にしてないじゃん!」

「キスしろ!キスしろ!」

ここで、動画は突然終わった。

メッセージが取り消されたのだ。

【ごめん、間違えて送っちゃった】

取り消しが早かった。一樹は、彼女がまだ開いていないと思ったのだろう。それ以上何も説明してこなかった。

月子は長い間チャット画面を見つめていた。

見ているうちに、唇の端が上がった。

これが、静真の言う大事な用事だったのか……

月子は三年間、彼の心を温めようと努力してきた。なのに、静真が自分を愛してくれる日は来ず、舞い戻ってきたのは彼の初恋の人だった。

もはや、彼の心に彼女の居場所などあるはずもなかった。

愚かな夢を見るのは、もう終わりにしよう。

帰宅後、月子は荷造りを始めた。

この数年、生活も仕事もシンプルだったため、自分の物はほとんど買っていない。必要な服と証明書以外、持って行くものは何もない。26インチのスーツケース一つで十分だった。

30分もかからずに荷造りは終わった。

そして、静真の帰りを待った。

午前2時になって、ようやく玄関のドアが開いた。

静真がリビングを通ると、彼女と目が合った。

彼は驚いた様子もなかった。

たくさんの接待で遅くなる夜、月子はいつもこうして彼の帰りを待っていたのだ。

「手術を受けた後なのに、早く休まないのか?」静真の口調は冷淡で、心配している様子は全く聞こえなかった。

「あなたを待ってたの」

彼が玄関に入ってきてから、月子は彼の唇をじっと見つめていた。

男の唇の形は相変わらず魅力的だったが、端の方が少し腫れていた。

白いシャツの襟元には、あやしい口紅の跡がくっきりと残っていた。首筋にもそう。

本当にキスしたんだ。

もしかしたら、それ以上のことも。

月子の心臓は、突然激しい痛みを感じた。

結婚して三年、静真が彼女に触れた回数は片手で数えられるほどだった。それも、親戚にせかされて渋々といった感じだった。

彼は決して自分からキスしようとはしなかった。いつもいきなり本題に入り、優しさのかけらもなかった。その間、彼女はとても辛い思いをした。終わった後、抱きしめて欲しくても、彼はくるりと背を向けて浴室へ行くのだ。

彼女にいつも見せるのは、冷たい背中だった。

静真は彼女の隣にあるスーツケースに気づき、理解した。「一樹の動画、見たのか?」

「ええ、見たわ」近くに行くと、月子は彼の体から酒の匂いを感じた。

そして、吐き気を催すような香水の匂いも。

「私たち、離婚……」

彼女が言葉を言い終わらないうちに、静真は平然と言った。「もう知ってるなら、離婚しよう。最初から分かっていたはずだ。霞が海外に行っていなければ、お前と結婚なんてしなかった」

ここまで言われて、月子が反対する理由はない。「分かったわ」

「今日は遅いから、とりあえず休んで、明日出て行ってくれ……」

「大丈夫よ。離婚協議書にはもうサインしたわ」

月子はテーブルを指差した。

結婚式の夜、静真はこの離婚協議書を彼女に渡していたのだ。今日まで、月子はサインする決心がつかなかった。

今度は静真が驚いた。

思わず眉をひそめ、彼女の本心を測っているようだった。

「お酒を飲むでしょ。酔い覚ましスープを作ったわ。キッチンにある」月子は少し迷ったが、声をかけて注意した。

あれは癖みたいなものだ。静真に愛してもらう為に、彼の食事や生活の世話は、全て彼女が自ら行っていた。

料理があまり得意でなかった彼女が、料理の腕前を上げるまでには、かなりの苦労があった。

静真に食事を作る度に、買い出しから完成まで数時間かかり、指には切り傷や火傷の跡がいくつも残っていたのだ。

しかし静真は好き嫌いが激しく、どんなに美味しくても、一度も「美味しい」と言ったことがない。明らかに表情で美味しさを表している時でさえも。

静真はよく分かっていた。自分が褒め言葉をかければ、月子がどんなに喜ぶかを。彼はただ、彼女にその喜びを与えたくなかったのだ。

「私は行くわ」三年の夫婦生活、別れの時に、もう何も言うことはなかった。

静真は眉をひそめた。「今夜はここにいろ」

「いいえ」月子はスーツケースを引きずり、背を向けて出て行った。

静真は、自分の言うことを聞かない月子が気に入らず、少し不機嫌そうだった。

そして、玄関のドアが閉まった。

ちょうどその時、一樹から電話がかかってきた。「静真さん、家に着いたか?月子に聞いたか?動画見たのか?

悪かった。本当にわざとじゃなかったんだ。まあ、見たとしても、別に問題ないだろ?お前と彼女、しょっちゅう揉めてるし……」

「彼女と離婚した」

「え?離婚した?」

一樹はとても驚いた様子だった。「この動画のせいで?まさかだろ。彼女がお前と離婚するわけないだろ。月子が離婚するなら、俺、生配信でうんこ食う!」

「俺が言ったんだ」と静真は言った。

一樹はしばらく黙っていた。

静真が離婚を切り出すということは、何もなかったも同然だ。月子が静真にベッタリで、絶対に別れられないと、友人たちは皆知っていた。

「この前離婚って言ったの、一ヶ月前にも満たないだろ?月一の恒例行事みたいだな」

一樹はからかった。「前回、俺たちが彼女が半日で戻ってくると賭けて、案の定勝ったよな……今回は一日って賭ける。もし俺がまた勝ったら、飯おごりな!」

静真は、閉まった玄関のドアに視線をやった。家の外では車のエンジン音が聞こえた。

今日は月子はかなり決意が固そうだった。

しかし、静真は涼しい顔で眉を少し下げ、全く気に留めていない様子だった。「一日なんていらない。彼女は明日の朝には帰ってくるさ」
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エレベーターの軽口
午前九時十二分、心斎橋の雑居ビル群の中でも一際目立つ高層オフィスビルの自動ドアが音もなく開いた。ガラス張りのエントランスには、雨上がりの湿り気を残した空気がわずかに漂い、床に映る照明の光がどこか濁って見えた。「おはようさんでーす…て、また俺だけ遅い? ほんますんません、葉山さん睨まんといてぇな」エレベーターが開いた瞬間、軽やかな関西弁が響いた。河内拓真は、グレーのジャケットを肩に引っかけたまま、ゆったりとした足取りでフロアに現れた。ネイビーのシャツは第一ボタンが外され、わずかに鎖骨が覗く。ネクタイは手に持ったまま、まだ結ぶ気配はない。濡れていない髪と、整った無精ひげ。そのラフさが、かえって洗練されて見えるのは、本人の確信によるものだった。受付の女性が苦笑いで「またですか」と言うと、河内は右手をひらひらと振って受け流した。「今日ちょっと、電車混んどってん。信じてや」「信じられません」「うわ、そこまで言う? 泣くで、俺」冗談めかしたやりとりに、横を通りかかった女性社員たちが笑いながら「タクちゃん、おはよー」と声をかけていく。河内はその一人ひとりに名前を添えて軽く手を振った。「おはよう、美紀ちゃん。あ、メイク変えた? 似合ってるわ」と、どこまでも自然に。けれど、笑っているその口元とは裏腹に、目の奥には温度がなかった。鏡のようにきれいに整えられた笑顔。仕事におけるそれは、武器であり、鎧だった。相手の懐に入りやすくするための愛想と、近づかせないための境界線。その二つを器用に使い分けることは、もはや彼にとって日常の一部だった。挨拶を終え、社内ゲートを通り抜けるとき、河内はほんの一瞬だけ、無意識に深く息を吐いた。表情は崩さず、声の調子も変えず、それでも身体の内側に微かな重さが沈んでいる。今朝もまた、何かを演じながら一日が始まるのだという自覚が、胸の奥にじわりと広がっていた。
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社内の温度差
クリエイティブ第3チームのフロアは、朝の喧騒が落ち着き始めたころに、ようやくそれぞれのリズムを取り戻していた。天井から落ちる蛍光灯の明かりが、整然と並ぶデスクを淡く照らし、Macの白い筐体にうっすら反射している。コピー機が一度、低い唸り声を上げて沈黙し、数人の社員がそれに反応するように小さく動いた。けれど、それ以上に何かが“動く”気配は、どこにもなかった。その静けさの中心に、小阪陸斗の姿があった。デスクの前で真っすぐに背筋を伸ばし、両手はキーボードの上に滑らかに並ぶ。モニターに映るデザインソフトのウィンドウには、進行中のWeb案件のバナー案が映っていた。白と黒を基調にしたミニマルなレイアウト。フォントの余白や行間の詰め方に、確かな技術と美意識が滲んでいる。それは、ただ美しいだけではない。どこか、観る者を遠ざけるような緊張感をはらんでいた。小阪の指は静かに動き続けていた。けれど、彼の顔には一切の感情が浮かんでいない。無表情というより、感情を排除することを意識的に選んでいるような無音の静寂。唇はわずかに引き結ばれ、瞼は伏せがちに整っている。顔色は決して悪くない。肌は白く、頬の赤みも体温を感じさせる程度には存在していた。それでも彼の気配は、周囲と異なる“重さ”を持っていた。彼の美貌は、社内でもよく知られていた。目元の繊細な切れ長、鼻筋の通り、やや長めに揃えられた黒髪が耳にかかる仕草には、誰もが一度は目を奪われる。だが、それ以上に人を遠ざけているのは、その佇まいだった。まるで、空気にさえ触れられたくないとでも言いたげな、緊張をはらんだ沈黙。「コサカくん、午前提出分の資料、もう仕上がってる?」声をかけたのは、同じチームの女性ディレクター、真島だった。彼女は気を遣ったようなやや高めの声で、席の横からそっと問いかけた。小阪は、ほんのわずかに顔を上げる。その視線は一度モニターから真島の顔へと滑るが、ほんの一瞬だった。すぐに、わずかに首を縦に振る。唇は動かさない。返事は、それだけだった。「ありがとう。助かるわ」真島が笑みを浮かべて去っていくと、近くにいた若手社員が気まずそうに、そっと息を吐いた。その息づかいまでもが、まるで小阪に聞こえてはならないかのように小さく抑えられていた。「コサカさんって、きれいやけど、なんか…怖ない?」「目ぇ合わせたら、なんか透かされ
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葉山の観察
会議室の前の廊下には、まだ湿気を含んだ空気がほんのりと漂っていた。九階のフロアは天井が高く、遮音ガラスに囲まれているため、外の車の音も遠くくぐもって聞こえる程度だった。床のカーペットは静音仕様で、誰かの足音さえ吸い込んでしまう。そんな中、ドアのすぐ外で背伸びをしている男の声だけが、妙にくっきりと響いた。「ふー、なんか湿気すごない? 髪まとまらんて、ほんまに…」河内拓真は片手に持った会議資料を軽く仰ぎながら、汗を拭くような仕草で襟元を摘んだ。ジャケットはさっきまで肩にかけていたが、会議室に入る前にようやく袖を通したばかりだ。襟元が乱れていても、誰も指摘しない。むしろ、そんなラフさが彼の持ち味であり、社内の空気を和らげる潤滑剤のようにも機能していた。そこへ、静かに近づく足音がある。ピンヒールの先がカーペットを踏みしめる軽やかなリズム。一歩、また一歩。河内が声の主に気づいて振り返ると、スラックス姿の女性が、片手にタブレットを抱えて立っていた。「……遅刻、二回目やな」チームリーダーの葉山千景だった。三十代前半。肩まで伸びた髪をひとつに結い、白いブラウスに深いネイビーのパンツスーツを合わせている。姿勢に無駄がなく、表情は柔らかいが、目つきだけは鋭い。社内でも“デキる女”と呼ばれ、信頼されている存在だった。河内にとっても、直属の上司である。「すんません。今日はマジで電車が…いや、うそです。寝坊です」あっさり白状してみせる河内に、葉山は鼻で笑った。「ポイントカードでも作っとくか。十回で始末書、二十回で減給」「えげつな。俺もう二十ポイント溜まってるで。なんか景品くれへん?」「その景品、お説教でええ?」やりとりに、横を通りかかった若手社員が思わず吹き出した。河内は気にせず、葉山と顔を見合わせて笑う。その顔は、いつものように整っていた。笑いながらも、目は細く、声の調子は軽い。けれど、葉山はその笑顔の下にうっすらとした疲れを感じ取っていた。まるで、どこかにいる別の誰かを思いながら喋っているような、うわの空の笑顔だった。「…なんか、最近あんた、よぉ笑うようなったな」「え、そう? ええことやん。愛想ええのが、営業の基本でしょ」「愛想と愛嬌は違うんやけどな」葉山がぽつりと呟いた時、会議室のドアが内側から開いた。中ではすでに、数名のメンバーが着席を始めてい
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会議開始、対面の瞬間
会議室のドアが閉じる音が、空気をきりりと締めた。白を基調にした室内には、四方に窓がなく、空調とLEDの明かりが、どこか人工的な静けさを作り出している。壁際にはグリーンがひと鉢だけ置かれていたが、それすらもこの場の緊張感に馴染まず、浮いて見えた。中央の楕円形のテーブルを囲むように、六人ほどがすでに着席している。資料の束がそれぞれの前に配られ、会議の進行を担う葉山が、席に着く前に一瞥を配った。「じゃあ、時間なったし始めよか。プロジェクトA、今週の進捗確認と来週の案件整理、いくで」短い号令のあと、全員が一斉に資料に目を落とす。その中で、河内はいつものようにゆったりと椅子を引いた。スーツの裾を整える仕草は癖のようなもので、特に意味はない。資料に目を通しながら、隣の真島に軽く話しかけた。「真島さん、昨日のあの件、なんとかクライアント説得できたで。昼過ぎに正式なGO出たわ」「あ、ほんま? やるやん。さすが交渉の鬼やね」「鬼は言いすぎやわ。ちょっと粘っただけ。まあ…声のトーン上げたり下げたりは、うまくいったかもな」軽口を叩きながらも、河内の視線は時おり正面に滑っていた。そこには、小阪が座っていた。まだ彼と正面から向かい合ったことはない。業務上の接点は少なかったし、普段は互いに別のラインで動いていたから、こうしてテーブル越しに向かい合うのは、事実上初めてだった。小阪は、会議中でも姿勢を崩さない。背筋を伸ばし、腕をテーブルの上に静かに置き、配られた資料に視線を落としている。目の動きは淡々としていて、焦点の定まり方が独特だった。誰かと目を合わせようとはしない。それが癖であるように、徹底して視線を外す。あくまで無意識を装っていたが、そこには明確な拒絶があった。河内はふと、小阪の右手の動きに目をとめた。ペンを握る指先が細く、動きに無駄がなかった。筆圧は弱いが、線がブレない。リズムよく走るボールペンの動きが、ひとつひとつ滑らかに言葉を繋いでいく。その手首の角度、肘の高さ、そして肩の力の抜け方まで、すべてが繊細だった。だが、それは柔らかさとは違った。鋭さと、どこか緊張感を伴った静けさ。あまりにも無音に見える動きに、河内は一瞬、息を忘れそうになった。どこかで見たような感覚があった。音楽のレッスンを受けていた頃、グランドピアノの鍵盤を押さえる手に、似ていた。音が鳴る直前の、沈
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沈黙の温度差
会議は淡々と進んでいた。葉山がプロジェクトAの進捗資料をモニターに投影し、各セクションの進行状況と次週の予定を読み上げる。議事録を取る真島が要点をまとめる間にも、他のメンバーたちは資料に目を落とし、各自の業務内容と照らし合わせていた。静かに、しかし緊張感を保ったまま時間は流れていく。誰かのペンが紙を走る音と、モニターのページが切り替わるリモコンのクリック音だけが、ときおり音として空間を満たした。空調の風すらも鈍く、どこか抑えられているように感じられた。その空気の中で、河内は椅子にもたれながら、斜めに身体を倒して資料に目を落とす。指先で端を軽くつまむようにしてページをめくりながら、ひとつ前に映されたバナー案のビジュアルを思い返していた。白地に青を基調としたミニマルな構成。訴求ポイントはきちんと整理され、情報量の取捨選択も適切。何より、見た瞬間に意図が伝わってくる。押しつけがましくないが、確実に目に残る作りだった。「この案ええな…なあ、コサカくん?」唐突に、河内が口を開いた。柔らかく、けれど会議室に響くだけの声量で、真正面に座る小阪に向かって話しかけた。その瞬間、微かに空気が揺れた。小阪は手元の資料から目を上げなかった。だが、わずかに睫毛が動いた。表情は変わらない。だが明らかに、一瞬の思考の間が挟まれていた。視線を上げることはなく、それでも応答はあった。「……はい」低く、抑えた声だった。語尾に揺らぎはない。肯定だけが、機械的に告げられた。河内は一拍の沈黙を挟んで、ふっと笑った。肩をすくめて、隣の真島を見ながら口を開く。「めっちゃ愛想ないやん。俺、ちょっと泣きそうなるわ」冗談めかした口調だったが、その目は再び小阪の表情を捉えていた。どこか試すような、いや、むしろ確かめるようなまなざしだった。小阪はそれに反応しない。返事も、視線もない。資料に戻った視線は、そのままモニターと手元の書類を往復していた。頬の動きも、眉の角度も微動だにせず、ただそこに座っているだけのようだった。けれど、河内の目は一瞬だけその唇の動きを捉えていた。確かに、気のせいかと思うほど僅かに、口角が…上がったように見えた。ほんの一瞬の、それこそ一秒にも満たない動きだった。すぐに元の無表情へと戻ったその横顔に、周囲は誰も気づかない。真島も、葉山も、他のメンバーたちも、淡々と次の話
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ふたつの背中、すれ違う出口
会議が終わると同時に、ざわつきが静かに広がり始めた。椅子を引く音、資料をまとめる紙の擦れる音、隣の席同士で交わされる小声の確認事項。午前中いっぱいの集中から解放された空気は、一斉にゆるんでいく。プロジェクトAの進行は概ね順調だった。要点の整理もできたし、修正点も見えた。それぞれが次にやるべき仕事を把握し、淡々と動き出す。河内は誰よりもゆっくりと席を立った。資料を持ち上げながら、ちらりと反対側の席を見たときには、すでに小阪の姿はなかった。彼は最初に立ち上がり、黙って資料だけを抱えて先に会議室を出ていった。背中を向けたその動きに、迷いやためらいはなかった。静かに扉を出たあと、河内も後を追うように部屋を出る。彼の足取りは急ぐでもなく、緩めるでもなく、どこまでも自然体だった。フロアの廊下に出ると、冷たい空調の風が一瞬頬を撫でた。エレベーターホールまで続く無機質な白い廊下の途中、右手には給湯室と自販機のスペースがある。会議明けには何人かが集まる場所だが、今は誰の姿もなかった。河内はそのまま自販機の前に立ち、ボタンを一つ押す。低く唸るような機械音のあと、缶コーヒーが落ちてきた。それを取り出してプルタブを開け、一口飲む。微糖の刺激が舌の奥に広がる感覚が、妙に鈍く感じられた。そのとき、足音が聞こえた。廊下の奥、会議室側とは反対方向から、ゆっくりと歩いてくる足音が一つ。誰かと会話しているわけでもない、靴音だけが床を叩く。河内がその方向へ顔を向けると、視線の先に小阪がいた。モノトーンのシャツにスリムな黒のパンツ。ファッションに主張はないが、その整った身体の線に自然に馴染んでいる。細身の体格が余計な装飾を必要とせず、ただそれだけで存在感を放っていた。無言のまま、真正面から歩いてくるその気配に、河内は少しだけ缶コーヒーを持つ手の力を抜いた。視線が交錯するのは、すれ違う直前だった。小阪は何も言わない。けれど、まっすぐこちらを見た。河内も目を逸らさなかった。互いに何の感情も表さず、言葉を交わすこともなく、ほんの数歩の距離ですれ違っていく。沈黙のなかで、ただ視線だけがふたりのあいだに残された。その一瞬の交差に、何かがあった。目の奥にある温度、無表情の下に隠れた微かなゆらぎ。河内は、缶を唇にあてたまま、無意識にひとつ息を吐いた。お前、ほんまに何も感じてへんのか。問いのような
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夜の香りに紛れる
木曜の夜、心斎橋の裏通りは、雨上がりの湿気とネオンの滲みが混じり合っていた。大通りの喧噪から一本外れただけで、空気が変わる。濡れたアスファルトの匂いに混じって、どこからともなく香の煙が流れてくる。この通りにある〈夜色(やしき)〉は、そんな空気に溶け込むように、ひっそりと佇んでいた。看板もない木製の扉を押すと、鈍い音がして、薄暗い照明の中に一歩足を踏み入れる。外よりもさらに湿度を孕んだ空気が、身体にまとわりつく。天井近くから吊るされた古いランプが、ぼんやりと黄色い光を落とし、空間の輪郭を曖昧にしていた。「……あんた、また疲れた顔して」カウンターの奥から、ゆったりとした声が飛んでくる。香月だった。グラスを拭きながら、河内にだけ向ける独特の笑いを浮かべている。細身の身体にゆるやかな着物。髪は銀に近いブロンドでまとめられ、襟元から覗く喉仏がその性をさりげなく主張していた。「そんなに顔に出てもうてる? まあ、たしかに今日の会議、地味に消耗したわ」河内はジャケットを軽く脱ぎ、カウンターの椅子に腰を下ろした。肩が少し下がっているのは、油断ではなく、素の姿に戻った証だった。「雨、降ってたん?」「さっきまでな。今は上がってる。けど、空気が湿気っぽくてな。なんか、気が抜けるわ」「よう似合うで。あんたの、そういう気の抜け方」香月はそう言って、ウイスキーの瓶を棚から一本抜き、いつもの銘柄であることを聞くまでもなくグラスに注いでくれる。アンバーの液体が、氷に触れて音を立てる。その小さな響きが、店内の静けさを余計に引き立てていた。店内には他に、客がふたりだけ。奥のテーブルに中年の男が一人、カウンターの端に若い子がうつむいてスマートフォンを触っている。どちらも会話はなく、音楽と香だけが空間を満たしていた。ピアノの旋律は終わりかけで、鍵盤を撫でるような残響が、耳の奥にかすかに残る。「……あれ?」ふと、河内は氷の溶ける音に紛れて視線を動かした。店の奥、ちょうど暗がりに沈みかけているテーブル席。そこに座るひとりの人影が、どこか見覚えのあるシルエットをしていた。背筋の伸びた座り方、手首の細さ、グラスの持ち方。無意識に記憶が繋がりかけた瞬間、男が顔を横に向けた。喉が微かに鳴った。ぼんやりと照らされた光のなかで、その男の横顔がはっきりとした。白く整った輪郭、影を落とす睫毛の長さ
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知らんふりの距離
視線を合わせたのは、ほんの一瞬だった。その瞬間に、河内の内側がすっと冷える感覚があった。向こうも気づいたとわかる、だが、小阪はまるで何もなかったかのように顔を背けた。真正面から目を逸らすのではなく、あくまで自然な流れのなかでグラスに視線を戻す。演技ではない。そういうふうに人と関わることを、彼は日常としているのだと、河内は妙に納得してしまう。自分もそれに倣うように、視線をカウンターの奥へ流し、グラスを軽く揺らす。氷がからんと音を立てる。静かな店内には、その音さえもやけに大きく感じられた。「…知り合いなんやろ」低く囁くような声が、カウンター越しから滑り込んできた。香月だった。片方の眉を上げ、口元にだけ笑みを浮かべている。「さあな。似てる人やっただけかもしれん」河内は軽く肩をすくめて返したが、その嘘を見抜かれているのは明白だった。香月の目は、客の仕草ひとつで心の温度を読み取る。ここ〈夜色〉という空間は、そういう場所だった。言葉のない会話が飛び交い、目線や指先が感情を語る場所。「タク、こっち来。今日はあんた、端っこやない方がええと思うわ」香月が言ったときには、すでに隣の椅子を軽く引いていた。その声はあくまで柔らかく、けれど断る余地はなかった。河内が目を動かすと、そこにいたのはやはり、小阪だった。横顔の輪郭が、照明の影に溶け込むように沈んでいる。「……ママ、俺、あいつと…」「なあに。黙って隣に座るくらい、別に誰も死なへんわ」そう言い放ちながら、香月はウイスキーの瓶を拭いていた布でそっと押さえ、カウンターに静かに置いた。河内は一呼吸置いて、仕方なく椅子に腰を下ろした。椅子の脚が床をかすめて軋む音がした。音を立てまいとするほど、音は際立つ。そのわずかな軋みにさえ、小阪の肩が少しだけ動いた。だが顔は動かない。視線も変わらず、グラスの中に留まっていた。ふたりの距離は、身体ひとつ分しかなかった。けれど、その間に流れる空気はずいぶん遠い。話しかけるには微妙に近すぎるし、沈黙を貫くには互いの存在が強すぎる。沈黙が、重く、そして生
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音のない会話
静寂が続いていた。互いに背を向けるでもなく、正面を向くでもなく、ただ隣にいる。その奇妙な並び方のまま、ふたりはグラスを手にしていた。照明は控えめで、輪郭よりも影が際立つ。店の奥にかすかに流れるピアノの旋律は、もはや背景の呼吸のように意識の端を撫でるだけだった。河内は氷の溶けかけたウイスキーを少しだけ傾けた。舌に残るアルコールの苦味が、じわじわと輪郭を描いていく。隣からは、わずかにグラスを置く音。その仕草だけで、小阪が酒を飲み干したことがわかった。「……飲むん、早いな」言葉をかけるのに、それほど大きな意味はなかった。ただ音がほしかった。そうでなければ、この沈黙の中で、己の鼓動すら聞こえそうだったから。小阪はすぐには返さなかった。ほんの数秒、グラスの底をじっと見つめるようにしてから、低く答えた。「……疲れてるから」その声は、誰にも聞かれたくない秘密を扱うような静かさだった。言葉の一つひとつが空気に沈み、輪郭を保ったまま広がっていく。河内はグラスを唇に当てたまま、小さく息を吐いた。言葉が返ってきたことに少しだけ安堵し、それ以上の返答を探すのはやめた。沈黙がまた戻る。けれど、もうさっきまでのような鋭さはない。代わりに、重さが残る。何かを測るような、距離を確かめるような時間が、ゆっくりと流れていく。小阪は身体を少しずらし、足を組み替えた。その動きは滑らかで、誰に見せるわけでもないのに、どこか研ぎ澄まされていた。河内は、その膝の角度や指先の落ち着きに、ふと目を奪われた。グラスを持つ指が細く長く、爪は短く整えられている。決して装飾的ではないが、整いすぎているその手元に、妙な色気があった。小阪が再びグラスを持ち上げた。中はもう空だったが、その仕草に迷いはない。唇に触れる動きが静かで、喉を鳴らさないまま、酒が身体に流し込まれる。あまりにも滑らかで、まるで飲むという動作そのものが嘘のようにすら見えた。河内は息を詰めてその様子を見ていた。無言で、人と関わらず、表情も変えずにただ飲む。それが演技でないのなら、これは一種の“技術”なのだろう。人を寄せ
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その眼に潜る夜
グラスの底に残った氷が、静かに形を変えていく音が聞こえた。ピアノの旋律は終わりを迎え、最後の音だけが空気にじんわりと染み込んでいく。店内はさらに静かになっていた。香の匂いが少しだけ強まった気がして、河内は浅く息を吸った。伽羅の深く湿った香りが、胸の奥に染み込んでくるようだった。隣にいる小阪は、何も話さず、何も求めず、ただ静かに座っている。その沈黙が自然すぎて、むしろ河内の中のどこかがざわめいた。目を合わせることはしないのに、存在を確実に意識させる距離。言葉がなくても、こうして横にいることが成立してしまう夜の重みが、じわじわと喉元を締めつけてくる。酒が身体を少しずつ緩めていた。アルコールのせいなのか、それとも沈黙に慣れすぎたせいなのか、思考がゆっくりと溶けていく。グラスを傾けながら、河内は視線だけで小阪の横顔をなぞった。照明に浮かぶその顔は、いつもより淡く見えた。まるで実体がないような、輪郭の曖昧さ。だけどそこに確かに存在する皮膚の温度を、河内の感覚は読み取っていた。睫毛が動く。瞬きをしたのだと気づくのに、少し間があった。目元に揺れるそのまつげの影が、グラスの縁をなぞるように伸びていた。濡れた唇が軽く開いて、閉じる。何かを言いかけたのか、それとも呼吸を調整しただけなのかはわからない。そのどちらにも見えるところが、小阪という男の不透明さであり、同時に惹きつけられてしまう理由でもあった。河内はゆっくりと身体を預けるようにカウンターに寄った。グラスの底を指でなぞりながら、声を落として言う。「……職場の人間に、こういうとこで会うって、妙な気ぃするな」つぶやくような声だった。問いではなかったが、すぐ隣にいる人間が、その言葉を拾うかどうかを意識せずにはいられなかった。小阪はすぐには反応しなかった。視線はまだ前を向いていて、指先だけがグラスを動かしている。けれど、数秒ののち、やや低く、かすれるような声が返ってきた。「……職場やない。今は、ただの夜やろ」その言葉が、河内の内側をすっと撫でた。肯定でも否定でもない。ただ“今”という時間にだけ触れたその声に、河内
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