言葉がなくても、愛はあると信じていた―― でも、本当はずっと「好き」と言ってほしかった。 家庭教師との歪んだ初体験に傷ついた小阪。 過去の恋人を守れず、逃げた河内。 ふたりはゲイバーで出会い、 やがて、音のあるセックスを通して“つながる”。 身体より先に心が開いていく、繊細で情感豊かな官能描写。 ピアスを外す日、タバコを咥える朝、 “言葉にできなかった感情”が、ようやく確かな愛へ変わるまで。 壊れても、もう一度だけ信じたくなる恋が、ここにある。
View More午前九時十二分、心斎橋の雑居ビル群の中でも一際目立つ高層オフィスビルの自動ドアが音もなく開いた。ガラス張りのエントランスには、雨上がりの湿り気を残した空気がわずかに漂い、床に映る照明の光がどこか濁って見えた。
「おはようさんでーす…て、また俺だけ遅い? ほんますんません、葉山さん睨まんといてぇな」
エレベーターが開いた瞬間、軽やかな関西弁が響いた。河内拓真は、グレーのジャケットを肩に引っかけたまま、ゆったりとした足取りでフロアに現れた。ネイビーのシャツは第一ボタンが外され、わずかに鎖骨が覗く。ネクタイは手に持ったまま、まだ結ぶ気配はない。濡れていない髪と、整った無精ひげ。そのラフさが、かえって洗練されて見えるのは、本人の確信によるものだった。
受付の女性が苦笑いで「またですか」と言うと、河内は右手をひらひらと振って受け流した。
「今日ちょっと、電車混んどってん。信じてや」
「信じられません」
「うわ、そこまで言う? 泣くで、俺」
冗談めかしたやりとりに、横を通りかかった女性社員たちが笑いながら「タクちゃん、おはよー」と声をかけていく。河内はその一人ひとりに名前を添えて軽く手を振った。「おはよう、美紀ちゃん。あ、メイク変えた? 似合ってるわ」と、どこまでも自然に。
けれど、笑っているその口元とは裏腹に、目の奥には温度がなかった。鏡のようにきれいに整えられた笑顔。仕事におけるそれは、武器であり、鎧だった。相手の懐に入りやすくするための愛想と、近づかせないための境界線。その二つを器用に使い分けることは、もはや彼にとって日常の一部だった。
挨拶を終え、社内ゲートを通り抜けるとき、河内はほんの一瞬だけ、無意識に深く息を吐いた。表情は崩さず、声の調子も変えず、それでも身体の内側に微かな重さが沈んでいる。今朝もまた、何かを演じながら一日が始まるのだという自覚が、胸の奥にじわりと広がっていた。
木曜の夜、心斎橋の裏通りは、雨上がりの湿気とネオンの滲みが混じり合っていた。大通りの喧噪から一本外れただけで、空気が変わる。濡れたアスファルトの匂いに混じって、どこからともなく香の煙が流れてくる。この通りにある〈夜色(やしき)〉は、そんな空気に溶け込むように、ひっそりと佇んでいた。看板もない木製の扉を押すと、鈍い音がして、薄暗い照明の中に一歩足を踏み入れる。外よりもさらに湿度を孕んだ空気が、身体にまとわりつく。天井近くから吊るされた古いランプが、ぼんやりと黄色い光を落とし、空間の輪郭を曖昧にしていた。「……あんた、また疲れた顔して」カウンターの奥から、ゆったりとした声が飛んでくる。香月だった。グラスを拭きながら、河内にだけ向ける独特の笑いを浮かべている。細身の身体にゆるやかな着物。髪は銀に近いブロンドでまとめられ、襟元から覗く喉仏がその性をさりげなく主張していた。「そんなに顔に出てもうてる? まあ、たしかに今日の会議、地味に消耗したわ」河内はジャケットを軽く脱ぎ、カウンターの椅子に腰を下ろした。肩が少し下がっているのは、油断ではなく、素の姿に戻った証だった。「雨、降ってたん?」「さっきまでな。今は上がってる。けど、空気が湿気っぽくてな。なんか、気が抜けるわ」「よう似合うで。あんたの、そういう気の抜け方」香月はそう言って、ウイスキーの瓶を棚から一本抜き、いつもの銘柄であることを聞くまでもなくグラスに注いでくれる。アンバーの液体が、氷に触れて音を立てる。その小さな響きが、店内の静けさを余計に引き立てていた。店内には他に、客がふたりだけ。奥のテーブルに中年の男が一人、カウンターの端に若い子がうつむいてスマートフォンを触っている。どちらも会話はなく、音楽と香だけが空間を満たしていた。ピアノの旋律は終わりかけで、鍵盤を撫でるような残響が、耳の奥にかすかに残る。「……あれ?」ふと、河内は氷の溶ける音に紛れて視線を動かした。店の奥、ちょうど暗がりに沈みかけているテーブル席。そこに座るひとりの人影が、どこか見覚えのあるシルエットをしていた。背筋の伸びた座り方、手首の細さ、グラスの持ち方。無意識に記憶が繋がりかけた瞬間、男が顔を横に向けた。喉が微かに鳴った。ぼんやりと照らされた光のなかで、その男の横顔がはっきりとした。白く整った輪郭、影を落とす睫毛の長さ
会議が終わると同時に、ざわつきが静かに広がり始めた。椅子を引く音、資料をまとめる紙の擦れる音、隣の席同士で交わされる小声の確認事項。午前中いっぱいの集中から解放された空気は、一斉にゆるんでいく。プロジェクトAの進行は概ね順調だった。要点の整理もできたし、修正点も見えた。それぞれが次にやるべき仕事を把握し、淡々と動き出す。河内は誰よりもゆっくりと席を立った。資料を持ち上げながら、ちらりと反対側の席を見たときには、すでに小阪の姿はなかった。彼は最初に立ち上がり、黙って資料だけを抱えて先に会議室を出ていった。背中を向けたその動きに、迷いやためらいはなかった。静かに扉を出たあと、河内も後を追うように部屋を出る。彼の足取りは急ぐでもなく、緩めるでもなく、どこまでも自然体だった。フロアの廊下に出ると、冷たい空調の風が一瞬頬を撫でた。エレベーターホールまで続く無機質な白い廊下の途中、右手には給湯室と自販機のスペースがある。会議明けには何人かが集まる場所だが、今は誰の姿もなかった。河内はそのまま自販機の前に立ち、ボタンを一つ押す。低く唸るような機械音のあと、缶コーヒーが落ちてきた。それを取り出してプルタブを開け、一口飲む。微糖の刺激が舌の奥に広がる感覚が、妙に鈍く感じられた。そのとき、足音が聞こえた。廊下の奥、会議室側とは反対方向から、ゆっくりと歩いてくる足音が一つ。誰かと会話しているわけでもない、靴音だけが床を叩く。河内がその方向へ顔を向けると、視線の先に小阪がいた。モノトーンのシャツにスリムな黒のパンツ。ファッションに主張はないが、その整った身体の線に自然に馴染んでいる。細身の体格が余計な装飾を必要とせず、ただそれだけで存在感を放っていた。無言のまま、真正面から歩いてくるその気配に、河内は少しだけ缶コーヒーを持つ手の力を抜いた。視線が交錯するのは、すれ違う直前だった。小阪は何も言わない。けれど、まっすぐこちらを見た。河内も目を逸らさなかった。互いに何の感情も表さず、言葉を交わすこともなく、ほんの数歩の距離ですれ違っていく。沈黙のなかで、ただ視線だけがふたりのあいだに残された。その一瞬の交差に、何かがあった。目の奥にある温度、無表情の下に隠れた微かなゆらぎ。河内は、缶を唇にあてたまま、無意識にひとつ息を吐いた。お前、ほんまに何も感じてへんのか。問いのような
会議は淡々と進んでいた。葉山がプロジェクトAの進捗資料をモニターに投影し、各セクションの進行状況と次週の予定を読み上げる。議事録を取る真島が要点をまとめる間にも、他のメンバーたちは資料に目を落とし、各自の業務内容と照らし合わせていた。静かに、しかし緊張感を保ったまま時間は流れていく。誰かのペンが紙を走る音と、モニターのページが切り替わるリモコンのクリック音だけが、ときおり音として空間を満たした。空調の風すらも鈍く、どこか抑えられているように感じられた。その空気の中で、河内は椅子にもたれながら、斜めに身体を倒して資料に目を落とす。指先で端を軽くつまむようにしてページをめくりながら、ひとつ前に映されたバナー案のビジュアルを思い返していた。白地に青を基調としたミニマルな構成。訴求ポイントはきちんと整理され、情報量の取捨選択も適切。何より、見た瞬間に意図が伝わってくる。押しつけがましくないが、確実に目に残る作りだった。「この案ええな…なあ、コサカくん?」唐突に、河内が口を開いた。柔らかく、けれど会議室に響くだけの声量で、真正面に座る小阪に向かって話しかけた。その瞬間、微かに空気が揺れた。小阪は手元の資料から目を上げなかった。だが、わずかに睫毛が動いた。表情は変わらない。だが明らかに、一瞬の思考の間が挟まれていた。視線を上げることはなく、それでも応答はあった。「……はい」低く、抑えた声だった。語尾に揺らぎはない。肯定だけが、機械的に告げられた。河内は一拍の沈黙を挟んで、ふっと笑った。肩をすくめて、隣の真島を見ながら口を開く。「めっちゃ愛想ないやん。俺、ちょっと泣きそうなるわ」冗談めかした口調だったが、その目は再び小阪の表情を捉えていた。どこか試すような、いや、むしろ確かめるようなまなざしだった。小阪はそれに反応しない。返事も、視線もない。資料に戻った視線は、そのままモニターと手元の書類を往復していた。頬の動きも、眉の角度も微動だにせず、ただそこに座っているだけのようだった。けれど、河内の目は一瞬だけその唇の動きを捉えていた。確かに、気のせいかと思うほど僅かに、口角が…上がったように見えた。ほんの一瞬の、それこそ一秒にも満たない動きだった。すぐに元の無表情へと戻ったその横顔に、周囲は誰も気づかない。真島も、葉山も、他のメンバーたちも、淡々と次の話
会議室のドアが閉じる音が、空気をきりりと締めた。白を基調にした室内には、四方に窓がなく、空調とLEDの明かりが、どこか人工的な静けさを作り出している。壁際にはグリーンがひと鉢だけ置かれていたが、それすらもこの場の緊張感に馴染まず、浮いて見えた。中央の楕円形のテーブルを囲むように、六人ほどがすでに着席している。資料の束がそれぞれの前に配られ、会議の進行を担う葉山が、席に着く前に一瞥を配った。「じゃあ、時間なったし始めよか。プロジェクトA、今週の進捗確認と来週の案件整理、いくで」短い号令のあと、全員が一斉に資料に目を落とす。その中で、河内はいつものようにゆったりと椅子を引いた。スーツの裾を整える仕草は癖のようなもので、特に意味はない。資料に目を通しながら、隣の真島に軽く話しかけた。「真島さん、昨日のあの件、なんとかクライアント説得できたで。昼過ぎに正式なGO出たわ」「あ、ほんま? やるやん。さすが交渉の鬼やね」「鬼は言いすぎやわ。ちょっと粘っただけ。まあ…声のトーン上げたり下げたりは、うまくいったかもな」軽口を叩きながらも、河内の視線は時おり正面に滑っていた。そこには、小阪が座っていた。まだ彼と正面から向かい合ったことはない。業務上の接点は少なかったし、普段は互いに別のラインで動いていたから、こうしてテーブル越しに向かい合うのは、事実上初めてだった。小阪は、会議中でも姿勢を崩さない。背筋を伸ばし、腕をテーブルの上に静かに置き、配られた資料に視線を落としている。目の動きは淡々としていて、焦点の定まり方が独特だった。誰かと目を合わせようとはしない。それが癖であるように、徹底して視線を外す。あくまで無意識を装っていたが、そこには明確な拒絶があった。河内はふと、小阪の右手の動きに目をとめた。ペンを握る指先が細く、動きに無駄がなかった。筆圧は弱いが、線がブレない。リズムよく走るボールペンの動きが、ひとつひとつ滑らかに言葉を繋いでいく。その手首の角度、肘の高さ、そして肩の力の抜け方まで、すべてが繊細だった。だが、それは柔らかさとは違った。鋭さと、どこか緊張感を伴った静けさ。あまりにも無音に見える動きに、河内は一瞬、息を忘れそうになった。どこかで見たような感覚があった。音楽のレッスンを受けていた頃、グランドピアノの鍵盤を押さえる手に、似ていた。音が鳴る直前の、沈
会議室の前の廊下には、まだ湿気を含んだ空気がほんのりと漂っていた。九階のフロアは天井が高く、遮音ガラスに囲まれているため、外の車の音も遠くくぐもって聞こえる程度だった。床のカーペットは静音仕様で、誰かの足音さえ吸い込んでしまう。そんな中、ドアのすぐ外で背伸びをしている男の声だけが、妙にくっきりと響いた。「ふー、なんか湿気すごない? 髪まとまらんて、ほんまに…」河内拓真は片手に持った会議資料を軽く仰ぎながら、汗を拭くような仕草で襟元を摘んだ。ジャケットはさっきまで肩にかけていたが、会議室に入る前にようやく袖を通したばかりだ。襟元が乱れていても、誰も指摘しない。むしろ、そんなラフさが彼の持ち味であり、社内の空気を和らげる潤滑剤のようにも機能していた。そこへ、静かに近づく足音がある。ピンヒールの先がカーペットを踏みしめる軽やかなリズム。一歩、また一歩。河内が声の主に気づいて振り返ると、スラックス姿の女性が、片手にタブレットを抱えて立っていた。「……遅刻、二回目やな」チームリーダーの葉山千景だった。三十代前半。肩まで伸びた髪をひとつに結い、白いブラウスに深いネイビーのパンツスーツを合わせている。姿勢に無駄がなく、表情は柔らかいが、目つきだけは鋭い。社内でも“デキる女”と呼ばれ、信頼されている存在だった。河内にとっても、直属の上司である。「すんません。今日はマジで電車が…いや、うそです。寝坊です」あっさり白状してみせる河内に、葉山は鼻で笑った。「ポイントカードでも作っとくか。十回で始末書、二十回で減給」「えげつな。俺もう二十ポイント溜まってるで。なんか景品くれへん?」「その景品、お説教でええ?」やりとりに、横を通りかかった若手社員が思わず吹き出した。河内は気にせず、葉山と顔を見合わせて笑う。その顔は、いつものように整っていた。笑いながらも、目は細く、声の調子は軽い。けれど、葉山はその笑顔の下にうっすらとした疲れを感じ取っていた。まるで、どこかにいる別の誰かを思いながら喋っているような、うわの空の笑顔だった。「…なんか、最近あんた、よぉ笑うようなったな」「え、そう? ええことやん。愛想ええのが、営業の基本でしょ」「愛想と愛嬌は違うんやけどな」葉山がぽつりと呟いた時、会議室のドアが内側から開いた。中ではすでに、数名のメンバーが着席を始めてい
クリエイティブ第3チームのフロアは、朝の喧騒が落ち着き始めたころに、ようやくそれぞれのリズムを取り戻していた。天井から落ちる蛍光灯の明かりが、整然と並ぶデスクを淡く照らし、Macの白い筐体にうっすら反射している。コピー機が一度、低い唸り声を上げて沈黙し、数人の社員がそれに反応するように小さく動いた。けれど、それ以上に何かが“動く”気配は、どこにもなかった。その静けさの中心に、小阪陸斗の姿があった。デスクの前で真っすぐに背筋を伸ばし、両手はキーボードの上に滑らかに並ぶ。モニターに映るデザインソフトのウィンドウには、進行中のWeb案件のバナー案が映っていた。白と黒を基調にしたミニマルなレイアウト。フォントの余白や行間の詰め方に、確かな技術と美意識が滲んでいる。それは、ただ美しいだけではない。どこか、観る者を遠ざけるような緊張感をはらんでいた。小阪の指は静かに動き続けていた。けれど、彼の顔には一切の感情が浮かんでいない。無表情というより、感情を排除することを意識的に選んでいるような無音の静寂。唇はわずかに引き結ばれ、瞼は伏せがちに整っている。顔色は決して悪くない。肌は白く、頬の赤みも体温を感じさせる程度には存在していた。それでも彼の気配は、周囲と異なる“重さ”を持っていた。彼の美貌は、社内でもよく知られていた。目元の繊細な切れ長、鼻筋の通り、やや長めに揃えられた黒髪が耳にかかる仕草には、誰もが一度は目を奪われる。だが、それ以上に人を遠ざけているのは、その佇まいだった。まるで、空気にさえ触れられたくないとでも言いたげな、緊張をはらんだ沈黙。「コサカくん、午前提出分の資料、もう仕上がってる?」声をかけたのは、同じチームの女性ディレクター、真島だった。彼女は気を遣ったようなやや高めの声で、席の横からそっと問いかけた。小阪は、ほんのわずかに顔を上げる。その視線は一度モニターから真島の顔へと滑るが、ほんの一瞬だった。すぐに、わずかに首を縦に振る。唇は動かさない。返事は、それだけだった。「ありがとう。助かるわ」真島が笑みを浮かべて去っていくと、近くにいた若手社員が気まずそうに、そっと息を吐いた。その息づかいまでもが、まるで小阪に聞こえてはならないかのように小さく抑えられていた。「コサカさんって、きれいやけど、なんか…怖ない?」「目ぇ合わせたら、なんか透かされ
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