Semua Bab 名前のない夜に溶けて~終わりからしか始まらなかった愛がある: Bab 41 - Bab 50

50 Bab

新しい朝のカーテン

朝が来たことを、薄いカーテン越しの光で知った。春のやわらかな日差しが部屋の隅々にまで広がり、白い壁や床を静かに染めていく。都内の小さなマンション。二人が住み始めたばかりのその空間には、まだ引越しの段ボールがいくつも積まれている。けれど、埃っぽさも段ボールの段差も、今はどこか新鮮な居場所の一部に思えた。ベッドから起き上がった塩屋は、寝癖のついた髪を手ぐしで整えながら、ぼんやりとリビングに歩いてくる。Tシャツの裾を引き下ろし、須磨の姿を探す。キッチンのほうからコーヒーの香りが漂ってくる。須磨が静かにドリップを落とし、カップを並べている。いつもの朝だ。だけど、「二人きり」というただそれだけのことが、どれほどの喪失のうえにあるか、二人ともよく知っていた。「おはよう」と塩屋が低く声をかける。須磨は肩越しに振り返り、少しだけ笑う。「よく眠れた?」と問いかけながら、マグカップを二つ用意する。その顔には、もう言い訳や迷いの影がない。シンプルな穏やかさが、薄い髭の下に微かに滲んでいた。塩屋はソファに座り、テーブルに置かれたマグカップを両手で包み込む。指の先がほんのりと温かくなる感触。須磨も隣に腰を下ろし、窓の外を見た。白木のカーテンのすき間から、春の陽射しがふたりに射し込む。影と影が自然と重なり、そこだけがほんのりと色濃い。しばらく無言でコーヒーを飲む。時折、湯気の向こうで塩屋の瞳が揺れている。長い年月を失ったわけじゃないのに、昨日までの人生が何年も昔のことのように遠く感じる。「……何もなくなったね」と塩屋がぽつりと呟く。さみしさとも、ほっとしたような感情ともつかない声だった。生活感のない空間。仕事も、交友も、しばらくリセットした。家族だった人たちも、それぞれ新しい場所で生きている。「ここには僕と、須磨さんしかいない」須磨は、言葉の端に宿る痛みと安堵の両方をゆっくり受け取るように、静かに塩屋の肩を抱いた。自分の腕が塩屋の背中に回ると、彼は少しだけ身体をすくめて、すぐにふっと力を抜く。重なった体温が確かに存在を教えてくれる。須磨は耳元でささやく。「でも、やっと本当に一緒にいられる」と。塩屋は返事をしない。ただ、マグカップを握る手がわずかに震え
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-20
Baca selengkapnya

ふたりの再出発

午前十時過ぎ、須磨はノートパソコンの前で資料を整理していた。塩屋はその背中をちらりと見やりながら、小さな洗濯機にシャツを入れて回している。ごく普通の家事の光景なのに、彼らにとっては新しい世界だった。窓から差し込む春の日差しが、リビングの床を優しく照らしている。洗い立てのシャツをハンガーにかけ、塩屋は須磨のワイシャツの袖口にそっと指を滑らせて形を整えた。その手つきは慎重で、どこか愛おしむようでもある。自分でやるよりも、こうして誰かのものを手入れするほうが、心が落ち着くと初めて知った。昼前になると、ふたりはエコバッグを持ってスーパーへ出かける。店内を並んで歩くと、須磨はときどき塩屋の好きそうな野菜を手に取り「これどう?」と訊く。塩屋は「今日は安いね」と返しながら、魚売り場の前で立ち止まる。以前は妻のため、あるいは家族のためだった買い物が、いまはただ「須磨と自分のため」だけに完結している。そのことが、まだどこか不思議で、胸の奥がほんのり温かくなる。ふたり分の夕食は、決して贅沢なものではなかった。鶏肉と旬の野菜の炒め物、炊きたてのご飯、そして味噌汁。塩屋は食事の用意をしながら、須磨の後ろ姿を見つめる。いつしか、須磨の声は低く穏やかになり、以前のように焦ったり不機嫌に尖ることが減った。「ありがとう」と言うたび、自然に笑顔が返ってくる。「塩屋の料理、やっぱり好きだな」と須磨が箸を進めながら言う。塩屋は照れくさそうに「簡単なものしか作ってないですよ」と返すが、須磨が「それが一番贅沢」と続けると、ほんのり頬が赤くなる。ふたりの間には、言葉にしなくても通じる何かが確かに流れ始めていた。仕事が本格的に再開し、須磨は朝早くから資料を抱えて外出することも増えた。塩屋も、会計事務の顧客を一件ずつ増やしていく。夜、遅くに帰ってきて食卓を囲むとき、ふたりはほんの少しだけ疲れていて、その分だけ静かな安心感を分かち合っていた。食後の洗い物をしながら須磨が「今日も頑張ったな」とぽつりと言うと、塩屋は「お疲れさま」と微笑みながら、須磨の背中にそっと寄りかかる。それでも、ふとした瞬間に過去がよぎることはあった。テレビから聞こえる家族団欒の笑い声や、休日の買い物帰りにふいにすれ違う親子連れ。喪失の感覚は、まだどこかに居座り
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-20
Baca selengkapnya

もう一度、海へ

朝、窓の外で鳥がさえずる声を聞きながら、須磨はコーヒーを飲み終えると、ふいに「行こうか」と塩屋に言った。塩屋は目を見開いたまましばらく黙っていたが、やがて微笑み返し、うなずく。「うん。あの海、もう一度見てみたい」春の陽射しは、都心を抜ける道にも海沿いの道路にもやさしかった。助手席の塩屋は窓をわずかに開けて、潮の香りを吸い込む。須磨は運転席でハンドルを握りながら、ときどき塩屋の横顔に視線を落とした。過去にはなかった安堵と、少しの緊張がふたりの間に漂う。何も隠さず、ただ一緒にいるだけで満ちていく。そんな関係にようやく辿り着いたのだと、須磨は改めて思った。貸別荘の前に車を停めると、海からの風が髪を揺らす。かつての夏の日と違って、潮の匂いも空気の温度もすべてがやわらかい。塩屋は静かに須磨の手をとる。指先を確かめるように絡めて、ふたりは海辺まで歩き出した。堂々と、隠しごとも遠慮もなく、ただ手をつなぎ歩く。小さな浜辺に着くと、塩屋は波打ち際に立ち止まり、潮風に目を細める。須磨は彼の横顔を横目で見て、言葉より先にそっと肩を抱いた。「前に来たとき、怖かった」と塩屋がぽつりとこぼす。「失うものが多すぎて、どこにも行けない気がしてた」須磨は、塩屋の手を握り直す。「今は?」「今は、何も怖くない」と塩屋は静かに言う。「もう、何も隠さなくていいから」貸別荘の鍵を受け取って、ふたりはかつてと同じ部屋に入る。家具も間取りも変わらず、けれど空気はまるで違う。須磨はカーテンを開け放ち、窓から差し込む春の光を受けて目を細める。海の青さと、淡い波音だけが室内を満たす。塩屋は荷物を下ろすと、まっすぐに須磨の前に立ち、両手で彼の頬をそっと包んだ。ひんやりとした手のひらに、須磨は思わず目を閉じる。「ずっと、こうしたかった」と塩屋がささやく。「最初から、嘘もごまかしもなく、あなたと向き合いたかった」須磨はその手に自分の手を重ねる。「俺も。同じ気持ちだった」ふたりの間に沈黙が降りる。けれど、そ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-21
Baca selengkapnya

魂の交わり

夜の帳が貸別荘の窓辺に静かに降りてきた。波の音が遠く近く、ゆるやかなリズムで響いている。外は春の夜気がまだ少し冷たく、だが室内は須磨のぬくもりと塩屋の呼吸で満たされていた。二人でシーツを整え、ベッドの端に腰かける。窓の外に見える月がぼんやりと海面を照らしている。塩屋は、そっと須磨の頬に手を添えた。指先は細くしなやかで、そのまま髪を撫でる。もう、どこにも緊張はなかった。ただ目の奥に、消えない寂しさとやさしさが浮かんでいる。須磨はその手を自分の手で包み、額をそっと塩屋の肩に寄せた。静かに目を閉じ、呼吸を合わせる。まるで互いの心臓の音を感じ取るように。やがて塩屋が囁く。「全部、なくなったけど……あなたがいる」その声には涙の響きが混じる。須磨はそっとその涙を親指でぬぐう。「やっと、人生が始まった気がする」と低く囁いた。塩屋は小さくうなずき、頬を赤らめながら微笑む。シーツの上で、静かに手と手を重ねる。須磨の指先が塩屋の鎖骨から肩、胸のほうへとゆっくりなぞる。そのたびに塩屋の身体が、わずかに震え、浅く息を吸い込む。須磨は優しく塩屋の髪を梳き、その額にゆっくりと口づけを落とした。小さな吐息が塩屋の唇から漏れる。ふたりは、何も急がなかった。今夜だけは、世界から隠れる必要も、誰かに背を向ける必要もない。確かめ合うように、抱きしめる。塩屋の腕が須磨の背中にまわり、指先が肌の上をたどる。互いの温度を余すところなく感じようと、すべての仕草がゆっくりと重なっていく。「須磨さん」と名前を呼ぶ声がかすれる。須磨はその声ごと受け止めるように、塩屋の身体をしっかりと抱き寄せた。唇が触れ合い、吐息が混ざる。塩屋の瞳に浮かぶ涙がきらりと光り、その涙が流れるたび、須磨はそっと唇で受け止める。「大丈夫」と須磨がささやく。「もう、どこにも行かない」「離さないで」と塩屋が震える声で返す。須磨の腕が、さらに強く塩屋を包む。塩屋の背中が弓なりに反り、喉から浅い喘ぎ声が漏れる。須磨のうめきが、その耳元で低く響く。触れあう肌の温度、髪を撫でる指先、鼓
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-21
Baca selengkapnya

朝焼けの誓い

薄いカーテン越しに、春の朝日がゆっくりと室内に差し込む。海の向こうに夜明けの気配が満ちて、波音もやさしく遠ざかっていく。シーツの中、須磨は塩屋の体温を腕に感じながら、まどろみの底から静かに目を覚ました。頭上には、ぼんやりとした青白い天井。肩にかかる重さと、首元に感じる呼吸のぬくもり。すぐ隣で塩屋が眠っているのだと気づき、須磨はほんの少しだけ、身体を寄せた。塩屋も同じ頃に目を覚ましたのだろう。須磨の腕の中で、そっとまぶたを開き、まだ眠気の残る瞳で須磨を見つめ返す。互いの髪が額に触れ合い、その微かな刺激が、ふたりをさらに近づけた。言葉はなかった。ただ、静かで、やわらかな空気だけがそこにあった。塩屋は寝返りを打ち、須磨の胸に顔をうずめる。須磨はその後頭部に手を添え、指先でゆっくりと髪を梳いた。夜の間に何度も抱き合い、泣き、笑い、ようやくたどり着いた安堵の朝。何かを約束するわけではない。ただ、「今ここにいること」が、全てだった。しばらく、誰も動かない。須磨は塩屋の髪を梳き、耳の裏に唇を落とす。塩屋は小さく微笑んで、腕を須磨の腰に回す。そのまま、互いの鼓動を感じ合うように目を閉じた。外から差し込む朝焼けの光が、ふたりの肌をやさしく包み込んでいる。「なんだか夢みたいだね」と塩屋がぽつりとつぶやく。声はかすかに震えているが、もう不安はなかった。「夢じゃないよ」と須磨が答え、塩屋の頬に指を滑らせる。塩屋はその指に頬を寄せ、すこし照れたように目を伏せた。何もいらない。過去の痛みも喪失感も、ふたりの間に流れる静けさのなかで、もう特別な重さを持たなかった。いずれ、それも優しい思い出へと変わっていく。塩屋は須磨の髪をそっと撫で返す。光の中で、ふたりの微笑みが重なった。窓の外には、昨日までと同じ海と空が広がっている。だけど、今朝はすべてが違って見える。長い夜を超えて、ようやく手に入れた温もり。ふたりは何度も見つめ合い、何度も微笑んだ。塩屋が「ありがとう」と小さくささやき、須磨は無言でその手を握りしめる。もう、未来を誓う必要はなかった。ただ、今ここにいる――その実感だけが、胸いっぱいに広がる。朝の光の中で見つめ合うふたりの表情には
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-22
Baca selengkapnya

新しい窓から

朝は、静かに部屋の隅から始まった。携帯のアラームが鳴り、志乃はぼんやりと天井を見つめる。まだ少し薄暗い室内、ひとりきりのベッドで伸びをすると、肩からふわりと布団がずり落ちる。起き上がり、足を床につけると、少しだけ新しい生活の重さと軽さが交錯して感じられる。ベッドサイドのカーテンをそっと開ける。窓の外には、やわらかな初夏の朝日が差し込んでいた。高層マンションの窓から見下ろす街路樹の緑が揺れている。誰かの気配も、隣に温もりもないこの空間が、少しずつ志乃に馴染み始めていた。洗面所で顔を洗い、鏡の前に立つ。水気を拭いながら、目の下のクマを軽く押さえる。髪をひとつに束ね、整える指先が少しだけ迷いなくなった気がする。前よりも、強くなった。そう思いながら、鏡の奥に映る自分を見つめる。頬の輪郭が少しシャープになり、まなざしもどこか凛としてきたように見える。キッチンでコーヒーメーカーのスイッチを入れる。コポコポと湯が落ちる音と、立ちのぼる香りに、小さな幸せを感じるようになったのは最近のことだ。カップを手にし、窓辺に腰かける。ひと口、熱いコーヒーを啜ると、胸の奥のどこかがじんわりと温まる。「最近、明るくなったよね」と職場で言われた言葉がよみがえる。志乃は口元だけで微笑む。たしかに、あの夜から、世界の色は少し変わった。喪失の痛みがまったく消えたわけじゃない。ふとした瞬間、誰もいない食卓の空席や、休日の午前中の静けさが胸に刺さる。それでも、毎朝のルーティンと、今やらなければならない仕事、そして小さな目標――そういうものが、志乃を一歩ずつ未来に連れ出してくれている。クロゼットからアイロンをかけたシャツを選び、袖を通す。カフスボタンをとめながら、出社の準備を終える。カバンを肩にかけて部屋を見渡すと、ダイニングテーブルの上に小さな観葉植物が一つ、静かに葉を伸ばしているのが目に入った。少しだけ笑みがこぼれる。この緑もまた、自分がひとりで育てているもの。水やりも、葉の手入れも、誰かに委ねることなく、志乃自身の手でこなしてきた。出社の道すがら、晴れやかな空に目を細める。バスに乗り込み、窓の外を流れる街の景色に、何度も見たはずの並木道や小さな店の看板が、なぜか今日はほんの少し新しく見える。人
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-22
Baca selengkapnya

花の香りとガラスの光

瑞希の朝は、切り花の香りと共に始まる。店先の扉を開けると、初夏の空気がふわりと入り込んでくる。明るいガラス張りのアトリエ。以前よりも少しだけ広い空間に、所狭しと並ぶバケツと花瓶。芍薬やアジサイ、カスミソウ、バラの束。水の中に浮かぶ茎の緑色が朝の光に透けて見える。その中を歩きながら瑞希は、ふとスカーフを首筋で結び直す。柔らかな布が肌に触れ、気持ちがしゃんと引き締まる。手早く作業台の上を片付け、開店前の空気をゆっくり吸い込む。若いスタッフたちが集まってくる気配がガラスの向こうから伝わってくる。瑞希は少し背筋を伸ばし、髪を後ろでまとめ直す。店内に響く声や笑いが、毎日少しずつ自分の背中を押してくれているような気がしていた。「おはようございます」「おはよう」明るく挨拶を交わしながら、スタッフひとりひとりの顔を見て、今日の担当や注文の確認をしていく。瑞希の声は、どこか淡々としているのに、指示を出すときには不思議と柔らかさが混じる。スタッフたちが手際よく作業を始めるのを見て、瑞希も手袋をはめた。水に手を浸して茎を切ると、少しだけ手首に花の香りが移る。無意識のうちにその手首を鼻先に近づけて、そっと香りを確かめる。注文のウエディング装花を作る時間は、頭の中が空っぽになる瞬間でもある。瑞希は花束を組み上げながら、過去のことを考える余地を自分に与えないように集中する。手が花の輪郭を探り、一本ずつバランスを整えていく。白いバラに淡いグリーンを添え、リボンをふわりと巻きつける。その仕事ぶりは、かつてよりもはるかに力強い。けれど、花の茎を傷つけないように添える指の感触は、驚くほどやさしい。午後には客が絶え間なく訪れ、贈答用のブーケやアレンジメントの相談が続く。注文を受け、完成した花束を差し出すとき、相手の笑顔を見るのが今の瑞希のささやかな喜びになっていた。忙しさに追われていると、喪失や過去の痛みは、かすかな波音のように遠ざかる。スタッフの休憩時間、ふと鏡を覗くと、スカーフの結び目がほどけかけていた。慣れた手つきでそれを結び直し、軽く額の汗を拭う。店内のガラスに映る自分の顔は、どこか穏やかで、芯の強さが滲んでいた。日が傾き、閉店時間が近づく。忙しさの中でも、瑞希は必ず作る
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-23
Baca selengkapnya

テーブルを挟む友情

夕方のアトリエは、昼間の賑わいを終えて、静かな余韻に包まれていた。外の通りにはまだ人の気配があったが、店の中はガラス越しに沈みゆく光が射し込み、カウンターテーブルには温かいランプの灯りが映る。志乃と瑞希は向かい合って座っていた。ふたりの間には、各々のマグカップがひとつずつ置かれている。白いカップの縁からは、まだほんのりと湯気が上がっていた。志乃は、両手でマグカップを包むようにして、その温度を指先に感じている。瑞希も同じようにカップを持ち、ゆっくりと息をつく。今日の花仕事の話や、お客さんのちょっとしたエピソードをひとしきり交わした後、ふたりの間にしばしの静寂が訪れる。けれどその静けさが苦痛ではなく、むしろどこか心地よいものとして、空気の中に漂っていた。「きっと私たち、もう前に進んでるよね」と瑞希がぽつりと言う。指先はカップの取っ手から離れ、無意識に自分の手首をなぞる。柔らかな花の香りがその肌に残っていることを、ふと意識する仕草だった。志乃は、目の前のカップに視線を落としたまま、頬杖をつく。指先であごの下をそっと撫でる動きは、どこか子どもっぽく、それでいて大人の余裕を帯びている。「うん」と静かにうなずき、「少しだけ、世界の見え方が変わった気がする」と返した。その声には、かつての苦さや迷いがほとんど残っていない。過去の痛みや喪失を消そうとはせず、それらをちゃんと携えたうえで、新しい景色を見ているような声音だった。ふたりは、多くを語らない。あの夜の涙や、胸の奥に走った痛みを蒸し返すことはしない。目を合わせて、どちらからともなく小さく笑った。カップを包む指先が、ほんの少し緩む。会話が途切れても、気まずさはどこにもなく、むしろ一緒に過ごすだけで呼吸が落ち着くのが不思議だった。「最近、また短い旅行に行こうかなって思ってる」と志乃が言う。「ひとりでどこかに行くの、昔は不安だったけど、今はなんだか楽しみなの」瑞希は目尻に小さな笑い皺を寄せる。「どこに行くの?」「まだ決めてない。海でも、山でもいいかなって」志乃は肩を竦める。「どこでも、景色がきれいなところなら」「だったら、帰
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-24
Baca selengkapnya

すれ違い

初夏の昼下がり、ビルの谷間を抜けていく風は少しだけ湿気を含んでいた。志乃は仕事帰りの混雑した通りを歩いていた。駅へ向かう人の群れの中、手にした鞄がふいに重く感じられ、歩幅がひとつだけ緩やかになる。目の前の交差点の信号が青に変わり、列をなして歩く人々に合わせて、ゆっくりと前へ進む。コンクリートの街路樹の葉が、頭上でさらさらと揺れる音がした。そのとき、不意に視界の端に人影が映った。反対側の歩道を、背筋の伸びたひとりの男が歩いている。薄いグレーのシャツの袖が風に揺れて、陽射しに透けて見える。長い脚、白く整った首筋。志乃は、ほんの一瞬だけその横顔に目を留めた。塩屋――そう気づくまでに時間はかからなかった。歩道の向こう側で、塩屋もまた、わずかに顔を上げる。その視線がまっすぐに志乃を捉える。ふたりの目が重なったのは、ほんの数秒にすぎなかったが、その短い間に、言葉にならないさまざまな感情が行き交った気がした。微笑みはない。声もない。ただ、どちらも一歩も引かず、まっすぐ前を向いていた。塩屋の表情に、あの日の迷いや、後ろめたさの影はなかった。静かで穏やかな瞳。志乃もまた、すっと背筋を伸ばす。その場で歩みを止め、呼吸を整えるように一度だけ目を閉じる。通り過ぎる人の流れが途切れた一瞬、ふたりの間にだけ静けさが満ちた。塩屋は軽く顎を引き、淡い微笑みを浮かべて、そのまま前を向く。そして何もなかったように、さりげなく人の波に紛れて歩き出す。志乃は小さく息を吐き、ほんの少しだけ唇を引き結ぶ。そのまま自分の歩調で、前を向いて再び歩き出した。ビル街のガラス窓に映る自分の姿をちらりと見る。もう何も失うものはないというより、すでにすべてが新しい日常の一部になったのだと、志乃は思った。誰かに見せるためでも、証明するためでもなく、ただ自分自身のために生きる。その覚悟が、今の歩幅を支えていた。すれ違った後も、志乃の心にざわつきは残らなかった。むしろ、深い静けさの中にわずかな温かさが漂っている。あの夏の終わりに抱いた悔しさや、痛みはもう遠く、胸の奥で静かな波紋となって消えていく。振り返りたい衝動はなかった。ただ、前を向いて歩く。肩に当たる光が少しだけ柔らかく感じられる。ビルとビルの隙間から吹く風
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-25
Baca selengkapnya

その先の空へ

夜の帳がゆっくりと都心を包み、志乃は自宅マンションのベランダに立っていた。仕事から帰り、軽く夕食を済ませてシャワーを浴びる。バスタオルで髪を拭いたあと、ワインをほんの少しグラスに注いで、深い息をつく。ベランダの手すりにもたれ、はるか遠くの街の灯りをぼんやりと眺める。窓ガラス越しの部屋には、温かみのあるライトが灯り、グリーンの葉を伸ばす観葉植物が静かに影を落としている。夜風は、昼間の熱気を忘れさせるほどに涼しかった。静かな空気に、遠くから救急車のサイレンが響く。カーテンの隙間から洩れる明かりと、手にしたワイングラスの冷たさ。目を閉じて深呼吸をすると、ほんのりとした葡萄の香りが喉奥に広がる。志乃は、遠ざかりつつある記憶に、そっと指先を触れるように思い出す。あの夏の日々――強い日差し、潮の匂い、騒がしくも愛おしいバーベキューや、夜の海辺で見上げた星空。笑い声とささやかな会話、すれ違う視線の奥にあった、小さな違和感や胸のざわめき。時には、どうしようもない孤独がこみ上げてきた夜もあった。それでも、誰かと寄り添って生きていこうと必死で踏みとどまっていた日々。すべては、今となっては遠い出来事。忘れたいわけじゃない。でも、あのころの痛みも、幸せも、もう自分の中で静かに沈殿し、波風の立たない湖底に眠る思い出に変わりつつあった。「人生は、たった一度きりだ」と、志乃は小さく呟く。 その言葉が夜空に吸い込まれていく。もう誰にも届かなくていい。自分にだけ、そっと響けばよかった。失ったものは多い。けれど、今はもう、怖くない。少しずつ、自分自身で選んだ日常に、ささやかな誇りや充実を見いだせるようになっていた。どこかに向かう途中で何かを落としたとしても、それでも、歩いていくしかないのだと、今なら思える。街の明かりを見下ろしながら、明日の予定をぼんやり思い浮かべる。明日は朝から社内会議。午後には瑞希のアトリエにも寄る予定だ。新しい服もそろそろ買いに行きたいし、ちょっとした贅沢で好きなケーキ屋にも寄ろうか――そんな、ごく普通の明日。何の事件も、波乱もない日常。でも、だからこそ愛おしいと思えるのだろう。志乃は胸の奥に、うっすらとした痛みを感じていた。それは決して消えない傷跡かもしれない。でも
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-26
Baca selengkapnya
Sebelumnya
12345
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status