名前のない夜に溶けて~終わりからしか始まらなかった愛がある

名前のない夜に溶けて~終わりからしか始まらなかった愛がある

last updateDernière mise à jour : 2025-07-26
Par:  中岡 始Complété
Langue: Japanese
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結婚していたのは、女と男。でも、愛したのは…男と男だった。 ごく平凡な二組の夫婦。静かに満ちていたはずの日常は、ある夏、貸別荘での“再会”によって軋みはじめる。 互いの胸に秘めた欠落を埋めるように、男たちは夜の帳の中で重なり合う。 気づきながらも目を逸らす妻たち。そしてついに、「信じること」が崩れ落ちる夜が訪れる。 裏切りと赦し、欲望と孤独、愛と再生。 すべてを失ったふたりの男が、それでも「ただ、あなたと生きたい」と願ったとき—— 新しい愛のかたちが、ゆっくりと立ち上がる。 心を揺らす純愛BL、ここに誕生。

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Chapitre 1

10年越しのドアベル

ガラス越しに外を見れば、薄曇りの空がぼんやりと陽を透かしていた。風はなく、じっとりとした湿気が街を包んでいる。夏の始まりを告げるような、重たい空気だった。志乃はカフェ併設のフラワーアトリエの扉の前で立ち止まり、薄く息を吸った。大学時代の親友が運営している店舗である。

十年ぶりの再会というものに、少しばかりの緊張と、ほんのわずかなときめきが混じっていた。

ドアのガラスに映った自分の顔を見て、志乃は小さく姿勢を整えた。肩にかかる髪を撫で、軽くリップを確かめる。こんなふうに誰かに会う前に、鏡を気にするなんて、いつ以来だろうと思った。ドアに手をかけた瞬間、内側から鈴の音が鳴った。

「いらっしゃいませ…あ」

振り返った瑞希の声は、あの頃のままだった。けれど、声の張りが少しだけ丸くなっていた。語尾に柔らかさが増していて、それが不思議と心に残った。志乃は思わず笑みをこぼし、ふたりの間の距離が一気に縮まったように感じた。

「志乃…久しぶり」

「瑞希、変わってないね」

お互いの名を口にした瞬間、学生時代の記憶が一気に甦る。講義の合間にカフェでしゃべり込んだ午後、卒論の締切前に泣きながらプリンタを奪い合った夜、真夜中に無意味に外を歩きながら交わした恋の話。たしかにすべて、あったはずの記憶だった。

アトリエの奥、カフェスペースに案内されて、二人は向かい合って座った。瑞希の頬には自然な紅がさしていて、白いブラウスの襟元からはほのかにラベンダーの香りが漂っていた。志乃は無意識のうちに、瑞希の左手を見た。薬指には、細いゴールドのリングが光っていた。

「素敵な指輪だね」

志乃が言うと、瑞希は照れたように笑って指を隠した。

「ありがとう。もう三年かな。結婚して」

「早いね。大学卒業してから、どんなふうに過ごしてたの?」

「いろいろあったよ。実家に戻った時期もあったし…でも、今はやっと、落ち着いたかな」

志乃は頷いた。瑞希の服の色は、昔よりも淡くなっていた。かつては黒や深い赤を好んでいた彼女が、今日はラベンダーグレーのワンピースを着ている。そういう変化に、年月の流れを思い知る。

「志乃は? 結婚してるって、聞いたけど」

「うん。もう三年目。彼はフリーで建築の仕事してて。わりと自由人だけど、まあ、合ってるのかも」

「へえ。なんか、想像つくな。志乃って昔から、自分の世界を大事にする人だったもんね」

「そう?」

「うん。恋愛でも、相手に飲み込まれるより、ちゃんと対等でいたいって思ってたでしょう?」

志乃は少し笑って、カップに口をつけた。瑞希のそういうところは、昔から変わらない。人の心を読むようにして、でもそれを静かに語る。

「…あの頃のこと、よく覚えてるんだね」

「だって、志乃との時間が、すごく楽しかったから」

そう言われて、志乃はふいに胸の奥があたたかくなった。あの頃の記憶は、懐かしいけれど、どこか夢のように遠い。自分たちは変わってしまった。けれど、それでもまたこうして、向かい合って笑えるのだ。

ふと、瑞希が店内を見回してから言った。

「ねえ、今度さ、旦那さんも一緒に会わない? うちの人も紹介したいし。四人でご飯とか、どう?」

「あ、いいね。夫婦同士で。そういうのって新鮮かも」

「でしょ? たぶん、ふたりとも気が合いそうな気がするんだ」

「うちの人、ちょっと変わってるよ?」

「うちのも変わってるよ。真面目だけど、何考えてるかわかんないところある」

笑い合ったふたりの空気に、どこか安心感が満ちていた。昔と今、そのあいだにあるものを、無理に測ろうとせずにいられる時間。

「じゃあ、来週あたり、予定合わせようか」

「うん。楽しみにしてる」

そう言いながら、志乃はもう一度、瑞希の手元に目をやった。指輪が、さっきよりも深く光を集めていた。ふたりのあいだには、もう学生時代のような無垢な時間はない。だけど、大人になった今だからこそ、築ける絆もあるのかもしれない。

帰り際、志乃は店を出て、ふと振り返った。ガラス越しに、瑞希が花を包んでいる姿が見える。その肩の丸みに、少しだけ「誰かの生活」が重なって見えた。

瑞希の声は、あの頃のままだったけれど、語尾の柔らかさに、誰かと長く暮らした人の匂いが混じっていた。

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10年越しのドアベル
ガラス越しに外を見れば、薄曇りの空がぼんやりと陽を透かしていた。風はなく、じっとりとした湿気が街を包んでいる。夏の始まりを告げるような、重たい空気だった。志乃はカフェ併設のフラワーアトリエの扉の前で立ち止まり、薄く息を吸った。大学時代の親友が運営している店舗である。十年ぶりの再会というものに、少しばかりの緊張と、ほんのわずかなときめきが混じっていた。ドアのガラスに映った自分の顔を見て、志乃は小さく姿勢を整えた。肩にかかる髪を撫で、軽くリップを確かめる。こんなふうに誰かに会う前に、鏡を気にするなんて、いつ以来だろうと思った。ドアに手をかけた瞬間、内側から鈴の音が鳴った。「いらっしゃいませ…あ」振り返った瑞希の声は、あの頃のままだった。けれど、声の張りが少しだけ丸くなっていた。語尾に柔らかさが増していて、それが不思議と心に残った。志乃は思わず笑みをこぼし、ふたりの間の距離が一気に縮まったように感じた。「志乃…久しぶり」「瑞希、変わってないね」お互いの名を口にした瞬間、学生時代の記憶が一気に甦る。講義の合間にカフェでしゃべり込んだ午後、卒論の締切前に泣きながらプリンタを奪い合った夜、真夜中に無意味に外を歩きながら交わした恋の話。たしかにすべて、あったはずの記憶だった。アトリエの奥、カフェスペースに案内されて、二人は向かい合って座った。瑞希の頬には自然な紅がさしていて、白いブラウスの襟元からはほのかにラベンダーの香りが漂っていた。志乃は無意識のうちに、瑞希の左手を見た。薬指には、細いゴールドのリングが光っていた。「素敵な指輪だね」志乃が言うと、瑞希は照れたように笑って指を隠した。「ありがとう。もう三年かな。結婚して」「早いね。大学卒業してから、どんなふうに過ごしてたの?」「いろいろあったよ。実家に戻った時期もあったし…でも、今はやっと、落ち着いたかな」志乃は頷いた。瑞希の服の色は、昔よりも淡くなっていた。かつては黒や深い赤を好んでいた彼女が、今日はラベンダーグレーのワンピースを着ている。そういう変化に、年月の流れを思い知る。「志乃は? 結婚してるって、聞いたけど」「うん。もう三年目。彼はフリーで建築の仕事してて。わりと自由人だけど、まあ、合ってるのかも」「へえ。なんか、想像つくな。志乃って昔から、自分の世界を大事にする人だったもんね」「
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四人で囲むテーブル
カフェの入り口の扉が開いたとき、瑞希はレジ奥で花束を整えていた手を止め、顔を上げた。ガラス越しに、志乃が夫を伴って入ってくるのが見えた。瑞希はエプロンの裾をさっと払って出迎えると、口元に柔らかな笑みを浮かべた。「いらっしゃい。早かったね」「うん、ちょっと早めに出たの。ここ、思ったより近かった」志乃がそう言いながら軽く頷き、その隣にいた男性へ視線を向ける。身長は高く、白の開襟シャツにベージュのジャケットを合わせた姿は、いかにもこなれた都会の大人という印象だった。短く整えられた髪、浅く刻まれた目尻の笑い皺、深く落ち着いた声で「はじめまして」と言った彼の姿に、瑞希は無意識に背筋を伸ばした。「夫の祐一です。須磨祐一」「塩屋瑞希です。今日は来てくれてありがとう」握手を交わす手のひらが、少し温かかった。その数秒後、厨房のほうからもうひとりの男性が姿を現した。カフェのスタッフ用の入口から現れたその人影に、志乃がふっと声を弾ませる。「もしかして、彼が?」「うん。夫の理仁」塩屋理仁は、優雅な仕草で頭を下げた。黒髪を後ろに流し、シンプルなシャツと細身の黒のパンツを着こなしている姿は、店内の空間に溶け込むように美しかった。肌は白く、まつ毛は長く、声は低く落ち着いていて、その場にいる誰もが自然と彼に視線を向けた。「どうも、初めまして。塩屋理仁です。志乃さんのお話は、妻からよく聞いてました」「はじめまして。須磨祐一です。…あ、なんか、ちゃんとした場だと照れますね」須磨はそう言って、少し照れたように笑った。その笑い方は柔らかく、人を油断させる空気を持っていた。四人は奥の予約席へと向かった。カフェの一角、ガラス窓に沿ったテーブルには、昼下がりの柔らかな光が差し込んでいた。ドライフラワーのアレンジがテーブルの中央に置かれていて、その静かな彩りが、場の緊張を少し和らげてくれる。最初は当たり障りのない話題から始まった。仕事のこと、都内での生活、共通の趣味について。塩屋は控えめに相槌を打ちつつも、会話の流れを読みながらタイミングよく話題を補う。その言葉選びとリズムには知性が滲んでいた。「建築関係の仕事って、自由で楽しそうですね」塩屋がそう言うと、須磨は笑いながらグラスの水を一口飲んだ。「自由、って言えば聞こえはいいけど、まぁ…全部自分次第だから、結構胃にもくるよ。税
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無意識の観察者
帰り道、車の窓の外に流れていく街の光を、瑞希はぼんやりと眺めていた。夕暮れの名残が空の端に薄く残り、フロントガラスに映る街灯が、ゆっくりと後方に遠ざかっていく。運転席の隣、ハンドルを握る理仁の横顔を、彼女は黙って見ていた。車内には、低く抑えられた音量でジャズが流れていた。さっきまであんなに盛り上がっていたテーブルの賑わいが嘘のように、二人の間には静けさが横たわっていた。悪い沈黙ではない。ただ、言葉が必要ない時間。けれど、瑞希の胸には、淡いざらつきのようなものが残っていた。「楽しかったね」助手席から投げかけた声に、理仁は少し遅れて頷いた。「ああ。志乃さんも、須磨さんも…いい人たちだった」それだけの言葉に、どこか物足りなさを感じたのは、自分のわがままなのかもしれないと瑞希は思った。理仁はもともと多くを語らない。けれど、それでも彼の言葉には、たいてい何かしらの色があった。今夜のそれは、妙に無色だった。「須磨さん、面白い人だったね。話も上手だし」「そうだね。…ああいう人、苦手じゃない?」「ううん、平気。むしろ話しやすかった。志乃も、昔のままだったし」そう言いながら、瑞希はまた窓の外に視線を戻した。返ってきた言葉に、何のひっかかりもなかったはずなのに、どこか心が落ち着かなかった。何かを見逃したような気がして、胸の奥がふわふわと浮ついていた。思い返せば、食事中の夫は、少し様子が違っていた。理仁は普段、他人の話に対しても穏やかに耳を傾けるが、どこか距離を保っているところがある。けれど、今日の彼は違っていた。須磨の話を聞くとき、彼は何度か、肩ごと身体を向けていた。笑うときも、少しだけ視線が長く止まっていた。そういえば、と瑞希は思った。須磨がバイクの話をしたとき、理仁は普段見せないような熱のこもった目をしていた。彼がああいう話題で、あそこまで楽しそうに笑うのを、今までに見たことがあっただろうか。須磨がグラスを傾けたとき、理仁は自然な仕草でそれを真似た。言葉にしない同調。まるで無意識に呼吸を合わせるような動きだった。「…疲れてる?」自分でも唐突だと思いながら尋ねると、理仁は目を細めて微笑んだ。「いや、大丈夫。…少し飲み過ぎたかも」その笑顔には、何も不自然なものはなかった。けれど瑞希の胸には、消えない小さなざらつきが残っていた。自宅に戻ったあとも、そ
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帳簿とカフェラテ
平日の午後、アトリエは客足もまばらで、瑞希は裏手の作業台でドライフラワーの配置に集中していた。窓を通して差し込む光はやわらかく、どこか緩慢な時間が流れていた。そんなとき、カフェスペースの扉のベルが鳴った。反射的に顔を上げると、そこには須磨の姿があった。「こんにちは」低く落ち着いた声だった。白いシャツの袖をラフにまくった彼は、日差しに少しだけ焼けた肌をしていて、外の暑さを物ともしていないように見えた。瑞希は軽く頭を下げ、カフェスペースに案内する。「今日はどうされました?」「この前、話してた会計の件で…理仁さん、今いらっしゃいますか?」「いますよ。ちょうど今、バックヤードで書類を整理してるところです。呼んできますね」そう言って奥へ引っ込んだ瑞希の声を聞きながら、須磨はカウンターの端に腰を下ろした。白木のテーブルに手を置き、店内の静けさに耳を澄ませる。花の香りがほのかに漂い、心地よい沈黙が広がっていた。数分後、カーテンを押し分けて塩屋が現れた。白いシャツに黒いスラックスという、いつもながらの整った装いだったが、どこかオフの空気をまとっている。視線が合うと、塩屋は少しだけ口角を上げた。「お待たせしました。資料、持ってきました」須磨は立ち上がり、軽く頭を下げる。「突然すみません。助かります」「いえ、こちらこそ。どうぞ」塩屋が隣の席に腰を下ろし、鞄からノートパソコンと数枚の書類を取り出す。テーブルの上に並べながら、整った指先が無駄なく動いていく。その所作を、須磨は何気ないふりで目で追っていた。指の節のかすかな盛り上がり、爪の縁、袖口からのぞく細い手首…目を離す理由が、見つからなかった。「今回は青色申告の整理ですか?」「そうなんです。いつもギリギリで、どうにもならなくなってから頼んじゃって」「まあ、クリエイティブ系の人って、そういうの苦手な方多いですからね」塩屋が微笑む。その横顔を見ながら、須磨はふと視線をずらした。塩屋の横顔のライン、耳にかかる髪の動き、そして唇の動き…その一つひとつが、妙に意識に残った。「俺、苦手なんですよ。数字とか、整理整頓とか」「見えます。やんちゃそうですもん」須磨は小さく笑った。そう返された言葉に反発するどころか、心のどこかで心地よく感じてしまっていた。カフェスタッフが運んできたラテの香りが立ち上り、二人の間にほ
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視線の距離、心の距離
リビングの時計が二十二時を回ったとき、志乃はキッチンの照明を落とし、ダイニングの椅子にゆっくり腰を下ろした。食器はすでに片付いていて、テレビもつけていない。室内は静かで、エアコンの送風音だけが空気を揺らしていた。須磨は今日、仕事部屋に寄ってから帰ると言っていた。今夜は新しい案件の提案書をまとめるから、少し遅くなると、昼過ぎにLINEが届いていた。そういうことは以前にも何度かあったし、特に疑問に思ったこともなかった。ただ今夜は、何か違う気配があった。志乃は自分の中にあるその感覚を、明確な理由もなく否定しきれずにいた。昼間から、なぜかずっと気持ちが落ち着かなかった。曇りがちの空のせいか、あるいは湿気の重さか。理由のない焦燥が指先まで伝ってきて、読みかけの本を何度も途中で閉じてしまった。夫の気配がない部屋には、ふだん以上に静けさが染み込んでいた。志乃は冷蔵庫から炭酸水を取り出し、グラスに注いでひと口飲む。泡のはじける音が耳に残った。ソファに腰を移し、スマートフォンを手に取る。何か確認するべきことがあったわけではない。ただ、手持ち無沙汰だった。スマートフォンの画面には、夫とのLINEのやり取りがいくつか並んでいる。スタンプ、短い連絡、日常の報告。それらはどれも穏やかで、何の異変もないように見えた。でも、ふとした瞬間に思い出す。昨日の食事会で、瑞希の夫──塩屋理仁が、須磨の冗談に応じて柔らかく笑ったときの表情。あの目の奥に、少しだけ残っていた“よそよそしさ”のようなもの。初対面の人に対して抱く自然な緊張とも違った、もっと繊細で内向的なものだった。あれは、何だったのだろう。時計の針が二十三時に近づく頃、玄関のドアが静かに開いた。志乃は顔を上げる。音を立てずに靴を脱ぐ気配がし、バッグを置く音が続く。「おかえり」「ただいま。遅くなった」須磨はやや疲れた表情をしていた。シャツの袖をまくったままで、鞄の紐を肩から下ろしながら、志乃のほうをちらと見る。表情は、普段通りだった。だが、どこか表面だけを撫でているように見えた。微笑みも、声のトーンも、どこかで計算されたような薄さがあった。「仕
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違和感は、まだ名前を持たない
窓の外から、雨の音が聞こえた。ぽつり、ぽつりと間を置いて、やがて細く続くようにしてガラスを叩く。初夏の雨は静かで、どこか甘やかで、けれど心の奥にじわりと湿りを残していく。志乃はベッドに横になり、薄いシーツを首元まで引き寄せた。時計の針はすでに日付を越えていて、部屋の中には読書灯の明かりだけが残っていた。明かりを消そうかとも思ったが、手は動かなかった。闇の中に身を委ねるには、今夜は少しだけ不安があった。目を閉じると、昼間のこと、夜のこと、そして夫の背中が、静かにまぶたの裏に浮かんでくる。須磨はまだリビングにいた。仕事の続きをすると言って、パソコンを開いていた。音はもう聞こえてこない。たぶん、今は画面を見つめたまま、何かを考えているのだろう。それが、仕事のことか、誰かのことか──そこまでは、わからなかった。寝室とリビングは、壁一枚を挟んで隣り合っている。ドアも閉めていない。だから、志乃が本気で聞こうとすれば、キーボードを打つ音や椅子のきしみも拾える距離だった。でも今夜は、何も聞こえなかった。静かすぎるほどに、音がなかった。ふたりの関係は、穏やかだと思っていた。波風は少なく、笑顔も会話もあり、誰から見ても平凡な、けれど安定した夫婦。そう信じていたし、疑ったこともなかった。けれど最近、どこかに微かな“ズレ”を感じるようになっていた。それは言葉では説明できない。あるいは、説明したくなかったのかもしれない。須磨の笑い方が、少しだけ浅くなった気がした。口角は上がっているのに、目が笑っていないような瞬間があった。志乃に向ける言葉のひとつひとつが、丁寧であるぶん、どこか“あらかじめ整えられた”ものに聞こえることがあった。そういった違和感が、まるで湿気のように部屋に溜まっていく。目には見えないけれど、確実に空気を変えていくもの。今日、塩屋の名前をスマートフォンの画面で見たとき、胸の内にひやりとした感覚が走った。それは嫉妬ではなかった。ただ、“自分が知らない場所で、自分の夫が呼吸している”という実感だった。誰と、どんな空気を吸って、どんな目をして話しているのか。知らない自分が、そこにいた。でも、それを
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貸別荘と潮の匂い
車が海沿いの道を抜け、白と青で塗られた貸別荘が視界に入ったとき、瑞希は運転席で小さく声を上げた。志乃が助手席で笑いながら、窓を開けて潮の香りを深く吸い込んだ。「海の匂い、ちゃんとするね」「うん、久しぶり」先に到着していた須磨と塩屋が、別荘の前で手を振っていた。両手にはクーラーボックスや荷物を抱えたままで、彼らの背後には真新しい木の外壁と広々としたデッキが広がっている。夏の陽差しはすでに傾きかけていたが、それでも眩しく、潮風が熱気とともに肌をなでていく。「やっと着いたな。こっちの部屋、もう鍵開けてある」須磨がそう言って、軽く肩でクーラーボックスを持ち上げた。白いTシャツの裾が風にふわりと揺れ、背中の汗染みがうっすらと浮かんでいた。志乃は荷物を降ろしながら、その後ろ姿にどこか学生時代の須磨を重ねていた。塩屋は黙って荷物を受け取り、少しだけ微笑んだ。彼のシャツは薄いリネン地で、淡いブルーが日光に透けて見えた。眼差しは穏やかで、けれどどこか遠くを見ているような静けさがあった。「こっち、二階の部屋ね。うちは奥でいいから」瑞希がそう言って、志乃の腕を軽く引いた。大きな荷物は男たちが運んでくれると言い残して、ふたりは別荘の裏手へ回る。小さな階段を下りると、その先にはひらけた海岸が広がっていた。波は思ったよりも穏やかで、遠くの方で砂浜に当たる音が心地よく続いていた。「なんか、志乃と旅行なんて、学生ぶりだよね」「そうだね。あのときはもっと雑な宿だった」「ひとり暮らしの先輩の部屋に押しかけたんだっけ。しかも、クーラーなかったよね」ふたりは笑い合いながら、波打ち際まで歩いた。足元のサンダルに砂が入り、湿った砂の感触がじわじわと伝わってくる。志乃は膝までスカートをたくし上げ、海に足を浸した。水はぬるく、午後の陽を受けて濁った琥珀色をしていた。「こうやってさ、また会えるのって、当たり前じゃなかったよね」「…うん」瑞希の横顔は少し日に焼けていて、口元にうっすらと塩の結晶が浮かんでいた。その表情を見て、志乃は静かに頷いた。昔のようにただ無邪
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日暮れのビーチと焚き火
夕方の海は、昼間の喧騒を失って、潮の香りだけが残っていた。海面には橙色の光が波紋のように広がり、空はゆっくりと薄紫に変わりつつあった。西の空には、水平線に向かって大きな太陽が沈もうとしている。風がすこし強くなって、肌に当たるたびに汗を冷ましていった。「夕陽、きれいだね」瑞希がそう言って振り返る。膝まで海に浸かっていた志乃も、うんと小さく頷いた。波が足元を撫でるように寄せては引き、貝殻と砂をこぼす音が耳に心地よい。ふたりの背後では、須磨と塩屋が浅瀬で水を掛け合っていた。男たちの笑い声が、海風に乗って小さく流れていく。塩屋は黒のラッシュガードを着ていたが、肩まで濡れていて、髪は額に張りついていた。濡れた前髪の隙間から見える目元が、日が傾くにつれてますます陰影を増している。浅く日焼けした頬が火照っていて、素肌に浮かぶ水滴が光を集めていた。須磨が先に波打ち際から上がり、タオルで髪を拭いながら、ちらと塩屋を振り返る。その視線が、長く、じっと留まった。塩屋は気づいていないふうで、砂を払う手を止めずに動かしていたが、どこかその横顔には気配を感じ取っているような余裕があった。その瞬間、志乃はなにかが引っかかるような感覚にとらわれた。須磨の視線が、ただの“友好的な観察”にしては、いくぶん長すぎた。まるで目で追ってしまっているような、そんな集中の仕方だった。「何か、変かな?」瑞希の問いに、志乃はすぐに首を横に振った。「ううん。ちょっとぼーっとしてただけ」視線を海から引き戻しながら、自分の内心をごまかすように微笑む。だが、その引っかかりは、胸の奥にうっすらと残っていた。些細なものだ。けれど、どこか、忘れられそうにない違和感だった。日が沈みきる少し前、瑞希が用意していた簡易焚き火台に火が灯った。風除けのために並べた流木の間に揺れる炎は、乾いた薪をぱちぱちと鳴らして燃えていた。オイルランプとは違う、野性の明かり。暖かく、そして予測できない不規則な明るさが、周囲の空気をやわらかく染めていった。四人はそれぞれにビーチチェアを囲むように腰を下ろし、手には紙コップのワインやジュースがあった。焚き火
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夜のデッキ、ふたりきりの風
貸別荘の夜は、予想以上に静かだった。外の世界から切り離されたように、波の音と夜風のざわめきだけが、そこにあるすべてを包み込んでいた。バーベキューのあと、リビングで少しだけトランプをしていたが、志乃も瑞希もアルコールがまわったのか、思いのほか早く眠ってしまった。子どものような笑い声の余韻だけが残って、室内はゆっくりと夜の色に沈んでいった。須磨はそのまま、ひとりでデッキに出た。グラスに残った白ワインを手に、空を見上げる。街の光が届かないこの場所では、星がはっきりと見えた。ひとつひとつが、まるで手の届きそうな距離にあるように瞬いていた。「きれいですね」背後から静かな声がして、振り返ると塩屋がいた。パジャマ代わりのゆるいTシャツにハーフパンツというラフな格好で、足音を忍ばせるように近づいてくる。手には同じように、琥珀色の液体が入ったグラスを持っていた。ウイスキーのようだった。「眠れない?」「…暑くて。あと、なんとなく、このまま寝たらもったいない気がして」須磨は笑って、グラスをかざした。氷がコツンと音を立てて揺れる。塩屋もそれに応えるように軽くグラスを上げたあと、デッキの縁に腰を下ろした。須磨もそれに倣って、隣に並ぶ。ふたりの間には、肘がかすかに触れるか触れないかの距離があった。風が、少し強くなってきた。蝉の声が遠くから微かに聞こえる。砂浜を洗う波の音は、規則的で心をほどくようなリズムだった。言葉を交わさなくても、音だけで空間が満たされていく。「ここ、なんか現実感なくない?」須磨がぽつりと言った。どこか独り言のような声だったが、塩屋はちゃんと聞いていて、小さく笑った。「たしかに。…夢みたいに、輪郭が曖昧な感じですね」「昼間までは、ただの楽しい旅行って思ってたけど、夜になると…急に距離感がわからなくなるというか」「現実じゃなきゃ、何しても許されますかね」その言葉に、須磨の手の中でグラスがわずかに傾いた。氷が再び音を立てる。塩屋は空を見たまま、視線を動かさなかったが、どこか言葉の重みを計るような沈黙が流れた。「た
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朝食のテーブル、何も起きなかった顔で
朝の光は、まるで昨夜の気配を上塗りするかのように明るかった。窓から差し込む陽射しが白いテーブルクロスを眩しく照らし、波の音が遠くに淡く響いていた。キッチンからはパンを焼く香ばしい匂いが漂い、瑞希の軽やかな鼻歌が断続的に聞こえてくる。志乃はエプロンの紐を結び直しながら、トマトのヘタをナイフで切り落とした。彼女の横で、瑞希が手際よくスクランブルエッグをかき混ぜている。「こうやって一緒に朝食つくるの、なんか楽しいね」「ほんと。大学のときみたい。誰かの部屋で、前夜の酒をひきずったままの朝」「二日酔いの塩味スープとか、よく作ったよね」ふたりの笑い声がキッチンに広がり、そのままダイニングへ流れていく。ほどなくして、寝室から塩屋が出てきた。Tシャツに麻のパンツというラフな格好で、髪は少し湿ったまま。すれ違いざま、志乃に「おはようございます」と静かに挨拶をして、グラスに水を注いだ。目元に笑みをたたえてはいたが、その余白に、どこか見慣れない影があるように思えた。須磨も続いて現れた。寝癖のついたままの髪に無造作な服装。彼は軽く伸びをして、塩屋の背中を一瞬だけ見ると、すぐに視線をテーブルへ落とした。「コーヒーある?」「あるよ、淹れたて。ブラックでいい?」志乃がポットを傾けながら声をかける。須磨は頷いて、椅子を引いた。四人はテーブルに並んで座り、ゆっくりと朝食を始めた。焼きたてのパン、野菜と卵、果物のヨーグルト。バカンスらしい、丁寧で明るい食卓だった。だが、その空気の中に、昨夜にはなかった何かが潜んでいた。塩屋はいつも通りの口調で話すが、言葉と言葉のあいだに、微妙な“間”があった。説明のつかない沈黙ではなく、計算された遅れ。意識的に選びすぎた言葉が、時折、話の流れから浮いているようだった。「昨日の焚き火、風がちょうどよくて気持ちよかったですね」「うん。瑞希が用意してくれたランタン、正解だった。あの光、柔らかくて」「たしかに。…ああいうの、ひとりじゃなかなか選ばないから、ありがたいです」須磨はその
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