名前のない夜に溶けて~終わりからしか始まらなかった愛がある

名前のない夜に溶けて~終わりからしか始まらなかった愛がある

last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-26
Oleh:  中岡 始Tamat
Bahasa: Japanese
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結婚していたのは、女と男。でも、愛したのは…男と男だった。 ごく平凡な二組の夫婦。静かに満ちていたはずの日常は、ある夏、貸別荘での“再会”によって軋みはじめる。 互いの胸に秘めた欠落を埋めるように、男たちは夜の帳の中で重なり合う。 気づきながらも目を逸らす妻たち。そしてついに、「信じること」が崩れ落ちる夜が訪れる。 裏切りと赦し、欲望と孤独、愛と再生。 すべてを失ったふたりの男が、それでも「ただ、あなたと生きたい」と願ったとき—— 新しい愛のかたちが、ゆっくりと立ち上がる。 心を揺らす純愛BL、ここに誕生。

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Bab 1

10年越しのドアベル

ガラス越しに外を見れば、薄曇りの空がぼんやりと陽を透かしていた。風はなく、じっとりとした湿気が街を包んでいる。夏の始まりを告げるような、重たい空気だった。志乃はカフェ併設のフラワーアトリエの扉の前で立ち止まり、薄く息を吸った。大学時代の親友が運営している店舗である。

十年ぶりの再会というものに、少しばかりの緊張と、ほんのわずかなときめきが混じっていた。

ドアのガラスに映った自分の顔を見て、志乃は小さく姿勢を整えた。肩にかかる髪を撫で、軽くリップを確かめる。こんなふうに誰かに会う前に、鏡を気にするなんて、いつ以来だろうと思った。ドアに手をかけた瞬間、内側から鈴の音が鳴った。

「いらっしゃいませ…あ」

振り返った瑞希の声は、あの頃のままだった。けれど、声の張りが少しだけ丸くなっていた。語尾に柔らかさが増していて、それが不思議と心に残った。志乃は思わず笑みをこぼし、ふたりの間の距離が一気に縮まったように感じた。

「志乃…久しぶり」

「瑞希、変わってないね」

お互いの名を口にした瞬間、学生時代の記憶が一気に甦る。講義の合間にカフェでしゃべり込んだ午後、卒論の締切前に泣きながらプリンタを奪い合った夜、真夜中に無意味に外を歩きながら交わした恋の話。たしかにすべて、あったはずの記憶だった。

アトリエの奥、カフェスペースに案内されて、二人は向かい合って座った。瑞希の頬には自然な紅がさしていて、白いブラウスの襟元からはほのかにラベンダーの香りが漂っていた。志乃は無意識のうちに、瑞希の左手を見た。薬指には、細いゴールドのリングが光っていた。

「素敵な指輪だね」

志乃が言うと、瑞希は照れたように笑って指を隠した。

「ありがとう。もう三年かな。結婚して」

「早いね。大学卒業してから、どんなふうに過ごしてたの?」

「いろいろあったよ。実家に戻った時期もあったし…でも、今はやっと、落ち着いたかな」

志乃は頷いた。瑞希の服の色は、昔よりも淡くなっていた。かつては黒や深い赤を好んでいた彼女が、今日はラベンダーグレーのワンピースを着ている。そういう変化に、年月の流れを思い知る。

「志乃は? 結婚してるって、聞いたけど」

「うん。もう三年目。彼はフリーで建築の仕事してて。わりと自由人だけど、まあ、合ってるのかも」

「へえ。なんか、想像つくな。志乃って昔から、自分の世界を大事にする人だったもんね」

「そう?」

「うん。恋愛でも、相手に飲み込まれるより、ちゃんと対等でいたいって思ってたでしょう?」

志乃は少し笑って、カップに口をつけた。瑞希のそういうところは、昔から変わらない。人の心を読むようにして、でもそれを静かに語る。

「…あの頃のこと、よく覚えてるんだね」

「だって、志乃との時間が、すごく楽しかったから」

そう言われて、志乃はふいに胸の奥があたたかくなった。あの頃の記憶は、懐かしいけれど、どこか夢のように遠い。自分たちは変わってしまった。けれど、それでもまたこうして、向かい合って笑えるのだ。

ふと、瑞希が店内を見回してから言った。

「ねえ、今度さ、旦那さんも一緒に会わない? うちの人も紹介したいし。四人でご飯とか、どう?」

「あ、いいね。夫婦同士で。そういうのって新鮮かも」

「でしょ? たぶん、ふたりとも気が合いそうな気がするんだ」

「うちの人、ちょっと変わってるよ?」

「うちのも変わってるよ。真面目だけど、何考えてるかわかんないところある」

笑い合ったふたりの空気に、どこか安心感が満ちていた。昔と今、そのあいだにあるものを、無理に測ろうとせずにいられる時間。

「じゃあ、来週あたり、予定合わせようか」

「うん。楽しみにしてる」

そう言いながら、志乃はもう一度、瑞希の手元に目をやった。指輪が、さっきよりも深く光を集めていた。ふたりのあいだには、もう学生時代のような無垢な時間はない。だけど、大人になった今だからこそ、築ける絆もあるのかもしれない。

帰り際、志乃は店を出て、ふと振り返った。ガラス越しに、瑞希が花を包んでいる姿が見える。その肩の丸みに、少しだけ「誰かの生活」が重なって見えた。

瑞希の声は、あの頃のままだったけれど、語尾の柔らかさに、誰かと長く暮らした人の匂いが混じっていた。

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