All Chapters of 私の誕生日に、夫がドイツ語で浮気を認めた: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

結婚して六年目。夫の久堂風間(くどうかざま)が、浮気をした。もう三ヶ月も、私に触れてこない。「家で夫が役目を果たさないのは、たいてい外に女がいるからだよ」そんな噂話を、最初は信じていなかった。だけど、あの夜、一本の電話がかかってくるまでは。そのとき、風間はバスルームでシャワーを浴びていた。彼のスマホが鳴った。画面を見ると、地元の番号。でも、名前の登録はない。妙な胸騒ぎがして、私は電話に出た。「どちら様ですか?」しかし、向こうは何も言わなかった。数秒の沈黙の後、ぶつっと切られる。明らかに、私のことを知っている相手だった。その瞬間、胸の奥がじわっと冷たくなった。大切なものが、音もなく崩れていくような、そんな感覚。無駄な妄想をしないために、私は風間のスマホを開いた。パスワードは、私たちの記念日。ロック画面は、二人で笑っている写真。アイコンも、私たちが手を繋いでいる後ろ姿。SNSの投稿も、全部私との日常ばかりだった。何もやましいことはない。そう思いかけたとき、私はふと、あの番号を検索してみた。その番号の持ち主は、風間の秘書――芦田雪乃(あしだゆきの)だった。恐る恐る、二人のトーク履歴を開いた。一見、やましいやりとりはなかった。全部、仕事の内容ばかり。でも、女の勘は、そんな簡単にはごまかされない。私は続けて、彼の送金履歴を開いた。見つけてしまった。彼は、雪乃に何度もお金を振込んでいた。クリスマスの日も、バレンタインの日も……心臓がぎゅっと縮む。間違いない、風間は浮気している。手の中のスマホ画面には、幸せそうに笑う私たち。だけどその幸せが、今はひどく皮肉に見えた。あれほど私を深く愛してくれた風間さえ、裏切るのか……私が風間と出会ったのは、十七歳のとき。両親を病気で亡くし、南の田舎から親戚に連れられ、東海市(とうかいし)に来た。何も持たず、何も知らない都会で私は、沈黙と内向で自分を守っていた。そのせいか、学校では馴染めず、いじめられた。誰にも助けてもらえず、毎日が辛かった。そんな私を救ってくれたのが、風間だった。彼は私をいじめていた生徒たちを追い払い、太陽の香りがするジャケットで、私を包み込んでくれた。「バカだな、
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第2話

ほどなくして、風間がバスルームから出てきた。彼はタオルで髪を拭きながら、私の隣に座る。「何、ぼーっとしてる?」我に返って、私は風間を見上げる。三十歳を過ぎて、彼の顔立ちはさらに深みを増していた。風間と結婚して、もう六年余り。誰もが私たち夫婦の仲睦まじさを羨ましがった。「遥香(はるか)、どれほど恵まれての、風間みたいな男を捕まえるなんて」そう言われるたびに、私も思っていた。自分は、本当に恵まれているって。こんなにも私を愛してくれる人に出会えるなんて。けれど、今になってようやく気づく。風間がいつも私を一番に考えてくれて、会社の株を何のためらいもなく私の名義にしてくれていたとしても。それでも、裏切ることはできるのだと。「さっきね、誰かから電話かかってきたよ。代わりに出たんだけど、向こうは何も言わないですぐ切っちゃった。地元の番号だったし、あなたの友達かな?ほら、携帯見てみて」わざと風間にスマホを差し出し、彼の反応をじっと観察する。「多分、間違い電話だろ。気にしなくていいさ」風間はごく自然にスマホを受け取った。でも、私は見逃さなかった。彼が着信の番号を見たとき、無意識に指先でスマホを二度擦ったことを。長い付き合いの中で、私は知っている。それは風間が嘘をつく時の癖だ。「遥香、先に部屋に戻って休んでて。急ぎの仕事、思い出したんだ。会社の資料がまだ仕上がってなくて」「今、この時間に?」「うん、ちょっと急ぎのやつ」そこまで言われては、私も頷くしかなかった。「気をつけてね」とだけ伝えて、風間はソファの上の上着を掴み、慌ただしく部屋を出ていった。彼の背中が見えなくなった後、私はソファに沈み込む。社長である彼が今さら自分で処理しなきゃいけない書類なんて、あるわけがないのに。言い訳を考える暇すら惜しいのか。私は思わず苦笑してしまう。きっと彼は、私が彼をこんなに愛しているから、何も気づかないと思っているのだろう。唇を噛みしめて、私は探偵をしている友人に連絡を取った。風間のことを調べてほしい、と。そして、その夜、私の予想通り風間は帰ってこなかった。翌朝、頭痛をこらえながら起き上がると、探偵の友人から何件ものメッセージが届いていた。【遥香、自分の目で確かめた方がいいよ】
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第3話

午後、ようやく頭がはっきりしてきた頃。私は弁護士に離婚協議書の作成を頼みに行った。幸いなことに、私たちにはまだ子供がいない。財産を除けば、関係を断ち切るのはそれほど難しいことじゃない。離婚協議書を手に家に戻った時、風間から電話がかかってきた。「出張に行くことになった」と、いつもの淡々とした声。でも、夜になって、私は匿名のメッセージを受け取った。そこには、雪乃と風間が並んで写る写真が何枚も送られてきた。誰が送ってきたかなんて考えるまでもない。きっと雪乃だ。スマホの画面を眺める。風間と雪乃、二人で温泉に行ったり、スキーに行ったり。私の心は、何の波風も立たなかった。だって、そんなこと、私たちも付き合い始めてから十年の間に何度もやってきた。毎年、どこかに旅行に行くのが恒例だった。ロンドン、パリ、アイスランドのオーロラも見た。「世界を見に行くときは、遥香がそばにいてくれたら、それでいい」そう言ってくれたのは、風間だった。でも今、雪乃が現れてからは、彼のそばには別の女がいる。思い返せば、私と風間は一緒にいる時間が長すぎたのかもしれない。若いころから数えて、もう十年。彼が飽きるのも、普通のことなんじゃないかって、自分に言い聞かせた。それでも、胸がきゅうっと痛くなる。苦しくないはずがない。私は、最初から最後まで、彼だけを愛してきたのに。風間が帰ってきたのは、三日後のことだった。彼は私にプレゼントをくれた。昔と同じ、高価なダイヤのネックレス。風間は出張や仕事で家を空けるたび、こうやって必ずプレゼントを用意してくれた。名目は「償い」「お前のそばにいられなくて、夫としての責任を果たせなかった分、ちゃんと機嫌を取らないといけないから」って、優しい顔で言ってくれた。前は、そんなプレゼントをもらうたびに、素直に嬉しくて、笑顔で受け取っていた。でも今は、笑顔すら作れなくて、ただ口先だけで言った。「ありがとう。うれしいよ」風間は、私の様子には気づかなかった。それとも、ここ数日雪乃に付きっきりで、私のことを気にする余裕もなかったのかもしれない。「気に入ったなら良かった。先にシャワー浴びてくるね」そう言って、風間はバスルームへ。彼が出てきたとき、私はもうベッドに入って、彼に背を向けて
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第4話

風間は、そんな私を見て目を細めて笑った。彼は私を抱きしめ、顔にキスしようと身をかがめてきたけど、私はさっと身をかわして避けた。もう彼と別れる覚悟はできていたけど、こんな人目のある場所で揉め事を起こすつもりはなかった。大人なんだから、せめて自分のプライドくらいは守りたい。だから私は、何気なく理由を作ってその場を離れようとした。「病院の患者さんが呼んでるの。ちょっと行かなきゃ」風間は眉をひそめて、ほんの少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。「でも今日はお前の誕生日だろ?少しくらい休んだっていいじゃないか」私は昔のように、彼の眉を優しくなぞってみせて、穏やかにあやした。「大丈夫よ。あ、そうだ、あなたに用意したプレゼント、病院の引き出しに置きっぱなしだったの。すぐ取ってくるね」私たちが恋人になった日、それは私の誕生日だった。だから私たちは約束した。私の誕生日には毎年、お互いにプレゼントを贈り合おうって。私は毎年、彼のためだけにスーツをデザインしていた。今年も、その例外じゃなかった。彼が浮気していたことを知る前には、もうデザインも済んでいたし、この三ヶ月で仕上げる時間も十分にあった。私が強く言うと、風間は溜息をついて、けれども優しい顔で私を見つめた。「参ったな……じゃあ、せめてロウソクを吹き消してから行ってよ。お前のために作ったアイスケーキ、もうすぐ溶けちゃうからさ」私は小さく頷いた。風間は笑いながら私の手を引いて、ケーキの前へ連れていき、ロウソクを吹き消した。そして大きな声で宣言した。「俺は遥香と、ずっとずっと一緒にいる!一生、彼女のそばを離れない!」それを聞いた周りの人たちが、一斉に盛り上がった。「もう、風間、イチャイチャしすぎ!」「いやでもさ、もう十年も付き合ってるよね?それでこのラブラブっぷり、羨ましすぎるんだけど!」その言葉に、私は思わず心が揺れた。本当は十一年――今年で、私たちは十一年目だった。でも、彼は、私を裏切った。私は感情を押し殺し、風間を淡々と見つめながら、彼に握られていた手をそっと引いた。「じゃあ、プレゼント取ってくるね。遅くなったら帰らないかもしれないから、みんなと楽しんでて」私は背を向けて、その場を離れた。病院で患者のことを済ませてから
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第5話

家に戻った私は、持っていくものと捨てるものを淡々と仕分けし始めた。荷物の整理が終わると、クローゼットの奥にしまってあった、かつては何よりも大切にしていたアルバムを手に取る。ゆっくりとページを開けば、そこには私と風間の十一年の思い出が詰まっていた。あの頃の彼は、本当に私のことを愛してくれていた。若気の至り、無鉄砲だったあの日。暴走してきた車が私に向かって突っ込んできたとき、迷いもせずに私を突き飛ばし、彼自身が何メートルも吹き飛ばされた。一週間も昏睡状態が続いた。彼が目を覚ましたとき、私は誰よりも泣いていた。「これから何があっても、私はずっとあなたのそばにいるよ」と、私はそう誓った。でも、世の中の気持ちなんてあっという間に変わるものだ。裏切り――それだけは、私には絶対に許せないことだった。私は写真をすべて破り、ゴミ箱に投げ捨てた。「何してるんだ!」いつ帰ってきたのか、風間が立っていた。ゴミ箱の中の写真を見て、彼の目が赤くなる。「遥香、どうして写真を破ったの?もしかして、何か不満でもあるの?」彼が浮気していることに私が気づいたなんて、絶対に知られたくない。だから、適当にごまかした。「新しいアルバムを作ったから、古いのは捨てようと思って。どうせそのうち黄ばんじゃうし」その言葉に、彼は少しだけ安心した様子で、私を抱きしめてくる。「そっか……遥香がそれでいいなら、俺も安心だよ」悠里と出発の時間を決めて、私はすぐにチケットを買った。出発は三日後。残りの二日で、風間に関するすべてのもの――結婚指輪、写真、若い頃のラブレター、全部、跡形もなく処分した。幸いなことに、風間は雪乃と逢瀬を重ねるのに忙しく、家に戻ることも少なくなった。私が家のものをどんどん減らしていることには気付いていない。そして、出発の日。家を出ようとキャリーを引きずった瞬間、風間が帰宅してきて、私を引き止めた。「遥香、どこに行くの?どうして俺に何も言わないの?」私は荷物を下ろし、嘘をついた。「今言おうと思ってたの。病院で特別な患者さんの手術があって、現場に行かないといけないの。心配しないで、家出とかじゃないし、そんなに焦らなくていいよ」その言葉に、彼はほっとした顔を見せ、私のそばにやってくる。「じゃあ俺も一緒
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第6話

研究所は、西北の荒れ果てた砂漠のど真ん中にあった。乾いた風が吹き抜ける、文字通り何もない「荒野」の中にあった。けれど、毎日見る風景は、どこか詩的だった。不思議と心も、少しずつ穏やかになっていく。風間が私のメッセージを見たのは、ちょうどその頃だった。彼は一瞬で取り乱し、慌てて私に電話をかけてきた。だけど、何度かけても、電話越しに聞こえるのは、冷たい女性の自動音声だけ。その瞬間、彼は本当に怖くなったのだろう。家に飛び帰ったものの、待っていたのはがらんどうの部屋。私に関係するものは、服も写真も、何もかも消えていた。リビングのテーブルの上に残されていたのは、自分の名前が書かれた離婚協議書だけ。風間は焦り、そして恐怖で頭が真っ白になった。狂ったように屋敷の中を探し回ったけれど、私の痕跡は、ひとつも見つからなかった。彼は知らない。私は、破いた写真の切れ端すら、すべて焼き尽くしてから去ったのだ。炎の中に消えたのは、私と彼の十一年分の思い出。私を探すため、風間は私の知り合いという知り合いをすべて訪ね歩いた。けれど、誰も私の行方を知らなかった。悠里も同じ。私と一緒に出ていったあの日、彼女は風間のすべての連絡手段をブロックした。どうしようもなくなった風間は、ただひたすら私にメッセージを送り続けた。【遥香、俺が悪かった。雪乃とはもう絶対に関わらない。だから、帰ってきてくれ】【お願い、お前がいないと生きていけないんだ】【どうか、どうか戻ってきて】けれど、そのすべてが届くことはなかった。私がいなくなってから、風間は酒に溺れるようになった。両親も何度も彼を諫めたけれど、すべて無駄だった。私は、本当に彼のもとからいなくなったのだ。そして、私のいない世界は、雪乃にとっては都合のいいものだった。彼女は昔のように、着飾って風間を訪ねてきた。今夜こそ、彼と甘い夜を過ごせると信じて。けれど、あれほど彼女を求めていた男は、なぜか彼女を突き放した。雪乃はパニックになった。「風間、どうしたの?もう一緒に、したくないの?」風間は、彼女を冷たく睨みつけて言い放った。「出て行け!お前の腹に子供がいなきゃ、とっくに追い出していた」雪乃は呆然とした。彼女が何か言い返す前に、風間は人を呼ん
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第7話

忙しい日々の中で、時間というものは、いつもあっという間に過ぎ去ってしまうものだ。気がつけば、六年なんて瞬きする間に終わっていた。私とチームの努力の末、脳腫瘍の研究で大きな成果を上げることができた。特に、膠芽腫の分野では、手術と薬物療法の併用で、少なくとも生存率を二割も引き上げたのだ。これが、どれだけ多くの家族にとって救いとなったことか。そんなある日、上司から突然告げられる。「新薬の成功を受けて、東海市に戻り、現地の医療チームと経験を共有し、手術の指導をしてほしい」と。東海市に戻る――そう聞いた瞬間、私は一瞬、時が止まったような気がした。六年間、一度も戻ろうなんて思ったことはなかった。でも、流れた時間の長さを思えば、風間も、きっと私のことなんてもう忘れて、雪乃と三人家族で幸せに暮らしているのだろう。そう思ったら、不思議と胸がすっと軽くなった。だが、東海市に発つ前日、悠里が突然やってきて、妙に神妙な顔で私に尋ねた。「まだ風間のこと、好きなの?」私は戸惑いながら彼女を見て、首を横に振った。「私、未練がましい女じゃないから」それを聞いて安心したのか、悠里は、私がいなかった間に起きた出来事を、噂話のように語り出した。それは、すべて彼女の夫、萩田洋一(はぎた よういち)が話してくれたことらしい。私が去った後、風間はあらゆる手段を使って私を探していた。でも、国家機密の契約にサインしたせいで、彼がどんなに探しても、私の居場所にはたどり着けなかった。雪乃とも、結局は結婚しなかったそうだ。この六年、風間はずっと酒に溺れ、「最愛の人を探すんだ」と騒いでいたらしい。それを聞いて、悠里は怒り交じりに吐き捨てた。「浮気してて、今さら純愛ぶるなんて、ほんとムカつくわ」私はただ、苦笑いを浮かべるだけだった。六年という時間は、私の風間への愛憎を、すっかり風化させてしまっていたのだから。だが、予想だにしなかった。東海市に着いて、たった十分後、風間が私の前に現れるとは。手には、鮮やかな赤いバラの花束。まるで、あの頃の少年のように、私のもとへ駆け寄ってきた。「遥香、久しぶりだね」私は花を受け取り、柔らかく微笑む。「風間、久しぶり」たったそれだけで、彼の目は赤く染まる。口を開こうとしたが、
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第8話

新薬があらゆる臨床試験を終え、正式に市場に投入された日。メディアのトップは、その話題一色に染まった。脳腫瘍――それは人類がずっと攻略できなかった難題だ。だからこそ、たとえ生存率を上げる薬であっても、人々にとっては大きな希望となる。ニュースの紙面には、私たち研究所のスタッフの集合写真と新薬の紹介がずらりと並んでいた。そんな中、私と悠里が研究所の代表として発表会に登壇すると、会場には一気に人だかりができた。かつての私は、人見知りで無口で、人前に出るのも苦手な小心者だった。けれど今の私は、記者たちの質問にも余裕を持って受け答えできるようになっていた。だが、発表会が終わりに近づき、そろそろ退出しようとしたその時、人混みの奥から、突然女の声が響いた。「青井、この裏切り者!風間を奪っておいて、なんで今さら戻ってきたのよ!」声の方に目をやれば、現れたのは雪乃だった。久しぶりに見る彼女は、以前の華やかな面影も薄れ、すっかり老け込んでいた。彼女の叫びは、瞬く間に周囲をざわつかせる。「どういうこと?誰が裏切り者だって?」「研究者?青井って名前なら、あの真ん中の綺麗な人だよな」周りのヒソヒソ話を聞きながら、私は静かに唇の端を持ち上げ、落ち着いた声で言った。「誰が裏切り者かなんて、あんたもよく分かってるでしょ。私と元夫がまだ離婚してなかったとき、もうあんたは彼に手を出してたわよね?」私は軽く眉を上げて続けた。「どうしたの?あれだけ苦労して奪った男、もう飽きられちゃったのかしら」そう言って私は目線を外し、悠里と並んで会場を後にした。本当は、私は雪乃のことを憎んではいなかった。けれど、わざわざ私を貶めに来るのなら、こちらも手加減はしない。そんな中、ちょうど駆けつけてきた風間が一部始終を目の当たりにする。彼は雪乃の腕をガシッと掴み、冷たく言い放った。「俺たちはもう何の関係もない。いい加減なことを言うな」そう言い終えると、風間は無表情で彼女を一瞥して、そのまま立ち去ろうとする。その冷淡な態度が、雪乃の怒りに火をつけた。彼女は人混みを押しのけて、風間を追いかけながら必死に叫んだ。「風間、いい加減に目を覚まして!彼女はもうあなたに未練なんてないのよ、あなたを全然愛してないの!なんでまだ彼女の
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第9話

東海市に戻ってから、私と悠里は、なんと三年もの長い休暇を与えられた。あの荒れ果てた砂漠で何年も過ごした身にとって、突然この華やかな都会に戻ってきたのは、正直、少し戸惑いを覚えるほどだった。あまりに暇すぎる私を見かねてか、上司が医大の仕事を紹介してくれた。仕事は楽で、やることも多くはないけれど、何もせずにいるよりはずっとマシだ。そして、風間は時々、私のいる学校にふらりと現れる。だけど、私はほとんど彼の存在を無視して過ごしていた。たまに風間は、私が暇そうにしていると、話しかけてきては昔話を持ち出してくる。彼の意図なんて、わかりきっている。でも、私はそれをすべて無視することにした。「やり直す」なんて言葉、私にとってはありえない。私は許すこともできるし、我慢することもできる。でも、それには限度も期限もある。浮気だけは、絶対に、許せない。風間の気持ちをどうやって断ち切ろうかと考えていた時、悠里が一人の男性を紹介してくれた。その人は菅野尚樹(すがの なおき)、料理店のオーナー。今の風間と比べると、若い頃の彼にどこか似ていて、情熱的で、堂々としていた。初めて会った日、尚樹は自分の店に連れて行ってくれた。「全部、俺が考えた料理なんだ」って、嬉しそうに語る彼。見た目はチャラそうで、いかにも遊んでいそうな雰囲気なのに、店の仕事には真剣そのもので、味もサービスも東海市でも一流だと言えるレベルだった。そして尚樹自身、見た目ほど軽薄じゃなくて、一緒にいると不思議と心が安らいだ。そんな尚樹と、私たちはお互いを知るために、ゆっくりと時間を重ねていった。そして今日、尚樹とデートに出かけたところ、偶然、風間と鉢合わせてしまった。風間の顔が、見る見るうちに暗く沈んでいく。彼は怒りをあらわにしながら、私の前に立ちはだかった。「遥香、そいつは誰だ」私は少しだけ眉をひそめる。風間の険しい表情と、周囲の人々の好奇の視線が、一気に私に集中してきた。「私が誰とご飯を食べようと、あなたには関係ないでしょ」そう言って尚樹に謝り、別の場所に移ろうとした。その時、風間は私を無理やり引き止めた。「遥香!他の男と一緒に行っちゃダメだ!」その瞬間、尚樹が私を庇うように風間を突き飛ばし、優しく抱き寄せてくれ
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第10話

思い出すたびに、私は自分の手首の傷跡を風間に見せてやった。彼の目から、涙がこぼれ落ちそうになるのを見て、私はそっと腕を引っ込める。「だから、なんで私があなたを許さないといけないの?」そう言い残し、私は振り返ることなくその場を去った。その後、尚樹と新しいレストランに入った。料理が運ばれてくるのを待つ間、彼は少し躊躇いながら口を開いた。「お前は、彼のこと、まだ……」「もう無理だよ」私は彼の言葉を遮るようにお茶を一口飲み、微笑んだ。「私と風間は、もう二度と元には戻れない」「聞いてもいい?二人はどれくらい付き合ってたの?」尚樹の真剣な瞳に見つめられ、私はそっとうなずいた。「十一年。彼はかつて、真っ暗な世界の中で私を照らす一筋の光だった。私のために交通事故に遭い、命を落としかけたこともある。それでも、そんな彼でも、浮気をしたの」尚樹はしばらく黙ってから、口を開いた。「男の立場から言えば、彼は本当にお前を愛していたと思う。でも人間の感情は複雑で、愛していても外の誘惑に負けてしまうことがある。本当に愛しているなら、誘惑を乗り越えられるはずなのに。それができなかったのは、やっぱり愛が足りなかったからだと思う。でも、俺は違うよ。一度好きになった人は絶対に手放さない。まさか三十過ぎて、やっとこの人に出会えるなんてね」思わず顔が熱くなり、私は笑いながら尚樹の目を見つめ返す。「それって自分で自分を褒めてるでしょ」彼は優しく笑い、「今、笑った」と言った。賑やかな声が耳に届き、心がふっと落ち着いた。それから、私は尚樹と前よりも頻繁に連絡を取るようになった。どんなことでも話せる関係になった。風間は、あの日を境に、私の前に二度と現れなかった。一年後、私は尚樹と婚約した。あふれる幸せに包まれて、私はますます綺麗になったらしい。悠里はいつも会うたびに「また綺麗になったね」と冗談めかして言う。そして、あっという間に結婚式の日がやってきた。新婚の夜、私は一つのプレゼントを受け取った。それは、指輪だった。風間が送ってきたものだとすぐに分かった。だから、私は何の迷いもなく、それをゴミ箱に捨てた。その様子を見た尚樹は、やっとほころんだ。私はふと尋ねてみた。「ねえ、どうしてそんなに私のこ
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