All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 151 - Chapter 160

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第151話

ほんっと、ムカつく!あの悪い女がいきなり来なければ、もっと姿月ママとお話しできたのに。今日、姿月ママがパパと一緒に学校へ迎えに来てくれた。友達の前で、すっごく鼻が高かったんだから!ゆいなちゃんたちも、「清音ちゃんのママ、クラスで一番きれい」ってびっくりしてた。「動画で見るよりずっと美人だね」って!あの悪い女さえいなければ、姿月ママはパパと結婚して、私の本当のママになってくれたかもしれないのに!「……」景凪は黙ったまま、清音のベッドサイドにミルクを置いた。「清音、ミルクを飲んだら歯を磨くのよ。虫歯になっちゃうから」それだけ言うと、景凪は静かに部屋を出て、ドアを閉めた。階下に降りると、深雲の書斎に明かりが灯っているのが見えた。今、彼は書斎にいるのだろう。なるべく顔を合わせたくない。この隙に、寝室から自分のパジャマと明日の着替えを取ってこよう。今夜は、自分の書斎で眠るつもりだった。だが。寝室のドアを押し開けた景凪の目に飛び込んできたのは、浴室のドアの脇に置かれたラックに、無造作に放り込まれた深雲のスラックスとシャツだった。そして浴室の奥からは、シャワーの音が聞こえてくる。彼が中で、シャワーを浴びている。景凪は、深雲が出てくる前に着替えを手に立ち去ろうと、足早にウォークインクローゼットへ向かった。だが、彼女がクローゼットから出た、その時。ぴたりとシャワーの音が止み、浴室の扉が開かれる。深雲だった。彼はバスローブを一枚羽織っただけの姿で、腰の帯は緩く結ばれ、襟元は大きくはだけている。そこから覗く逞しい胸を、水滴が筋の通った腹筋へと滑り落ちていく。深雲は己の肉体を常に完璧に管理していた。その外見だけを見れば、確かに、人を惑わすには十分すぎるほどだった。突然現れた景凪の姿に、深雲は一瞬虚を突かれたようだったが、すぐに彼女の手に服があるのに気づくと、わずかに眉をひそめ、彼女の方へ歩み寄った。「今戻ったのか。どこへ行くつもりだ?」シャワージェルの爽やかな香りが、男の体温に溶け込み、熱い吐息とともに景凪に押し寄せる。親密な関係がなかったわけではない。子供だっている。かつては景凪も、深雲に対して肉体的な魅力を感じていた。だが今は、彼の身体を前にすると、吐き気がこみ上げてくる。彼が汚らわしい。今日、あの女を抱きしめ、口
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第152話

その瞬間、景凪の表情から温度が消え、手にした服を強く握りしめた。穏便に済ませられないのなら、仕方ない。深雲の指が二つ目のボタンへと伸びる。彼女は、すでに彼の股間を狙い、膝を上げるための力を密かに溜めていた。そして、まさにその膝を突き上げようとした、その刹那――深雲のスマートフォンが鳴り響いた。それは、端末に初めから入っている着信音ではなかった。清音の声だ。甘い声で、童謡を歌っている。おそらく、深雲がわざわざ録音したものだろう。清音の声を特別な着信音に設定するほどの相手。姿月の他に、景凪は思いつかなかった。案の定、着信音を聞いた深雲の瞳から、燃えるような熱がすうっと引いていく。だが、彼はすぐに電話に出ようとはしない。「仕事、行ってこい。あまり無理はするなよ」彼は親切にも、彼女のはだけた胸元のボタンをかけ直し、その頬を優しく撫でた。「しばらくは桃子さんが家にいてくれる。夜食が欲しくなったら、いつでも彼女に言うといい」深夜に突然かかってきたこの電話については、一言も触れようとしない。電話の相手も心得たもので、数回コールが鳴った後、深雲が出ないとわかると、すぐに通話は切れ、二度とかかってくることはなかった。「誰からの電話なの?」景凪は、わざと無邪気な好奇心を装って尋ねた。「着信音、清音の声だったわよね。一体誰なの?清音の声なんかを、わざわざ着信音に設定するなんて」深雲は平然と答えた。「たぶん、清音が俺のスマホをいじって、勝手に変えたんだろう。……母さんか、伊雲だよ」「そうなの」景凪は頷いた。心から信じきったような素振りで、さらには電話の相手を気遣ってさえみせる。「こんな時間に、お義母さんか伊雲さんが電話してくるなんて、何か急ぎの用事かもしれないわ。早く折り返してあげて」景凪はそう言いながら、ベッドサイドへ歩み寄り、深雲のスマートフォンに手を伸ばそうとした。だが、その指先が端末に触れるか触れないかの、その瞬間。背後から深雲が大股で近づき、長い腕をさっと伸ばすと、彼女より先にスマートフォンをその手の中に収めた。掴み損ねた景凪の手が、宙でわずかに止まる。彼女はうつむき、長い髪がその表情を隠した。だが、その奥の瞳には、冷たく皮肉な光がはっきりと宿っていた。先ほどまでは、ただの疑いでしかなかった。だが今、深雲のこの反応を
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第153話

それから千代とのトーク画面を開く。彼女のスマートフォンは、時々マネージャーに取り上げられてしまう。二秒ほど考えた後、景凪は千代の裏アカウントである『自渡』にメッセージを送った。景凪:【咲苗に煎じてもらった薬、寝る前に最低一袋は飲むのよ。精神を安定させる効果があるから。いい子だから聞いてね。少し苦いけど、ちゃんと飲み干すこと】千代は、苦いものが何よりも苦手だった。アイスコーヒー一杯でさえ、飛び上がるほど大騒ぎするのだ。相手からは、即座にクエスチョンマークが一つだけ返ってきたが、すぐに取り消された。数秒の間を置いて、新しいメッセージが届く。自渡:【まだ起きてる?】景凪は思わず笑ってしまった。夜更かしの常習犯である千代に、寝るのが遅いと心配されるとは。景凪:【もう寝るところ。あなたは?今日も徹夜で撮影?】そのスマートフォンの向こう側。山の中腹に佇む、梧桐苑と呼ばれる邸宅。全ての照明が煌々と灯され、深い夜闇を、まるで白昼であるかのように切り裂いていた。広大すぎるリビングでは、凄まじい爆音と喧騒が、熱気の渦となって沸き立っている。数十人の若い男女が、この場所を、有り余るホルモンをぶつけ合う遊び場所と化していた。トランス状態で頭を振り乱し、腰をくねらせる者。若く熱い肉体を寄せ合い、汗だくに踊り狂う者。ゲームに興じる者、ビリヤードに興じる者。今夜、墨田昭野が、黒瀬渡の家を盛り上げるためと称して、大勢の仲間を引き連れてきていたのだ。当の渡本人は、部屋の隅のソファに、気だるげに身を預けていた。白いシャツに白いパンツ。片膝を緩く立て、その手にはスマートフォンが握られている。彼は、画面に表示された景凪からのメッセージに目を落としていた。その長い睫毛が、眼差しに宿る妖しい光をすべて覆い隠している。存外、騙しやすい。本気で俺を、鐘山千代の裏アカだと信じているらしい。渡は気だるげに口の端を歪め、親指でゆっくりと、一文字一文字確かめるように画面をタップしていく。自渡:【眠れない】それは嘘ではなかった。彼は、本当に眠れずにいたのだ。だが次の瞬間、景凪からボイスチャットの着信が入った。渡の深い瞳が、すっと細められる。彼はやおら立ち上がると、オーディオのプラグを、何の躊躇いもなくコンセントから引き抜いた。凄まじい喧騒が
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第154話

景凪は、画面に現れた二つのメッセージに、ほんの少し目を見開いた。この口調、どう見ても千代らしくない。それに、最後の一文は、なんだか……縋るようで?だが、景凪はすぐに思い至った。千代が今撮っているドラマの役は、気弱ないじめられっ子から、強い女性へと成長していく役どころだ。きっと、役に入り込んでいるのだろう。千代は昔から、役に完全に自分を投影させる、いわゆる『感情体験型』の女優だった。役者というのも、大変な仕事ね。千代のことが少し不憫になり、景凪は彼女の望み通りにしてやることにした。スマートフォンを両手で包み込むように持ち、心を込めて囁く。「おやすみ」その頃、渡は廊下の突き当たりにある、漆黒の扉の前で足を止めていた。耳元で響く、骨の髄まで染み渡るような、優しい「おやすみ」の声を聴きながら。彼は手を伸ばし、薄く冷たい指先で、古びた銅色のドアノブを押し下げる。扉は応えるように開いた。部屋の正面にあるベランダのドアが開け放たれており、夜風が室内を吹き抜けていく。花の香りをまとった冷気が、肌を撫でた。月光が深く差し込み、その清らかな光が、三面の壁を埋め尽くす絵画をはっきりと照らし出していた。その数、幾千、幾万。描かれているのは、しかし、ただ一人の女性。――穂坂景凪。微笑む景凪、眉をひそめ怒る景凪、物静かな景凪、万雷の拍手を浴びる景凪……だが、渡が最も多く描いたのは、彼女の後ろ姿だった。そう、過ぎ去ったあの日々、彼が最も多く見ていたのも、彼女の後ろ姿。一度として、彼のために振り返ることのなかった、その後ろ姿だ。たった一枚の写真が、部屋の中央に飾られていた。七年前の、ウェディングドレスを纏った景凪の姿。神々しいほどに美しく、その瞳は喜びに満ち、深い愛をたたえている。けれど、その眼差しが、彼に向けられることは永遠になかった。室内は、しんと静まり返っている。風の音さえ、はっきりと聞こえるほどに。「千代、私、これから数日はすごく忙しくなるから、もう寝るね。あなたも早く休んで。おやすみ。帰ってきたら、美味しいものご馳走するから」彼は、別の誰かの殻に閉じこもり、彼女の気遣いを盗み取っている。朧げな月光がその身に降り注ぐが、そこに温度はない。耳元で、通話が途切れた。それでも、渡はスマート
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第155話

景凪は拒絶の言葉を口にしかけた。「私……」「景凪」深雲は彼女の手を離すどころか、さらに力を込めて握りしめた。「お前が一分一秒を惜しんで完璧な企画書を作ろうとしてるのは知ってる。俺のために、西都製薬との提携を勝ち取ろうとしてくれてるんだろ。だが、数分くらいどうってことないさ」その言葉に、景凪は呆れて返す言葉も見つからなかった。これは自信などではない。もはや天を突くほどの自惚れだ。彼の目には、自分のやることなすこと全てが、最終的には彼のためだと映っているらしい。この男が少しでも正気に返るのは、おそらく、自分が離婚届をその顔に叩きつけた時だけだろう。「それに、景凪」と、深雲はさらに言葉を重ねた。「車の中でお前に話しておきたい大事なことがあるんだ」「……」景凪は仕方なく、もう一度椅子に腰を下ろし、忍耐強く彼が食べ終わるのを待った。やがて二人は連れ立って玄関を出る。ふと、庭に停めてある見慣れない車が目に入ったのか、深雲がわずかに足を止めた。「会社の車じゃないな、それ」景凪は思わず鼻で笑いそうになった。「会社の車なら、小林さんに差し上げたじゃない」「……」深雲は押し黙る。明らかに、彼も承知の事実だった。気まずそうにその話題を断ち切ると、彼はすぐに別の提案を口にする。「江島に催促して、別の車をすぐに手配させる」土曜の交渉が終われば、自分はもう雲天グループの人間ではなくなる。当然、車も必要ない。「いらないわ」景凪は淡々と告げた。「これは千代がプレゼントしてくれた車なの。とても気に入ってる」アストンマーティン DBX。乗り出し価格は数千万円はくだらない代物だ。深雲は目をすっと細めると、常の穏やかな口調に、ひやりとした皮肉を滲ませた。「へぇ……役者ってのは、ずいぶんと稼げるもんなんだな」その言葉を聞いた瞬間、深雲の車の助手席ドアに手をかけていた景凪の動きが、ぴたりと止まる。彼女はゆっくりと深雲の方へ顔を向け、その声は氷のように冷え切っていた。「今、なんて?」深雲にはわかっていた。景凪にとって千代が、どれほど特別な存在であるか。彼女にとって、厳密な意味で唯一無二の親友と呼べるのは千代だけなのだ。深雲の周りにいる人間は景凪を見下しており、時に心ない態度を取ることもあったが、景凪はほとんどの場合、黙って耐
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第156話

車内は重い沈黙に包まれていた。景凪はずっと、どこか上の空だった。あの車の本当の価格を知ってしまった今、彼女は一つの結論に達していた。あれは、絶対に千代からの贈り物などではない、と。だとしたら、メッセージアプリの『自渡』というアカウントも、千代のものではないということになる。どうりで、通話で一度も声を聞かせてくれないわけだ。送られてくるメッセージの文面も、千代のそれとはまるで雰囲気が違っていた。一体、誰なの?景凪は頭の中を探ってみたが、心当たりは全く浮かんでこなかった。これほどまでに自分を助けてくれるということは、敵ではないはずだ。じゃあ、友達だとしたら一体誰?彼女の交友関係はあまりにも狭い。これほどの……それも、数千万もする高級車を気前よく贈ってくれるような甲斐性のある知り合いなんて、いるはずがない。そう、一人も。七歳になるまでは、確かにお金の苦労など知らない世界にいた。だが七歳を境に、彼女の世界は完膚なきまでに崩れ落ちた。お菓子の城から氷のように冷たい現実の世界へと、放り出された童話のお姫様。しかも、実の父親である小林克書、その本人の手によって!景凪は固く目を閉じ、心の底からこみ上げてくる憎しみを、無理やり押さえつけた。二十年という歳月が流れても、あの日の光景は片時も忘れることができなかった……「パパ、行かないで、お願い。景凪、もっともっといい子にするから。お願いだから、病院で待ってるママに会いに行ってあげて……」あの日は、ひどい土砂降りだった。小さな手で男の服の裾を掴み、行かないでと泣きじゃくる彼女は、容赦なく突き飛ばされた。泥水の中に叩きつけられ、無様にもがく。見上げると、車の中には別の女の子が座っていた。青いプリンセスドレスをまとい、綺麗に結われた髪には水晶のティアラがきらめいている。その女の子は、泥だらけの景凪を、まるで汚物でも見るかのような蔑んだ目で見下ろしていた。やがて聞こえてきたのは、その女の子が克書を「パパ」と呼ぶ声。「パパ、お腹すいちゃった。早くおうちに帰ろ」さっき自分を突き飛ばした克書が、その子には打って変わって父親らしい優しい顔を向ける。「おやおや、うちのお姫様はお腹が空いたのか。よし、今すぐ帰ろうな」だめ、行っちゃだめ!ママが、病院で待ってるのに!「行か
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第157話

それに引き換え、景凪のこの態度は、あまりにも期待外れだった。深雲は顔をこわばらせ、諭すように言った。「景凪、君たちの部署は敵同士じゃない。どちらも、グループ全体の利益のために動いているはずだ」彼は一つ息を吸い、景凪の冷ややかな横顔を見つめ、少しだけ語気を和らげる。「景凪、頼む。俺のためだと思って……」しかし景凪は、握られていた手を力任せに振り払った。その沈黙が、何よりも雄弁な拒絶の答えだった。深雲の忍耐も、ついに限界に達した。「景凪、半日だけ時間をやる。それまでに、よく考えろ」「考える必要なんてないわ。お断りよ」景凪は氷のように冷たい声でそう言い放つと、目を閉じて寝たふりを始めた。見なくてもわかる。今の深雲は、さぞかし不機嫌な顔をしていることだろう。それから会社に着くまで、二人の間に会話はなかった。車が完全に停車するやいなや、景凪はドアを押し開け、振り返ることなく建物の中へと足早に向かう。すると、まるで待ち構えていたかのように、姿月が姿を現した。「景凪さん」人懐っこい笑顔で駆け寄ってくるが、景凪は一瞥もくれず、その横をすり抜けていく。しかし、二、三歩も進まないうちに、背後から深雲の焦ったような声が聞こえた。「大丈夫か」振り返ると、よろけそうになった姿月を深雲が支えているところだった。景凪と目が合った深雲の瞳には、明らかに非難の色が宿っている。景凪には、この茶番の筋書きが手に取るようにわかった。きっと、姿月が何もないところでわざとらしくよろけ、それを深雲が絶妙なタイミングで助け起こした。そして彼は、自分がすれ違いざまに彼女を突き飛ばしたのだと思い込んでいるのだろう。もはや見る価値もないとばかりに、景凪は踵を返し、その場を去った。だが、その毅然とした後ろ姿も、深雲の目には、ただ拗ねて意地を張っているようにしか映らなかった。姿月は深雲の腕に支えられながら、か弱い仕草で体を起こす。「社長、私は大丈夫です。景凪さんのせいじゃありませんわ。私が、ちょっとふらついてしまっただけですから」深雲は薄い唇をきつく結び、冷ややかに言った。「彼女を庇う必要はない。車の中でずっと腹の虫が治まらなかったんだ。お前に八つ当たりする機会をうかがっていたにすぎん」そのやり取りをそばで見ていた海舟は、もはや黙ってはいら
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第158話

一方、開発室に戻った景凪は、すぐさま仕事に没頭していた。午前中は息つく暇もなく、水を一口飲むことさえ忘れるほどだった。昼食も、詩由が社員食堂からテイクアウトしてくれたものを、二人でオフィスでかき込むのがやっとだ。ふと、スマートフォンの画面に目を落とす。午前中に、千代にサブアカウントの件を確認するメッセージを送っていたのだ。彼女は撮影で忙しかったのだろう、昼休みになってようやく返信があった。千代:【ああああ、ごめん!すっかり忘れてた!今すぐサブ垢から友達申請送るね!】メッセージの直後、一件の友達申請通知が届く。——『全人類の初恋♡』さんが、あなたを友達に追加しようとしています。景凪は、思わず天を仰いだ。これで、はっきりと確信した。『自渡』は、千代とは縁もゆかりもない別人だ。二人のスタイルは、あまりにも違いすぎる。だが今の景凪に、この『自渡』の正体を暴いている時間はない。それに、相手はこれまでずっと自分を助けてくれていた。敵でないのなら、今はそれでいい。景凪は、まずは西都製薬との契約を勝ち取ることに全力を注ぎ、その後で『自渡』の正体を探り出すことに決めた。昼食を終えた景凪は、四十分後に鳴るようアラームをセットし、そのままデスクに突っ伏して仮眠をとっていた。ところが、そのアラームが鳴るより先に、詩由が血相を変えて部屋に飛び込んできた。「先輩、大変だよ!」寝起きの景凪は、まだどこか覚醒しきらない、とろんとした目つきで尋ねた。「どうしたの?」詩由は怒りと焦りで顔を真っ赤にしている。「先輩が発注した、あの六十億円の分析機器が届いたんだって。だけど、それが購買部の連中に、開発二部に直接持ってかれちゃったの!向こうは社長からの指示で、数日間だけ貸すことになったって言ってる!」その言葉で、景凪の眠気は完全に吹き飛んだ。「本当に、どうかしてるよ、あの人たち!人員を横取りして、パソコンまで盗んで、今度は私たちが新規導入した機器まで……!送り状にはちゃんと先輩の名前が書いてあるのに、なんであの小林姿月なんかが先に使えるって言うのよ!」詩由はまくし立てながら、我慢ならないとばかりに腕まくりをする。「絶対に購買部の連中が、あの女に買収されてるに決まってる!社長が私たちのプロジェクトの重要性を知らないはずないもん。あの女に先に機
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第159話

その頃――市内のシティホテル、その一角にあるVIPラウンジ。商談を兼ねた会食を終えたばかりの深雲が、研時、暮翔らと共にソファに腰掛け、談笑していた。テーブルの上には、深雲のスマートフォンが無造作に置かれている。着信を告げて画面が点灯した時、その場にいた誰もが『景凪』という名前を目にした。深雲は、この電話を予期していたかのように、悠然と茶を啜るだけで、まるで出る気配がない。研時は、面白そうにその光景を眺めていた。彼は昔から、景凪のことが気に食わなかった。あの女は腹黒く、下心しかなく、ありとあらゆる手管を使って深雲と結婚したのだと信じて疑わなかった。いずれ捨てられる運命だと、そう高を括っていたのだ。着信音が執拗に鳴り響くのを見かねて、暮翔が口を開いた。「深雲さん、出ないのか?」深雲は茶器を手に、涼しい顔で答える。「最近、少し甘やかしすぎたんでな。たまにはこうやって、放っておくのも薬だ」景凪がこれほど必死に電話をかけてくる理由は、火を見るより明らかだった。あの分析機器の件に決まっている。そう、彼はわざとやったのだ。これは、景凪に対する一種の警告だった。姿月の企画書にも目を通したが、確かに景凪のものには及ばない。だが、西都製薬の目に留まったという事実が、その企画書が決して悪くないものであることを証明している。彼が求めているのは、西都製薬と手を組むための「きっかけ」であって、百点満点の完璧な成果物ではないのだ。そして、彼がそう判断するには、もう一つ、より深い理由があった。深雲は手の中の茶器を弄びながら、瞳の奥に暗い光を宿す。確かに、最近の景凪は以前とは別人のように振る舞い、新鮮で面白くはあった。何でもかんでも自分の言う通りにはならない彼女に、新たな魅力を感じていたのも事実だ。だが、景凪はその「ごっこ遊び」に夢中になりすぎたらしい。何度も、何度も、彼を拒絶する。深雲は、茶器を握る手にぐっと力を込めた。水面に、音のない波紋が幾重にも広がる。そろそろ景凪にも少し灸を据えて、どんな駆け引きも、度が過ぎれば興醒めだということを教えてやる頃合いだろう。やがて、着信音は途絶えた。研時が、鼻で笑う。「まあ見てろって。三分もしないうちに、二回目の電話がかかってくるさ」昔の景凪はいつもそうだった。深雲と連絡が
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第160話

海舟のそんな思いなど知る由もない景凪だったが、彼女の方から深雲にかけ直す気は毛頭なかった。冷たくあしらわれると分かっている相手に、自分から媚びへつらうなんて。十八歳の頃の自分なら平気でできただろう。でも、二十七になった今、そんな心が冷えるだけの虚しい真似はもうごめんだ。だが、景凪が何かを言い返すより早く、ポケットのスマートフォンが着信を告げた。ディスプレイに表示された名前に、彼女の瞳がぱっと輝く。海舟に会釈だけすると、景凪はくるりと踵を返し、早足にその場を離れながら通話に応じた。「藤咲おじさま……」電話の相手は、青北大学の現学長である藤咲壮一郎(ふじさき そういちろう)その人だった。彼は二年前に着任したばかりで、それまでは国の教育部門に籍を置いていた人物だ。壮一郎は、景凪の祖父である益雄とは、年の差を超えた友人だった。穂坂家が落ちぶれてからは、益雄もかつての知人たちに連絡を絶ち、相手もそれを幸いと行き来がなくなった。そんな中で、壮一郎だけは、盆暮れ正月になると、たとえ自身が足を運べなくとも、必ず誰かに頼んで気遣いの品を診療所まで届けてくれていたのだ。だからこそ景凪は今回、厚かましいとは思いつつも、自分から彼に連絡を取ってみたのである。彼女のプロジェクト企画書は、今や最後の二つ、精密な実験データを残すのみとなっていた。深雲に発注を頼んだあの最新機器こそが、その実験の鍵を握っている。実のところ今朝、深雲から姿月との共同プロジェクトを提案され、それを拒絶した時点で、景凪は薄々感づいていた。あの機器が、今日中にすんなりと自分の研究室に運び込まれることはないだろう、と。だからこそ、彼女は先手を打って壮一郎に連絡を入れていたのだ。この最新機器は、現在国内に三台しか存在しない。そしてそのうちの一台が、青北大学にある壮一郎が管轄する研究所に設置されている。景凪は午前中に一度電話をかけたが、その時は繋がらなかったため、留守電にメッセージを残しておいた。簡単な挨拶もそこそこに、彼の研究所にある機器を拝借したい、と単刀直入に用件を吹き込んでおいたのだ。「おお、景凪くんか!いやあ、何年ぶりだろうねぇ、こうして君から電話をもらうなんて」壮一郎の声は感慨深げだった。景凪が植物状態になっていたことは彼の耳にも入っていたのだろう。
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