Masuk穂坂景凪(ほさかけいな)は十五年もの長い間、鷹野深雲(たかのみくも)を一途に愛し続けてきた。 しかし、出産の日、彼女は植物状態になってしまった。 その病室で、深雲は彼女の耳元で優しく囁いた。「景凪、もう二度と目覚めないでくれ。お前はもう、俺にとって何の価値もないんだ」 優しくて情の深い夫だと信じていた彼が、自分に向けていたのは、ただ尽きることのない嫌悪と利用だけだったと、景凪は初めて知った。 命懸けで産んだ二人の子供たちは、彼女の病床の傍らで、深雲の初恋の女に向かって、無邪気に「ママ」と呼びかける。 完全に絶望した景凪が目を覚ましたとき、彼女が最初にしたことは、迷いのない離婚だった。 だが離婚して初めて、深雲は気づく。自分の生活の隅々に、景凪の面影が染みついていることを。彼女は、既に彼にとってなくてはならない存在になっていたのだ。 再会した景凪は、トップクラスの医薬専門家として会議に現れ、眩いばかりの輝きを放ち、全ての視線を奪っていく。 かつて彼だけを見つめてくれていたあの女性は、今や彼に一瞥すらくれない。 きっと景凪はまだ怒っているだけ。自分が一言謝れば、彼女は必ず戻ってくる。彼女は自分を深く愛しているのだからと、深雲はそう信じていた。 だが黒瀬家の新当主――黒瀬渡(くろせわたる)の婚約パーティーで、深雲はこの目で見てしまった。華やかなウェディングドレスに身を包んだ景凪が、満面の笑みで渡の胸に飛び込み、その瞳に愛情だけを映している姿を。 深雲の心は嫉妬に狂い、手にしたグラスを握り潰し、流れる血で手が真っ赤に染まっていた……
Lihat lebih banyakだが、車を降りた瞬間、すぐに異様な空気を察知した。恩師の家の前には、いかつい防弾仕様の黒塗りの公用車が二台停まり、玄関の両脇には鋭い目つきのSPが立って周囲を警戒している。ただ事ではない。景凪の胸に緊張が走った。「景凪さん」ドアを開けて迎えてくれたのは、教授の奥さん・佳子だった。「早く中に入って」「先生のご自宅に、何か……」佳子は景凪の手を優しく叩くと、外に立つSPたちをちらりと気にしてから、声を潜めた。「情報対策室の内藤(ないとう)室長と、外務省の周藤(すどう)審議官がみえているの。もう書斎に入って一時間になるわ。どうやら、あなたに用があるみたい」政府の国家高官が、わざわざ自分を訪ねてくるなんて。いったい何事なのだろうか。「すぐに行ってみます」「景凪さん!」急ごうとする彼女を、佳子がそっと引き留める。「もし無理な頼み事をされたら、遠慮なく断っていいのよ。私たち夫婦のことは気にしなくていいからね」「……はい、ありがとうございます」景凪は安心させるように微笑み、足早に書斎へ向かった。軽くノックをする。「蘇我先生、景凪です」「入りなさい」許可を得てドアを開けた。書斎には蘇我教授のほかに、洗練されたスーツに身を包んだ男女が一人ずつ座っていた。その場にいるだけで、只者ではない鋭い威圧感が漂っている。「景凪、紹介しよう。こちらが情報対策室の内藤室長。そして周藤審議官だ」「内藤室長、周藤審議官」景凪は静かに頭を下げた。二人も軽く頷きを返す。しかし、その視線は値踏みするように景凪を真っ直ぐに見据えていた。やがて視線を交わし合うと、周藤が立ち上がり、景凪の目の前まで歩み寄る。「穂坂さん、時間がないので単刀直入に言います」周藤の声は硬く、切迫していた。「あなたの兄弟子である文哉さんが、院生たちを連れて海外の学会に参加していたのはご存知ですね?彼らは帰りに客船を利用したのですが……グウェン島近海を航行中、船ごとシージャックされました。最後に送られてきた位置情報は、バンダの密林奥深くにある危険地帯です」心臓がギュッと掴まれたように縮み上がった。「じゃあ、文哉先輩は……!」「おそらく無事でしょう。武装グループの目的は明確です。船には国内トップクラスの専門家や研究者が多数乗船していました。奴らは最初からそれを知っていて、交渉
景舟の背中を追って地下駐車場に降りると、ひっそりとした佇まいながらも一目で高級と分かる車が滑り込んできた。アシスタントが後部座席のドアを開ける。景舟が先に乗り込み、千代もそれに続こうとした――が。目の前で容赦なくドアが閉められた。「……え?」「千代様。うちのボスは基本的に他人と同乗しない主義でして。恐縮ですが、後ろの車にお乗りください」振り返ると、確かに後ろにもう一台セダンが控えていた。とりあえず今は向こうのルールに従うしかない。渡の情報を引き出すためだ。千代は渋々、後続車に乗り込んだ。シートに腰を落ち着かせると、すぐにメッセージアプリを開いて景凪に連絡を入れた。千代:【景凪、私あんたのためにめちゃくちゃ身を削ってるわ!】すぐに返信がくる。頭を掻いて困り果てたようなキャラクターのスタンプだった。千代:【このご自慢の美貌を武器に、敵情視察に行ってくるから待ってなさい!!】千代はすっかり、景舟と適当に舌戦を繰り広げる気でいた。彼がどんな手で口説いてこようと、とりあえず思わせぶりな態度でキープしておき、渡の情報を聞き出した瞬間に袖にしてやるつもりだったのだ。ところが、車が走り出してしばらくすると、前を走っていたはずの景舟の車が交差点でスッと左折していくではないか。一方、自分の乗った車はそのまま直進を続ける。「ちょっと待って」千代は慌てて助手席のアシスタントに声をかけた。「墨田社長の車、あっちに行っちゃいましたけど。ついて行かなくていいんですか!?」アシスタントは極めて事務的な声で答えた。「ご心配には及びません。ボスはこの後、別件でプライベートな予定がありまして。お渡しするものはすでに手配済みですので、私がお受け取りの場所までご案内いたします」千代の頭の中はますます混乱した。え、口説くんじゃなくて、ガチで何か物を渡すだけ!?ていうか、一体何を寄越すつもりなの!?30分後、千代はその答えを知ることになった。車が止まったのは、ある別荘の門前だった。すでに待ち構えていた家政婦が、手に持っていた封筒をそのまま千代に差し出す。「千代様。中身をご確認ください。借用書に問題がなければ、そのまま破棄していただいて構いません」「借用書……?」一瞬呆然としながらも、その封筒を受け取る。中には、丁寧に保管されていた一
鐘山千代か……彼は鼻筋の眼鏡を中指で軽く押し上げ、口角をわずかに引き上げた。長い脚を踏み出して歩きながら、スマホの画面を開く。最新のメッセージは、昨晩千代から送られてきたものだ。やたらと派手なスタンプとともに、こう書かれている。【最後の振り込み完了!これで私のもっとも偉大なる債権者様ともお別れね!これからはお互い別の道を歩みましょう。それじゃ、永遠にさようなら〜!】文末には、陽気に踊るキャラクターのスタンプが揺れていた。景舟は思わず失笑した。ふと返信しようとしたが、なんと自分の連絡先はすでにブロックされているではないか。彼は軽く眉をひそめた。「……仕事が早いことで」その頃、千代は洗面所の鏡で髪を整え、マスクをつけて外へ出ていた。遠くに、今にも閉まりそうなエレベーターが見える。「ちょっと待って!」咄嗟に声を上げる。死角になって中に誰がいるかは見えなかったが、スッと伸びた美しい手がボタンを押し、閉まりかけた扉を再び開けてくれたのが見えた。「やっぱり世の中、いい人はいるわねぇ!」千代はホッと胸を撫で下ろしながら、小走りでエレベーターへ向かう。だが、乗り込もうとしたその瞬間、床の何かに足をとられて思い切り滑ってしまった。「わっ!」バランスを崩し、そのままエレベーターの中へ前のめりにダイブしてしまう。ハッとして顔を上げると、そこにはなんとエレベーターの中央に立つ景舟がいた。あの細く切れ長で深遠な瞳は、一度見たら忘れられない。彼に冷ややかな視線を下ろされ、千代はゾッと背筋を凍らせた。自分でブレーキをかける間もなく、景舟の両脇に控えていた二人のアシスタントがサッと前に出て、左右から壁のように立ち塞がって千代を受け止める。どうにか体勢を立て直し、千代は引きつった愛想笑いを浮かべた。「あはは……どうもすみません、墨田社長」わざとぶつかってお近づきになろうとする計算高い女だと思われたくなくて、彼女は慌ててマスクを外し、わざわざ説明を口にした。「私、鐘山千代です!さっき打ち合わせでお会いしましたよね。あの、別に恋愛ドラマの見すぎで、わざと社長に倒れ込んで気を引こうとしたわけじゃないんです!本当にただ足が滑っただけで……!」景舟は何も答えない。両脇のアシスタントたちも、彼と同じように鉄仮面のような無表情を貫いている
後続車のクラクションに急かされ、景凪はハッと我に返った。スクリーンから視線を剥がし、アクセルを踏み込む。その横顔からは何の感情も読み取れなかった。ただ、ハンドルを握る手だけが白くなるほどギリギリと握り込まれ、手の甲には青筋が浮き出ている。不意に着信音が鳴り響き、景凪は咄嗟にスマホの画面に目を落とした。渡ではない。親友の千代からだった。イヤホンを耳につけ、応答ボタンを押す。声だけは、努めていつも通りを装った。「千代……?」言いかけた途端、千代のただならぬ声が飛び込んできた。「景凪、どうしても言わなきゃいけないことがあるの!渡のことよ。その前に確認したいんだけど、ちゃんと付き合ってるわよね?別れてないわよね?」「ええ、どうしたの?」千代はどうやらトイレの個室に隠れているらしく、小声ながらも怒りを隠せない様子だった。「だったら、はっきり言っておくわ。今日、コラボの打ち合わせであるジュエリー会社に来てるんだけどね。そこのトップってのが、墨田家の御曹司、墨田景舟なのよ。ちょうど彼が視察に来てて、私の契約の場にも同席してたの。まあ、そこまでは前置きなんだけど……」「ついさっき、私が裏口から出ようとしたら、車から渡が降りてきたのよ。墨田景舟に会いに来たみたい。そこまではいいわ。でもね、同じ車から女が降りてきたの!すぐにネットで調べたら、海運王の末娘の小松原茜だったわ。超がつくお嬢様よ!しかも渡とお揃いコーデだったの!」「お揃い?」景凪は静かに聞き返した。「えっと、まあ……渡が黒のネクタイで、向こうは黒のジャケット着てたってだけだけど。でもそんなことはどうでもいいの。問題は、あの茜とかいう女が渡を見る目よ!あいつ絶対に下心あるわ!渡の方は見向きもしてなかったけど、それにしても、もし何とも思ってないなら、どうしてわざわざ女と同乗してくるわけ?」景凪は千代のまくしたてるような報告を最後まで黙って聞き終えた。「わかったわ。真っ先に教えてくれて、ありがとう、千代」「私たち、親友でしょ!当然あんたの味方だよ!もし渡が本当に浮気なんかしてあんたを泣かせたら、相手がいかに大物だろうと、私がSNSで盛大に晒し上げてやる!昨日の夜、最後の借金を返し終わってすっかり自由の身になったとこだしね。最悪、芸能界追放になっても構わないわ!」その言葉に心が温ま
深雲は会社には向かわなかった。車を発進させた彼は、レストランの外周を半周ほど回ったところで、ちょうど大通りへ合流しようとする景凪たちの車を見つけたのだ。今夜はいつもより酒量が過ぎていた。車内の冷房は最大にしているというのに、体内で燻る熱が引かない。飲酒運転などという理性を気にする余裕すらなく、深雲は乱暴にワイシャツの襟元を引きちぎるように緩めた。哀れな第二ボタンが弾け飛び、窓ガラスに当たって乾いた音を立てると、助手席へと転がり落ちた。深雲は、前を走る景凪の乗った車を獲物を追う猛獣のように睨み据えていた。その色気を孕んだ瞳は今、どす黒い感情に支配されている。脳裏にこびりついて離れ
景凪は元来た道を戻り、エレベーターで一階に降りるつもりだった。だが、運悪く、エレベーターホールに着いた途端、扉は閉まり、箱は階下へと去っていってしまう。すぐ隣には、金箔が施された豪奢な螺旋階段があった。美しい木で組まれたその階段は、ただそこにあるだけで、美術品のような価値を放っている。どうせ三階から降りるだけだ。景凪は迷わず階段を選んだ。しかし、二階の踊り場に差し掛かったところで、通路の反対側から出てきた研時と鉢合わせになった。もちろん、研時も景凪の姿を認めている。彼が二階へ上がってきたのは、化粧室を利用するためだった。だが、本当はそれだけではない。わざとラウンジを通り抜け、深
姿月からの伝言を受け取った真菜は、すっかり舞い上がっていた。スマホを置くなり、すぐにその朗報を周囲に広める。「姿月が今から鷹野社長を連れてここに来るって!」やっぱり、社長にとって一番大事なのは姿月なのね、と真菜はほくそ笑む。真菜はぴたりと閉まった大扉を一瞥し、目の奥に勝ち誇った光を浮かべた。もうすぐ鷹野社長が来る。今度こそ、景凪のやつ、どんな目に遭うか見ものだわ。……研究室の中で、景凪は朝からずっと忙しく働き通しだった。ようやくメガネを外し、こわばった首筋を揉みほぐす。何気なくスマホを手に取ると、深雲からの不在着信が4件――一番新しいものは、たった三分前についていた
オフィスには深雲と姿月のふたりだけが残っていた。深雲はちょうど、実家の屋敷に電話をかけ終えたところだった。執事に頼んで、典子がもう目を覚ましているかどうか、庭の離れまで様子を見に行かせたのだ。スマホを置いた時、真菜が怒りを抑えきれずに訴える声が聞こえてきた。その瞬間、深雲は眉をひそめて、露骨に不機嫌な顔をした。また景凪か!会社に復帰した初日から、彼女にはすでに二度も驚かされている。今朝一番、姿月が会社に到着したとき、なぜか人事部から解雇通知を受け取った。そのせいで、彼女は受付で足止めされてしまい、会社に入ることさえできなかった。深雲が人事部長に確認したところ、なんと取締役会
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