Se connecter穂坂景凪(ほさかけいな)は十五年もの長い間、鷹野深雲(たかのみくも)を一途に愛し続けてきた。 しかし、出産の日、彼女は植物状態になってしまった。 その病室で、深雲は彼女の耳元で優しく囁いた。「景凪、もう二度と目覚めないでくれ。お前はもう、俺にとって何の価値もないんだ」 優しくて情の深い夫だと信じていた彼が、自分に向けていたのは、ただ尽きることのない嫌悪と利用だけだったと、景凪は初めて知った。 命懸けで産んだ二人の子供たちは、彼女の病床の傍らで、深雲の初恋の女に向かって、無邪気に「ママ」と呼びかける。 完全に絶望した景凪が目を覚ましたとき、彼女が最初にしたことは、迷いのない離婚だった。 だが離婚して初めて、深雲は気づく。自分の生活の隅々に、景凪の面影が染みついていることを。彼女は、既に彼にとってなくてはならない存在になっていたのだ。 再会した景凪は、トップクラスの医薬専門家として会議に現れ、眩いばかりの輝きを放ち、全ての視線を奪っていく。 かつて彼だけを見つめてくれていたあの女性は、今や彼に一瞥すらくれない。 きっと景凪はまだ怒っているだけ。自分が一言謝れば、彼女は必ず戻ってくる。彼女は自分を深く愛しているのだからと、深雲はそう信じていた。 だが黒瀬家の新当主――黒瀬渡(くろせわたる)の婚約パーティーで、深雲はこの目で見てしまった。華やかなウェディングドレスに身を包んだ景凪が、満面の笑みで渡の胸に飛び込み、その瞳に愛情だけを映している姿を。 深雲の心は嫉妬に狂い、手にしたグラスを握り潰し、流れる血で手が真っ赤に染まっていた……
Voir plus「サンドイッチで十分よ。ありがとう、桃子さん」「かしこまりました。それじゃあ、渡さんは……」桃子さんが言い終わる前に、長身の渡がダイニングへ歩いてきた。「少し用事ができた。朝食は外で済ませるよ」渡は辰希に視線を移す。「辰希、囲碁はまた今度な」「いってらっしゃい、渡おじさん」渡は流れるような動作で景凪の額に軽くキスを落とした。「行ってくる」景凪は小さく唇を噛んだ。喉まで出かかった言葉があった。「渡……」「ん?」渡は足を止め、振り返って言葉の続きを待つ。息を呑むほど整っていて、それでいてあまりにも蒼白な彼の顔を見つめ、景凪は結局何も言い出せなかった。ただ「ちょっと待ってて」とだけ告げ、二階へ駆け上がる。戻ってきた彼女の手には、マフラーが握られていた。柔らかく手触りの良い、グレーのカシミヤ。景凪はそれを渡の首元に丁寧に巻いた。「今日は雪になるみたいだから。外は冷えるわ、風邪をひかないようにね」渡は大人しく少し首を下げ、彼女がマフラーを巻くのに任せた。「行ってくる」彼女の頬に手で触れようと腕を上げかけたが、自分の指先がひどく冷え切っていることに気づき、感情を押し殺すように手を下ろす。そのまま背を向け、外へと歩き出した。門の前に停まった車の傍らでは、悠斗が待機していた。後部座席に乗り込み、窓越しに視線をやると、玄関口まで見送りに来た景凪の姿が見えた。マジックミラーの窓からは、彼女にこちらの姿は見えない。渡はしばらくその姿を見つめた後、静かに言った。「車を出してくれ」首に巻かれたマフラーにそっと触れる。とても温かかった……目の前を滑り出していく渡の車を見送りながら、景凪はどういうわけか、胸の奥がぎゅっと息苦しくなるような不安を感じていた。「景凪さん」桃子さんが心配そうに歩み寄ってくる。「こんなところで冷たい風に当たらないでくださいな。渡さんも、用事が済めばすぐに帰っていらっしゃいますよ」振り返ると、桃子さんが少しからかうような目をしていた。純粋に彼氏と離れるのが寂しいのだと勘違いしているらしい。景凪は軽く笑うだけで、あえて訂正はしなかった。仮に説明しようとしても、何から話せばいいか自分でも分からない。何か明確な確証があるわけではない。ただ、理由の分からない焦燥感が胸をざわつかせて
熱いお湯に浸かった後、景凪はベッドに横たわっていた。目を閉じると体の疲れは感じるのに、頭の中には様々な考えが渦巻き、全く眠りに落ちない。どれくらい時間が経っただろうか。ようやく強烈な眠気が襲ってきた。まどろみの中、背後のマットレスがゆっくりと沈み込むのを感じる。目を開けるより先に、背後から渡の腕が伸びてきて、すっぽりとその体躯に包み込まれた。彼の体温はいつもより低い。景凪はわずかに眉をひそめ、無意識に彼の手首に指を当て、脈を診ようとした。渡は彼女の首筋に顔を埋め、くぐもった声で苦笑する。「穂坂先生……また職業病が出たのか?」景凪は冗談に応じる余裕もなく、真剣に脈を読んだ。病状が悪化していないことを確認し、ようやく少しだけホッと胸をなでおろす。寝返りを打って渡と向かい合い、その頬を両手でそっと包み込んだ。「ねえ、ちゃんと自分の体を大切にして。私が絶対に、あなたを治す薬を見つけるから。絶対に!」力強く言い切ったその言葉は、彼に向けているというより、自分自身に言い聞かせているようだった。渡にはそれが痛いほど分かっていた。渡の眼差しは、どこまでも優しい。「ああ。お姫様なら何だってできるさ」景凪はふっと笑った。「渡ってば。私が『太陽は西から昇る』って言っても、あなたは『そうだね』って言いそう」彼は目を細めて微笑み、気怠げに彼女を自身の深くへ抱き寄せた。「お姫様の言うことは、いつだって正しいからな」それは決して甘いだけの言葉ではない。彼にとって、それは絶対の事実であり、心の底からの本心だった。景凪は目を閉じ、口元の笑みをさらに深めた。「辰希との勝負、どっちが勝ったの?」渡は気怠げに彼女のうなじを撫でながら、ぽつりとこぼした。「引き分けってところかな」「それなら大したものね。辰希はすごく強いんだから。互角に戦えたなら、褒めてあげる」渡はフッと笑う。「俺が手加減してやったとは考えないのか?」景凪は薄く目を開けて彼を見た。「私以外の誰かに、あなたが譲るわけないじゃない」渡は一瞬言葉を失い、やがて胸を震わせて低く笑い始めた。景凪自身、珍しく図々しいことを言った自覚はあった。ここまで笑われるとさすがに恥ずかしくなり、ぽかっと彼の胸を叩く。「もう、渡!」少し拗ねたような甘い響きは、聞く者の心を溶かしてしまいそうだっ
「ええ、すぐにご用意しますね!」桃子さんは足早に屋敷の中へ戻っていく。渡はしゃがみ込み、辰希と目線を合わせた。「辰希、俺と一緒に遊ぶか?囲碁が好きだったよな。少し打たないか?」まだ幼い辰希は、景凪が微かに頷くのを見ると、たちまち大好きな囲碁へと気を引かれた。「うん!」景凪は階段を上る前、リビングに視線を向けた。盤面に向かって真剣に考え込む大人と子供。その光景は、胸が締め付けられるほど温かかった。彼女は音もなくふっと微笑み、階段を上がっていく。背を向けたその瞬間。渡はスッと視線を上げ、彼女の姿を静かに見つめていた。「渡おじさん、次だよ!」辰希の声で、渡の意識は再び盤上へと引き戻される。渡は白石をつまみ、パチリと盤に置いた。辰希は盤面をじっと見つめ、考え込みながらゆっくりと石を打つ。「ねえ、渡おじさん……」「ん?」渡は気のない返事をしつつ、また白石を打つ。辰希が唐突に口を開いた。「ママと結婚するの?」盤へ伸びかけていた渡の手が、ピタリと止まる。だが、すぐに何事もなかったかのように石を手に取った。「どうしてそんなこと聞くんだ?」「だって、ママはおじさんのこと大好きだから……でも、もしパパみたいに、いつかママを悲しませるなら……」辰希は顔を上げた。景凪によく似た目元が、真剣な光を帯びて渡を射抜く。「早めにママから離れて。ママを泣かせないで」渡はフッと口角を上げ、辰希の頭をポンポンと撫でた。結局、その問いに答えることはなかった。二局打ち終える頃には、すっかり辰希の寝る時間になっていた。桃子さんが呼びに来る。渡は一人で碁盤を片付け、立ち上がった。その瞬間――視界が激しく激しく揺らぎ、真っ白に飛んだ。強く目を閉じ、頭を激しく振る。白い光は、底なしの暗闇へと呑み込まれていった。渡はふらつく体を必死に支え、部屋の構造の記憶だけを頼りに書斎へと向かった。薬は引き出しの中だ。錠剤をいくつか取り出すと、水も飲まずにそのまま飲み込む。副作用の進行は、ウィル医師の予想を遥かに上回る早さで、容赦なく体を蝕んでいた。目を閉じたまましばらくじっと耐えていると、やがて視力が戻ってくる。計画を前倒しにする必要があるな……苛立たしいスマホの振動音が鳴った。電話に出ると、ひどくしゃがれた男の声が聞こえてき
急いで駆けつけた渡が目にしたのは、ベッドの傍らに座り、冷たくなり始めた益雄の手を静かに握りしめる景凪の姿だった。言葉を呑み込み、渡はゆっくりと部屋へ足を踏み入れる。「景凪……」少しでも声が大きいと彼女を壊してしまいそうな気がして、渡はかすれた声で小さく名を呼んだ。景凪はゆっくりと顔を上げた。その目は赤く腫れ、もう流す涙すら枯れ果てている。渡は彼女のそばへ歩み寄り、静かに膝をついた。蒼白く悲痛な景凪の面差しを見つめるその瞳に、隠しきれない胸の痛みが揺れる。ためらうように、益雄を握りしめている景凪の手にそっと触れる。彼女が拒まないのを確かめると少しだけ力を込め、その氷のように冷たい手を自分の両手で包み込んだ。「渡……」景凪は消え入りそうな声でつぶやいた。「これで穂坂の家には、私一人だけになっちゃった……」渡は何も言わず、彼女を強く抱きしめた。景凪は自嘲するように、不器用に微笑もうとする。「本当は、完全な一人ぼっちじゃないはずなんだけどね。顔も知らないお父さんがどこかにいるから」渡はしばらく黙ったあと、低い声で囁いた。「必ず見つけ出す。俺が約束する……」その後二日間、景凪は葬儀の準備に追われた。知らせるべき親戚や友人もいない中、彼女が下した一番大きな決断。それは、古い屋敷の地下室から祖母・百合子の遺体を連れ出し、祖父と一緒に埋葬することだった。渡は片時も離れず彼女に付き添った。人手や墓地の手配など、景凪が口にする前にすべて完璧に整えてみせた。桃子さんと息子の辰希も、彼の手配で一時的に梧桐苑へ移され、手厚く保護されている。埋葬の日。空は重く垂れ込め、ちらちらと小雪が舞っていた。渡は黒い傘をさしかけ、景凪の隣に静かに寄り添っている。生前そのままの姿を留め、三十代そこそこにしか見えない百合子の遺体を前にしても、彼の表情は少しも揺らがなかった。景凪はポツリとこぼした。「おじいちゃん、言ってた……自分は愛する人を救えなかったけど、あなたはそれをやり遂げたって」傍らに立つ渡を見上げる。その瞳の奥にはあまりにも多くの感情が渦巻き、視線そのものが重い質量を持っているかのようだった。一人の人間を、これほどまでに長く愛し抜くことができるのだろうか。どうやったら、そんな想いを抱き続けられるのだろう。「渡……私、あなたに
「……」景凪は包丁を握る手にぐっと力を込めた。「景凪」深雲が顎を彼女の首筋に乗せ、低く艶のある声で囁く。「もう料理はいいよ。さっき出前を頼んだから」「……」ほのかに、深雲の体から女物の香水が漂ってきた。この香りは、景凪には馴染み深いものだった。目覚めたその夜にも、そしてその後会社でも感じたことのある香りだ。それは、姿月が愛用している香水だ。景凪は込み上げる吐き気を必死で抑え、腰に回された深雲の手を見下ろした。この手は、ほんの数時間前、別の女を抱きしめ、撫でていた手……「うっ」もう我慢できず、景凪は勢いよく深雲を突き飛ばし、ゴミ箱の前へ駆け寄って吐き始めた。
例外なく、どの部署も多少なりとも赤字を出していた。幹部たちは息を殺し、首筋には冷たい汗が滲んでいる。コトン――蝶がひらりと舞い降り、会議テーブルの上にとまった。渡は目を細め、落ち着いた声で言う。「これは昨年度、みんな各部署の収益状況だ。説明しろ」場の空気は凍りつき、しばらく沈黙が流れる。数秒後、渡の右隣に座る営業部長が、恐る恐る口を開いた。「黒瀬社長、業務目標はきちんと部下に伝えておりますが、その……現場の人間が……」「ふっ……」渡は眉を上げて笑った。その端正な顔立ちに、ぞくりとするような妖しさが宿る。彼が立ち上がった瞬間、空気が一変した。圧倒的な存在感が会議室を支
伊雲の脳裏に、電光のようにひとつの名前がよぎった。千代!その間隙をついて、ジョンはすでに素早く身を翻し、エレベーターの中へと消えていた。伊雲が慌てて追いかけた時には、エレベーターの扉は無情にも閉ざされ、まるで疫病神を避けるように彼女を遠ざけた。伊雲は苛立ちを隠せず、足早に身を翻すとスマホを取り出し、中間人へ電話をかけて事情を確認する。「前に言ってたけど、ジョン・チョウって国内のある女優の熱狂的なファンなんでしょ?その女優って、最近国際映画賞を獲った千代のこと?」相手が肯定すると、伊雲はすべてを悟った。その美しい顔には暗雲が立ちこめる。きっと、景凪のあの女がどこからか
景凪は海舟の車で、自宅の玄関先まで送り届けられていた。「ありがとう、海舟」「いえ、とんでもないです」海舟は誠実な口調で応じると、ふっと微笑んだ。「奥様の目が一日も早く回復されますように」景凪は穏やかに微笑んだ。「ありがとう」海舟は踵を返そうとしたが、ふと会社での出来事を思い出し、言葉を付け加えた。「奥様、今の開発部の連中は、ここ数年で入ってきた人ばかりです。みんな、奥様のことをまだよく知りません。でも、これから奥様の実力を知れば、きっと安心して奥様の元で働くようになりますよ」この言葉には、景凪にかつて助けられた恩義だけでなく、もっと強い確信があった。海舟は景凪の実力を誰より
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