穂坂景凪(ほさかけいな)は十五年もの長い間、鷹野深雲(たかのみくも)を一途に愛し続けてきた。 しかし、出産の日、彼女は植物状態になってしまった。 その病室で、深雲は彼女の耳元で優しく囁いた。「景凪、もう二度と目覚めないでくれ。お前はもう、俺にとって何の価値もないんだ」 優しくて情の深い夫だと信じていた彼が、自分に向けていたのは、ただ尽きることのない嫌悪と利用だけだったと、景凪は初めて知った。 命懸けで産んだ二人の子供たちは、彼女の病床の傍らで、深雲の初恋の女に向かって、無邪気に「ママ」と呼びかける。 完全に絶望した景凪が目を覚ましたとき、彼女が最初にしたことは、迷いのない離婚だった。 だが離婚して初めて、深雲は気づく。自分の生活の隅々に、景凪の面影が染みついていることを。彼女は、既に彼にとってなくてはならない存在になっていたのだ。 再会した景凪は、トップクラスの医薬専門家として会議に現れ、眩いばかりの輝きを放ち、全ての視線を奪っていく。 かつて彼だけを見つめてくれていたあの女性は、今や彼に一瞥すらくれない。 きっと景凪はまだ怒っているだけ。自分が一言謝れば、彼女は必ず戻ってくる。彼女は自分を深く愛しているのだからと、深雲はそう信じていた。 だが黒瀬家の新当主――黒瀬渡(くろせわたる)の婚約パーティーで、深雲はこの目で見てしまった。華やかなウェディングドレスに身を包んだ景凪が、満面の笑みで渡の胸に飛び込み、その瞳に愛情だけを映している姿を。 深雲の心は嫉妬に狂い、手にしたグラスを握り潰し、流れる血で手が真っ赤に染まっていた……
View More景凪は、あの日のことを今でも鮮明に覚えている。あれは、深雲の誕生日だった。ふたりが付き合い始めて間もない頃だ。深雲は一緒に食事をすると約束してくれた。だから彼女は、三時間も前から念入りに身支度を整えて、胸を躍らせながらレストランで彼を待っていた。けれど、どれだけ待っても深雲は現れなかった。夜も更け、レストランは閉店時間を迎える。彼に電話してみても、電源が切れている。もしかして事故でもと心配になった景凪は、彼の通う大学まで足を運んだ。男子寮の下で朝まで膝を抱えながら待ってみたが、深雲の姿はついに現れず、代わりに姿を見せたのは彼の友人、暮翔だった。暮翔は、景凪を見てなぜか複雑な表情を浮かべた。「深雲、昨日病院に行ったんだ……」と、どこか口ごもりながら教えてくれた。景凪は、深雲がきっと病気だったのだろうと素直に信じ、「私が待っていたことは秘密にしてね、心配かけたくないから」と暮翔に頼んだ。だが、その夜、景凪がひたすら待ち続けていた間、深雲は、姿月と一緒にいたのだ!もう、耐えきれなかった。景凪は力いっぱい目を閉じ、息をするだけで胸が痛んだ。あの写真は、今も脳裏に焼き付いて離れない。まるで鋭い刃で心の一番柔らかな場所を抉られるようで、血が滲むように痛かった。てっきり、五年間の植物状態の間に姿月が居座って、深雲とコソコソ始まったものだと思い込んでいたが……実際は、ずっと前から二人は繋がっていたのだ!しかも、深雲の周りの奴らは皆、姿月の存在を知っていた!彼らの目には、景凪は哀れで滑稽な道化に映っていたのだろう。胸が冷たい氷に包まれるようだった。はっきりと悟った。深雲が姿月を会社に入れて自分の秘書にしたのも、最初から計画的だった。自分が妊娠してお腹が大きくなっている時でさえ、深雲は裏で姿月と逢瀬を重ねていたのだ。どうして、どうしてあんな仕打ちができるの?怒りと悲しみが胸を爆発させそうになる。その時、千代が震える景凪を優しく抱きしめた。「景凪……」景凪は崩れそうな感情を押し殺し、無理に笑顔を作って千代に言う。「大丈夫よ」千代はまだ何か言おうとしたその時、ドアの外からアシスタントの声が聞こえた。「千代さん!やばいです、週刊誌に居場所バレました!下にファンが集まり始めてて……会社から車が来てます!」
景凪は千代からのメッセージに返信して間もなく、窓の外が騒がしくなった。窓辺に歩み寄って外を覗くと、中庭には二台の大型トラックが停まっている。荷台には根ごと泥のついた黄色いバラが山積みだ。七、八人の庭師がスコップ片手にトラックから降り、何も言わずに庭のチューリップを次々と掘り返し始める。景凪は窓辺に寄りかかり、無残に掘り返されていく庭を眺めていた。やがて、邪魔なチューリップの姿は一輪も見当たらなくなった。なんて、目に心地いい光景だろう。目覚めてから初めて、景凪の唇にほっとする微笑みが浮かんだ。夜の六時。千代の運転手が車を回して迎えに来る。田中が景凪を車に乗せ、車が走り出すと、バックミラー越しに、田中が携帯でナンバープレートを撮影しているのが見えた。たぶん深雲への報告用だろう。でも、そんなこと気にしない。深雲は千代の車を知っているし、千代が自分のことをどう思っているかも知っている。あの人は常に温和な紳士を演じていた。だからこそ、千代のような直情的な女は苦手だった。今となっては景凪も、当時深雲が千代を気に入らないからと彼女と距離を置かずに済んだことを、心から幸いに思っている。三十分ほどで、車は万宝楼の駐車場に滑り込んだ。完璧に演じるため、景凪はサングラスをかけ、白杖を手にして店に入る。すぐに店員が駆け寄ってくる。「穂坂様でいらっしゃいますか?鐘山様が四階の個室でお待ちです。ご案内しましょうか?」「いえ、エレベーターまでで結構です」店員に案内されてエレベーター前へ。扉が開くと、景凪はそのまま中へ入り、四階のボタンを押した。重厚な扉が静かに閉まる。ふと外を見やると、エントランスに突然黒服のガードマンがなだれ込む。二列に並び、その間を誰かが歩いてくるのが見えた。景凪はサングラスを少し下げ、黒服の隙間から男の横顔をちらりと覗く。重厚なダークスーツに身を包み、まるで影のような存在感。唯一はっきり目に入ったのは、その手だった。指は長く、節々が美しく、線も繊細で、白い肌の上には筋が浮かび上がっている。どこか色気を感じさせる手だ。芸術品、みたいな手だわ。だが、こんなに美しい手を持つ男は、きっと顔はイマイチに違いない。そう思う間もなく、エレベーターの扉は完全に閉じてしまった。外では、
もし雲天グループの資産がA市でトップ10に入るとしたら、黒瀬家は、そのトップ10を全て合わせても到底及ばないほどの存在だ。深雲は眉をひそめ、少し不思議そうに呟いた。「医薬の分野って、黒瀬家は今まで一度も手を出したことがないはずだろ?どうして急に西都製薬を買収することになったんだ?」暮翔は肩をすくめ、両手を広げてみせる。「それは分からないな。きっと医薬業界っていう大きな利権に惹かれたんじゃない?結局、誰だってお金がありすぎて困ることはないだろうし」そんな話をしながら、暮翔はちらりと時計を見て立ち上がった。「あ、そうだ。忘れるなよ。今夜は研時が帰国する日だし、誕生日でもあるんだ。夜七時に万宝楼(まんほうろう)で歓迎会だ」陸野研時(りくやけんじ)は彼の大学時代からの親友の一人で、長い付き合いがある。そんな相手にドタキャンなんてできるはずがない。深雲は数秒ほど考えてから、スマホを手に取り自宅の別荘に電話をかけた。「ご主人様」電話に出たのは、家政婦の田中だった。「奥さんは?」「奥様は部屋にいらっしゃいます」「電話を代わってくれ」リビングの電話と寝室の電話は繋がっているので、田中はすぐに電話を転送した。深雲がじっと三十秒待っていて、ようやく景凪が電話に出た。かつては、彼の電話には景凪が一瞬で出てくれたものだったのに!「深雲?どうしたの?」深雲は少し不機嫌な声で言った。「何してた?ずいぶん遅かったな」景凪は自分の足にびっしり刺さった銀の鍼を見下ろし、特に隠すこともなく答えた。「足の鍼治療をしてるの、早く普通に歩けるようになりたくて」目の不自由という芝居を続ける必要がある。でも、一日でも早くこの足を治さないと、これからの計画に支障が出る。景凪は医薬の名家の出で、箸を持てる頃にはすでに鍼を扱うこともできていた。たとえ今は目が不自由でも、ツボを探るくらい造作もない。深雲もそれを疑うことはなかった。「今夜は……」と深雲は少し口を止め、軽く嘘をついた。「多分、残業になる。帰りが遅くなるから、待たなくていいよ。早く休んで」深雲は景凪には、今夜研時たちと集まることは黙っていた。理由は単純。面倒だからだ。この数年、景凪はどうにかして彼の友人たちの輪に入ろうと努力してきた。彼の友人たちの誕生日をわざわざ覚え、一ヶ月
深雲は二人の子を学校に送ってから、そのまま車で会社へ向かった。ビルの玄関をくぐると、すぐにアシスタントの江島海舟(えじまかいしゅう)が駆け寄ってきた。海舟の表情はどこか険しい。「社長、最新情報です。西都製薬の大株主が入れ替わりました!」その言葉に深雲の表情がわずかに曇る。海舟からタブレットを受け取ると、経済ニュースのトップに目を通した。【医薬品業界の巨塔・西都製薬株式、構成に激震!元会長の斎藤敬一(さいとうけいいち)が昨夜、持ち株25%を売却。買い手の正体は未公開!】海舟は深雲の後ろに付いて歩きながら、さらに低い声で続けた。「社長、調べたところ、その謎の買い手は斎藤氏の25%だけでなく、過去半年で小口株主からもかなりの株を買い集めているとか。合計で、すでに50%以上持っているようです」過半数の株、それはもう、西都製薬の絶対的な支配者が現れたということだ。海舟は眼鏡を押し上げる。「社長、西都製薬はうちの最大級の取引先です。戦略提携も、実は奥様が五年前に纏め上げたもので、先月で期限切れです。でも向こうは、再契約の話をずっと先延ばしにしてまして……しかも新しいオーナーの情報も、まったく掴めません」深雲は無言のままエレベーターに乗り、鏡に映る自分の厳しい顔を見つめた。「敬一のほうは?何か情報を漏らしてないか?」海舟は苦い顔で答える。「斎藤一家は今朝の便で海外へ。連絡先も、恐らく奥様しか知らないかと……でも、奥様の今の状態では……」深雲の顔はさらに険しくなった。彼は景凪が目覚めたことを公表していないし、そのつもりもない。そもそも西都製薬が数ある企業の中から雲天グループを選んだのは、景凪の存在があったからだ。かつて景凪は敬一の奥さんの命を救っている。その恩義で、敬一は雲天グループにチャンスをくれた。さらに、妊娠中の景凪が重圧に耐えながら提出した新薬の企画書は敬一の心を打ち、五年契約が一気に決まったのだった。深雲の瞳は冷たく光る。「景凪がいなきゃ、雲天グループは生き残れないのか?どんな手段を使ってもいい。三日以内に西都製薬の新オーナーの正体を突き止めろ」「承知しました」海舟は頭を下げるしかなかった。深雲は怒りを抑えつつ、オフィスへ入った。ドアを開けると、姿月がデスクを整理しているところだった。タイトな白い
翌朝。景凪は朝早く目が覚めた。今日は自分で辰希と清音を起こし、ぎゅっと抱きしめて、一緒に朝ごはんを食べて、学校へ送り出してあげたい。それはきっと、どこにでもいるママとして当たり前の幸せな朝の風景だ。五年間、ベッドに縛り付けられ身動きできなかった日々、景凪はそんな日常を夢見て、なんとか心を保ってきた。けれど、今の彼女はまだ足腰が思うように動かない。だから、どうしても深雲の助けが必要だった。深雲がバスルームから出てくるのを、景凪はじっと待つ。彼は朝風呂が習慣だ。「深雲、辰希と清音が喜びそうな服、クローゼットから選んでくれる?」景凪は期待と幸せが混じった、柔らかな笑顔で頼む。「着替えたら、二人を起こしに連れて行ってくれる?」五年もの空白を埋めるには、焦らず少しずつ馴染んでいくしかない。自分がどれだけ二人を愛しているか、きっと伝えるんだ。もう絶対に、二人から離れたりしない、と。深雲が少し間を置いて近寄ってくる。彼の体からは甘い果実のような香りがする。女性が好みそうなシャンプーの匂いだ。景凪の心がかすかに冷える。昔の深雲は、ずっと同じ白檀の香りのボディソープしか使わなかった。あの時、売り切れてしまい、彼女が勝手に違う香りのものを買ったことがある。深雲は何も言わなかったが、翌日にはその新品のボトルが洗面所のごみ箱に捨てられていた……けれど、今は、あの姿月のために、あっさりと習慣すら変えるのか?「景凪」深雲の優しい声が、景凪を現実に引き戻す。彼は申し訳なさそうに、彼女の頬をそっと撫でて言う。「実は、あの子たち……特に清音はもともと臆病で、昨日の夜、こっそり俺に言ってたんだ。ママが怖いって」景凪の笑顔がピタリと止まる。「でも、私は、あの子たちの母親なのに……」「もちろん。それは誰にも変えられない」深雲は優しくなだめるように続ける。「でも、お前は今体を休めるべきだ。無理に急がなくてもいい。歩けるようになってから、ゆっくり二人と過ごせばいい」景凪は諦めきれずに抗う。「でも……」深雲は困った顔で、低く遮る。「景凪、お前は五年もいなかった。あの子たちにとっては、今はまだ知らない人みたいなものなんだ。少し、時間をあげてくれ」景凪は思わず、深雲の偽善的な顔を張り倒したくなった!もし深雲が本当に彼女を妻として
夜の帳が下りる頃、街のネオンがきらびやかに輝き始める。黒宵館(こくしょうかん)。A市で最も格式の高いプライベートクラブ。その玄関から、手をポケットに突っ込み、もう片方の手で書類袋を軽く振りながら、渡が悠然と歩み出た。黒いシャツの襟元はだらしなく開け放たれ、どこか世の中を小馬鹿にしたような飄々とした空気をまとっている。まさに小説に書いたような大財閥の御曹司。待ち構えていた悠斗が、すぐさま駆け寄った。「黒瀬社長」七年も彼に仕えていれば、渡の表情ひとつで今夜の交渉がうまくいったことくらいはすぐに分かる。渡は書類袋を無造作に放り投げた。中に入っているのは、西都製薬(せいとせいやく)の25%の株式。「今日から、西都製薬は黒瀬家のものだ」口元を僅かに吊り上げる。いつもの気怠い口調だが、隠しきれない傲慢さが滲み出る。「この俺の黒瀬家だ」悠斗は苦笑した。「明日、大の若様がこのことを知ったら、きっと悔しがりますよ。彼は、西都製薬を手に入れたくて半年も狙っていたのに……ですが社長、今までずっと医薬業界には関心を持たれなかったのに、どうして急に西都製薬に?」渡はちらりと彼を一瞥しただけで、強い威圧感が空気を包む。悠斗は背筋に冷たいものを感じて、すぐ頭を下げた。「申し訳ありません、余計なことを聞きました」彼は急いで後部座席のドアを開け、ふと思い出したように言った。「社長、病院のほうは手配済みです。穂坂さんの病室の階の監視カメラとエレベーターは全て止めてありますので、直接お越しになれます」渡はこの数年、海外で暮らしていた。帰国しても極力目立たず、数日だけ滞在して要件が済めばすぐに出ていく。ただ一つだけ、毎回必ずA市に寄り、ある病院へ一人の女性に会いに足を運ぶ。正確に言えば、植物状態の女性に。悠斗はかつて抑えきれない好奇心で渡に尋ねたことがある。「社長、あの穂坂さんって、どういう方なんですか?」そのとき渡は書類を見ながら、目も上げずに一言だけ。「ただのバカだ」悠斗は心の中で思った。たかがバカのために、毎年わざわざ帰国して、わざわざA市まで来るものか、と。しかし口には出せなかった。だが今日、渡は珍しくこう言った。「もう行かなくていい」悠斗は驚いたが、それ以上は聞けなかった。「承知しました。ではホテルへお送りし
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