LOGIN穂坂景凪(ほさかけいな)は十五年もの長い間、鷹野深雲(たかのみくも)を一途に愛し続けてきた。 しかし、出産の日、彼女は植物状態になってしまった。 その病室で、深雲は彼女の耳元で優しく囁いた。「景凪、もう二度と目覚めないでくれ。お前はもう、俺にとって何の価値もないんだ」 優しくて情の深い夫だと信じていた彼が、自分に向けていたのは、ただ尽きることのない嫌悪と利用だけだったと、景凪は初めて知った。 命懸けで産んだ二人の子供たちは、彼女の病床の傍らで、深雲の初恋の女に向かって、無邪気に「ママ」と呼びかける。 完全に絶望した景凪が目を覚ましたとき、彼女が最初にしたことは、迷いのない離婚だった。 だが離婚して初めて、深雲は気づく。自分の生活の隅々に、景凪の面影が染みついていることを。彼女は、既に彼にとってなくてはならない存在になっていたのだ。 再会した景凪は、トップクラスの医薬専門家として会議に現れ、眩いばかりの輝きを放ち、全ての視線を奪っていく。 かつて彼だけを見つめてくれていたあの女性は、今や彼に一瞥すらくれない。 きっと景凪はまだ怒っているだけ。自分が一言謝れば、彼女は必ず戻ってくる。彼女は自分を深く愛しているのだからと、深雲はそう信じていた。 だが黒瀬家の新当主――黒瀬渡(くろせわたる)の婚約パーティーで、深雲はこの目で見てしまった。華やかなウェディングドレスに身を包んだ景凪が、満面の笑みで渡の胸に飛び込み、その瞳に愛情だけを映している姿を。 深雲の心は嫉妬に狂い、手にしたグラスを握り潰し、流れる血で手が真っ赤に染まっていた……
View More「め、滅多なこと言わないの!そんなわけないでしょ?きっと、たまたま名前が同じだけの別人よ」凛は必死に弁明しながら、平静を装って教壇へ歩み寄り、景凪のアプリを大急ぎでログアウトさせた。給湯室でコーヒーを手にし、渡に返信を打とうとしていた景凪のもとに、「PC版からログアウトされました」という非情な通知が届く。「……」景凪が覚悟を決めて会議室に戻ると、中に入る前に凛に呼び止められた。「ちょっと、黒瀬社長とどういう関係なわけ?!」凛は目を見開き、これ以上ないほど驚愕の表情を浮かべている。「一体、二人で何してるのよ?」やっぱり、見られた……景凪は平静を装って答えた。「黒瀬社長とは大学の同級生なんです。彼、ちょっと体に問題を抱えていて。病院に行くのも憚られるようだったので、個人的に薬を処方しているだけですよ」「体に問題……?」凛は顎に手を当て、意味深な視線を景凪に向けた。そして彼女の肩をポンと叩くと、深く納得したように頷いた。「まあ、あんな立場の人だものね。他人には相談しにくい悩みもあるわよね。安心して、アプリは消しておいたから。みんなには、社長と同姓同名の別人だって説明しておいたわ」「……ありがとう、凛さん」だが、凛の表情を見る限り、確実に「あらぬ方向」へ誤解しているのが分かった。「凛さん、黒瀬社長は別に、そういう……」いや、身体機能に問題があるわけじゃない、と説明するのも変よね……そもそも、彼にその手の問題があるかどうかなんて、自分が知るはずもない。景凪は、説明するのを諦めて口を閉ざした。どうせ、凛が渡と直接顔を合わせる機会など、そうそうないはずなのだから。午後の業務をひと通り片付けると、景凪は清音を迎えに行くため、早めに会社を後にした。車に乗り込んだところで、タイミングよく渡から電話が入る。午前中、凛に誤解されたばかりの気まずさが胸をかすめ、彼女は少し落ち着かない心地で通話ボタンを押した。「もしもし」「今夜、予定はあるかな?」渡は単刀直入に切り出した。「一緒に食事でもどうだろう」「……昨日、一緒に食べたばかりじゃない」「けれど、今日も君に会いたいんだ」渡の声はあまりに真剣で、冗談めかした響きなど微塵もなかった。景凪はそのあまりにストレートな言葉に詰まり、思わず言葉を失う。駆け引きなどできな
扉を押し開けると、清音がちょうど目を覚ましたところだった。「姿月ママ……」目をこする清音に歩み寄りながら、姿月はバッグからそっと懐中時計を取り出した。ベッドの脇に腰を下ろし、時計の蓋を開けながら、穏やかな声で清音に言い聞かせる。「いい子ね。今日の『お仕事』、覚えているかしら?」語りかける姿月の手元で、懐中時計がゆらゆらと、清音の瞳の前で規則的に揺れる。これは深い催眠を定着させるための儀式だった。昨夜の香炉から漂っていた「幻香」は、あくまで神経を弛緩させ、術にかかりやすくするための下地に過ぎない。そこへ雪華から伝授された催眠術を重ね、清音の抱く信頼と、長期間にわたる暗示を組み合わせる。これこそが、清音を完璧に支配するための、最も確実な手法だった。案の定、清音は逆らうことなく、うつろな様子で頷いた。「……覚えてる」姿月は満足げに、清音の額に口づけをした。「本当にお利口さん。姿月ママは清音が一番大好きよ」……景凪は辰希と朝食を囲みながら、昨夜、清音から電話があったことを話した。今夜からこちらに泊まりに来るのだと伝えると、辰希はパッと顔を輝かせた。「ママ、じゃあ僕、学校が終わったらすぐに清音と合流するよ!夜はどこに遊びに行こうか?」景凪は目を細めて微笑んだ。「二人の好きなように決めていいわよ。ママはどこでも付き合うから」「じゃあ、夜市に行こう!清音、屋台とかお祭りみたいな雰囲気が大好きなんだ。美味しいものもいっぱいあるし!」「ええ、決まりね」景凪は上機嫌な息子に頷き、時間が迫っているのに気づいて、早く着替えるよう促した。辰希が準備を終えた頃、タイミングよくチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこには明浩が立っていた。「お嬢様、おはようございます。辰希くんも、おはよう」「明浩おじさん、おはよう!」辰希が礼儀正しく挨拶を返す。桃子さんが来るまでの数日間、景凪は明浩に臨時の送迎を頼んでいた。その間に自分は、西都製薬での最後の大詰めとなる仕事を片付けてしまおうと考えていたのだ。明浩の運転する車で辰希が登校していくのを見送り、景凪はそのまま道路の向かい側にある西都製薬へと向かった。会社の玄関を入るなり、研究センター責任者の凛と鉢合わせた。「おはよう、凛さん」景凪が満面の笑みで声をかけると、凛
深雲は掴んでいた手を離し、何事もなかったかのように問いかけた。「どうしてまだ起きている?清音は?」「あの子ならもう夢の中よ。私があなたと一緒にいたくて」姿月は痛ましげな視線を向けると、深雲の背後へと回り込み、凝り固まった頭皮を指先で優しく揉みほぐし始めた。その手技は巧みだ。秘書として仕えていた数年間、彼女はこうして幾度も深雲の疲れを癒やしてきたのだ。張り詰めていた神経が、少しずつ緩んでいくのを感じる。不意に、姿月が耳元で甘く囁いた。「ねえ、深雲さん。さっき清音と話したのだけれど……明日の夜は、あの子を景凪さんのところに泊まらせてあげましょうよ」「実の母親として、娘と過ごす権利は彼女にもあるわ。私たち大人の間にどんな確執があっても、子供を巻き込んではいけないもの。やっぱり、血の繋がりには代えられないわよ。それに……あなたが板挟みになって苦しむ姿、私もう見たくないの」今の姿月は、まるで疲れ果てた騎士を癒やす一輪の献身的な花だった。深雲はゆっくりと目を開け、彼女の清純で無害な横顔を見つめるうちに、頑なだった心がわずかに綻んでいくのを感じた。これまでの数年間、彼女がどれほど清音を慈しんできたか、その献身を彼はそばで見てきたはずだ。それなのに、景凪の言葉ひとつで姿月に疑いの目を向け、屈辱的な思いまでさせてしまった。当の姿月は、実の母親である景凪に清音を会わせてやろうと、寛大な提案までしてくれているというのに。深雲の胸に、拭い去れない罪悪感が込み上げた。彼は姿月の手をそっと引き寄せ、その甲にいたわるような口づけを落とした。「……ありがとう」姿月は彼の肩に手を添え、愛おしそうに深雲の額に唇を寄せた。「お礼なんていらないわ。あなたの心が少しでも晴れるなら、私、なんだってするから」彼女は深雲の瞳をじっと見つめ、誘うように下唇をわずかに噛んだ。「ねえ、深雲さん。清音はもうぐっすり眠っているわ。あの子が目を覚ます前に戻れば、大丈夫……」深雲の瞳に、暗い火が灯った。成熟した一人の男として、その言葉が何を意味しているのかを悟らぬはずがない。拒絶されなかったことを確信した姿月は、深雲の膝に腰を下ろし、その首に腕を回して顔を近づけた。最初は静かだった。だが、姿月が煽るように求めてくるにつれ、深雲の内に眠っていた欲望が疼き出す。欲
潤一は淡々と言い放った。「子供に質の高い教育を受けさせるのは、至極まともな判断だろう。不足分はこれまで通り、俺の個人口座から補填しておいてくれ」「承知いたしました」潤一の脳裏には、あの夫妻が自分の目の前で息絶えた瞬間の光景が、今も鮮明に焼き付いている。任務の悪夢は時折、眠りを浅くし、目覚めるたびに激しい寝汗をかかせた。その罪悪感ゆえか、彼はその子に直接会う勇気を持てずにいた。ただ、毎年欠かさず贈る祝い金だけは、決して惜しんだことはない。せめて物質的な面だけでも、望むものはすべて与えてやりたい。その子が不自由なく、健やかに育ってくれるなら、それでいい。「児玉様。今回こちらを発たれる前に、一度その子に会ってみてはいかがですか?弥生という名前です」「いや、いい」いつものように拒絶したが、潤一はわずかに間を置いて付け加えた。「……今回の任務が終わって、戻ってきたら考えよう」「かしこまりました」一方。潤一から無情な言葉を投げつけられた伊雲は、煮え繰り返るような思いでいた。――鷹野家が、一体いつ潤一の機嫌を損ねるようなことをしたっていうの?確かに、以前姿月から聞いたはずだ。兄の深雲の会社が潤一と組もうとしていて、一緒に食事をしたこともある、と。伊雲が急いで帰国したのも、潤一が戻っていると聞き、接触する機会を狙っていたからだ。それなのに、何もしないうちから嫌われるなんて、納得がいかない。海外で救われた時は、彼はとても紳士的だった。彼女のバッグを拾い上げ、「気をつけて」と優しく声をかけてくれたはずなのに……どうしても腑に落ちない伊雲は、真相を突き止めようと深雲に電話をかけた。「お兄ちゃん!うちの家族が児玉潤一に何かしたの?」深雲は書斎でオンライン会議を終えたばかりだった。各部門の責任者たちが繰り出す不毛な議論の余韻で、こめかみの奥がじりじりと痛む。椅子の背もたれに体を預け、疲れた手つきで眉間を揉みほぐしていたが、妹の言葉を聞いた途端、せっかく解けかけた眉根が再び険しく寄せられた。「児玉潤一のことを聞いてどうする。まさか、あいつに色目でも使っているんじゃないだろうな?」深雲は上体を起こし、諭すように低い声を出す。「伊雲、自分の立場をわきまえろ。児玉家が、お前ごときが手を出していい相手だと思っているのか?」
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