穂坂景凪(ほさかけいな)は十五年もの長い間、鷹野深雲(たかのみくも)を一途に愛し続けてきた。 しかし、出産の日、彼女は植物状態になってしまった。 その病室で、深雲は彼女の耳元で優しく囁いた。「景凪、もう二度と目覚めないでくれ。お前はもう、俺にとって何の価値もないんだ」 優しくて情の深い夫だと信じていた彼が、自分に向けていたのは、ただ尽きることのない嫌悪と利用だけだったと、景凪は初めて知った。 命懸けで産んだ二人の子供たちは、彼女の病床の傍らで、深雲の初恋の女に向かって、無邪気に「ママ」と呼びかける。 完全に絶望した景凪が目を覚ましたとき、彼女が最初にしたことは、迷いのない離婚だった。 だが離婚して初めて、深雲は気づく。自分の生活の隅々に、景凪の面影が染みついていることを。彼女は、既に彼にとってなくてはならない存在になっていたのだ。 再会した景凪は、トップクラスの医薬専門家として会議に現れ、眩いばかりの輝きを放ち、全ての視線を奪っていく。 かつて彼だけを見つめてくれていたあの女性は、今や彼に一瞥すらくれない。 きっと景凪はまだ怒っているだけ。自分が一言謝れば、彼女は必ず戻ってくる。彼女は自分を深く愛しているのだからと、深雲はそう信じていた。 だが黒瀬家の新当主――黒瀬渡(くろせわたる)の婚約パーティーで、深雲はこの目で見てしまった。華やかなウェディングドレスに身を包んだ景凪が、満面の笑みで渡の胸に飛び込み、その瞳に愛情だけを映している姿を。 深雲の心は嫉妬に狂い、手にしたグラスを握り潰し、流れる血で手が真っ赤に染まっていた……
View More開発部のフロアは、どこもかしこも静まり返っていた。どうせ景凪は今ごろ、オフィスの中で泣いているに違いない――そんな空気が漂っている。真菜は心の中で勝ち誇っていた。前回、景凪に一矢報いられたあの屈辱、今日やっと晴らせたのだ!今日のこのお灸は、ほんの序章。これからが本番だ。これから毎日、景凪に開発部で地獄を見せてやるつもりだった。そのうち、姿月が社長夫人になった暁には、景凪なんて誰からも相手にされない哀れな女になるわ!景凪が地べたにひれ伏して泣きながら許しを請う姿を妄想するだけで、真菜の心は快感で満たされた。開発部はグループの心臓部であり、独立したセキュリティシステムが導入されている。入口では指紋と虹彩の両方による認証が必要だ。真菜は指を認証機に押し当て、顔をスキャナーに近づける。しかし、いつものようにドアは解錠されず、逆に真っ赤な警報が鳴り響いた!「指紋認証、顔認証エラー。再度認証してください」機械の無機質な声が響く。真菜は首をかしげた。開発部の認証システムは敏感だが、今までこんなことはなかった。指の位置が悪かったのかと、もう一度試す。だが、またもや赤い警報。「指紋認証、顔認証エラー。あと一度失敗すると、システムが自動通報します。」「何なのこれ?」真菜の顔色が一気に変わり、恐る恐る手を引っ込めた。後ろで見ていた同僚たちも、不思議そうにざわめき始める。「なんで認証できないんだ?」「今までこんなことなかったのに……」十分ほど経ち、警報が一旦解除されて別の人が試すが、同じく認証エラー。さらに別の人がやっても、結果は同じ。さっきまで余裕だった皆の顔が少しずつ曇っていく。誰もが心のどこかで、これは予想外の展開だと悟り始めていた。誰かが、恐る恐る呟く。「これって、もしかして穂坂……穂坂部長が、私たちを締め出したんじゃ……」状況は、皆で景凪を孤立させるどころか、景凪一人に全員が制裁されているような異様な光景だった。その頃、研究室では。肝心の景凪本人は、何事もなかったかのように黙々と仕事をこなしている。そばで手が空いた詩由は、監視カメラの映像で入口の様子を見ていた。真菜の、まるで虫でも食べたかのような顔を見て、詩由は太ももを叩いて大喜び。「アハハハハ!ざまぁみろ!いつも皆でウチのリーダ
その頃、もう一方の多目的ホールで。開発部の面々が全員集合し、テーブルの上には食べかけの朝食が雑然と並んでいる。主席に座る真菜は、コーヒーを口にしながら、三十分前にグループチャットへ送られてきた詩由のメッセージを眺め、紅く彩られた唇の端をつり上げて冷ややかに笑った。15分以内に席に戻れって?戻らなければ、それなりの覚悟を?ふん、景凪って、自分を何様だと思ってるのよ!同僚のひとりが、不安げに呟く。「でもさ、今日が穂坂部長の復帰初日でしょ?こんなに堂々とボイコットしたら、さすがにまずくない?」真菜が冷ややかな視線を投げる。「何が部長よ?復帰早々、社長夫人って肩書き振りかざして、姿月を追い出したんでしょ?ああいう人は、痛い目を見なきゃ分からないタイプなの。みんな忘れたの?ここ数年、姿月がどれだけ私たちを気遣ってくれたか」その一言で、場の空気が一瞬静まり返る。誰もが真菜の言うことを素直に聞いて、朝早くからここに集まったのは、要するに姿月のためだった。開発部で真菜の意向は姿月の意向とイコールだったからだ。代理部長として姿月が開発部を預かったこの数年、いくつもの新薬開発プロジェクトを成功させてきた。下準備も計画も全部姿月がやってくれて、あとは指示通りに進めればよかった。新薬が発売されるたびに、みんな結構なボーナスを手にした。楽して稼げる――そりゃみんな姿月が好きになるわけだ。それなのに、景凪が戻ってきて、いきなり姿月を追い出す。誰だって姿月に同情する。だからこそ、景凪の復帰初日に、こうして堂々と反旗を翻しているのだ。とはいえ、景凪は社長夫人でもあるし……誰かが不安を口にする。「でも……もし彼女が社長にチクったら、俺たち全員処分されるんじゃ……」その言葉に、真菜はあからさまな嘲笑を漏らす。「社長夫人の座なんて、あの女がどれだけ長く座っていられるか、見ものよ!」そう言いながら、彼女はグループチャットにトレンド入りのリンクを投下した。【海洋公園ファミリーイベント、超美形夫婦が話題沸騰!】太字のタイトルがやたらと目立つ。皆がなんとなくリンクを開き、載っている写真を見て、次々に目を見開いた。「えっ……これ、鷹野社長と姿月さんじゃないか!」リンク先には、深雲と姿月のツーショット。深雲はラフな服
月曜日の朝、景凪と深雲は同じ車で会社へ向かった。この日は運転手が休みだったため、アシスタントの海舟が運転手役を買って出て、迎えに来てくれた。スーツ姿の景凪を一目見た瞬間、海舟の目には明らかな驚きが走った。しかし自分の目線があまりにも真っ直ぐすぎたことに気づくと、すぐに視線を落とし、景凪と深雲のために後部座席のドアを開けてくれた。会社へ向かう道中、海舟は思わず言った。「良かったです。また奥様と社長が一緒に出社されるのを見られて、嬉しいです」景凪は淡く微笑みながら答えた。「海舟、これから平日は穂坂部長と呼んでください」「奥様」なんて呼び方、今の景凪には耳障りでしかなかった。働くこと、そして自分の実力だけが、彼女の唯一の誇りであり、支えなのだ。半分うつむき加減でメールを確認していた深雲は、景凪のこの言葉を聞くと、ふと彼女の方を見やった。景凪の化粧は薄く、髪もシンプルにまとめている。その姿は五年前と大きく変わらないはずなのに、なぜか今目の前にいる景凪は、記憶の中よりもずっと魅力的に見えた。「景凪、今日は本当に綺麗だ」その言葉には、心からの想いがこもっていた。深雲は手を伸ばし、景凪の耳元に落ちていた髪をそっと耳にかけてやる。指先の温もりが、ほんのりと彼女の頬に残る。車内は狭く、逃げ場がない。あまりに露骨に避ければ、かえって不自然だ。景凪は目を伏せ、恥ずかしげに深雲の手を下ろした。「もう、やめて」ほんの少し甘えた声で。自分で自分が嫌になるほどだ。だが、深雲はまるでそれが嬉しいかのように微笑み、景凪の手をぎゅっと握ったまま、ずっと離そうとしなかった。「……」最悪。運転席の海舟は、バックミラー越しにこの光景を見て、満足そうに微笑む。顔には「最高の夫婦愛を目撃した!」と書いてあった。七年連れ添った社長夫婦、やっぱりこの二人は特別だ。ようやく仲直りできたのだろう。やっと会社に着くと、景凪は深雲にまた触れられるのを恐れて、風のように足早に歩き出した。「深雲、私はそのまま開発部に行って企画案の準備をするね」まるで待ちきれない様子に、深雲の表情も自然と和らぐ。景凪がこれほどまでに仕事に打ち込むのも、やはり自分のためなのだろうか。深雲は片手をポケットに入れ、ゆっくりと景凪の後を歩いていく。会
景凪は中から研究資料を取り出した。指導教授の欄には、達筆で流れるような筆致で蘇我教授のサインが記されている。蘇我兼従(そがかねより)。紙はすでに黄ばんでいた。もともと蘇我教授は、彼女が卒業した後、このプロジェクトを任せてチームを率いさせるつもりだった。これを彼女の初めての研究プロジェクトにしてやろうと。蘇我教授は当時、景凪なら必ずや一発で成功し、世間を驚かせるだろうと信じていた。加えて彼の推薦があれば、王立国際医薬協会も特例で彼女を最年少メンバーとして迎える可能性が高かった。だが、七年の歳月が流れ、彼女がこのプロジェクトを本格的に開くのは、今が初めてだった……廊下から聞き慣れた足音が響いてくる。深雲が帰ってきたのだ。景凪の表情はわずかに冷たくなり、部屋を出て深雲に近づこうとしたその時、すでに彼の体には酒の匂いと女物の香水が混じって漂っていた。景凪はほんのわずかに眉をひそめた。「今夜は重要なパーティーに出てきたんだ」深雲はベッドに仰向けに倒れ、片腕を額に乗せ、辛そうに眉をひそめる。「景凪、酔い覚ましのお茶を淹れてくれないか」「分かったわ」景凪はそう返事し、部屋を出てそのまま出前を頼んだ。酔い覚ましのお茶を淹れる?彼のために?冗談じゃない。景凪はリビングで出前を待ち、暇つぶしにテレビをつけてチャンネルを変えていると、ちょうどパーティーの中継映像が映し出された。これは季節ごとに開かれるチャリティーパーティーで、名士たちが集い、チャリティーというよりは富豪たちが定期的に資源を交換する場だ。ただの形式で金を寄付し、自分たちの名声に箔をつけているだけ。景凪はチャンネルを変えようとしたが、その時、画面の隅に深雲の姿が映った。彼の外見は目立つため、無視するのも難しい。そしてその隣で腕を絡めていたのは、礼服を纏い、まるで正妻のような振る舞いの姿月だった!景凪はその光景に不快感を覚え、即座にテレビを消した。出前が届くと、景凪は酔い覚ましのスープを碗に移し、さらに台所でお酢とわさびをたっぷり加え、よく混ぜてから深雲のもとへ運んだ。「深雲、ちょっと酔いがひどいみたいだから、新しいレシピの酔い覚ましのお茶に変えてみたの。味は微妙かもだけど、効果は抜群よ。一気に飲み干さないと効かないからね」景凪は優しく、心から
この夜、景凪は清音の看病にかかりきりだった。薬湯を飲ませて、何度も体を拭いてやり、気づけば夜中の三時まで付きっきり。ようやく清音の熱は完全に下がり、ほおにも血色が戻っていた。景凪は清音の脈を診て、もう大丈夫だと確信すると、どっと疲れが押し寄せる中、自分の寝室へと戻った。スマホを見ると、深雲から三時間前にメッセージが届いていた。【今夜は実家に泊まる。夜は帰らない】とそれだけ。景凪は返信する気にもなれず、画面を閉じようとしたが、新しい友だち申請が目に入った。二時間前に来たものらしい。どう見ても新規のサブアカウント。アイコンはデフォルトの灰色のシルエット、名前は「自渡」。思い返せば、昼間、千代が「新しいサブ垢作ったから、夜に追加するね」なんて言っていた。多分これだろう。景凪は申請を承認した。すぐにメッセージが来た。【まだ寝てないの?】【そろそろ寝るところ。そっちも早く休んでね、おやすみ】ハートのスタンプを二つ添えて送る。しばらく「入力中」と表示されていたが、数分待っても返事はなかった。きっと千代は撮影現場なのだろう。景凪はもう気にせず、バスルームへシャワーを浴びに行った。出てくると、千代から【おやすみ】とだけシンプルな返事が届いていた。寝る前、景凪は子どもたちの寝室を覗いた。すると、清音がいつの間にか辰希のベッドで寝ていて、双子の兄妹が手をつないで眠っている。その光景に、景凪の心はとろけそうになるのだった。翌朝、景凪は少し遅く目を覚ました。部屋を出て扉を開けると、朝食の香りがふわりと漂ってきた。典子が選んでくれた家政婦の桃子(ももこ)がすでに来ていて、朝食を整えていた。辰希と清音はテーブルについて、すでに食事を始めていた。清音の顔色もすっかり良くなっていて、景凪は心底ほっとした。「奥様、おはようございます」と桃子が声をかけてくれる。丸い顔に優しい目元、前に典子の庭で会ったことのある人だ。「桃子さん、おはよう」と景凪も微笑んで返す。桃子がいてくれれば、明日から安心して会社に行ける。景凪がテーブルについて座ると、辰希と清音がちらりと目を合わせた。清音は何か言いたそうなのに、なかなか言い出せず、時折こっそり景凪を見ている。結局、朝食が終わるまで何も言わなかった。景凪は急かさない。いつかきっと
「辰希のせいじゃないよ」景凪はうっすらと目元を赤らめ、柔らかく語りかける。「辰希はまだ五歳なのよ。清音よりほんの少し早く生まれただけ。自分のことをきちんとできてるだけでも、すごいことなの。辰希は世界で一番素敵なお兄ちゃんなんだから」景凪に抱きしめられた辰希は、戸惑いを隠せず、そっとその腕を離れようとした。でも、手を上げたまま、少し迷ってしまう。この腕の中、あったかい。景凪の匂いがふんわりと鼻先をかすめる。香水じゃない、優しい匂い。何かはっきりとは言えないけれど、安心する。人って、こんなに温かい匂いがするものなんだろうか。「辰希、まずはご飯を食べてきて。清音のことは、ママに任せて」景凪は辰希をそっと離し、その頬に手を当てて微笑む。「本当に、お医者さんを呼ばなくても大丈夫?」辰希はまだ心配そうだ。「大丈夫よ。ママも腕のいいお医者さんだから」景凪が優しく笑う。その瞳を見つめていると、もう反論する気持ちも消えていく。ちょうどお腹も空いていたし、辰希は自分でダイニングへと向かった。景凪は、ふと辰希から視線を外し、ベッドの枕元に清音が宝物みたいにかけている青いショールを見上げた瞬間、胸の奥に静かな怒りが込み上げてくる。もし以前は、姿月のことをただ軽蔑していただけだったのなら、今は……何度でも平手打ちしてやりたいくらいだ!清音はあれほど姿月を慕って、言葉を信じていた。姿月が「上着を着てね」と一言でも言えば、きっと清音は素直に従っただろうに!でも、姿月は何もしなかった。清音を心から愛しているわけじゃない、本気で守ろうとしていなかった。深雲も同じ。あの時、きっと心の中も目の前も姿月しか見えていなかったはずだ。それ以外のことは、どうでもよかったのだろう。景凪は拳をぎゅっと握りしめて、込み上げる怒りを必死に抑えた。彼女は熱いお湯を用意し、タオルを湿らせて清音の体を拭き始める。ぼんやりと目を開けた清音。まだ意識は朦朧としているけれど、景凪の温かい気配を感じて、ふと小さな手が景凪の手を掴んだ。何か言いたげに、口をもごもごと動かす。景凪は耳を近づけて聞いた。「姿月ママ、苦しい……」景凪は目を伏せ、長いまつげがその瞳の悲しみを隠した。これほど苦しんでいるのに、まだ姿月を呼んでいるなんて……景凪は清音の頬を撫で、そ
Comments