Masuk穂坂景凪(ほさかけいな)は十五年もの長い間、鷹野深雲(たかのみくも)を一途に愛し続けてきた。 しかし、出産の日、彼女は植物状態になってしまった。 その病室で、深雲は彼女の耳元で優しく囁いた。「景凪、もう二度と目覚めないでくれ。お前はもう、俺にとって何の価値もないんだ」 優しくて情の深い夫だと信じていた彼が、自分に向けていたのは、ただ尽きることのない嫌悪と利用だけだったと、景凪は初めて知った。 命懸けで産んだ二人の子供たちは、彼女の病床の傍らで、深雲の初恋の女に向かって、無邪気に「ママ」と呼びかける。 完全に絶望した景凪が目を覚ましたとき、彼女が最初にしたことは、迷いのない離婚だった。 だが離婚して初めて、深雲は気づく。自分の生活の隅々に、景凪の面影が染みついていることを。彼女は、既に彼にとってなくてはならない存在になっていたのだ。 再会した景凪は、トップクラスの医薬専門家として会議に現れ、眩いばかりの輝きを放ち、全ての視線を奪っていく。 かつて彼だけを見つめてくれていたあの女性は、今や彼に一瞥すらくれない。 きっと景凪はまだ怒っているだけ。自分が一言謝れば、彼女は必ず戻ってくる。彼女は自分を深く愛しているのだからと、深雲はそう信じていた。 だが黒瀬家の新当主――黒瀬渡(くろせわたる)の婚約パーティーで、深雲はこの目で見てしまった。華やかなウェディングドレスに身を包んだ景凪が、満面の笑みで渡の胸に飛び込み、その瞳に愛情だけを映している姿を。 深雲の心は嫉妬に狂い、手にしたグラスを握り潰し、流れる血で手が真っ赤に染まっていた……
Lihat lebih banyak裏切られることを何よりも嫌う彼女の性格を、彼はよく知っている。信じて差し出した真心を雑に扱われ、傷つけられる痛みを恐れていることも。かつて深雲から受けた傷があまりにも深かったからだ。だからこそ、そういった行為を絶対に許さない。渡の読みは確かに鋭かった。……だが、たった一つだけ決定的な間違いを犯している。それは、彼自身がどれほど景凪にとって大きな存在になっているか、ということ。渡の喉仏が小さく上下した。何か言葉を選ぶようにして、結局は諦めたように口角を上げる。「君がそんなに勘がいいと、俺はどうしたらいいか分からなくなるな……」気だるげな響きの中に、どうしようもない甘さが滲んでいた。景凪はたまらず手を伸ばし、彼の胸をぽかっと叩いた。「馬鹿じゃないの?こんなつまらないお芝居して!私があなたを長生きさせるって言ったでしょう?どうして……どうして私を信じてくれないの?私は絶対に、あなたを助け出してみせるから!」言い終える頃には目尻が赤く染まり、感情が抑えきれずに震えていた。渡は静かに手を伸ばし、目尻から溢れそうになっていた雫を指の腹で優しく拭うと、そのまま彼女を強く抱き寄せた。彼女の頭頂部に顎を乗せ、ひどく静かなため息をこぼす。刺すような寒さの中、吐き出された息は白い霧となり、冷たい風にさらわれて一瞬で消え去った。彼の声は、その白い霧よりもさらに儚い。「景凪。俺はただ……君のこれからの人生が、幸せで満ち足りたものであってほしいだけなんだ」そこに、俺自身がいなくても構わないから。「私がこんなにあなたを好きになってしまったのに……途中で見捨てるなんて絶対許さない」景凪の両手が彼の胸元の服をきつく握りしめる。渡は、まるで自分の心臓ごと鷲掴みにされているような深い痛みを感じた。掠れた声が、小刻みに震えている。「渡……私があなたを救うから。今度こそ、絶対に私が救ってみせる!」なんて、馬鹿な人なんだろう。深雲のような男に酷く騙され、あれほどズタズタに傷つけられたというのに。それでも彼女は、一切の打算もなく真っ直ぐに人を愛そうとする。渡は景凪の柔らかい長い髪を静かに撫でた。ひらひらと舞い落ちてきた雪の結晶が、二人に触れてふっと溶けて消える。深い慈しみと共に、彼は優しく応えた。「……分かったよ」景凪は顔を
景凪がそう言うと、渡はあっさりと立ち上がった。「ああ。じゃあ、俺と景凪は先に出るよ」そして、ドアのそばに控えていた悠斗に指示を出す。「悠斗、お前は茜の世話をしろ。今日は俺に付いてこなくていい」その一言に、悠斗本人を含めたその場にいる数人の顔色が微妙に変わった。悠斗は珍しく戸惑ったように動きを止め、聞き返す。「渡様、それは……僕が茜お嬢様にお供する、ということでしょうか」悠斗といえば、渡の右腕として常に影のように付き従っている存在だ。もし護衛の対象が景凪だというならごく自然だが、茜を任せるとなると……景凪はうつむいたまま、表情には一切出さなかった。だが、バッグの持ち手を握る指先は、無意識のうちに白く強張っていた。普段はお調子物の昭野だが、こういう空気には誰よりも敏感だ。すぐに割って入り、場を取り繕おうとする。「もう、渡さんってば。影山みたいな真面目な奴をからかうのはやめてくださいよ。茜ちゃんみたいなお騒がせなお姫様は、僕が相手するのにぴったりなんだから!」しかし渡の表情は淡々としたままで、そのフォローすらもあっさりとスルーした。景舟にちらりと視線を向ける。「じゃあな」言葉短くそう告げると、景凪の手を引いて部屋を出て行った。悠斗はその場に残されたまま、後を追うこともできずに立ち尽くしている。昭野は眉を寄せ、珍しく真剣な顔つきで呟いた。「渡さん、どうしちゃったんすか?景凪ちゃんが怒ってるの、気付いてないはずないのに……」これまではあんなに景凪を溺愛していたというのに。せっかく自分が助け舟を出したのにも関わらず、見事に蹴り飛ばされてしまった。景舟は眼鏡の位置を直し、静かに立ち上がった。「俺はこの後まだ用がある。お先に失礼するよ」そして茜に視線を移す。「君のお父上から落札を頼まれていた古画は、君の滞在先に届くよう手配しておいた。引き揚げる時に忘れないように」「はい」茜は素直に頷いた。墨田家の兄弟とは幼い頃からの付き合いだが、昭野には好き放題に振る舞えても、景舟の前ではさすがに大人しい。景舟は部屋を出ようと足を踏み出した。その時、視界の隅に茜の姿が映り込む。彼女は、先ほど渡に遠ざけられたはずの冷たいデザートを再び自分の手元に引き寄せると、大きなスプーンで乱暴にすくい、怒ったように口に放り込ん
昭野は振り向いて景凪に気付くと、太陽のように明るい笑顔を向けた。「景凪ちゃん!久しぶり。ほら、早くこっち座って!」景凪は昭野に微笑み返し、テーブルに近づく。テーブルの上の料理はすでにほとんど食べ終えられていた。渡は立ち上がりもせず、ただ手を伸ばして景凪の手を握り、穏やかな声で聞いた。「飯は食ってきたのか?まだなら、何か新しく頼もう。メニューを見てみなよ。ここの看板メニューはおすすめだ、君の口にも合うはずだから」「……」景凪は伏し目がちに、自分を包み込む彼の手を見つめた。彼の手のひらは、少しだけ冷たかった。そのわずかな冷たさの感触が、なぜかこの瞬間、ひどく鮮明なものに感じられた。「もう食べてきたから、大丈夫」できる限り自然な表情を作るように努めながら、景凪はまず向かいに座る景舟に視線を移す。渡が傍らから紹介を入れた。「景舟だ。昭野の兄貴だよ」景舟は静かに顎を引いた。「穂坂さん、ですね」これほどの大物の名前は、もちろん景凪も嫌というほど耳にしている。礼儀正しくコクリと頷き返した。「景舟さん。お初にお目にかかります」それからすっと視線をずらし、渡越しに茜の顔を見据える。「茜さん。またお会いしましたね」茜はこちらと視線を合わせると、気だるげに口を開いた。「お久しぶりですね、景凪さん。もう、本当に渡兄さんが悪いんですよ。私が物忘れ激しいの知ってるくせに、ここに来てからちっとも景凪さんの話を出さないから、私、すっかり忘れちゃってました。こんなことなら、最初から渡兄さんに頼んで、景凪さんも一緒に呼べばよかった」茜のハーフ特有の整った顔立ちには、あからさまな挑発の笑みが浮かんでいた。それを聞いた昭野は、肝を冷やした。恐る恐る渡の顔色を窺う。もし茜が景凪を怒らせでもしたら、渡が不機嫌になってその場で茜の額に銃口を突きつけるのではないかと生きた心地がしなかったからだ。しかし予想に反して、何も起こらなかった。渡は気だるげな姿勢のまま、まるで茜の言葉など聞こえていないかのように、淡々と座っている。いくら鈍い昭野でも、さすがに確信した。……やっぱり、今日の渡は絶対におかしい!一方の景凪は、茜が渡に好意を寄せていることをずっと前から知っていた。だから茜の挑発も、景凪からすればただの子供の癇癪にしか見えない。さして気
考えすぎちゃダメ。景凪は自分に言い聞かせた。ただ食事をしているだけ……気にするようなことじゃない。なんといっても、相手はあの渡なのだから。けれど、相手が渡だからこそ、どうしても小さな蟠(わだかま)りが胸につかえる。本当なら、二人で先に来るはずの店だったのに……一方、料亭の個室。そこには渡と茜、そして墨田家の兄弟がいた。ただ、兄の景舟は仕事の電話で外のテラスに出ているため、現在テーブルを囲んでいるのは渡と茜、そして昭野の三人だけだ。渡がスマホをテーブルに置くのを見計らってから、ようやく昭野が口を開いた。「今の、景凪ちゃん?」昭野はあっけらかんと言い放つ。「渡さん、水臭いじゃん。いっそ彼女も呼べばよかったのに。僕もずいぶん景凪ちゃんに会ってないから、会いたかったのになぁ」渡はゆっくりと視線を上げ、冷ややかな目を彼に向けた。「これだけ料理が並んでいるのに、その口は塞がらないのか?」その氷のような一瞥に、昭野は背筋がゾクッとするのを感じた。表面上は何も変わらない。景凪以外の人間に対して、渡はいつだって万年氷のようなポーカーフェイスだ。だが、長い付き合いの直感が昭野に警告していた。――今の渡は、ひどく機嫌が悪い。これ以上、地雷を踏むようなマネは避けた方が賢明だ。昭野は黙って箸を動かすことにした。茜はちらりと渡を一瞥した。ガラス玉のように美しいその瞳の奥を暗い色が微かに掠めたが、それもほんの一瞬のこと。すぐにいつものような様子に戻る。「もう、今日の食事は渡兄さんがわざわざ私の歓迎会として開いてくれたんだよ!なんで他の人を呼ばなきゃいけないの!」半分甘えるような、半分わがままを言うような口調だ。それを聞いて昭野は吹き出した。「茜お嬢様、何言ってんだよ。景凪ちゃんは他の人なんかじゃないって。渡さんの彼女さ――」最後まで言い切る前に、言葉は途絶えた。渡が箸を伸ばし、目の前にあったスズキのソテーを茜の皿へ取り分けたからだ。「食べてみて」感情の読めない淡々とした声。「この店の看板メニューだ。君の口にも合うはずだよ」――その言葉を聞いた瞬間、昭野は雷に打たれたように固まった。渡が、自分から茜に料理を取り分けた?ありえない。景凪以外に、彼が他の女性の世話を焼くことなんて一度だってなかったはずだ。昭野は何も聞け
車内に残ったのは渡ひとり。彼はスマホを耳にあて、音声メッセージを再生する。柔らかくて、微笑みを含んだ声。その声は、生まれたばかりの仔猫の肉球のように、そっと心の一番柔らかい場所を掻き撫でる。ずっと消えていた想いが、また静かに蘇るような感覚だった。三分後。渡は車の窓をコンコンと叩き、悠斗を呼び寄せる。悠斗は戸惑いながら、もう一度後ろを振り返る。「社長、何かいいことでもあったんですか?」口元が勝手に上がっている。渡は余裕たっぷりに眉をひとつ上げて、「お前に関係ない」と言う。その言葉すら、笑いながらだった。「……」さらに不思議なのは、渡の耳の先が赤くなっている
「……」景凪は包丁を握る手にぐっと力を込めた。「景凪」深雲が顎を彼女の首筋に乗せ、低く艶のある声で囁く。「もう料理はいいよ。さっき出前を頼んだから」「……」ほのかに、深雲の体から女物の香水が漂ってきた。この香りは、景凪には馴染み深いものだった。目覚めたその夜にも、そしてその後会社でも感じたことのある香りだ。それは、姿月が愛用している香水だ。景凪は込み上げる吐き気を必死で抑え、腰に回された深雲の手を見下ろした。この手は、ほんの数時間前、別の女を抱きしめ、撫でていた手……「うっ」もう我慢できず、景凪は勢いよく深雲を突き飛ばし、ゴミ箱の前へ駆け寄って吐き始めた。
例外なく、どの部署も多少なりとも赤字を出していた。幹部たちは息を殺し、首筋には冷たい汗が滲んでいる。コトン――蝶がひらりと舞い降り、会議テーブルの上にとまった。渡は目を細め、落ち着いた声で言う。「これは昨年度、みんな各部署の収益状況だ。説明しろ」場の空気は凍りつき、しばらく沈黙が流れる。数秒後、渡の右隣に座る営業部長が、恐る恐る口を開いた。「黒瀬社長、業務目標はきちんと部下に伝えておりますが、その……現場の人間が……」「ふっ……」渡は眉を上げて笑った。その端正な顔立ちに、ぞくりとするような妖しさが宿る。彼が立ち上がった瞬間、空気が一変した。圧倒的な存在感が会議室を支
伊雲の脳裏に、電光のようにひとつの名前がよぎった。千代!その間隙をついて、ジョンはすでに素早く身を翻し、エレベーターの中へと消えていた。伊雲が慌てて追いかけた時には、エレベーターの扉は無情にも閉ざされ、まるで疫病神を避けるように彼女を遠ざけた。伊雲は苛立ちを隠せず、足早に身を翻すとスマホを取り出し、中間人へ電話をかけて事情を確認する。「前に言ってたけど、ジョン・チョウって国内のある女優の熱狂的なファンなんでしょ?その女優って、最近国際映画賞を獲った千代のこと?」相手が肯定すると、伊雲はすべてを悟った。その美しい顔には暗雲が立ちこめる。きっと、景凪のあの女がどこからか
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