Masuk穂坂景凪(ほさかけいな)は十五年もの長い間、鷹野深雲(たかのみくも)を一途に愛し続けてきた。 しかし、出産の日、彼女は植物状態になってしまった。 その病室で、深雲は彼女の耳元で優しく囁いた。「景凪、もう二度と目覚めないでくれ。お前はもう、俺にとって何の価値もないんだ」 優しくて情の深い夫だと信じていた彼が、自分に向けていたのは、ただ尽きることのない嫌悪と利用だけだったと、景凪は初めて知った。 命懸けで産んだ二人の子供たちは、彼女の病床の傍らで、深雲の初恋の女に向かって、無邪気に「ママ」と呼びかける。 完全に絶望した景凪が目を覚ましたとき、彼女が最初にしたことは、迷いのない離婚だった。 だが離婚して初めて、深雲は気づく。自分の生活の隅々に、景凪の面影が染みついていることを。彼女は、既に彼にとってなくてはならない存在になっていたのだ。 再会した景凪は、トップクラスの医薬専門家として会議に現れ、眩いばかりの輝きを放ち、全ての視線を奪っていく。 かつて彼だけを見つめてくれていたあの女性は、今や彼に一瞥すらくれない。 きっと景凪はまだ怒っているだけ。自分が一言謝れば、彼女は必ず戻ってくる。彼女は自分を深く愛しているのだからと、深雲はそう信じていた。 だが黒瀬家の新当主――黒瀬渡(くろせわたる)の婚約パーティーで、深雲はこの目で見てしまった。華やかなウェディングドレスに身を包んだ景凪が、満面の笑みで渡の胸に飛び込み、その瞳に愛情だけを映している姿を。 深雲の心は嫉妬に狂い、手にしたグラスを握り潰し、流れる血で手が真っ赤に染まっていた……
Lihat lebih banyak「ええ、すぐにご用意しますね!」桃子さんは足早に屋敷の中へ戻っていく。渡はしゃがみ込み、辰希と目線を合わせた。「辰希、俺と一緒に遊ぶか?囲碁が好きだったよな。少し打たないか?」まだ幼い辰希は、景凪が微かに頷くのを見ると、たちまち大好きな囲碁へと気を引かれた。「うん!」景凪は階段を上る前、リビングに視線を向けた。盤面に向かって真剣に考え込む大人と子供。その光景は、胸が締め付けられるほど温かかった。彼女は音もなくふっと微笑み、階段を上がっていく。背を向けたその瞬間。渡はスッと視線を上げ、彼女の姿を静かに見つめていた。「渡おじさん、次だよ!」辰希の声で、渡の意識は再び盤上へと引き戻される。渡は白石をつまみ、パチリと盤に置いた。辰希は盤面をじっと見つめ、考え込みながらゆっくりと石を打つ。「ねえ、渡おじさん……」「ん?」渡は気のない返事をしつつ、また白石を打つ。辰希が唐突に口を開いた。「ママと結婚するの?」盤へ伸びかけていた渡の手が、ピタリと止まる。だが、すぐに何事もなかったかのように石を手に取った。「どうしてそんなこと聞くんだ?」「だって、ママはおじさんのこと大好きだから……でも、もしパパみたいに、いつかママを悲しませるなら……」辰希は顔を上げた。景凪によく似た目元が、真剣な光を帯びて渡を射抜く。「早めにママから離れて。ママを泣かせないで」渡はフッと口角を上げ、辰希の頭をポンポンと撫でた。結局、その問いに答えることはなかった。二局打ち終える頃には、すっかり辰希の寝る時間になっていた。桃子さんが呼びに来る。渡は一人で碁盤を片付け、立ち上がった。その瞬間――視界が激しく激しく揺らぎ、真っ白に飛んだ。強く目を閉じ、頭を激しく振る。白い光は、底なしの暗闇へと呑み込まれていった。渡はふらつく体を必死に支え、部屋の構造の記憶だけを頼りに書斎へと向かった。薬は引き出しの中だ。錠剤をいくつか取り出すと、水も飲まずにそのまま飲み込む。副作用の進行は、ウィル医師の予想を遥かに上回る早さで、容赦なく体を蝕んでいた。目を閉じたまましばらくじっと耐えていると、やがて視力が戻ってくる。計画を前倒しにする必要があるな……苛立たしいスマホの振動音が鳴った。電話に出ると、ひどくしゃがれた男の声が聞こえてき
急いで駆けつけた渡が目にしたのは、ベッドの傍らに座り、冷たくなり始めた益雄の手を静かに握りしめる景凪の姿だった。言葉を呑み込み、渡はゆっくりと部屋へ足を踏み入れる。「景凪……」少しでも声が大きいと彼女を壊してしまいそうな気がして、渡はかすれた声で小さく名を呼んだ。景凪はゆっくりと顔を上げた。その目は赤く腫れ、もう流す涙すら枯れ果てている。渡は彼女のそばへ歩み寄り、静かに膝をついた。蒼白く悲痛な景凪の面差しを見つめるその瞳に、隠しきれない胸の痛みが揺れる。ためらうように、益雄を握りしめている景凪の手にそっと触れる。彼女が拒まないのを確かめると少しだけ力を込め、その氷のように冷たい手を自分の両手で包み込んだ。「渡……」景凪は消え入りそうな声でつぶやいた。「これで穂坂の家には、私一人だけになっちゃった……」渡は何も言わず、彼女を強く抱きしめた。景凪は自嘲するように、不器用に微笑もうとする。「本当は、完全な一人ぼっちじゃないはずなんだけどね。顔も知らないお父さんがどこかにいるから」渡はしばらく黙ったあと、低い声で囁いた。「必ず見つけ出す。俺が約束する……」その後二日間、景凪は葬儀の準備に追われた。知らせるべき親戚や友人もいない中、彼女が下した一番大きな決断。それは、古い屋敷の地下室から祖母・百合子の遺体を連れ出し、祖父と一緒に埋葬することだった。渡は片時も離れず彼女に付き添った。人手や墓地の手配など、景凪が口にする前にすべて完璧に整えてみせた。桃子さんと息子の辰希も、彼の手配で一時的に梧桐苑へ移され、手厚く保護されている。埋葬の日。空は重く垂れ込め、ちらちらと小雪が舞っていた。渡は黒い傘をさしかけ、景凪の隣に静かに寄り添っている。生前そのままの姿を留め、三十代そこそこにしか見えない百合子の遺体を前にしても、彼の表情は少しも揺らがなかった。景凪はポツリとこぼした。「おじいちゃん、言ってた……自分は愛する人を救えなかったけど、あなたはそれをやり遂げたって」傍らに立つ渡を見上げる。その瞳の奥にはあまりにも多くの感情が渦巻き、視線そのものが重い質量を持っているかのようだった。一人の人間を、これほどまでに長く愛し抜くことができるのだろうか。どうやったら、そんな想いを抱き続けられるのだろう。「渡……私、あなたに
子供たちを学校に送り届け、穂坂邸へ戻ろうとした矢先。療養所にいる佐久間広重から着信があった。景凪の胸に、嫌な予感がよぎる。広重さんは今、療養所で付きっきりで祖父の世話をしている。よほどのことがない限り、彼の方から電話をかけてくることはないはずだ……通話ボタンを押す。「もしもし、広重さん。どうしたの?」「お嬢様、今すぐ療養所へいらしてください。益雄様が目を覚まされました。お嬢様に会いたいと……」広重は言葉を区切り、押し殺したように声を震わせた。そこに目覚めを喜ぶ色は微塵もない。「お嬢様……どうか、心の準備を」景凪は即座に悟った。祖父の目覚めは、快方に向かっているわけではない。命の灯火が消える直前の、最期の輝きなのだと。口を開けたものの、一瞬、声が出なかった。「……お嬢様?」返事がないのを心配して、広重が声をかける。景凪はハンドルを白くなるほど握り締め、震える息を細く吐き出した。「分かったわ。今すぐ向かう」道中、景凪は前方の道路を食い入るように見つめていた。目頭がうっすらと赤く滲む。必死に涙をこらえていた。だが、療養所に到着する頃には、不思議と心は落ち着きを取り戻していた。入り口では、広重が待っていた。その目は赤く腫れぼったく、すでにひとしきり泣きはらした後のようだ。車から降りてきた景凪を認め、彼が声を絞り出す。「お嬢様」景凪は静かに頷き、広重の肩を軽く叩いた。そして二人で、祖父の益雄の病室へと向かう。広重は中へは入らなかった。「お嬢様。益雄様は、お嬢様とだけお会いになりたいそうです。二人きりで話したいことがあると。私は外でお守りしております。誰にも邪魔はさせませんから」景凪は一人、病室のドアを押し開けた。益雄はベッドに上体を起こして座っていた。顔色はそれほど悪くない。手にはアルバムが握られている。ゆっくりと近づいてみると、彼がめくっているのは昔の古い写真だった。まだ、家族が全員揃っていた頃の……「おじいちゃん」景凪は小さく声をかけ、益雄のそばに腰を下ろした。益雄は顔を上げず、皺だらけの手で写真の中の幼い景凪をそっと撫でた。やがて、ゆっくりと視線を上げ、すっかり大人になった目の前の孫娘を見つめる。その濁った瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。「うちの小さなお姫様も、あっという間にこんなに大きく
寝起きと二日酔いの頭が、ズキズキと脈打つように痛んだ。深雲は強くこめかみを押さえ、目を閉じて深く息を吸い込む。「分かった、母さん。落ち着いてくれ。俺が人を出して探させるから」電話を切り、ソファに腰を下ろす。すぐに秘書の海舟へ連絡し、伊雲の足取りを追うよう指示した。火をつけたタバコを吸い終わらないうちに、折り返しの着信がある。「社長。伊雲お嬢様は、三時間前にヤダ島へ向かう飛行機に乗られたようです」深雲の顔がスッと険しくなる。ヤダ島は交通の要所だ。国際空港があり、あらゆる場所へと路線が繋がっている。今から人をやって捕まえようにも、到底不可能だった。彼は研時に電話をかけた。傭兵界隈の裏ルートにツテがあるのは、彼くらいしかいない。電話がつながるなり、相手が口を開くより早く深雲が切り出した。「今回、児玉潤一が任務でどこへ向かったか、探れるか?」研時は数秒ほど面食らっていたが、すぐに状況を察した。「伊雲ちゃん、まだ諦めてなかったのか。また児玉潤一を追いかけたんだな?」深雲は沈黙で肯定した。「それにしても、あの子はいったいどこで潤一のスケジュールを嗅ぎつけたんだ?」研時は呆れ果てたように声を上げる。「……手は打てるか?」深雲は話を急いだ。「確約はできないな……」研時は渋った。「探ること自体は不可能じゃないが、厄介なことになる。聞いた話じゃ、潤一のチームでトラブルがあったらしい。奴だけが任務先から撤退できなかったって噂だ。源造さんも心配のあまり寝込んでいるらしい。こんな時に首を突っ込めば、児玉家の逆鱗に触れるぞ……」深雲は眉間を深く刻んだ。今さら伊雲がどうやって潤一の足取りを掴んだのかなど、どうでもいい。とにかく、あの馬鹿な妹を連れ戻さなければ!潤一が向かったのは、紛れもなく危険地帯だ。いつ命を落としてもおかしくない凄惨な任務に就いている。ずっと実家で甘やかされて育った伊雲は、外の世界の恐ろしさを欠片も分かっていないのだ!景凪の言う通りだ。「伊雲は甘やかされた大きな子供よ」。あの言葉はまったく正しかった。だが、その大きな子供は、深雲にとってたった一人の妹なのだ……「とにかく、探りを入れてみてくれ。何か問題が起きたら、俺が全責任を負う。伊雲に万が一のことがあれば、母さんが耐えられないんだ。……頼む」ここまで言われ
触れ合った唇から伝わる柔らかくも熱い感触に、電流が走ったかのように全身が戦慄く。ようやく思考が追いつき、彼女は渾身の力で渡を突き飛ばした。勢い余って、座っていたパイプ椅子が派手な音を立てて転がる。――パァンッ!乾いた破裂音が狭い空間に響き渡る。渾身の平手打ちが、渡の頬を捉えたのだ。衝撃で彼の顔が横を向く。渡は目を閉じ、打たれた余韻を味わうように静止した。……予想通りだ。彼は自嘲気味に口角を歪めた。「本当に……キスひとつにビンタ一発か」気高い俺の姫君は……景凪は仮面を床に投げ捨てると、今しがた奪われた唇を手の甲で乱暴に拭った。羞恥と怒りで何度も何度もこすり、柔
「俺にはいくらでもあるんだよ。お前らを、死んだほうがマシだと思わせる手段ならな」……一方その頃、郁夫は息を切らして姿月の住むマンションへと駆けつけていた。エレベーターを降りた瞬間、目の前に広がった光景に思わず足を止める。姿月の部屋の玄関ドアには、真っ赤なペンキがぶちまけられ、『死ね!』という殴り書きがされていた。さらに、刃物か何かで乱暴に切りつけたような無数の傷跡まで残されている。郁夫は眉間に深い皺を刻み、狂ったようにインターホンを連打した。「姿月!開けてくれ、僕だ!」ドアの向こう側では、姿月がつい先ほどモニター越しに慌てふためく郁夫の姿を確認し、ほくそ笑んでいた。
深雲は会社には向かわなかった。車を発進させた彼は、レストランの外周を半周ほど回ったところで、ちょうど大通りへ合流しようとする景凪たちの車を見つけたのだ。今夜はいつもより酒量が過ぎていた。車内の冷房は最大にしているというのに、体内で燻る熱が引かない。飲酒運転などという理性を気にする余裕すらなく、深雲は乱暴にワイシャツの襟元を引きちぎるように緩めた。哀れな第二ボタンが弾け飛び、窓ガラスに当たって乾いた音を立てると、助手席へと転がり落ちた。深雲は、前を走る景凪の乗った車を獲物を追う猛獣のように睨み据えていた。その色気を孕んだ瞳は今、どす黒い感情に支配されている。脳裏にこびりついて離れ
雪華の言葉は、明らかに自分に聞かせるためのものだった。大学時代、姿月が自分を命懸けで庇ってくれた、あの日の恩を忘れるなと……そう言われているようで、深雲の胸に罪悪感がじわりと広がった。「お母さん、もうやめて」姿月のか細い声が聞こえる。「深雲さんは関係ないの。私が勝手にしたことだから……あの人はずっと、私によくしてくれたわ」まだ、彼女は自分を庇おうとしている。深雲はきつく唇を結んだ。「はいはい、あんたの気持ちに口出しはしないわよ。でもね、自分の娘が濡れ衣を着せられるのを黙って見てるわけにはいかないの!」雪華の声には、抑えきれない憤りが滲んでいた。「あの内藤春江っていう狂った女
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