LOGIN穂坂景凪(ほさかけいな)は十五年もの長い間、鷹野深雲(たかのみくも)を一途に愛し続けてきた。 しかし、出産の日、彼女は植物状態になってしまった。 その病室で、深雲は彼女の耳元で優しく囁いた。「景凪、もう二度と目覚めないでくれ。お前はもう、俺にとって何の価値もないんだ」 優しくて情の深い夫だと信じていた彼が、自分に向けていたのは、ただ尽きることのない嫌悪と利用だけだったと、景凪は初めて知った。 命懸けで産んだ二人の子供たちは、彼女の病床の傍らで、深雲の初恋の女に向かって、無邪気に「ママ」と呼びかける。 完全に絶望した景凪が目を覚ましたとき、彼女が最初にしたことは、迷いのない離婚だった。 だが離婚して初めて、深雲は気づく。自分の生活の隅々に、景凪の面影が染みついていることを。彼女は、既に彼にとってなくてはならない存在になっていたのだ。 再会した景凪は、トップクラスの医薬専門家として会議に現れ、眩いばかりの輝きを放ち、全ての視線を奪っていく。 かつて彼だけを見つめてくれていたあの女性は、今や彼に一瞥すらくれない。 きっと景凪はまだ怒っているだけ。自分が一言謝れば、彼女は必ず戻ってくる。彼女は自分を深く愛しているのだからと、深雲はそう信じていた。 だが黒瀬家の新当主――黒瀬渡(くろせわたる)の婚約パーティーで、深雲はこの目で見てしまった。華やかなウェディングドレスに身を包んだ景凪が、満面の笑みで渡の胸に飛び込み、その瞳に愛情だけを映している姿を。 深雲の心は嫉妬に狂い、手にしたグラスを握り潰し、流れる血で手が真っ赤に染まっていた……
View More急な知らせではあったが、桃子は景凪の仕事が研究職であることを知っていたため、すぐに納得してくれた。「安心してくださいな、景凪さん。明浩さんも近くに住んでいますし、家のことは何も心配いりませんよ!辰希坊っちゃんのことは、私も小さい頃から見てきましたからね。あの子は本当にいい子ですから、私にどーんと任せてください!」「ええ、もちろん桃子さんのことは信頼してるわ。……もし辰希が『パパのところに行きたい』って言ったら、送ってあげてもらえるかしら」どれほど深雲を憎んでいようと、彼が辰希の父親である事実だけは変わらない。それに、子供たちに対する愛情だけは本物だと分かっている。「分かりました、景凪さん」桃子は時計を確認すると、立ち上がって袖をまくった。「それじゃあ、今のうちに荷造りをしておきますね」「ありがとう。服を何着か見繕って入れておいてくれればそれでいいわ。私……ちょっと出かけてくるから、帰りは遅くなると思う。夕飯は待たなくていいわよ」桃子はくすっと悪戯っぽく笑った。「渡さんに会いに行かれるんでしょう?行ってらっしゃいませ、景凪さん。きっと渡さんも寂しがられますから、今夜はゆっくりデートを楽しんできてくださいね!」景凪は微笑みを返しただけで、それ以上は何も言わなかった。その通り。これから渡に会いに行く。彼を治療できる希望の光を、あの処方を見つけたと伝えるために。もちろん、百パーセント成功する保証なんてどこにもない。それでも、ほんのわずかでも可能性があるのなら、命を懸けてでも試す価値はある。渡には、健康な体でずっと長生きしてほしい。彼と一緒に、髪が白くなるまで添い遂げたいのだ。景凪は梧桐苑へ行く前に、まず渡に電話をかけた。だが、いつもならコール音が鳴った瞬間に応答する彼が、今回は三十秒ほど経ってからようやく電話に出た。「景凪、どうした?」相変わらずの、文句のつけようがないほど優しい声だった。ただ、背景の音が少し騒がしい。誰かの話し声に交じって――微かに女の笑い声が聞こえた。「今、忙しい?」「いや。昭野たちと一緒に飯を食いながら、ちょっと話をしてたところだ」直後、電話の向こうがすっと静かになった。渡の穏やかな息遣いまではっきりと聞こえる。彼は再び、優しく問いかけてきた。「どうした?」「……」なぜか急に、
「周藤審議官!」蘇我教授が怒りに満ちた声で言葉を遮り、景凪を庇うように立ち塞がった。「一介の民間人に対して、良心につけ込むような真似は許さんぞ!お二方とも、すぐにお引き取り願おう!」青筋を立てて言い放つ蘇我の強硬な態度に、周藤と内藤は顔を見合わせた。やがて周藤は一枚の名刺を取り出し、静かにデスクの上に置いた。「穂坂さん……我々としても、万策尽きてのお願いなのです。ですが、もしどうしても行けないということであれば、あなたのご意志を尊重いたします」そう言い残し、二人は足早に書斎を後にした。怒りに震える手が名刺を掴み、蘇我教授はそれをゴミ箱へ投げ捨てようとした。 「君を死地に追いやるためだと分かっていたら、最初から呼び立てたりなどしなかった!」「先生」景凪はその手をそっと引き留めた。「その名刺は、私に預けておいてください。少し考えさせてほしいんです」「景凪……」痛ましいものを見るように、蘇我教授は眉をひそめる。「君がそこまで優しくなる必要はない。これは君が背負うべき責任じゃないんだぞ……」「でも、人質の中には文哉先輩がいます」すっかり白髪の増えた恩師の顔を見つめ、景凪は微かに微笑みながら真剣な眼差しで告げた。「先輩は、先生の一番弟子です。彼にとって、先生は恩師であり父親も同然のはず。先生もずっと、私たちのことを自分の子供のように可愛がってくれましたよね。もし見ず知らずの他人のことは諦めきれたとしても、文哉先輩のことを見捨てられますか?」その言葉に、蘇我はハッとして目を揺らした。確かに、文哉のことは心配でたまらない。もし連中の狙いが自分だったなら、二つ返事でこの老いぼれた命を差し出して身代わりになっただろう。だが、奴らが要求しているのは景凪なのだ。公私どちらの面から見ても、これほど前途洋々で才能にあふれた彼女を危険な目に遭わせるわけにはいかない。「そんな理屈は聞きたくない!君が行くことは絶対に許さん!」蘇我教授はたまらず声を荒らげた。「君はようやく目を覚まして、これまでどれほど辛い思いをしてきたことか……!今やっと、仕事も生活も軌道に乗ってきたというのに。奴らは安全を保障するだのと耳障りの良いことを言っているが、あんな無法地帯で何が起こるか分かったものじゃない。一人の女性にこれほど重い責任を押し付けるなんて、よくもぬけぬけ
だが、車を降りた瞬間、すぐに異様な空気を察知した。恩師の家の前には、いかつい防弾仕様の黒塗りの公用車が二台停まり、玄関の両脇には鋭い目つきのSPが立って周囲を警戒している。ただ事ではない。景凪の胸に緊張が走った。「景凪さん」ドアを開けて迎えてくれたのは、教授の奥さん・佳子だった。「早く中に入って」「先生のご自宅に、何か……」佳子は景凪の手を優しく叩くと、外に立つSPたちをちらりと気にしてから、声を潜めた。「情報対策室の内藤(ないとう)室長と、外務省の周藤(すどう)審議官がみえているの。もう書斎に入って一時間になるわ。どうやら、あなたに用があるみたい」政府の国家高官が、わざわざ自分を訪ねてくるなんて。いったい何事なのだろうか。「すぐに行ってみます」「景凪さん!」急ごうとする彼女を、佳子がそっと引き留める。「もし無理な頼み事をされたら、遠慮なく断っていいのよ。私たち夫婦のことは気にしなくていいからね」「……はい、ありがとうございます」景凪は安心させるように微笑み、足早に書斎へ向かった。軽くノックをする。「蘇我先生、景凪です」「入りなさい」許可を得てドアを開けた。書斎には蘇我教授のほかに、洗練されたスーツに身を包んだ男女が一人ずつ座っていた。その場にいるだけで、只者ではない鋭い威圧感が漂っている。「景凪、紹介しよう。こちらが情報対策室の内藤室長。そして周藤審議官だ」「内藤室長、周藤審議官」景凪は静かに頭を下げた。二人も軽く頷きを返す。しかし、その視線は値踏みするように景凪を真っ直ぐに見据えていた。やがて視線を交わし合うと、周藤が立ち上がり、景凪の目の前まで歩み寄る。「穂坂さん、時間がないので単刀直入に言います」周藤の声は硬く、切迫していた。「あなたの兄弟子である文哉さんが、院生たちを連れて海外の学会に参加していたのはご存知ですね?彼らは帰りに客船を利用したのですが……グウェン島近海を航行中、船ごとシージャックされました。最後に送られてきた位置情報は、バンダの密林奥深くにある危険地帯です」心臓がギュッと掴まれたように縮み上がった。「じゃあ、文哉先輩は……!」「おそらく無事でしょう。武装グループの目的は明確です。船には国内トップクラスの専門家や研究者が多数乗船していました。奴らは最初からそれを知っていて、交渉
景舟の背中を追って地下駐車場に降りると、ひっそりとした佇まいながらも一目で高級と分かる車が滑り込んできた。アシスタントが後部座席のドアを開ける。景舟が先に乗り込み、千代もそれに続こうとした――が。目の前で容赦なくドアが閉められた。「……え?」「千代様。うちのボスは基本的に他人と同乗しない主義でして。恐縮ですが、後ろの車にお乗りください」振り返ると、確かに後ろにもう一台セダンが控えていた。とりあえず今は向こうのルールに従うしかない。渡の情報を引き出すためだ。千代は渋々、後続車に乗り込んだ。シートに腰を落ち着かせると、すぐにメッセージアプリを開いて景凪に連絡を入れた。千代:【景凪、私あんたのためにめちゃくちゃ身を削ってるわ!】すぐに返信がくる。頭を掻いて困り果てたようなキャラクターのスタンプだった。千代:【このご自慢の美貌を武器に、敵情視察に行ってくるから待ってなさい!!】千代はすっかり、景舟と適当に舌戦を繰り広げる気でいた。彼がどんな手で口説いてこようと、とりあえず思わせぶりな態度でキープしておき、渡の情報を聞き出した瞬間に袖にしてやるつもりだったのだ。ところが、車が走り出してしばらくすると、前を走っていたはずの景舟の車が交差点でスッと左折していくではないか。一方、自分の乗った車はそのまま直進を続ける。「ちょっと待って」千代は慌てて助手席のアシスタントに声をかけた。「墨田社長の車、あっちに行っちゃいましたけど。ついて行かなくていいんですか!?」アシスタントは極めて事務的な声で答えた。「ご心配には及びません。ボスはこの後、別件でプライベートな予定がありまして。お渡しするものはすでに手配済みですので、私がお受け取りの場所までご案内いたします」千代の頭の中はますます混乱した。え、口説くんじゃなくて、ガチで何か物を渡すだけ!?ていうか、一体何を寄越すつもりなの!?30分後、千代はその答えを知ることになった。車が止まったのは、ある別荘の門前だった。すでに待ち構えていた家政婦が、手に持っていた封筒をそのまま千代に差し出す。「千代様。中身をご確認ください。借用書に問題がなければ、そのまま破棄していただいて構いません」「借用書……?」一瞬呆然としながらも、その封筒を受け取る。中には、丁寧に保管されていた一
そして土間からマッチを持ち出し、躊躇なく物置に火を放った。乾燥した藁の山にあっという間に火が回り、瞬く間に炎の舌が建物を舐め尽くす。もうもうと立ち上る黒煙と熱波。極悪人を憐れむつもりはないが、生きたまま焼き殺すほどの非情さは、人の命を救う医師としての矜持が許さなかった。この火の手が上がれば、悠斗たちや警察が駆けつけるだろう。逆に、熊代のような逃亡犯は、居場所が露見するのを恐れて近づかないはずだ。もっとも、仲間を見捨てるような人間かどうかまでは賭けられないが。「行くわよ」景凪は渡の体を支え、煙の中を抜け出した。「ここへ来る途中で地形を見ておいたの。この先に背の低い草むらが続い
郁夫がその場を離れると、咲苗がこらえきれない様子で声を潜めてきた。「ねえ景凪さん、あの小池さんって人、絶対景凪さんのこと好きですよねぇ?」「変なこと言わないで。昔からのただの知り合いよ」「えーっ。でもすっごくイイ人じゃないですか。ここまでしてくれるなんて」景凪はふと、姿月に対する郁夫の献身的な態度を思い出し、淡々と答える。「そうね。あの人は優しいのよ。……誰に対してもね」景凪と咲苗は千代を支えてエントランスへ向かった。車寄せにはすでに郁夫の車が待機している。三人掛かりで千代をホテルの部屋へ運び込むと、彼女はまだ夢現の状態だ。景凪と咲苗は手際よく千代の服を着替えさせ、化粧
克書の表情は険しく、その視線は深雲を逃がすまいと絡め取っていた。決断を迫る無言の圧力。煮え切らない深雲の態度に、克書は鼻で笑った。「鷹野君。悪いことは言わんから、よおく考えたまえ。姿月は小林家の大切な愛娘だ。後ろ盾もなく転がり込んできた身寄りのない娘とは違うんだぞ。利用するだけ利用して、娘の青春を搾り取った挙句にポイ捨てなんて真似をしてみろ。その代償がどれほどのものになるか、君に背負いきれるかな?」「穂坂景凪」という名は一言も出していない。だが、その言葉の刃は確実に彼女を指していた。姿月と景凪は違う。天と地ほども立場が違うのだと、克書は残酷なまでに突きつけてくる。かつて鷹野家は
「なんだと!」なおも食ってかかろうとする明浩を、景凪は静かな眼差しで制した。会場の空気は、完全に克書へと傾いていた。彼は周到だった。景凪が自らの正体を証明するために用意していた道を、ことごとく塞いでしまったのだ。二十年もの歳月をかけて、証拠となるものはすべて克書の手で闇に葬られ、些細な綻びさえも塗り固められていた。克書は冷ややかな目で景凪を見据え、その瞳の奥で嗜虐的な光をぎらつかせた。私と張り合おうなど、百年早い。彼の中で、かつての妻・長楽の面影が蘇る。美しく、無垢で、そしてどうしようもなく愚かだった女。人の心は変わらないと、男の愛は永遠だと信じて疑わなかった、哀れな女