LOGIN穂坂景凪(ほさかけいな)は十五年もの長い間、鷹野深雲(たかのみくも)を一途に愛し続けてきた。 しかし、出産の日、彼女は植物状態になってしまった。 その病室で、深雲は彼女の耳元で優しく囁いた。「景凪、もう二度と目覚めないでくれ。お前はもう、俺にとって何の価値もないんだ」 優しくて情の深い夫だと信じていた彼が、自分に向けていたのは、ただ尽きることのない嫌悪と利用だけだったと、景凪は初めて知った。 命懸けで産んだ二人の子供たちは、彼女の病床の傍らで、深雲の初恋の女に向かって、無邪気に「ママ」と呼びかける。 完全に絶望した景凪が目を覚ましたとき、彼女が最初にしたことは、迷いのない離婚だった。 だが離婚して初めて、深雲は気づく。自分の生活の隅々に、景凪の面影が染みついていることを。彼女は、既に彼にとってなくてはならない存在になっていたのだ。 再会した景凪は、トップクラスの医薬専門家として会議に現れ、眩いばかりの輝きを放ち、全ての視線を奪っていく。 かつて彼だけを見つめてくれていたあの女性は、今や彼に一瞥すらくれない。 きっと景凪はまだ怒っているだけ。自分が一言謝れば、彼女は必ず戻ってくる。彼女は自分を深く愛しているのだからと、深雲はそう信じていた。 だが黒瀬家の新当主――黒瀬渡(くろせわたる)の婚約パーティーで、深雲はこの目で見てしまった。華やかなウェディングドレスに身を包んだ景凪が、満面の笑みで渡の胸に飛び込み、その瞳に愛情だけを映している姿を。 深雲の心は嫉妬に狂い、手にしたグラスを握り潰し、流れる血で手が真っ赤に染まっていた……
View More鐘山千代か……彼は鼻筋の眼鏡を中指で軽く押し上げ、口角をわずかに引き上げた。長い脚を踏み出して歩きながら、スマホの画面を開く。最新のメッセージは、昨晩千代から送られてきたものだ。やたらと派手なスタンプとともに、こう書かれている。【最後の振り込み完了!これで私のもっとも偉大なる債権者様ともお別れね!これからはお互い別の道を歩みましょう。それじゃ、永遠にさようなら〜!】文末には、陽気に踊るキャラクターのスタンプが揺れていた。景舟は思わず失笑した。ふと返信しようとしたが、なんと自分の連絡先はすでにブロックされているではないか。彼は軽く眉をひそめた。「……仕事が早いことで」その頃、千代は洗面所の鏡で髪を整え、マスクをつけて外へ出ていた。遠くに、今にも閉まりそうなエレベーターが見える。「ちょっと待って!」咄嗟に声を上げる。死角になって中に誰がいるかは見えなかったが、スッと伸びた美しい手がボタンを押し、閉まりかけた扉を再び開けてくれたのが見えた。「やっぱり世の中、いい人はいるわねぇ!」千代はホッと胸を撫で下ろしながら、小走りでエレベーターへ向かう。だが、乗り込もうとしたその瞬間、床の何かに足をとられて思い切り滑ってしまった。「わっ!」バランスを崩し、そのままエレベーターの中へ前のめりにダイブしてしまう。ハッとして顔を上げると、そこにはなんとエレベーターの中央に立つ景舟がいた。あの細く切れ長で深遠な瞳は、一度見たら忘れられない。彼に冷ややかな視線を下ろされ、千代はゾッと背筋を凍らせた。自分でブレーキをかける間もなく、景舟の両脇に控えていた二人のアシスタントがサッと前に出て、左右から壁のように立ち塞がって千代を受け止める。どうにか体勢を立て直し、千代は引きつった愛想笑いを浮かべた。「あはは……どうもすみません、墨田社長」わざとぶつかってお近づきになろうとする計算高い女だと思われたくなくて、彼女は慌ててマスクを外し、わざわざ説明を口にした。「私、鐘山千代です!さっき打ち合わせでお会いしましたよね。あの、別に恋愛ドラマの見すぎで、わざと社長に倒れ込んで気を引こうとしたわけじゃないんです!本当にただ足が滑っただけで……!」景舟は何も答えない。両脇のアシスタントたちも、彼と同じように鉄仮面のような無表情を貫いている
後続車のクラクションに急かされ、景凪はハッと我に返った。スクリーンから視線を剥がし、アクセルを踏み込む。その横顔からは何の感情も読み取れなかった。ただ、ハンドルを握る手だけが白くなるほどギリギリと握り込まれ、手の甲には青筋が浮き出ている。不意に着信音が鳴り響き、景凪は咄嗟にスマホの画面に目を落とした。渡ではない。親友の千代からだった。イヤホンを耳につけ、応答ボタンを押す。声だけは、努めていつも通りを装った。「千代……?」言いかけた途端、千代のただならぬ声が飛び込んできた。「景凪、どうしても言わなきゃいけないことがあるの!渡のことよ。その前に確認したいんだけど、ちゃんと付き合ってるわよね?別れてないわよね?」「ええ、どうしたの?」千代はどうやらトイレの個室に隠れているらしく、小声ながらも怒りを隠せない様子だった。「だったら、はっきり言っておくわ。今日、コラボの打ち合わせであるジュエリー会社に来てるんだけどね。そこのトップってのが、墨田家の御曹司、墨田景舟なのよ。ちょうど彼が視察に来てて、私の契約の場にも同席してたの。まあ、そこまでは前置きなんだけど……」「ついさっき、私が裏口から出ようとしたら、車から渡が降りてきたのよ。墨田景舟に会いに来たみたい。そこまではいいわ。でもね、同じ車から女が降りてきたの!すぐにネットで調べたら、海運王の末娘の小松原茜だったわ。超がつくお嬢様よ!しかも渡とお揃いコーデだったの!」「お揃い?」景凪は静かに聞き返した。「えっと、まあ……渡が黒のネクタイで、向こうは黒のジャケット着てたってだけだけど。でもそんなことはどうでもいいの。問題は、あの茜とかいう女が渡を見る目よ!あいつ絶対に下心あるわ!渡の方は見向きもしてなかったけど、それにしても、もし何とも思ってないなら、どうしてわざわざ女と同乗してくるわけ?」景凪は千代のまくしたてるような報告を最後まで黙って聞き終えた。「わかったわ。真っ先に教えてくれて、ありがとう、千代」「私たち、親友でしょ!当然あんたの味方だよ!もし渡が本当に浮気なんかしてあんたを泣かせたら、相手がいかに大物だろうと、私がSNSで盛大に晒し上げてやる!昨日の夜、最後の借金を返し終わってすっかり自由の身になったとこだしね。最悪、芸能界追放になっても構わないわ!」その言葉に心が温ま
深雲は焦りを露わにした。「景凪、君と伊雲の折り合いが悪いのは分かってる。だが、彼女は二人の子供たちにとって実の叔母なんだぞ……」深雲が言い終わる前に、景凪は苛立たしげに席を立ち上がって言葉を遮った。「私は一度だって、子供たちが鷹野の家と関わるのを邪魔したことはないわ。伊雲が子供たちの叔母であることは事実よ。だから、もし彼女が本当に異国の地で自分の愚かさの代償を払い、野垂れ死んだとしたら。その時は、毎年のお盆に辰希と清音を連れて、ちゃんとお墓参りに行ってあげるわよ」その言葉が正論であることは、深雲も痛いほど分かっていた。だが、実の妹をあそこまで言われて、平気な顔でいられるはずもない。「伊雲が死ねばいいとでも言うつもりか?」「呪う趣味なんてないわ。彼女がどうなろうと、私には一切関係ないもの。用が済んだなら、もう行くわね」言い捨てると、景凪は立ち上がって迷いなく出口へ向かった。レジの前を通りがけに会計を済ませ、深雲の方を一度も振り返ることなく、そのまま店を出ていく。残された深雲は、暗い顔で数分間じっと座っていた。やがて彼も立ち上がり、店の扉に手を掛けたところで、店員に呼び止められた。「お客様!お待ちください、まだお会計がお済みではありません」「何だと?」深雲は眉をひそめて店員を見た。「さっき一緒にいた女性が、レジで払っただろう?」「ええ、お支払いはされました。ですが……お客様ご自身のカフェラテの分しかお支払いいただいておりません」「…………」その頃、景凪はすでに車で穂坂の古い屋敷へと向かっていた。赤信号で停まったついでに、何気なくメッセージアプリを開く。今日は渡からのメッセージがない。いつもなら、彼が目を覚ましたときに「おはよう」と送られてくるのだが。景凪はトーク画面を開いた。二人とも、もともと口数が多い方ではない。会いたいと思えば、時間を作って直接会いに行き、どうしても手が離せない時は電話をかける。無機質な文字だけでは、伝えきれない想いの方が多いからだ。彼が今何をしているのか気になり、少しだけ迷ってからメッセージを打ち込んだ。【今日はいいお天気だよ。お日様の光、ちゃんと浴びてね】送信ボタンを押した時、信号が青に変わる。景凪が運転に集中していると、すぐに渡から返信が来た。画面に目をやると、たった一
景凪は無視して車に乗り込もうとしたが、焦った深雲が歩み寄り、ドアの前に立ち塞がった。校門の前にいた数人の警備員が、すぐさまこちらの不穏な空気に気づく。近づいてきこそしなかったものの、鋭い視線を向けて警戒している。景凪は冷ややかな目で深雲を睨みつけた。「私がここで声を上げれば、天下の鷹野社長様がその場で取り押さえられることになるわよ。どいてちょうだい」「景凪、頼む。どうしても君の力を借りたいことがあるんだ」深雲は声を低くして懇願した。「興味ないわ」「辰希と清音のためだと思って、話を聞いてくれないか?」その言葉に、景凪の冷たい表情がわずかに揺らいだ。深雲は密かに安堵の息を吐く。彼には分かっていた。子供が景凪の弱点であり、彼女がどれほど自分を冷酷に拒絶し、鷹野家を見限ろうとも、子供たちがいる限り完全に縁を切ることはできないのだと。「ここは話をするような場所じゃない。近くのカフェに行こう。時間は取らせない、三十分だけでいい。頼む」「……」景凪は眉を寄せてしばらく考えていたが、ついに渋々といった様子で頷いた。「三十分だけよ」カフェの店内。窓から差し込む冬の太陽はそもそも温度を持たない上に、ガラス越しとなれば、ただ冷ややかな明るさを落とすだけだった。店員が注文を取りに来ると、深雲が無意識に口を開いた。「アメリカンを二杯」しかし、景凪がそれを遮る。「私のはカフェラテで」深雲は一瞬ハッとして、複雑な眼差しを景凪に向けた。だが彼女は淡々としたまま、彼の視線を真っ向から受け流した。彼はまだ過去に囚われている。かつて、深雲の好みを何でも自分の好みに合わせてくれていた景凪は、五年間の昏睡から目を覚ましたあの日に、もう死んでしまったというのに。深雲はうつむき、自嘲するような苦しい笑みを漏らした。「すまない、君の好みも聞かずに勝手に頼んでしまって」彼は顔を上げ、真剣な眼差しで景凪を見つめた。「カフェラテだな。覚えておくよ」景凪はただ滑稽に思えた。人生の十五年を共にし、同じベッドで眠った日々。だが、離婚して彼女の愛が完全に冷め切ってから、ようやくこの男は彼女を対等な一人の人間として尊重し、その好みを覚えようとしている。時計に視線を落とし、景凪は感情を感じさせない声で促した。「何が聞きたいの?」深雲は重いため息をつ
「誤解しないでください。私はただ純粋に、あなたの能力は穂坂班長にも引けを取らないと感じただけです」姿月は半歩近づき、そっと希音の腕に手を添えた。希音は視線を落としたが、今回はその手を払いのけなかった。これは明らかに、ある種の同意を示しているサインだ。やっぱり、狙いは間違ってなかった!希音は目を細めた。その瞳は冷徹で、鋭く光っている。「あんた、私を利用して穂坂を潰そうって魂胆でしょう」希音は腕に置かれた姿月の指を一本ずつ引き剥がした。「他人の褌で相撲を取ろうなんて、随分な言い草ね。小林さん、自分が賢いとでも思ってるわけ」姿月は少しも動じることなく、余裕の笑みを浮かべた。「
触れ合った唇から伝わる柔らかくも熱い感触に、電流が走ったかのように全身が戦慄く。ようやく思考が追いつき、彼女は渾身の力で渡を突き飛ばした。勢い余って、座っていたパイプ椅子が派手な音を立てて転がる。――パァンッ!乾いた破裂音が狭い空間に響き渡る。渾身の平手打ちが、渡の頬を捉えたのだ。衝撃で彼の顔が横を向く。渡は目を閉じ、打たれた余韻を味わうように静止した。……予想通りだ。彼は自嘲気味に口角を歪めた。「本当に……キスひとつにビンタ一発か」気高い俺の姫君は……景凪は仮面を床に投げ捨てると、今しがた奪われた唇を手の甲で乱暴に拭った。羞恥と怒りで何度も何度もこすり、柔
「俺にはいくらでもあるんだよ。お前らを、死んだほうがマシだと思わせる手段ならな」……一方その頃、郁夫は息を切らして姿月の住むマンションへと駆けつけていた。エレベーターを降りた瞬間、目の前に広がった光景に思わず足を止める。姿月の部屋の玄関ドアには、真っ赤なペンキがぶちまけられ、『死ね!』という殴り書きがされていた。さらに、刃物か何かで乱暴に切りつけたような無数の傷跡まで残されている。郁夫は眉間に深い皺を刻み、狂ったようにインターホンを連打した。「姿月!開けてくれ、僕だ!」ドアの向こう側では、姿月がつい先ほどモニター越しに慌てふためく郁夫の姿を確認し、ほくそ笑んでいた。
深雲は会社には向かわなかった。車を発進させた彼は、レストランの外周を半周ほど回ったところで、ちょうど大通りへ合流しようとする景凪たちの車を見つけたのだ。今夜はいつもより酒量が過ぎていた。車内の冷房は最大にしているというのに、体内で燻る熱が引かない。飲酒運転などという理性を気にする余裕すらなく、深雲は乱暴にワイシャツの襟元を引きちぎるように緩めた。哀れな第二ボタンが弾け飛び、窓ガラスに当たって乾いた音を立てると、助手席へと転がり落ちた。深雲は、前を走る景凪の乗った車を獲物を追う猛獣のように睨み据えていた。その色気を孕んだ瞳は今、どす黒い感情に支配されている。脳裏にこびりついて離れ
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