希美の行動がおかしくなったのは、ここ数ヶ月のことだった。急にスマホを手放さなくなり、LINEの通知を見ては微かに笑うようになった。口紅の色も、服の趣味も変わった。仕事帰りに飲み会だと言って帰る時間が遅くなることも増えた。それでも、唯史は何も言わなかった。言う資格があるのかどうか、それすら分からなかった。唯史はスマホの画面を、ただ眺めていた。相手の名前が表示されている。職場の先輩。希美がたびたび話題にしていた男の名前だ。飲み会が多い部署だと聞いていた。なるほど、そういうことかと、唯史は静かに思った。心臓が跳ねたのは、一瞬だけだった。すぐに、何も感じなくなった。怒りも、悲しみも、嫉妬もなかった。ただ、どこか遠い場所で、誰かがそんな気持ちを抱いているかのように、自分の感情が他人事のように感じられた。唯史はカップをテーブルに置いた。指先が冷たい陶器に触れた瞬間、ふと自分の手が汗ばんでいることに気づいた。だが、それもどうでもよかった。「……」声にならない吐息が漏れた。胸の奥が空っぽだと感じた。希美が誰と何をしていようと、唯史には関係がない…そんな気がしていた。いや、ほんとうは関係があるのだと分かっている。けれど、自分にはどうすることもできなかった。ここ一年、希美に触れようとしたことはなかった。自分から手を伸ばすこともなければ、求めることもなかった。そうしているうちに、希美の目は変わっていった。女として見られていないと、何度も責められた。でも、どうしても欲情できなかった。努力してみたつもりだった。だが、身体が反応しなかった。唯史は目を閉じた。まぶたの裏に、希美の笑顔が浮かぶ。結婚したばかりの頃は、たしかに笑い合っていたはずだった。新婚旅行で撮った写真。肩を寄せ合って微笑んでいたあのとき、自分は本当に幸せだと思っていた。それなのに、今は。「……しゃあないな」唇の端から、低く呟きが漏れた。唯史は、希美のスマホから目をそらした。画面はすでに消えている。薄暗いリビングには、再び静けさが戻っていた。テレビの映像だけが、音もなく流れ続けている。唯史はその光を見つめながら、何も考えずにまばたきした。胸の奥には、微かな痛みが残っている。その痛みさえ、どこか懐かしいもののように感じた。外では、雨上がりの湿った風が、窓ガラスをかすかに揺らしていた。
Last Updated : 2025-07-21 Read more