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空っぽの部屋

Author: 中岡 始
last update Huling Na-update: 2025-07-22 17:23:28

唯史は、目を開けた。

天井の白いクロスが、薄い朝の光を受けてぼんやりと滲んでいる。

雨上がりの湿った空気が、カーテンの隙間から入り込んで、部屋の中を静かに漂っていた。

時計の秒針が、「コチ、コチ」と途切れなく音を刻んでいる。

その音が、今朝はやけに大きく感じられた。

希美の気配が消えた部屋には、生活音というものがまるでなかった。

テレビもついていなければ、キッチンから何かが煮える音も聞こえない。

布団の端に手を伸ばしてみても、そこはもう冷たかった。

唯史は、ベッドの縁に腰を下ろし、肩を落とした。

昨日まで妻だった人間の荷物は、すでに全て運び出されていた。

クローゼットの中は、ぽっかりと空洞になっている。

引き出しを開けても、下着もタオルも、希美のものは一枚も残っていなかった。

洗面所の棚には、いつも並んでいた基礎化粧品のボトルがごっそり消えていた。

棚の中には、自分の歯ブラシと、男物のシェーバーだけがぽつんと残っている。

「……」

声にならない息が漏れた。

唯史はゆっくりと立ち上がり、リビングの方へ歩いた。

ソファの上には、希美がよく使っていたクッションがひとつだけ残されている。

それが、なぜか余計に空虚さを増していた。

テーブルの上には、前日から置きっぱなしにしていたコーヒーカップ。

すっかり冷めた液体が、薄い茶色の輪を描いている。

指先でそのカップを持ち上げると、手のひらがわずかに震えていることに気づいた。

それでも、気にしなかった。いや、気にできなかった。

スーツケースを引き寄せて、荷物をまとめ始める。

何を持っていこうかと考えて、ふと手が止まる。

「何も持って帰るもんがないな」

小さく呟いたその声が、リビングに虚しく響いた。

唯史の持ち物は、驚くほど少なかった。

衣服も、ほとんどが共用のクローゼットに収めていたから、改めて自分の物だけを取り出してみると、ほんの数着しかなかった。

スーツ、ワイシャツ、Tシャツにジーンズ。

下着と靴下をトートバッグに詰めてみたが、それでもバッグの底が余った。

「こんなもんか」

また、ひとりごとが漏れた。

その声は、まるで他人事だった。

洗面所に立ち寄ると、鏡が曇っていた。

手のひらで拭き取ると、自分の顔が映った。

黒髪は寝癖で乱れ、目の下には薄くクマができている。

昔から「綺麗な顔してるな」と言われてきた自分の顔が、今はどこか他人のもののように思えた。

唇の端が、ゆるく上がる。

笑ったつもりだったが、その顔は冷めた微笑みにしか見えなかった。

「なんか、知らんやつみたいやな」

鏡の中の自分にそう言って、唯史は首をすくめた。

誰かに話しかけているようで、実際には誰もいない。

希美がいなくなったこの部屋は、ひとりでいることが当たり前になってしまった。

荷造りは、あっという間に終わった。

荷物の少なさが、それを物語っていた。

この三年間で、自分は何を積み重ねてきたのだろう。

それを考えると、胸の奥がじわりと冷えた。

部屋の中を見渡す。

空気清浄機のランプが静かに点滅している。

あれも希美が選んだものだったなと思い出す。

家具も、食器も、カーテンも。

自分で選んだものは、ほとんどなかった。

「別に、ええけどな」

そう呟いて、唯史はソファに腰を下ろした。

窓の外には、曇り空が広がっている。

雨は上がったが、まだ空は重い色をしていた。

ポケットからスマホを取り出し、カレンダーを確認する。

何も予定がない。

今日も、明日も、その先も。

仕事はしばらく休むことにした。

ふと、ソファの横に置き忘れていた希美のヘアゴムを見つけた。

細い茶色のゴムに、金の飾りがついている。

それを手に取ると、指先がまた震えた。

手のひらに乗せたまま、しばらく動けなかった。

「…捨てるか」

そう言って、唯史はヘアゴムをポケットに入れた。

捨てるわけでもなく、持っていくわけでもなく、ただポケットにしまった。

立ち上がり、スーツケースの持ち手を引き出す。

カチリと音がして、唯史はその音に自分の心が小さく軋むのを感じた。

「行こか」

誰に言うでもなく、そう呟いた。

その声は、やけに静かだった。

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