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実家の玄関

Author: 中岡 始
last update Huling Na-update: 2025-07-23 17:23:44

駅を出ると、湿った空気が肌にまとわりついた。

雨上がりの郊外は、どこかぼんやりとした匂いがする。アスファルトから立ち上る生ぬるい匂いと、遠くの草むらから漂ってくる青臭い湿気が、唯史の鼻腔をくすぐった。

キャリーバッグの車輪が、ガタガタと歩道の段差を乗り越えるたびに小さな音を立てる。

その音だけが、唯史の耳に響いていた。

駅前の自転車置き場を通り過ぎる。

中学のとき、部活帰りによくここで友達とだべっていたことを思い出す。

あの頃と何も変わっていない自転車の列。

錆びついたガードレールも、同じ位置に歪んだままだった。

公園の横を歩くと、滑り台が見えた。

昔はよくあの滑り台の上で、夕焼けを眺めていた。

今は、誰も遊んでいない。

湿ったベンチの上には、濡れた新聞紙が一枚、風に揺れているだけだった。

角を曲がると、古びた商店街が目に入った。

シャッターが閉まったままの店が多い。

開いているのは、昔からある駄菓子屋と、八百屋くらいだった。

その八百屋の前を通ると、店主のおばちゃんが唯史に気づいて「おかえり」と小さく手を振った。

唯史は、軽く会釈を返した。

その表情は微笑みだったが、目の奥は空虚だった。

キャリーバッグを引きずりながら、実家の前にたどり着く。

玄関の前には、鉢植えの花がいくつか並んでいた。

雨のせいで、葉っぱがしっとりと濡れている。

それを見ながら、唯史は「母さん、まだこれ大事にしてるんやな」と思った。

それだけで、胸の奥が少しだけ軋んだ。

ポケットから鍵を取り出す。

けれど、鍵を使う前に、玄関の扉が開いた。

「おかえり」

母の声がした。

穏やかで、柔らかい声だった。

エプロンをつけたまま、母が立っていた。

白髪が少し混じった髪を後ろで束ねている。

表情は変わらない。けれど、その目だけが、少しだけ曇っているように見えた。

「ただいま」

唯史は微笑んだ。

けれど、その笑みは形だけだった。

目の奥は、まるで感情を失ったかのように、何の光もなかった。

「疲れたやろ。中入り」

母はそう言って、唯史のバッグを受け取ろうとした。

唯史は軽く首を振った。

「自分で持つわ」

その声もまた、いつもより少しだけ低かった。

母は、それ以上何も言わなかった。

ただ、静かにうなずいた。

玄関のたたきにキャリーバッグを置くと、唯史は靴を脱いだ。

そのとき、母の視線が一瞬だけ唯史の顔をなぞった。

それは、「気づいているけど黙っておこう」という優しさを含んだ目だった。

その視線を感じた瞬間、唯史の喉の奥がきゅっと締まるような感覚になった。

だけど、何も言わずに、靴を揃えただけだった。

リビングには、煮物の匂いが漂っていた。

テーブルの上には、母が用意した食事が並んでいる。

けれど、それを見ても唯史の胃はまったく動かなかった。

腹が減っていないわけではないのに、何も食べたくない。

そんな気持ちだけが、心の奥に居座っていた。

「お風呂、もう沸いてるで」

母がそう言うと、唯史は「ありがとう」とだけ答えた。

母はそれ以上、何も聞かなかった。

その沈黙が、逆に唯史の胸を締め付けた。

何かを言ってほしいのか、それとも言わないでほしいのか、自分でもわからなかった。

ただ、今はまだ、何も話せなかった。

話してしまえば、壊れてしまいそうな気がしたからだ。

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