沙羅さんが去ったあとも、私の心は波立ったままだった。彼女の冷たい言葉が頭の中でリフレインし、何度も胸を刺す。『律くんは、あなたのことなんて遊びよ』そんなはずはない。律は、私を大切にしてくれている。でも、沙羅さんの確信に満ちた表情が、私の心に小さな疑念の種を植え付けていく。「一条さん、大丈夫?顔色が悪いよ」先輩スタッフの声で、ハッと我に返った。「あ、すみません。ちょっと暑くて……」「もうすぐ休憩時間だから、少し外の風に当たっておいで」優しい言葉をかけられて、ようやく現実に戻ることができた。***それから数日が過ぎた8月下旬のある日。夏休みも終わりに近づき、久しぶりに大学に書類を取りに行くことになった。蒸し暑い午後、図書館での調べ物を終えて大学構内を歩いていると……。「寧々?」聞き覚えのある声に振り返ると、そこには拓哉がいた。一瞬、時が止まったように感じる。拓哉の顔を見るのは、あの日以来だった。拓哉と同棲していたアパートに出向き、自ら彼に婚約破棄を告げたあのとき以来。拓哉は、少し痩せたような気もするけれど、相変わらずの人懐っこい笑顔を浮かべている。「拓哉……」私の声は思ったより冷静だった。以前なら、拓哉を見ただけで動揺して、言葉すら出なくなっていたかもしれない。でも、今の私は違う。「寧々……お前、何か変わったな」拓哉が一瞬言葉を失ったように、じっと私を見つめている。「そう?」「なんていうか……前より、きれいになった?雰囲気も違うし……」彼の戸惑ったような表情に、不思議と満足感を覚えた。律と過ごす日々の中で、私は確かに変わったのかもしれない。自分でも、鏡を見るたび以前より生き生きとした顔をしていることに気づいていた。
Last Updated : 2025-10-02 Read more