All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 11 - Chapter 20

100 Chapters

第11話

「ええ、すべて済ませております」受話器の向こうから、洋太の声が響いた。「高瀬さんのお怪我ですが、大事ないとのことでした。お預かりした薬で応急処置も済ませましたし……先ほど雨音さんもホテルに到着されました。ただ……」言い淀む洋太の声に、秀一は無言で耳を傾ける。「その……私、また余計なことを口走ってしまいまして」洋太はおずおずと続けた。彼は「ホテルの支配人」を名乗っているが、実際は秀一の直属の秘書である。昔から思ったことを率直に口に出してしまうタイプで、半月前から「修行」の名目でホテル勤務に回されていた。玲は、そんな彼が長年秀一のそばで見てきた唯一特別扱いされた女性だった。だからこそ洋太は、彼女こそ秀一の想い人だと信じ込み、余計な世話を焼いた――玲は「藤原家の未来の奥様」にふさわしいと、ホテルであれこれ持ち上げてしまったのだ。だが今になって考えると、自分は大きな勘違いをしていたのではないか、そんな不安が胸をよぎる。「社長は俺を信用して、高瀬さんの対応を任せてくださったのに……まったく口の利き方がなってなくて。本当にすみません!……次はもう、アフリカ支社に飛ばしてください!」情けなく言い切る洋太に、秀一は低く目を伏せ、しばらく沈黙した。その沈黙の意味を測りかねて、洋太はおずおずと己の推測を口にする。「……もしかしてですが、最初から私のおしゃべり癖を計算して、高瀬さんの対応を任せてくださったのですか?」この推測があっていれば、自分の行動は間違ってなかったことになる。洋太は目を見開いた。――まさか、これも藤原家の当主らしい計略の一環なのか!?だが秀一の声は氷のように冷たかった。「俺の考えを、そんなに知りたいのか?」「いえっ!滅相もないです!」洋太は慌てて全力で否定し、話題をすり替える。「えっと、そういえば……医師から連絡がありました。高瀬さんの体調はずいぶん回復したそうですが、今後もホテルで療養を続けさせましょうか?」「……ああ」秀一の声は淡々として、感情の起伏はない。洋太が逡巡していると、次の瞬間、電話はぷつりと切れた。一方そのころ――ホテルの静かな一室で、玲は雨音に抱きしめられ、ようやく涙を解き放っていた。弘樹の前では一滴も流さなかった涙。彼に弱みを見せれば、さ
Read more

第12話

「困ってるわけじゃなくて、ただ継母と駆け引きをしてるというか……」昨夜、涙に濡れながら雨音に一部始終を話したとき、玲はホテルの支配人、つまり洋太が口にした言葉までうっかりそのまま伝えてしまった。だが実際、秀一は「相手がいなくて困ってる」ではなく、ただまだ心から結婚したいと思える女性がいないだけだ。彼に妻ができれば、あの偽善的な継母もこれ以上、妙な縁談話を持ち込んでくることはできない。どちらにせよ、秀一にはまだ付き合ってる相手がいない。雨音の目には、その事実だけ映っていた。「藤原さんには恋人がいない。それってつまり、恋人募集中ってことだよね?しかも今回は玲ちゃんのためにあれだけ動いてくれて、それでも足りないから、さらに借りを返そうとしてる。そういうことでしょ?」「……う、うん」玲は言葉を詰まらせた。胸騒ぎのような嫌な予感が、彼女の中に広がっていく。「雨音ちゃん、まさか……」「そう、そのまさか!」雨音は玲の両頬をぐいっと挟み込み、瞳をギラリと光らせた。「玲ちゃん、今すぐ藤原さんに電話して、付き合ってくださいってお願いして。それで借りをチャラにしてもらえばいいのよ!」玲が弘樹との関係を断ち切った後、また何をされるかわからないという不安を抱えていることを、雨音はよくわかっていた。そして秀一もまた、継母の差し金を退けるため、表向きのパートナーを必要としている。「よく考えたら、これって願ってもない話じゃない!例えるなら、眠いときに枕が飛んできたみたいなもんよ。今寝なきゃいつ寝るっていうの?」「……」雨音の豪快な例えに、玲は何も言えず絶句した。――「藤原さんと寝る」なんて、そう易々と口にしていい言葉じゃないはず。しかも彼は弘樹よりもはるかに影響力を持つ存在だ。自分がそんな立場に見合うわけがない。玲は慌てて視線を逸らし、自嘲気味に呟いた。「雨音ちゃん……あなた今、だいぶ危ないわよ。その言葉、なかったことにするからね」「だめ!私、本気なんだから!」雨音は諦めず、玲の耳元でささやく。「玲ちゃん、弘樹のくだらない言葉に縛られて、自分を安売りするのはもうやめなさい。あなたは十分優秀よ。藤原さんがここまで動いてくれたのは、それだけ認めてる証拠。自分を信じて、一歩踏み出してみなさいよ……それに、あの
Read more

第13話

「ああ、彼女のためだ。それがどうした?」秀一の目が冷たく光る。その声は容赦なく、綾を小馬鹿にするような響きを帯びていた。全ては玲のため、それがどうした、と。「君は高瀬家で暴れ、玲を陥れようとした。それがさぞ楽しかっただろう」綾は全身をこわばらせた。真実を見抜いた自分は優位に立ったと思いきや、その問いに首を絞められたようで、息が詰まる。「わ、私は……何もしてないわ……!靴だって、運転手が間違えて持っていっただけだし……私、そんなつもりじゃ……」「もういい。周りの人間までバカにするな」秀一は淡々と彼女の言葉を切り捨てた。その視線は高みから小物を見るような冷ややかさに満ちている。「君が玲に見せつけたかったのは、自分と彼女の格の違いだろう?だが俺から見れば、君は何の価値もない。ここの書類がその証拠だ」彼は床に散らばる書類を指差した。「刑務所に行きたくなければ、今日中に藤原家から出て行け。嫌なら、藤原家の仕来りに則って処罰を受けろ。高瀬家の人間が口を出しても無駄だ――邪魔をするなら一緒に潰す」綾の顔から血の気が引いた。藤原家から追い出されることと、家の仕来りに従って処罰を受けること、どちらを選べと。綾は藤原グループの部長になった日、誇らしげにその立場を吹聴していた。もしも追放されでもしたら、たちまち世間の笑い者にされるに違いない。かといって、藤原家の処罰を思うと、背筋が凍りつく。あれは高瀬家の鞭打ち刑と似たようなもので、特製の液体を染み込ませた鞭で容赦なく叩かれる。罰を受ければ皮膚は裂け、死ぬほどの激痛に苛まれるだろう。どちらの道も、彼女は選びたくない。「弘樹さん……助けて……っ!」思わず隣にいた弘樹にすがる。秀一が高瀬家をも敵に回す覚悟でいるとわかっていても、綾には弘樹に頼るしかなかった。弘樹はさっきから秀一をまっすぐ見据えていた。しばし沈黙ののち、低く口を開く。「藤原さん。玲は高瀬家の人間です。あなたに恩があるのは認めますが、彼女のためにここまで綾を追い詰める必要はないのでは?」「追い詰める?」秀一は鼻で笑った。「俺はただ、事実を突きつけているだけだ。追い詰めたのは君たち自身のほうだろう。綾は昨日、玲を公然と侮辱した。君はそれを黙って見ていた。綾と付き合っているうちに、君まで判
Read more

第14話

恍惚とした中、突然の強風が窓を揺らし、空は暗雲に覆われていった。嵐の前触れのようだ。玲はホテルのスイートルームで、ひたすら眠り続けていた。けれど、さすがにお腹が空きすぎて、ようやく重たい体を起こす。昨夜は、雨音がほとんど一晩中しゃべり倒して眠らせてくれなかったせいで、まだ耳の奥で声が反響しているような気がする。「玲ちゃん、私は本気だからね。今の藤原さんは、あなたが人生をやり直すチャンスなんだってば!あのクズ男なんて藤原家のお嬢様と婚約して調子に乗ってるんでしょ?あなたが藤原家の長男を捕まえれば、一瞬で立場は逆転よ!あのクズ男に、あなたが彼の女じゃないってわからせてやればいい!私ね、友也とは相容れない関係だけど、藤原さんに関しては文句のつけようがないのよ。友也が彼の兄弟分になれたのは奇跡みたいなもんなんだから。もし玲が藤原家の若奥様になったら、お母さんだって腰抜かすわよ。まさに復讐劇のクライマックスって感じ!……まぁ、親友としては、あなたを無理やりそっちに押し込むつもりはないけどね……で?玲ちゃん、いつ藤原さんに電話するの?時間が待ってくれないわよ!」一晩中、雨音は玲を言葉で追い詰め続けた。ようやくギャラリーから急ぎの呼び出しがあり、名残惜しそうに出かけていったけれど、玲のスマホはしっかりフル充電して机に置かれていた。「早く連絡しなさい」と言わんばかりに。だが、玲の気持ちは変わらなかった。秀一は善意で手を差し伸べてくれた。それを利用するなんて、あまりにも卑怯だ。今もそう。ホテルの部屋から電話一本でルームサービスを頼むことができるけど、ここでの支払いは部屋名義の人間――つまり秀一に請求がいく。食事で秀一のお金を使うことさえ、玲には重く感じられるのだ。彼に理不尽なお願いをするなんて、到底できない。空腹を抱えたまま、彼女は下の階まで足を運んで、自分で何か買うことにした。昨日の夜、秀一が呼んでくれた医者が使った薬がよほど効いたのだろう。足の痛みはほとんどなくなっていて、ゆっくり歩けば大した支障はない。「リハビリだと思えばいい」と前向きに考えながら廊下を歩いていたそのときだった。視界の先に見慣れた顔が現れ、玲の足が止まる。綾はホテルで遊ぶつもりで来ていた。取り巻きの友人たちを大勢連れて、いつも通り笑顔を振り
Read more

第15話

秀一が現れた。何か急ぎの用件でこのホテルに来たのだろうか、彼は洋太を連れて、歩み寄ってくる。冷え切った表情、深い闇をたたえた瞳――彼が姿を見せた瞬間、玲は張り詰めていた心がふっと緩むのを感じ、耳を刺していた声も一瞬で遠のいていく。……その後、玲は洋太に支えられて部屋へ戻った。すぐに呼ばれた医者がもう一度診察をしてくれた。玲は終始静かに身を任せ、診断結果を聞いた。幸い体には異常なく、足の傷も開いていない。ただ、昨日から何も食べていなかったせいで軽い低血糖を起こしているだけだった。洋太は慌てて医師を連れて部屋を出て、食事の手配に走る。その際、ドアをきっちりと閉めた。広いスイートに残されたのは、秀一と玲の二人きり。秀一はソファに腰を下ろし、鋭い眉を伏せ、低い声で切り出した。「何か話したいことはないのか」三十分前、洋太から慌てた電話を受けたとき、玲が弘樹たちと鉢合わせしたと聞いた。秀一はすぐ駆けつけた。その時から、彼は予感していた。玲は誰かにそばに立って欲しいかもしれないと。玲は一瞬肩を強張らせたが、唇を噛んで小さく頷く。「……藤原さん。実はお願いがあるんです。以前、『借りを返すなら大きなことで』っておっしゃいましたよね。お願いしたい『大きなこと』、今ならあります」秀一の目がわずかに細められた。さっきから気長く玲の言葉を待っていたが、まさかこの件になるとは。沈黙が落ち、彼の纏う空気が一層冷たさを帯びる。横顔は、まるで氷で彫られた彫像のように美しい。「俺との貸し借りを、そんなに急いで清算したいのか……いいだろう。言ってみろ。価値があるかどうかは、俺が決める」玲は両手を強く握りしめ、深く息を整えた。「価値は……あります。絶対に」これから口にするのは、常識のある人間なら到底考えもしない、とんでもないことだから。だがその言葉を受けても、秀一の表情には微塵の変化もなかった。顔を赤め、胸が張り裂けそうなほどの緊張の中、ついに言葉を放った。「藤原さん、私と結婚していただけませんか?」玲は今日目がさめるまで、彼にこれ以上頼るのは恩を仇で返すような行為だと固く心に決めていた。だが、弘樹と綾に再会した瞬間、考えが変わった。部屋に連れてこられてから、玲が黙っていたのは空腹で言葉も出ないからではない
Read more

第16話

秀一は、自分の提案に乗り気ではないらしい。玲はその瞳の奥に浮かぶ影を見て、そんな結論にたどり着いた。当然だ。自分のような人間が秀一と夫婦になるなんて、たとえ形だけでも無理がある。今回の「切り札」は、やっぱり不発だったのだろう。玲は無理に笑顔を作り、軽く肩をすくめた。「別に断っていただいても構いません。私のような普通の人間が、あなたに……」「俺は高瀬じゃない。くだらない格差になんて気にしてない」秀一が玲の言葉を鋭く遮った。低く落ち着いた声が、静まり返った部屋に響く。「俺は一度『借りを返す』と約束した。それは、君を認めているということで、敬意も払っている。自分を卑下する必要はない」――認めている。その言葉に、玲は一瞬息が詰まった。この街のトップとも呼ばれる秀一が彼女を認めてくれた。長年、否定され、押さえつけられてきた自分に向けられた言葉としては、あまりにも強すぎた。玲は胸の奥が熱くなるのをこらえ、慎重に問いかける。「……では、その借りを清算するために、契約結婚していただけますか?」「だめだ」「……え?」あまりにも即答だった。玲はぽかんと口を開けたまま固まる。先ほどまでの言葉で、てっきり承諾してくれると思っていたからだ。そんな玲を見て、秀一はわずかに視線を落とし、低く言った。「誤解するな。俺がだめだと言ったのは、君の提案が釣り合わないという意味じゃない。むしろ逆だ。俺には確かに妻が必要だし、君のように誠実な人間が隣に立つのは理想的だ。君と結婚すれば、君を煩わせる連中も遠ざけられる。つまり、俺たちが結ばれることは理にかなった選択だ」秀一の瞳が鋭く光り、その声には確信がこもっていた。「だが俺は、衝動で決めた結婚を望まない。……七日間、時間をやる。その間にじっくり考えろ。七日以内に俺のもとへ来るなら――籍を入れよう」それは彼がくれる最後のチャンスだった。玲は呆然と彼を見つめる。まるで感情のジェットコースターに乗せられたようで、頭が追いつかない。「……つまり、その……七日間は藤原さんが待ってくれるってこと、ですよね?」おそるおそる確認すると、秀一は視線を逸らさずに答えた。「ああ。七日の間、俺は君を待つ。藤原家の若奥様の席は、君が来るまで空けておく」その淡々とした言葉が、
Read more

第17話

玲はひとりホテルの部屋に残され、テーブルに運ばれた豪華な料理を口に運びながら、頭を抱えていた。――どうやったら弘樹に気づかれずに、自分の本人確認書類、つまりパスポートを取り戻せられるのだろう?秀一が急な仕事で出ていったあとも、答えは浮かばないままだった。そうこうしているうちに、考えがまとまる前に嵐がやってきた。「玲!いったいなんのつもりなの?一日中行方くらませたと思ったら、こんなところに隠れてたなんて!」勢いよく扉を開けて現れたのは母、雪乃だった。「弘樹さんもお父さんも、あんたへの罰は取り消すって言ってくれてるわ!さっさと帰るわよ!」雪乃はまくし立てるように言い終えると、玲の返事も待たず、半ば強引に手を引いて車へ押し込んだ。玲は抵抗しなかった。自分がここにいることは、弘樹から聞いたのだろう。だが彼女が素直に高瀬家へ戻るのは、弘樹のためではない、パスポートを取り返すためだ。一方、玲は違和感を覚えたのだ。数日前はあれほど綾を庇い、自分に厳しい罰を下そうとしていたはずの弘樹と父。それがどうして、急に処分を取り消したのか。何か裏がある。玲の直感がそう告げていた。彼女は一言も発せず、無表情のまま高瀬邸へ戻った。邸内のリビングに通されるなり、雪乃はフルーツを切り、お皿に盛り付けて玲の前に差し出した。「玲、この前の騒ぎはね……あんたらしくなかったわ。あの秀一さんにまで迷惑をかけるなんて、どうしてくれるの?でもね、もう誰も追及しないって言ってくれてるの。綾さんもあんたの部屋をきれいに直してくれたわ。だからこれ以上は蒸し返さないで。あんた、何をしても不器用なんだから、これからは綾さんを頼らないとね」――やっぱり。この騒ぎを落ち着かせるよう、雪乃が彼女を説得していたのだ。玲は心の中で冷笑しながら、無言でフォークを動かし、果物を口に運んだ。腫れが引いた頬は白磁のように透き通り、宝石のような瞳が涼やかに光を宿している。さくらんぼをひとつ口に含むと、汁が唇を淡く染め――その姿はまるで絵画から抜け出したかのような美しさがあった。だが次の瞬間、玲はフォークを置き、真っすぐに母を見据える。「……お母さん、本当に私が何も知らないと思ってるの?綾が私の部屋を直したのは、自分で壊したからよ。弘樹の許可をも
Read more

第18話

「玲っ!あんた、何を言ってるの!」お金も権力も持たなかった雪乃は、茂に嫁いで以来、必死で「高瀬家の奥様」を演じてきた。だが、長年この家を仕切ってきた年老いた使用人たちは彼女の指示を軽んじ、内心では見下している――それは雪乃も薄々わかっていたことだ。それでも、まさか娘の口からその現実を突きつけられるとは思っていなかった。雪乃は勢いよく立ち上がる。だが、先日玲に罵られたときに覚えためまいが、再び襲いかかる。「雪乃さん、体調が優れないなら部屋に戻って休んでくれ。ここは俺が」冷ややかな声が階上から響く。弘樹が現れた。ラフな部屋着姿でありながら、その立ち居振る舞いには一切の隙がない。どうやら弘樹は最初から二人のやり取りを聞いていたようだ。雪乃は悔しさを押し殺し、玲を一瞥すると頭を押さえながら足早にリビングを後にした。残されたのは、玲と弘樹だけ。弘樹は表情を整え、玲を真っ直ぐに見据えて柔らかい声で言った。「玲。お前が察していることは大体合ってる。だから隠す気もない。秀一はお前に借りを返すため、綾を追い詰めている。一族から追放するか、家の規律で厳罰を下すつもりだ。……だからお前から秀一に話をつけてくれ。もう綾を責めないようにと」玲は黙って数秒間、彼を見つめ、それから深く息を吐いた。「……つまり、急に私に優しくなったり、罰を取り下げたりしたのは、全部、あの女を守るためだったのね?」「そうだ」弘樹は静かにうなずく。「藤原家の規律は厳しい、綾じゃ到底耐えられない。それに、彼女は藤原グループに入ってまだ一年足らずだ。ここで追い出されれば立ち直れないだろう。あの日のことはもう誰も追及してないし、お前が何かを失ったわけでもない。だから、もう終わりにしよう」玲は小さく笑った。その笑みは冷たく、瞳には嘲りの光が宿っている。「よくそんなことが言えるわね。藤原家の規律が厳しい?高瀬家だって同じでしょう?綾が追い出されるのは彼女にとってショックかもしれない。でも、あの女は私を孤立させ、家族や恋人まで裏切らせた。あれが私にとってショックじゃないとでも?第一、誰も追及しなくなったのは秀一さんの力のおかげであって、綾のおかげじゃないわよ」綾に玲を処分する権利があるのなら、今の玲は殴り殺されてもおかしくなかった。
Read more

第19話

空は重く垂れ込め、ずっと曇りだった空から、土砂降りが降ってきた。その雨は一度降り出すと止む気配を見せず、結局五日間も空を支配し続け、六日目の朝になってようやく青空が顔を出した。だが藤原家の屋敷の中で、綾の心は一点の光も差さず、むしろ雷鳴のような不安が渦巻いていた。――明日が、秀一に与えられた最後の猶予の日。彼が提示した選択肢を拒み続ければ、刑務所送りで十年の服役。選択肢を受け入れ、罰のほうを選べば、一時間もの鞭打ち刑が待っている。子どもの頃、秀一が一度だけその刑を受けたことがある。あの秀一でさえ、一ヶ月は寝たきりになったのだ。自分の身体なら……一時間も持つはずがない。しかし藤原家を離れる選択もできない。母の美穂が、それを許すはずがないからだ。実際、この数日、綾は出社をせず家にいると、美穂は「怠けている」と解釈し、わざわざ説教をしに来たのだ。「綾、疲れて休みたいならいいわ。でも、何事にも限度があるのよ。あなたを藤原グループに入れるために、すごく苦労したってことは知ってるわよね?それに、秀一はいまや一族で一番の権力者、あなたがここで踏ん張れなければ、将来なんてないわ。お兄さんも今は海外で頼りにならない。自分の力で居場所を守らないと」言葉は優しい調子だったが、最後の一言には冷たく重い圧力がこもっていた。「でもね、明日はあなたの誕生日でしょう?せめて明日は楽しませてあげたいと思って、クルーズを一隻貸し切ったの。弘樹さんと一緒にお祝いして、仲を深めなさい。高瀬家と婚約しておけば、秀一だって手出しはできないわ」そして美穂は、あっさりとこう言い切った。「でも誕生日が終わったら、すぐ仕事に戻るのよ」その言葉を聞くと、綾の胸は締め付けられる。――明日が終われば、もう逃げ道はない。心の奥でそう確信した綾は、どうしても不安を抑えきれず、つい弘樹に電話をかけ続けた。「弘樹さん……!この前玲を連れ戻せばすぐに秀一を止めさせるって言ったよね?でももう六日よ!六日も経ったのに、なんで状況が何も変わってないの?しかも秀一のやつ、むしろ前より苛烈になったわ!彼、本気で私を潰す気よ!」綾は今、部屋に一人いても落ち着けず、眠ろうとすれば悪夢にうなされる。昨夜の夢では、刑務所に入れられ、拷問を受けて死ぬ自分の姿を見たの
Read more

第20話

綾が何を企んでいるのか調べなければ。止めなければ。そう思い、弘樹はすぐに連絡先を開こうとしたが――「ただいま」玄関の方から重い足音が響き、弘樹は反射的に顔を上げた。父の茂が、外出先から戻ってきたのだ。息子を見ると、歩み寄って声をかける。「顔色が悪いな。体調でも崩したのか」「いえ、大丈夫です。ただ、仕事が立て込んでいて……食事を抜いたせいでしょう。後で薬を飲んでおきます」「そうか」そう言いながら、彼は息子の肩を軽く叩いた。「仕事も大事だが、体を壊しては元も子もない。それに……綾のことも見てやれ。あの子から電話が来ていたぞ」父の声は低く穏やかだったが、そこには冷たい重さがあった。「玲との問題は早く片を付けろ。綾は君の婚約者だ。あの子が藤原家で立場を失えば、高瀬家の評判も揺らぐ」言いながら、父は弘樹をまっすぐに見据える。「もっとも、玲のことも私にとっては他人事じゃない。小さい頃から君と一緒に育ってきた子だからな。当時、彼女を色々助けてあげたんだろう。今回、引き下がるよう説得するのも、君にとって難しいことだと思うが……」弘樹は、あえて微笑みを浮かべて言い切った。「問題ありません。玲はただの居候です。小さい頃に少し面倒を見た程度、それだけです。けど今は違います。何が一番大事か、はっきりわかっているつもりですから」父はしばらく無言で彼を見つめ、やがて薄く笑った。「……そうか。君はやはり私の息子だな、今の話を聞いて、安心した。綾は気性が激しいが、君には必要な相手だ。二人の婚約には何としてもこぎ着けてもらう。私はもう歳だから、面倒は避けたい。だからこそ、君を信じて任せているんだ。明日が期限だな。君ならやり遂げると信じているよ」そう言って茂は弘樹を一瞥し、階段を上がっていった。残された弘樹は、暗く静まり返ったキッチンでぼんやり立ち尽くした。蛍光灯の光がちらりと瞬く。胃の奥で燃え上がる痛みが、頭のてっぺんまで突き抜ける。あまりの苦しさに、玲の声が頭の中で響き渡るようだった。――「あれは私のものよ?『恋人だから』なんて言葉で誤魔化して預かっていたけど、もう別れたの。だから返して」――「ありがとう、高瀬さん。おかげで、あなたと縁を切るのが正しいって、はっきりわかったんですから」頭
Read more
PREV
123456
...
10
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status