Masuk長いあいだ、高瀬玲にとって高瀬弘樹は唯一の「光」だった。 だがある日―― 「藤原家の令嬢との婚約は取り消さない。お前は、このまま俺の愛人でいればいい」 弘樹の冷たい言葉を聞いた瞬間、その光は彼女を覆い尽くす影へと変わった。 その夜、彼女はすべてを諦めて家を出る。 周囲は口を揃えた。「高瀬家の庇護を失った玲なんて、すぐに行き詰まり、屈辱にまみれて戻ってくる」と。 けれど、世間の予想は鮮やかに裏切られる。 高瀬家と藤原家の婚礼の日。真っ白のドレスに身を包んだ玲が、藤原家を率いる秀一の腕を取り、堂々と姿を現したのだ。 その瞬間、彼女は「すべてを失った哀れな女」から、「高瀬夫婦の義姉」へと変貌を遂げる。 会場は騒然、誰もが息をのんだ。 弘樹は思った。玲は自分のために身を投げ出したのだと。 だから彼女を取り戻そうと手を伸ばす。 だが、その前に冷たい声が響き渡る。 「もう一歩でも近づいてみろ」
Lihat lebih banyak玲は、もともと泳ぎが得意なほうではなかった。先ほどまで弘樹に強く引きずられ、海の中で揺さぶられていたときも、必死に足先で海底を探り、なんとか踏ん張っていただけにすぎない。だが、弘樹に乱暴に引かれたうえ、追い打ちをかけるように大波にさらされ、玲はまるで巨大な網に絡め取られ、そのまま深海へ引きずり込まれるような感覚に陥った。冷たく、塩辛い海水が一気に全身を包み込み、目を開けることも、声を出すこともできない。視界は闇に閉ざされ、感覚だけが急速に遠のいていく。「玲!」「玲――!」朦朧とする意識の中、暗闇の向こうから、焦りを帯びた二つの男の声が続けて聞こえた。後から響いた、聞き慣れたその声には、隠しきれない恐怖と動揺が滲み、今にも泣き出しそうなほど切迫していた。その声に縋るように、玲は苦しさの中で腹部に添えていた手を必死に動かし、上へ、上へと浮かぼうとする。たとえ波に逆らえなくても、せめて一瞬でも顔を出し、秀一に自分の居場所を伝えたかった。けれど、海は甘くなかった。うねり続ける潮の力は、玲ひとりがどうにかできるものではない。どれだけ必死に手足を動かしても、体は前へ進まず、むしろその場で空回りしているような感覚ばかりが募る。顔を上げても、水面は相変わらず遠いまま。距離が縮む気配などなく、体力が奪われるにつれて、玲の体はじわじわと沈んでいった。――このまま、終わりなの?胸が締めつけられる。彼女には、まだ守らなければならない命があった。お腹の中の小さな命は、まだこの世界を一度も見ていない。そんな結末、受け入れられるはずがない。玲は涙をにじませ、必死に腕を振りながら、心の中で何度も秀一の名を叫んだ。だが、ここは海の中だ。酸素は尽きかけ、ついに口元から、意思とは関係なく泡がこぼれ出る。視界は急速に暗くなり、玲の身体は、そのまま深い闇へと沈んでいった。――その瞬間。見慣れた、大きな手が、突然、彼女の身体を強くつかんだ。次の瞬間、顎を支えられ、冷えきった唇に柔らかな感触が重なる。一気に温かな空気が流れ込み、玲のまつ毛が小さく震えた。耳元では激しい水音が渦を巻き、身体が勢いよく上へ引き上げられていくのがわかる。やがて――閉じたまぶたの向こうに、ぼんやりとした光が差し込み、鼻腔いっぱいに新鮮な空気が流れ込んだ。
「玲!」秀一の切迫した声が、すぐ背後から追いかけてきた。今度は弘樹を刺激するかどうかなど構っていられない。秀一は迷いなく深い海域へ踏み込み、弘樹と玲を引き離そうとする。だが玲は、とっさに手を上げた。胸を締めつける不快感を必死に抑えながら、弘樹に向かって低く叫ぶ。「弘樹……あなた、自分は秀一さんみたいになれなくても、茂さんみたいには絶対なりたくないって言ってたよね?でも今のあなた、本当に茂さんと違うって言えるの?茂さんが紀子さんを傷つけているように、あなたも私を傷つけているのよ?」その言葉に、弘樹の動きがぴたりと止まった。玲を強引に引き寄せていた腕の力が、わずかに緩む。だが、彼の目に宿る闇は、先ほどと同じように濃かった。「……お前を傷つけてるのはわかっている。でも、俺はあいつとは違う!俺は……お前と一緒に、命の果てまで行く覚悟ができてるんだ!」「一緒に?そんなこと望んでないわ!」玲は思わず声を荒げた。波に浮き沈みする中で、彼女は逆に弘樹の腕を掴み、力いっぱい平手を打ちつける。「目を覚まして、弘樹!私を道連れにしようとするのは、もう私を引き止められないってわかったからでしょ?だからこんな卑怯な手に出た。でも、もし本当に茂さんと違うって言うなら、私がどうしたいかを聞くべきでしょ?自分の都合だけで、勝手に決めないで!ここに来てから、私はどんな話をしてもあなたは聞いてくれなかった。でも、今度こそちゃんと聞いて欲しい。私は二人目の紀子さんにはなりたくない。わけわからない理由で、命を奪われるなんて、絶対に嫌!もし今日、本当に私を殺したら……あなたは茂さんと同じよ。自分が一番憎んでる人間になってしまうの!」弘樹には、もう穏やかな言葉は届かない。だから玲は、彼が最も憎む存在の名を突きつけ、あえて深く傷つけた。弘樹は、まるで石のようにその場に固まった。頬は赤く腫れ、ついに、玲を見つめたまま、声を失って泣き崩れた。「……玲、俺は納得できない。俺も秀一も、同じような過ちを犯したはずだ。それなのに……どうして、お前はあいつを許して、俺からは離れていくんだ?」なぜ玲は、秀一にはやり直す機会を与え、自分には一度も振り向こうとしなかったのか。その問いに対して、これまで玲は「秀一はあなたと違うから」とだけ答えてきた。だが今、玲は目を逸らさず
茂、美穂、綾、そして豪――彼らは一生をかけて策略を巡らせ、命さえ賭しても手に入れられなかった藤原グループ。それを、秀一は今、玲を人質に取られた状況で、何の迷いもなく差し出そうとしていた。その言葉を聞いた瞬間、玲ははっと息を詰める。身体は相変わらず辛いが、それ以上に、海の中に立ち尽くし、ずぶ濡れになりながらも自分だけを見つめる秀一の姿に、胸が締めつけられ、視界が滲んだ。けれど――藤原グループがどれほどの価値を持とうとも、弘樹にとっては、取るに足らないものだった。「秀一。俺が本当にそんなものを欲しがる人間だったら、あれほど大きな高瀬家を、自分の手で壊したりしない」弘樹は険しい表情で秀一を睨みつけると、金縁眼鏡を乱暴に外し、そのまま海へと投げ捨てた。初めて、何の仮面も被らず、剥き出しの目で秀一を見据える。「なぜ来た?あの手紙を見ただろう。どうして、ここまでして追ってくる……!」その言葉を、秀一ははっきりと遮った。「あれは、玲が書いたものじゃないとわかっていたからだ」一語一語、噛みしめるように続ける。「確かに、お前は玲をよく知っている。筆跡を完璧に真似できるほどにな。だが……肝心なところで、お前は玲をわかっていない」玲は、何も言わずに姿を消すような人間ではない。たとえどれほど傷ついても、離婚を考えるほど追い詰められても、きちんと向き合い、言葉で「別れ」と「失望」を伝えようとする人だ。そんな玲が、たった数行の置き手紙を残し、「二度と会わない」と言い残すなどあり得ない。だから秀一は、すぐ弘樹の嘘を見抜いた。それからの数日間、秀一は眠ることも忘れ、玲を探し続けた。黒服の部下を総動員し、さらに二十億という懸賞金をかけ、あらゆる情報網を動かした。そしてついに――弘樹が匿名の海外口座を使って島を購入していた事実に辿り着く。秀一は迷わずヘリに乗り込み、こうして今、命よりも大切な存在のもとへ辿り着いたのだった。しかし、その話を聞けば聞くほどに、弘樹の表情は凍りついていく。玲を掴む手には、血管が浮き上がるほどの力が込められていた。その一方で、玲は静かに唇を緩めた。先ほどまで鈍く痛んでいた腹部も、少しずつ落ち着いていく。玲は弘樹を見つめ、口を開いた。「弘樹……昔は、あなたと秀一は違うって、私がよく言ってたけど、今、あな
次の瞬間、秀一の視線が窓辺に立つ玲を捉えた。それはまるで、見えない稲妻が空中で一気につながったかのようだった。秀一の沈んだ眼差しは、玲の顔から一瞬たりとも離れない。この数日で明らかにやつれ、顎には無精ひげまで浮かんだその顔は、張り詰めた熱を帯びていた。彼は必死に確かめていた――玲は無事なのか、怪我はないのか。その視線を受け止めた玲は、思わず目頭が熱くなる。こんな秀一を見てしまえば、胸の奥に押し込めていた想いが、溢れ出さずにはいられなかった。二か月以上会えなかった寂しさと恋しさが、一気に押し寄せる。秀一がこれまで自分に隠し事をし、欺いていたことを許すべきかどうか。その答えは、この瞬間、ほとんどはっきりしていた。けれど、突然、別の手が、玲の腕を強く掴んだ。窓辺に立ち、秀一に気づいてもらおうとしていた玲の身体は、ひやりとした胸に引き寄せられる。気づけば、弘樹はすでに服を身につけていた。島まで追ってきた秀一の存在に気づいたのだろう。玲の手を握る力は、次第に強まり、金縁眼鏡の奥の淡い瞳は、真っ赤に染まっていた。「玲……秀一のところへ行きたいんだろう。今すぐ、あいつと一緒にここを出て……俺の人生から、完全に消えるつもりなんだろう?駄目だ……それだけは駄目だ。俺は、お前を失うなんて耐えられない。全部、俺が悪かった。怖くて、弱くて……お前を手放した。父に逆らう勇気がなくて、お前を守る代わりに、綾と一緒になるなんて選択をした……本当は、綾を選ぶのではなく、秀一みたいに戦うべきだったんだ。なのに俺は逃げた……!だから今度は逃げない。玲、今度は絶対に手を離さないから!」弘樹の声は、ついに震え、喉が詰まる。その言葉と同時に、彼は玲を引き寄せたまま、部屋を飛び出した。目指した先は――海だった。「弘樹、何をするの?」玲は、弘樹の行動が、まるで自暴自棄のように思えて、全身が凍りつく。必死に抵抗しようとするが、強引な力に引きずられ、足元が定まらない。その拍子に、ここしばらく落ち着いていた腹部に、鈍い痛みが走った。下へ引き込まれるような不快感に、玲の手が思わず震える。幸い、弘樹はそのまま深いところへ引きずり込むつもりではなかった。冷たい海水が、玲の腹元まで達したところで、弘樹は足を止めた。その背後から、張り裂けるような怒声が響く
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