そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜 のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

100 チャプター

第21話

「玲ちゃん、あなたも来てたの?」綾は藤原家の令嬢、彼女の誕生日パーティーは、都内でも名の知れた上流階級の顔ぶれがずらりと揃っていた。政財界の重鎮からセレブ妻たちまで、ほとんどの招待客が足を運んで祝いにきてくれた。その輪の中で、雨音もいた。彼女は玲を見つけるなり眉をひそめ、そっと彼女を人混みの外へと連れ出した。「足をケガしてたでしょ?今日は来ないと思ってた」玲はかすかに首を振った。「何日か安静にしてたら、もうすっかり良くなったの」少し肩をすくめるように続ける。「それに、今回わざわざ綾が私に直接招待状を送ってきてね。朝からお母さんが張り切っちゃって、スタイリストまで呼んで準備してくれたの。断る余地なんてなかったわ。『綾さんに気に入られてるなんて光栄なことよ』って……」雪乃は根っからおめでたい性格だ。綾は玲と仲直りしたから、今回のパーティーに玲を招待したと思っている。弘樹も反対しなかったのだから、玲にとっても名誉なことだと。だが玲には、その招待が名誉どころか、不穏な予感をはらんでいるようにしか感じられなかった。「それにしても……」玲はちらりと甲板に並ぶクルーたちを見回した。「警備員がいるにしても、クルーズのスタッフたち、さすがに多すぎない?」「やっぱりそう思う?私も変だなって思ってたよ」雨音は玲の隣に立ち、周囲を警戒するような目をしたあと、柔らかく微笑んだ。「でも大丈夫。玲ちゃんは私が守るから。こんな美人を、誰にだって指一本触れさせないからね」「……なんだか物騒な言い方ね」「違う違う!褒めてるだけだよ」雨音は軽く咳払いして笑った。「今日の玲ちゃん、ほんとに綺麗だから」それは社交辞令ではなく本心だった。玲はこれまで弘樹の影響もあり、いつも地味で控えめな服装をしていた。たとえ華やかな美貌があっても、それを表に出そうとしなかった。だが今日は違う。雪乃の強いすすめもあって、淡いローズピンクのドレスに身を包み、ウエストのラインを引き立てるデザインが彼女の華奢な体を際立たせている。長い脚を堂々と露出し、繊細なメイクがその整った顔立ちに妖艶さを添えた。雨音の目には、まさに「清純と誘惑」を同時に纏った美しさそのものに映った。けれどよく見ると――「玲ちゃん、最近ちゃんと寝てないでしょ?目の下、少しクマで
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第22話

秀一は玲をじっと見つめ、その黒い瞳は氷のような冷たい光を宿していた。すぐ目の前にいるはずなのに、その視線の奥に隔たりを感じ、まるで遠くにいるようだった。どう答えるべきかわからず、玲は体をこわばらせた。そうこうしてると、秀一は何も言わず人混みの中へと消えていった。友也もその後を追い、すぐさま取り巻きたちに囲まれる。甲板の上は香水の匂いと笑い声に満ち、きらびやかでありながら、どこか張り詰めた空気が漂っていた。「……あの人、なんであんなに冷たいの?」雨音はぽかんと呟き、視線を玲に向ける。「私たち、馴れ馴れしすぎたんじゃないかな」玲は俯いたまま答えた。「私の睡眠不足なんて些細なことだし、あの人にとっては迷惑でしかないんだと思うよ」「でも、あんな怖い顔して……玲ちゃん、本当に彼と結婚できるの?」雨音は眉を寄せる。玲は何も言えなかった。――だって、まだパスポートも取り戻せてすらいないのだから。綾という弱みを握っておけば、弘樹もすぐ折れてくれると考えていた。けれど一週間経った今も、彼は一歩も譲らなかった。それは不眠にもなる。時限は迫り、もし今日もパスポートを取り戻せなければ、玲は本当に秀一と結婚どころではなくなる。焦燥で胸がいっぱいになり、思わずため息をついた玲に、雨音は優しく宥める。「そう心配しないで、あの人の態度、きっとあなたのせいじゃないよ。他のことで苛立ってただけかもしれないからね」「ありがとう。私は大丈夫だから……」玲は頭を横に振り、そっと微笑んだ。今後はどうなるかまだわからない以上、親友にまで心配をかけたくない。玲は話題をそらした。「そういえば、友也さんとは相変わらずあんな感じなの?」雨音は一瞬視線を逸らし、わずかに笑った。「彼とはね、一生このままかもしれない。彼の心が私にないのは知ってるし、私は私でプライドがあるから。無視されてるからといって、いつだって泣いて縋るわけにはいかないの。じゃないと、気狂いな女になっちゃうでしょ?」冗談めいたその言葉の奥で、玲には雨音の瞳に深い影が見えた。雨音は、本当はずっと友也のことが好きだった。水沢家と雨音の実家、遠野家は、首都で「四大」と呼ばれる名門。雨音が友也を知ったのは、彼の兄と昔からの友人だったからだ。幼いころから水沢家に遊びに行くたび
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第23話

「水沢さん、ここにいらしたんですね!」「聞きましたよ、あなたがあの有名な彫刻家Rの才能を見抜いた方なんでしょう?あなたが目をかけた作品は必ず売れるって噂ですよね?」「ねえ、少しお話ししませんか?私も芸術を学んでるんですけど、今後売れると思います?」玲と雨音が立っていた船の甲板の一角に、突然わっと若い令嬢たちの一団が押し寄せた。口々に声を上げ、雨音を取り囲み質問攻めにする。玲はその中に、真っ赤な髪の目立つ女性の顔を見つけ、思わず目を細めた。それは、数日前にロイヤルホテルで綾と鉢合わせしたときに見かけた名家の令嬢だった。――わざとだ。そう気づく間もなく、赤髪の女性は群れに紛れて玲の肩を押し、じりじりと手すりのほうへと追いやってくる。玲は何歩か後ずさりし、背後の闇に沈む海がぐっと近づいた。夜の海は漆黒で、甲板の下は底知れぬ闇。一度落ちれば、誰にも見つけられないかもしれない。異変に気づいた雨音は、令嬢たちに囲まれて動けないまま声を張り上げた。「将来を決めるチャンスが欲しい人は、私についてきて!」そう叫ぶや否や、踵を返して甲板の反対側へ駆け出す。案の定、ほとんどの令嬢が彼女を追いかけた。赤髪の女性も渋々後を追うしかなく、玲への圧迫は解けた。玲はよろめきながらも、頭の中は冷静だった。彼女はもう覚悟を決めていた――もしあの赤髪の女が本気で手を出してきたら、こちらも容赦するつもりはなかった。だが雨音は先に行動し、彼女を救った。遠ざかる友の背中を見送りながら、玲の胸は温かくなる。だからこそ、彼女は静かにため息をついた。これ以上雨音に迷惑をかけたくない。身を隠し、ひっそりやり過ごすのが得策だと判断した。しかし、甲板の隅に身を潜めた玲の耳に、次の瞬間、重い靴音が響く。そして姿を現したのは――綾だった。その後ろには、屈強な船員の男たちが七、八人も従っている。玲は表情を引き締め、手を背中に回した。「藤原さん、お友達を探してるなら、もうそっちに行きましたよ」「残念ながら、彼女を探してるわけじゃないの」綾は豪華なドレスに身を包みながら、笑顔は一切なく、氷のような視線を向けてきた。「だってあの子には、雨音をあんたから遠ざけるために来てもらったんだから。じゃないと、あんたは一人になれないからね」玲は瞬時に理解した
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第24話

「どうして私を、こんなに苦しめたの?」額の血管が浮き出しになり、綾は叫んだ。「藤原さん……あなたが苦しいのは、自分が蒔いた種のせいですよ」玲は静かに言った。「違う!全部あんたのせいよ!あんたが弘樹さんを誘惑しなければ、私はあんたを狙うことも、秀一に報復されることもなかったわ!」玲は鼻で笑った。「いつ私が弘樹を誘惑したんですか?三年前、彼と付き合っていたのは事実。でもそれは普通の恋愛ですよ。彼は私に未来を約束したくせに、あっさりあなたと婚約した。今は私が別れを告げているのに、しがみついてるのは彼のほう。私は卑怯な手なんて使ったこともないし、あなたと取り合った覚えもありません。約束を簡単に破ってしまう男なんて、こっちから願い下げですから」彼を誠実な男だと思ってるのは綾だけだろう。綾は目を見張り、声をあげる。「普通の恋愛?しがみついてるのは彼のほうなんだって?私たちの関係を悪くさせるよう、わざとそう言ってるでしょ?だってあんなに完璧な人を……どうしてそんな簡単に手放せるわけ?」「もちろん手放せますよ。代わりにもっと素晴らしい人を見つけただけだから」玲は強く言い返した。弘樹と別れ、秀一と結婚するのは事実だ。顔立ちや家柄、能力をすべて度外視しても――人としての器量だけで言えば、秀一は弘樹を遥かに凌駕している。だが、綾はそんなことを信じようともしない。彼女の中では、世界中どこを探しても弘樹以上の男など存在しなかった。「玲、やっぱり嘘をついてるのね!そんなこと言って、私の気をそらそうとしても無駄よ。だって事実はひとつ――あんたは秀一って野良犬を利用して、私の人生を滅茶苦茶にした!だから玲、今日は絶対に許さないわ!」綾の声は低く冷え、強い執着が滲む。「この数日、あなたは秀一に電話一本かけることさえ拒んだそうね?なら今日は、嫌でも思い知らせてあげるわ。私の言うことを聞かないとどうなるかをね……」綾はそう言いながら、傍らに控えていた男たちに視線を送った。彼らはどこからどう見ても「船員」などではない。下卑た笑みを浮かべ、いやらしく玲を値踏みしている。玲は全員を見据えながら、わずかに腕を動かした。「……藤原さん、まさかこの男たちに私を襲わせるつもりですか?」「その通りよ」綾は顎を高く上げ、勝
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第25話

刹那、空気が張り詰めた。七、八人の男たちが獲物を前にした野犬のように腕を鳴らし、先頭の男はせっかちにベルトへ手をかける。だが、玲はその場から一歩も動かず、眉ひとつ動かさなかった。――藤原綾、この女は本当に頭が悪い。高瀬家での一件で玲が警察を呼んで切り抜けたことは、綾も知っているはずだ。なのに今回は、先に玲のスマホを取り上げようとすらしない。警察は海にはいないかもしれないが、船に誰もいないわけじゃない。だからこそ、玲は違和感に気付いた瞬間、背中でこっそり電話をかけていた。相手は雨音だ。その後も会話で時間を稼ぎ、そして今。甲板の奥から駆け足で近づいてくる気配が聞こえ始めていた。玲はタイミングを計り、声を上げようとしたが――綾の声が、あの嘲りが脳裏によみがえる。「玲、この間計画を台無しにされた屈辱、忘れてないわ。前回は高瀬家で警察を呼んで逃れたけど――ここは海の上。まさか、今回も警察を呼べるなんて思ってないでしょうね?」……警察を呼ぶ。そうだ、いちばん有効な策は、いつだって一番シンプルなものだ。綾を完全に裁くことはできなくても、警察は玲の奪われたパスポートを取り戻してくれる。だからこそ今回は、中途半端に事態がもみ消されてはならない。高瀬家の時のように、綾の権力で「何もなかったこと」にされれば、すべてが無駄になる。――じゃあ、どうする?綾ですら手に負えない騒ぎにしてやればいい。玲の視線がちらりと後ろへ向く。そこには、闇に呑まれそうなほど深い海面と、荒々しい波がうねっていた。心臓の鼓動が早まる。だが決意は一瞬で固まった。大男の手が肩に触れる、その刹那。玲は迷いなく身を翻し――甲板から闇へと飛び込んだ。……「藤原綾!この性根の腐った女!!どうしてまだ生きてるの!?あなたみたいな人間、海に沈んで死ねばいいんだ!」警察署の一室に響く、雨音の怒声。彼女は取り乱し、今にも綾を殴りかかりそうな剣幕だった。一方、椅子に座り、背後に弘樹を控えた綾は、悔しげに歯を噛みしめている。「黙りなさい、私は玲を突き落としたりしてない!あの子が勝手に飛び込んだのよ!私は何も悪くないわ!」自分こそ被害者なんだと、綾は心底そう思った。せっかくの誕生日パーティーは開始前に終わってしまった。無理やりクルーズを降ろされ、警察
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第26話

雨音は、ほんの数時間前まで秀一のことを「冷たい人間」だと思っていた。だが、その夜――彼が迷いなく海へ飛び込んだ姿が、その印象を一瞬でひっくり返した。クルーズから次々と人が海へ落ち、その一人が藤原家の若き当主だと知れ渡った瞬間、クルーズ内は大騒ぎとなった。綾がどれだけ泣き叫び、取り乱して阻止しようとしたところで無駄だった。クルーズが港に着く頃には、すでに警察が待ち構えていた。玲はずぶ濡れのまま警察署に連れて行かれ、着替えのために別室へ案内されている。一方、雨音はひとり取調室に残され、そこで綾と真正面から向き合った。「綾、今回ばかりは誤魔化せないわよ。だって私が立派な証拠よ!電話で全部聞いたの。あなたがチンピラを何人も雇って船員に変装させて、玲ちゃんを襲わせようとしてた。だから玲ちゃんが海に飛び込んだのよ!」「ふざけないで!あんたは玲の親友だから、彼女の肩を持つに決まってるでしょ!」綾は喉を張り上げて反論した。「あいつはあんたが言ったようないい子じゃないわ。私は藤原家の令嬢なのよ?けど初めて会った時から、あいつは私を馬鹿にしてばっかり!弘樹との思い出の品まで壊して私を侮辱してたのよ!確かに、私が連れてった男たちは本物の船員じゃない。でも彼らが私の友達で、ただ遊びの一環として、コスプレさせただけ。襲われたなんて、全部玲の被害妄想なのよ!だいたい、玲が自分で飛び込んだし、私と一ミリも関係ないんだってさっきから言ってたでしょ!」綾は顔を歪めながら吐き捨てる。「玲は昔から計算高い女よ。わざと飛び込んで、私を陥れようとしたに違いないわ。前回の通報は失敗に終わったけど、今度は本気で私を警察に引きずり出すつもりなんでしょ?」悔しさに駆られ、綾の表情はますます醜悪になった。「……なら、最初からあの男たちに玲を抱かせておけばよかった!そうすれば、こんな卑屈な思いをしなくて済んだのに!」その言葉を聞いた瞬間、雨音の怒りが爆発した。「玲をここまで追い込んでおいて、まだそんなこと言えるの?本当、自分が何様だと思ってるの?この世にはまだ正義があるってこと、あなたに教えてやるわ!」叫ぶと同時に、雨音は真っ赤なハイヒールを脱ぎ、綾の顔面めがけて振りかぶった――だが、その腕は強い力で止められた。驚いて顔を上げると、冷や
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第27話

弘樹は、綾が自分の誕生日パーティーで玲に嫌がらせを仕掛けるだろうことを、最初からわかっていた。だが、彼はそれを止めるどころか、むしろ予定通り玲をクルーズへ送り込んだ。弘樹に腕を掴まれて動けなくなった雨音は、そのやり取りを一言一句、聞き逃さなかった。呼吸が一瞬止まり、声が震える。「……弘樹くん、全部……全部あなたとこの女が仕組んだことだったのね?」雨音の声は怒りで震えていた。「だから今日のパーティー、綾の誕生日だっていうのに、高瀬家の人間は誰も来なかったのね……!綾があんなに堂々とチンピラを連れて玲ちゃんを襲わせようとして、動画まで撮ろうとしたのも……全部、あなたが後ろ盾だったから?」その目は涙で潤みながらも鋭く弘樹を睨みつけた。「どうしてそんなことができるの!?玲ちゃんをもう愛してないとしても、綾に心変わりしたとしても……玲ちゃんは十三年よ!十三年もあなたのそばで、何の見返りも求めずに尽くしてきたんだから!心がまったく痛まないわけ?」怒りに震え、雨音は弘樹の鼻先に指を突きつけた。玲がこの真実を知ったらどれほど傷つくのか、想像しただけで胸が張り裂けそうだった。その言葉に反応したのは、綾だ。「言いがかりはやめて!玲なんて、ただの後妻が連れてきたお荷物でしょ?そんな子が弘樹さんに愛されるはずないじゃない!」雨音は鼻で笑った。「愛されるに決まってるでしょう?あなたこそ、自分の身の程がわかってないのね。みんな知ってるわ。あなたは藤原家の令嬢なんかじゃない。ただの、母親が不倫でのし上がって産まれた私生児でしょ?藤原家の本当の正妻は、秀一さんのお母さん、紀子さんだけ。藤原家の正統な後継者も、秀一さんひとりよ。秀一さんが誘拐されたあの時、悲しみに暮れていた紀子さんを利用して、あなたのお母さんが、友人のふりをしながら彼女の夫を奪った。そして紀子さんを追い詰め、自分のお腹にいたあなたと兄を盾に藤原家にのし上がったわ。秀一さんが行方不明だった七年間、あなたたち一家は好き勝手に藤原家を乗っ取って威張り散らした。けど神様はちゃんと見てたのよ。秀一さんは戻ってきたし、誰もが認める力で藤原家を掌握した!藤原家の名を笠に着て威張り散らしても無駄よ。藤原家はもう秀一さんのものだし、あなたたちももうすぐ追い出されるわよ!」
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第28話

「弘樹、俺たちはお前らなんかと同じじゃない」ポケットに手を突っ込んだまま、友也が奥の部屋から出てきた。「政略結婚は同じでも、俺はお前みたいに女を弄ぶクズじゃないし、雨音も綾みたいな陰湿で卑しい女じゃない。勝手に同類扱いして、俺らまで汚すな」その冷ややかな言葉は、刃のように鋭かった。弘樹は顎を引き締め、言葉を返そうとしたが、その視線が別の方向へ向いた。数名の警察官が、着替えを済ませた玲と秀一を伴って姿を現したのだ。玲は海から引き上げられたばかりで、まだ顔色が真っ白だった。小柄な体は頼りなく、時折、胸を押さえて咳き込む。海水が肺に入ったのだろう。「……っ、ゴホッ……ゴホッ……」その姿を見た瞬間、弘樹の足が無意識に前へ出た。だが、次の瞬間、秀一の冷ややかな眼差しが彼を射抜く。隣で綾が彼の手を握りしめた。秀一を見て、彼女の顔にも微かに怯えを浮かべていた。最初に玲のもとへ駆け寄ったのは雨音だった。涙を滲ませ、彼女の細い肩を抱きしめる。「玲ちゃん、大丈夫?やっぱり病院に行こう?」玲はかすれた声で首を振った。「……だめ。まずは今日のことを全部整理しないと。こんな事件が起きて、しかも藤原さんまで巻き込まれた。今、首都中が混乱しているはず。まずは警察の方たちと一緒に事実をはっきりさせないと」そう言って玲は視線を上げ、秀一を真っ直ぐに見た。その瞳は透明で、どこか計算された強さを秘めている。秀一の表情がかすかに揺れた。玲の中に、何か思惑があるように見えたのだ。一方で、雨音はその意図に気づくことなく、さらに玲を案じた。「玲ちゃん……なんでそんなに優しいの?自分がこんな目に遭ったのに、他人のことばかり考えて……ほんと、誰かさんとは大違いよ。いいわ、警察に全部話しましょう。あなたを苦しめた奴ら、今日こそ地獄を見せてやる!」「……待て」冷めた声がその場を切り裂いた。弘樹だった。彼は綾と指を絡め、彼女の手を守るように包みながらも、視線は玲だけを捉えている。「玲、お前は今日、辛い思いをした。だが……感情で突っ走って、取り返しのつかないことをするな。今回の事件は高瀬家と藤原家、両方を巻き込んでいる。ここで騒ぎを大きくすれば、双方の家に甚大な被害が出るぞ」綾の罪を暴けば、同じ藤原家の人間である秀一だって無傷で
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第29話

玲がここまで動いたのは、警察の立場を利用して、弘樹の手中から自分のパスポートを取り戻すためだった。だからこそ、秀一が何か行動を起こそうとしたその瞬間、玲は反射的に彼の手を掴んでしまったのだ。場が一瞬で静まり返った。誰もが息を呑む。まさか玲が、秀一に直接触れるほどの大胆な行動をとるとは。普段あれだけ度胸のある雨音でさえ、血の気が引き、慌てて玲の手を外そうと一歩踏み出した——触られることを嫌う秀一が怒るのではないか。雨音の頭の中はその懸念でいっぱいだった。だが彼女が動くより早く、別の男が玲の前に立ちはだかる。「玲、いい加減にしろ!」弘樹の低い声が空気を震わせた。その穏やかな顔立ちは険しく歪み、彼は玲の手首を掴んで乱暴に引き剥がす。「今日の件はただの誤解だと何度も言ったはずだ。それなら調書を取る必要なんてない。警察に謝罪して、今すぐ俺と帰るぞ。これ以上、藤原さんに迷惑をかけるな」その声音には、玲への忠告というより、明確な警告の響きがあった。弘樹はそのまま玲の手を取って連れ出そうとする。だが、玲は即座に彼を押し返した。「……高瀬さん。誤解かどうかは、あなたが決めることじゃありません。もし本当に事を荒立てたくないなら、協力してください。警察に私の書類を渡し、手続きをしてもらう。それだけのことです。さもなければ、私という被害者の口から、あなたの婚約者に不利な事実が飛び出しても、悪く思わないでくださいね」「……やっぱり、狙ってたんだな」弘樹の目に怒気が走る。「この茶番は、この場面を作り出すために仕組んだってわけか」「何のことです?私はただ、事件の捜査に協力したいだけです。それが『茶番』に見えるなら……」玲は視線を秀一に移した。「藤原さん、私の行動、茶番になりますか?」秀一は一拍の沈黙ののち、低く答える。「……ならない」短いその言葉は、玲への全面的な後ろ盾であり、弘樹への冷酷な圧力でもあった。玲は唇の端をわずかに上げる。これで勝負はついた。案の定、弘樹は青ざめた顔で部下に指示を出し、玲のパスポートを持ってこさせるしかなかった。玲はそれを警察官に渡し、調書を取る手続きを進めた。彼女が語った内容には綾の陰謀や脅迫の話は一切含まれていなかった。あくまで「自分が誤って海に落ちた」という筋
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第30話

玲がパスポートをしまおうとしたとき――突然、弘樹の手が伸びてきて、それを奪い取ろうとした。玲は反射的に身を引き、息を呑む。しかし、その手が彼女に触れるより早く、背後にすっと影が差した。氷のように冷たい気配をまとった長身の男が、玲の目の前に立ちふさがる。まるで盾のように――彼女を守るかのように。弘樹の手は空を切り、そのまま動きを止めた。静まり返った空気の中、弘樹は視線を鋭く細め、秀一を睨み据える。「……藤原さん。俺と玲の問題に、どうしてそこまで首を突っ込むのですか?」しかし、秀一は何も答えない。玲の前に立つその姿は微動だにせず、真っ黒な瞳には感情の色ひとつ見えない。パスポートをしまう玲は慌てて一歩前に出て、弘樹と秀一の間に割って入る。「高瀬さん、『私とあなたの問題』とは、何のことでしょう?あなたが突然、私の物を奪おうとしたので、藤原さんは私を守ってくれた、それだけのことです」「玲……俺だって、お前を守ろうとしてるんだ」眼鏡のレンズが冷たく光を反射し、弘樹の顔にはかすかな苛立ちと執着が浮かぶ。「パスポートは大事なものだ。俺が預かっておいたほうが安全だ」玲は冷ややかに笑みを浮かべた。「私は三歳の子どもじゃありません。自分のことは自分でできます。それに――高瀬さんと私は何の関係もないでしょう?余計なことは、なさらないほうがいいですよ」三年。奪われ続けてきた自分のパスポートを、やっとこの手に取り戻した。今度こそ、二度と渡すつもりはない。それに、このパスポートがなければ進めない、大事な計画があるのだから。「玲っ……!」弘樹の声が低く震え、初めて感情が剥き出しになる。その表情に怒りと苛立ちが滲み、今にも爆発しそうな気配が漂った。秀一がわずかに視線を動かす。目が合った友也はすぐに悟り、声を張り上げた。「高瀬さんの言う通りです!弘樹、お前に彼女のパスポートを預かる権利なんてない。それに、綾、お前の婚約者がこんなに理不尽なことをしても、見て見ぬふりか?」友也の一喝に場がざわつく。確かに、いつも弘樹にべったりで、玲に対して過剰な警戒心を見せていた綾が、この場面で口を挟まないのは異常だ。案の定、友也の言葉が終わるや否や――「弘樹さん!」甲高い声とともに、綾が血相を変えて駆け込んでくる。次
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