Semua Bab 光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語: Bab 61 - Bab 70

104 Bab

61.揺れる硝子の吐息

薫は、ふたりきりになったアトリエの仮眠用ベッドの上で、静かな緊張を全身に纏っていた。天井の裸電球が薄く滲んだ光を落とし、室内は外界と切り離された密やかな闇に沈む。雨上がりの夜の名残が、窓ガラス越しにうっすらと硝子の結露を残し、その水滴が微かに灯りを吸い込んでいる。礼司は薫の背中をやさしく抱き寄せ、薫は自分がその腕の中にすっぽりと包まれていることを、呼吸のたびに痛いほど実感していた。礼司の掌が薫の肩越しに回り、布越しに僅かな熱を移してくる。その温もりは、今にも壊れてしまいそうな硝子細工のように、薫の心をきしませる。けれど、今夜はただ「受け入れる」のではなく、何かを返したいという思いが、薫の胸を密かに膨らませていた。緊張と不安が波のように揺れ動きながらも、薫はそっと自分から礼司の指先を辿る。初めて自ら手を伸ばす瞬間、心臓が跳ね上がる音が耳の奥で爆ぜた。薫の手が礼司の胸元に触れ、その鼓動を指先で感じ取る。布地の下で脈打つ熱と、微かに震える皮膚。その振動が、自分の中の恐れやためらいを少しずつ溶かしていく。薫は静かに息を吸い込む。礼司の髪から、夜の雨を思わせる淡い湿り気と、体温が混ざった匂いが漂う。仄かな香りに包まれ、薫はふいに自分の存在が礼司の腕の中で少しずつ溶け出していくような感覚を覚える。ふたりの間に言葉はなかった。ただ、薫はこれまでのように礼司に身を任せているだけではなく、今度は自分からも応えたいと願っていた。薫の手が礼司の頬に滑り、髪にそっと指を差し入れる。その指先が触れた瞬間、礼司の身体が僅かに揺れる。薫の中で、小さな誇らしさと戸惑いが同時に芽生える。礼司の肌に触れることで、自分が彼に何かを与えられているのだと実感した。礼司は目を閉じ、静かな呼吸を整えている。薫はその横顔を間近で見つめる。額の生え際から頬骨の稜線、唇の薄さ、まぶたの下の薄い青い血管。今まで何度も見てきたはずの顔が、今夜は別のものに見える。触れることで初めて分かる熱。愛しいと思う心が、薫の中で静かに大きくなっていく。やがて礼司が目を開く。薫と目が合う。その瞬間、硝子越しに光が差し込むような錯覚に包まれ、薫は視線を逸らすことができなくなる。礼司の目は、いつになく柔らかく、けれどどこか脆さも孕んでいた。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-12
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62.指先で語る愛

礼司の手のひらが、薫の肌をなぞるたび、微かな熱が薫の奥底にまで染みわたっていく。夜のアトリエには、遠い街灯りと雨のしずくが揺れる窓明かりだけが灯り、ふたりの体温と吐息だけが小さな世界を作っていた。布団の上、灯りの下、薫は自分の手のひらをゆっくりと開く。礼司の大きな手に重ね、指を絡める。その指先ひとつひとつが、これまで触れたことのないほど柔らかで、確かな温もりを持っていた。「薫」礼司の低い声が耳元に落ちる。名を呼ばれるたび、薫は自分がこの世のすべてを許されるような気がした。けれど今夜は、それ以上に、自分の中に深く沈んでいくものがある。礼司の指先が頬に触れ、あごのラインをゆっくり辿る。薄闇の中でその動きはまるで波紋のように広がり、薫の体の奥で静かに揺れる。唇の端がそっと持ち上げられる。次いで、礼司の親指が薫の下唇をなぞった。くすぐったいほどの刺激に、薫は自然と瞼を閉じる。視界が暗くなると、他の感覚が研ぎ澄まされる。礼司の呼吸、衣擦れの音、汗ばむ掌の微かな湿度。自分の首筋に沿って降りてくる指先は、ひやりとした緊張の残り香と、じんわりとした快楽の両方を同時に生み出していた。薫は、これが愛されているということなのだと、はじめて身体で知った。言葉はない。指先の圧、体温、吐息の強さ。たったそれだけで、これほどまでに自分が満たされていくのかと驚く。礼司の指が鎖骨をなぞり、肩の骨を優しく指先で描いていく。自分の身体の線が、礼司によって確かめられていく。その度ごとに薫の中で何かが溶けていく。息を詰めるような静けさのなか、薫は自分の指で礼司の腕を辿り、肘から手首へ、そしてその指先にそっと口づけた。細く息を吐きながら、礼司がわずかに声を洩らす。その小さな反応が、薫に安堵をもたらす。礼司もまた、この時間に酔っている。自分だけではないのだと分かると、薫はさらに大胆に、礼司の胸元に顔を埋める。「…好きです」薫はほとんど夢のなかのように、その言葉を落とす。礼司の手が背中をゆっくり上下し、衣服越しに撫でてくる。その熱は、指の先からじわじわと薫の心臓にまで染み込んでいくようだ。薫の呼吸が浅くなり、身体の芯が緩んでいく。礼司の親指が肩甲骨のくぼみに触れ、指で円を描くたび、薫
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-13
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63.溶ける心、交わる影

仄暗い灯りの下、アトリエの奥にしつらえられた仮眠用のベッド。その白いシーツの上で、薫は全身を濡れたような熱に包まれていた。外では小雨が静かに降り続いている。風が時折、格子窓の隙間から冷たい湿気を運ぶが、それさえも、ここに満ちる熱気の前ではあっさりと溶けていく。礼司の身体が重なった瞬間から、薫のなかのすべてが音を立てて変わり始めた。礼司の手が、首筋から胸元、さらに腹部へと這い降りてくる。その指先の動きは決して急がない。だが、指が肌を滑るたび、薫の中にひとつひとつ火が灯っていくのが分かる。熱と疼きが腹の奥にまで広がり、これ以上は耐えられないと心が叫ぶ。礼司は薫の顎先を指で持ち上げる。視線が交わる。薄闇のなかで、薫は礼司の瞳の奥に燃える激しさと揺るがない愛情をはっきりと見つけた。まるで、その眼差しが自分の奥底まで覗き込んでいるようだった。「…薫」その声が喉の奥から絞り出される。薫の背中に回された腕が、ゆっくりと自分を引き寄せてくる。息を飲み、目を閉じる。礼司の唇が、額、頬、首筋へと降りてきて、やがて胸元へ。薫の指が震えながら礼司の背に絡む。その爪先ひとつひとつが、礼司の熱と脈動をはっきりと感じ取っていた。唇が肌を伝い、舌が敏感な場所をなぞる。薫は、これまで自分の内に溜め込んできた孤独や恐れが、礼司の熱に溶かされていくのを感じる。自分の声が、堪えきれずに洩れた。「……やだ、声、出てしまう」薫のか細い声に、礼司は優しく微笑み、もう一度だけ口づける。「いい、大丈夫」その一言で、薫の中の恥じらいもすべて融けてしまった。礼司の指が太腿の付け根をなぞり、体の奥まで熱を誘い込む。緩やかな刺激に、薫の身体が震え、息が荒くなる。背筋がぞくぞくと波打ち、思わず腰を浮かせてしまう。そのまま礼司の指が、薫の奥深くまでゆっくりと滑り込んでいく。痛みよりも、溶けるような甘さと満ち足りた感覚だけが広がる。薫は全身で礼司を受け入れようと、必死に腕を回し、脚を絡める。肌が肌に擦れ合うたび、空気はますます熱を増していく。やがて、礼司が自分の上に覆いかぶさり、視線をしっかりと重ねてきた。そ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-14
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64.朝靄(もや)に滲む約束

薄明かりがカーテン越しに差し込み、仮眠用ベッドの上に淡く溶けるような影を落としている。アトリエの天井近くに架けられた小窓からは、夜の名残を引きずった青白い朝靄が静かに流れ込んでくる。薫はその空気の冷たさと、腕の中に残る熱の両方をはっきりと感じていた。礼司の腕が、自分の肩越しに柔らかく伸びている。その掌は、まるで守るように薫の背中に添えられ、細やかな呼吸に合わせて上下していた。薫はまだ半分夢の中にいるような心地で、仰向けのままその腕の重みを噛み締めていた。身体のあちらこちらに、夜の余韻がしっかりと刻まれている。肌の上には礼司の指の痕が残り、唇には重ねた口づけの感触がこびりついて離れない。眠りから醒めきらないまま、薫はゆっくりとまぶたを開ける。視界には、枕元に散らばる黒髪と、礼司の端正な横顔がある。彼の目は閉じられているが、頬にかかる呼気はゆるやかで、けれどどこか緊張の名残りを孕んでいた。薫はそっと手を伸ばし、礼司の髪を指先で梳いた。昨夜の熱がまだ髪の根元にこもっていて、指先がふれるたび、ほんのりとした温もりが薫の胸まで伝わってくる。これまで感じたことのない安堵と、確かな幸福感――それは、夜のあの激しい渇きや、溶けるような快楽の余韻とはまったく異質なものだった。自分がこうして、誰かに抱かれ、愛され、そして愛することができるのだと、薫ははじめて心から信じることができた。「……薫」眠りの境界で、礼司がぽつりと名前を呼んだ。薫は少し驚き、しかしすぐに微笑みを浮かべる。自分の名が、あんなに低く、深く、そして切実な響きをもって発せられるのを、かつて誰にも許したことはなかった。その音に、胸の奥がじんと熱くなる。「起きていたのか」礼司の声がまだ寝ぼけたままで、薫は首を振る。その仕草があまりに子供っぽくて、自分で少し可笑しくなる。「……なんだか、夢みたいで」薫の声が細く揺れる。そのささやきに、礼司の手が背中をなぞるように動く。「夢じゃない。……ここにいる」たったそれだけの言葉なのに、薫の胸の奥で大きな波紋が広
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-15
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65.白い霧の朝

白い霧が一面を包み込む朝、窓の外にはまだ誰の足跡もない。軽井沢の高原に立つ中原家の別荘は、深い林と静かな湿り気に守られ、まるで時間そのものが封じ込められているかのようだった。曇りガラス越しに漂う淡い光、目を閉じると微かに草の匂いが鼻腔を満たす。新鮮な空気を吸い込み、礼司は大きく息を吐いた。まだ寝台の上、薫の細い肩が掛け布団の中でなだらかな弧を描いている。その寝顔はどこまでも幼く、眠りの奥に浮かぶ無垢な輪郭だけが浮かび上がる。外から差し込む涼風がカーテンをそっと揺らし、薫の髪に触れ、額に一筋の髪が落ちる。礼司は、その動きを静かに目で追った。自分がいまどこにいるのか、まだ脳裏に霞がかかったままだった。東京の早川家で身に纏っていた重苦しさ、名家の跡取りとして生きるための緊張と責任。あの圧力がこの朝だけは完全に剥がれていた。腕のなかに眠る薫の存在が、その事実をはっきりと証明している。礼司はそっとベッドの縁に腰をかけ、薫の額から髪をそっと指先で払った。その瞬間、薫は微かに目を細める。まだ夢の途中なのか、呼吸はゆっくりと浅い。細い睫毛の影が、頬に繊細な弧を描いている。礼司は思わず指先で薫の頬に触れる。薫はそのぬくもりにわずかに身じろぎし、微かな声で名を呼ぶ。「…礼司さん…」その声音に、礼司の胸の奥に柔らかな波がひろがる。東京にいた頃、名前を呼ばれるたびに心のどこかがきしむような痛みが走った。だが、いまはただ静かに満たされていく。まるで、これまで張り詰めていた何かが、朝の霧のなかに静かに溶けていくようだった。やがて薫がゆっくりと目を開く。半分だけ眠ったままの表情で、視線だけが礼司を捉える。二人の間に言葉はなかった。ただ、手のひらが頬にふれたまま、何も言わずに微笑み合う。その沈黙が、どんな台詞よりも饒舌だった。窓の外では、鳥たちが小さなさえずりを交わしている。林の奥からは朝露を含んだ風が流れ、草の香り、湿った土の匂いが部屋のなかまで届く。二人だけしかいない世界。昨日までの罪悪感も、家の名前も、社会的な役割もすべて霧の向こうに消え去ってしまったかのようだった。礼司はゆっくりとベッドを離れ、白いリネンのローブを身にまとう。薫は
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-16
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66.秘密の昼下がり

昼下がりの陽光が、大きなガラス窓から居間いっぱいに差し込んでいた。白いカーテンが風に揺れ、床に映る影もまた、揺れながら時間の流れを描く。高原の避暑地にある中原家の別荘は、東京の喧騒から切り離された小さな世界。ここには礼司と薫しかいない。世間の目も、家名の重圧も、すべてが遠い過去のもののようだった。昼食を終え、礼司は食後の紅茶をテーブルに置いた。薫はその向かいで、脚を椅子に乗せて膝を抱え、窓の外の庭を眺めている。食卓にはレモンピール入りの焼き菓子の香りが残り、カップの縁には淡い紅色がにじんでいた。静かな音楽が小さな音量で流れていたが、二人はそれに耳を澄ますでもなく、ただ空気の中に溶け込んでいた。「ねえ、外に出てみない?」薫がそう言って顔を上げる。礼司は柔らかく微笑み、カップを置いて立ち上がった。「いいな、今日は風が気持ちよさそうだ」靴を履くのももどかしいように、薫は礼司の手を取った。庭に出ると、朝の霧はすでに晴れ、青空と白い雲が高く広がっていた。背の高い木々が木漏れ日を落とし、芝生の上には影の斑が踊る。土と草の匂いが濃く、東京では決して吸えない新鮮な空気が身体を満たしていく。二人は木陰を歩き、遠くで揺れる白いアジサイの花を眺めたり、手を繋いだまま小さな池のほとりまで行ったりした。薫は時折、無邪気な声で花の名前を訊ねたり、草の上にしゃがみ込んで小さな昆虫を追いかけたりする。礼司はそんな薫の後ろ姿を、何度も眺めていた。「礼司さん、あれ、見て」薫が指さした先には、細い枝の先にとまった青いトンボ。二人はそっと近づき、息をひそめて見つめる。トンボは羽根を微かに震わせ、きらめく光の粒のように見えた。「きれいだな…」礼司がつぶやくと、薫は振り向いて、太陽の光に細い睫毛を輝かせて微笑む。その笑顔は幼いころの無垢さをそのまま残しながらも、どこか大人の影を漂わせていた。ふと、薫は礼司の手を引き、芝生の上に座り込む。「ここ、気持ちいいよ」薫が膝を立てて空を仰ぎ、礼司も隣に腰を下ろす。風が頬をなでていく。空には白い雲がゆっくりと流れ、木漏れ日がふたりの膝の上で踊る。どこかで小
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-17
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67.熱に溶ける午後

寝室のカーテンは薄く閉じられ、午後の光がその布地を透かして床とベッドに柔らかな影を落としていた。窓の外では、蝉の鳴き声が遠く近く重なり合い、夏の避暑地の静けさに、湿り気を含んだ熱い空気がじんわりと満ちている。けれどその静けさは、ふたりの身体が触れ合う瞬間には、まるで異次元の密室のように思えた。薫はベッドの端に座り、素足を床につけている。カーテン越しの光に照らされて、腕や頬がかすかに白く浮かび上がる。礼司はその向かい、ベッドの背に片肘をつき、黙ったまま薫の横顔を見つめていた。しばらくの沈黙。風の音と蝉の声だけが、世界の全てを支配していた。外では誰かが通りを歩く気配がしても、この部屋には届かない。薫がゆっくりと顔を向ける。まっすぐに礼司の目を見つめ、そのまま手を伸ばす。指先が礼司の頬にそっと触れた。「どうしたの?」礼司が微笑むと、薫は少しだけ息を詰めるようにして、首を振る。「…なんでもない。なんでもないのに、こうしていたくなるの」指先は礼司の頬から顎、喉元へと滑り、やがて鎖骨の上で止まる。薫の手のひらは汗ばんでいて、その熱が礼司の肌を伝っていく。礼司はゆっくりと薫の手首を握り返し、指を絡める。「薫」礼司の声がかすかに震える。呼吸が浅くなり、胸が上下する。薫はそのままもう一度、礼司の名を呼び返した。「礼司さん」名前を呼ぶことが、ふたりの距離を一気に溶かしてしまうようだった。礼司は薫の肩にそっと腕を回し、髪に顔を埋める。柔らかな香りが鼻先に触れ、髪を伝って薫の体温が礼司の額に移る。薫は礼司の背中を撫で、しなやかな指がゆっくりとシャツの上から肩甲骨をたどる。「好きだよ」その一言が、午後の光の中に滲んでいく。薫は目を閉じ、唇を重ねた。重なる唇は乾いていて、けれどすぐに湿った熱に変わっていく。薫が背中に腕を回し、礼司はその細い体をしっかりと引き寄せる。唇と舌が触れ合い、互いの呼吸が次第に速くなっていく。「…大丈夫?」薫が小さな声で問う。「大丈夫だよ」
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-18
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68.黄昏のざわめき

夕暮れの気配が別荘の部屋の隅々に忍び寄っていた。昼間の熱と静けさは薄れて、窓ガラスには淡いオレンジ色の光が伸び、庭の木立が長い影を作っている。薫はソファに座り、足を軽く抱えたまま読書をしていた。ページをめくる指の先に、昼間の余韻がまだほのかに残っている。礼司は窓際に立ち、外の空を眺めている。雲の切れ間から射す光が、葉の間を縫ってまぶしく揺れる。部屋の奥には、昼食後に飲みかけの冷めた紅茶が置かれている。小さな食器棚の上に、東京から届けられたばかりの封筒が無造作に積まれていた。そのうちの一通を、礼司は何気なく手に取る。白い封に記された控えめな筆跡。差出人は早川家の執事。普段なら屋敷での用事や些細な報告が書かれているだけだが、この日、礼司はなぜかその手紙を開かずにはいられなかった。薄い便箋を抜き取り、礼司は窓辺の柔らかい光の中で目を通す。丁寧な文面の中に、時折、妙な引っかかりがあった。表向きは淡々とした近況報告。けれどそこには、都心で語られている噂話が遠回しに織り込まれていた。「最近、町中でご主人様や奥様のことが話題になることが増えております。どうぞご自愛ください」──それは、まるで何気ない季節の挨拶のような一文だったが、礼司には不自然な重さが感じられた。礼司は手紙を折りたたみ、何気なく薫に目を向けた。薫は気配に気づき、本の上からゆっくりと顔を上げる。窓の外では鳥が一羽、低く鳴き、薄闇があたりにしみ込んでいく。「何か、あった?」薫の声はいつもより低く、小さかった。礼司はしばらく黙っていたが、ゆっくりと封筒をテーブルに置いた。その仕草だけで、部屋の空気が微かに変わる。沈黙の中、壁時計の針の音が大きく聞こえる。「……東京で、少し妙な話が流れているらしい」礼司の言葉は静かだった。だがその奥底には、どこか凍りついたような不安が隠れていた。薫は目を伏せ、膝に置いた手をきゅっと握りしめる。昼間の明るさ、午後の熱と忘我の甘美さが、ゆっくりと遠のいていくのがわかった。「……奥様のこと?」「それもあるし、家のことも」礼司は、
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-19
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69.夜の帳、最後の楽園

夜の帳が濃く、深く、別荘をすっぽりと包み込んだ。日が沈むと、山の静けさはいっそう際立ち、どこか遠いところで蛙や虫の声が細く続いている。窓の外には、もう他に誰もいない。闇は冷たいが、寝室には灯りが落とされ、淡いシーツの上には微かなぬくもりだけが漂っていた。薫は寝台の端に座り、胸の奥に宿った重さと、肌の表面に浮かぶかすかな熱を感じている。昼間、礼司から受け取った手紙──東京から届いた“ざわめき”の気配──が、いまだ頭の隅に残っていた。しかしその不安は、夜が深まるほどに、逆に現実から遠ざかっていく気がした。部屋には礼司の気配だけが満ち、時計の針の進む音すら、今は遠くに聞こえる。礼司はシャツのボタンを外したまま、ベッドサイドに立ち、窓の向こうの闇をじっと見ていた。何も映らない硝子戸、そこに微かな自分の影だけが揺れる。遠い東京、家族、名家、噂話、美鈴の静かな瞳──あらゆるものが、窓の外の闇の中に溶けて消えていく気がする。いま自分は、ほんの一瞬だけ別の世界にいる。それが、薫と出会ってから何度も夢見てきた「安息」の形なのかもしれない。ベッドの上から薫がそっと呼びかける。「礼司さん」その声には、不安と期待、切なさが入り混じっている。礼司は振り返り、ゆっくりと薫の隣に腰掛けた。シーツの皺が小さな波紋のように揺れる。ふたりの手がそっと重なった。「ここにいるよ」礼司が言った。その声は低く、震えていた。現実の重さ、未来への恐れ、東京で囁かれる噂──すべてがこの夜だけは、どこか遠い場所の出来事に思えた。「ずっと、ここにいてほしい」薫がそう囁いた瞬間、礼司は薫の手を握りしめ、引き寄せる。その動作は激しくも優しかった。唇が触れ合うと、肌の奥底から熱がせり上がってくる。現実のざわめきも、未来の不安も、ふたりの呼吸と鼓動の間に押し流されていく。薫の髪を撫でる礼司の手が、首筋、肩、胸元へと迷いなく進んでいく。薫は目を閉じ、息を詰めながらその愛撫を受け止めた。肌の上をなぞる指先は、まるで言葉のように薫の全身を包む。昼間の明るさも、夕方の不穏なざわめきも、すべてがいまは闇に沈み、ふたりだけの静かな世界が広がっている。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-20
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70.ざわめきの手紙

朝の光は、まだ白い霧のなかに鈍く溶けていた。カーテン越しの薄明かりがダイニングの古い木のテーブルに斑に落ちている。避暑地の静かな別荘。壁の向こう、森の奥からは小鳥の声がかすかに聞こえ、窓辺をすべる冷たい風が薫の頬を撫でていく。眠りの名残を引きずったまま、薫はそっと礼司の横顔を見る。礼司はまだ何も口にしていなかった。カップの中のコーヒーからはかすかな湯気が立ちのぼり、その香りがわずかに部屋を満たす。ふたりきりの朝は、東京での日々のざわめきとは無縁だった。時折、薫の長い睫毛が揺れる音まで聞こえそうな静けさが、テーブルの上の花瓶や、コーヒースプーンの銀の冷たさにまで染みこんでいるようだった。だが、その静寂は一枚の封筒によってあっけなく破られた。礼司は、届いたばかりの手紙を何度も見返していた。封筒の表に記された執事の流麗な文字。その紙が差し出された瞬間から、空気の温度が変わった気がした。薫は、礼司がわずかに強張った指で封を切る様子を、胸の奥に冷たい水を注がれるような感覚で見ていた。手紙を開いた礼司のまなざしが、一行ごとに深く沈んでいく。蝋引き紙の上を滑る目が、ゆっくりと内容を追っていくたび、背筋にざらりとしたものが這い上がる。薫は、礼司の手から視線を上げ、ふと窓の外を見た。霧のむこうに薄く太陽の気配が浮かびはじめている。けれども、朝の静けさはもう二度と戻らないのだと、どこかで感じていた。礼司は長い沈黙のあとで、ぽつりと呟いた。「東京が騒がしくなってきたようだ」声は低く、消え入りそうなほど弱い。薫はその声に何かを覚悟し、そっと礼司の手の甲に自分の指先を重ねた。礼司の指は冷えていた。だが、その冷たさの向こうに、熱いものが揺れているのを薫は感じた。礼司はゆっくりと手紙を差し出した。薫は受け取ると、丁寧に行を追いはじめる。執事の筆致は、端正で感情を抑えたものだったが、文面の行間からは、ただならぬ緊張が滲み出ていた。早川家のこと、美鈴のこと、そして最近は礼司の名を挙げて何やら不穏な噂が広がっている、といった内容が、淡々と記されている。父・惣右衛門の苛立ちと、事態の深刻さを諭すような語尾。「美鈴さまのことも
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-21
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