薫は、ふたりきりになったアトリエの仮眠用ベッドの上で、静かな緊張を全身に纏っていた。天井の裸電球が薄く滲んだ光を落とし、室内は外界と切り離された密やかな闇に沈む。雨上がりの夜の名残が、窓ガラス越しにうっすらと硝子の結露を残し、その水滴が微かに灯りを吸い込んでいる。礼司は薫の背中をやさしく抱き寄せ、薫は自分がその腕の中にすっぽりと包まれていることを、呼吸のたびに痛いほど実感していた。礼司の掌が薫の肩越しに回り、布越しに僅かな熱を移してくる。その温もりは、今にも壊れてしまいそうな硝子細工のように、薫の心をきしませる。けれど、今夜はただ「受け入れる」のではなく、何かを返したいという思いが、薫の胸を密かに膨らませていた。緊張と不安が波のように揺れ動きながらも、薫はそっと自分から礼司の指先を辿る。初めて自ら手を伸ばす瞬間、心臓が跳ね上がる音が耳の奥で爆ぜた。薫の手が礼司の胸元に触れ、その鼓動を指先で感じ取る。布地の下で脈打つ熱と、微かに震える皮膚。その振動が、自分の中の恐れやためらいを少しずつ溶かしていく。薫は静かに息を吸い込む。礼司の髪から、夜の雨を思わせる淡い湿り気と、体温が混ざった匂いが漂う。仄かな香りに包まれ、薫はふいに自分の存在が礼司の腕の中で少しずつ溶け出していくような感覚を覚える。ふたりの間に言葉はなかった。ただ、薫はこれまでのように礼司に身を任せているだけではなく、今度は自分からも応えたいと願っていた。薫の手が礼司の頬に滑り、髪にそっと指を差し入れる。その指先が触れた瞬間、礼司の身体が僅かに揺れる。薫の中で、小さな誇らしさと戸惑いが同時に芽生える。礼司の肌に触れることで、自分が彼に何かを与えられているのだと実感した。礼司は目を閉じ、静かな呼吸を整えている。薫はその横顔を間近で見つめる。額の生え際から頬骨の稜線、唇の薄さ、まぶたの下の薄い青い血管。今まで何度も見てきたはずの顔が、今夜は別のものに見える。触れることで初めて分かる熱。愛しいと思う心が、薫の中で静かに大きくなっていく。やがて礼司が目を開く。薫と目が合う。その瞬間、硝子越しに光が差し込むような錯覚に包まれ、薫は視線を逸らすことができなくなる。礼司の目は、いつになく柔らかく、けれどどこか脆さも孕んでいた。
Last Updated : 2025-10-12 Read more