All Chapters of 光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語: Chapter 61 - Chapter 62

62 Chapters

61.揺れる硝子の吐息

薫は、ふたりきりになったアトリエの仮眠用ベッドの上で、静かな緊張を全身に纏っていた。天井の裸電球が薄く滲んだ光を落とし、室内は外界と切り離された密やかな闇に沈む。雨上がりの夜の名残が、窓ガラス越しにうっすらと硝子の結露を残し、その水滴が微かに灯りを吸い込んでいる。礼司は薫の背中をやさしく抱き寄せ、薫は自分がその腕の中にすっぽりと包まれていることを、呼吸のたびに痛いほど実感していた。礼司の掌が薫の肩越しに回り、布越しに僅かな熱を移してくる。その温もりは、今にも壊れてしまいそうな硝子細工のように、薫の心をきしませる。けれど、今夜はただ「受け入れる」のではなく、何かを返したいという思いが、薫の胸を密かに膨らませていた。緊張と不安が波のように揺れ動きながらも、薫はそっと自分から礼司の指先を辿る。初めて自ら手を伸ばす瞬間、心臓が跳ね上がる音が耳の奥で爆ぜた。薫の手が礼司の胸元に触れ、その鼓動を指先で感じ取る。布地の下で脈打つ熱と、微かに震える皮膚。その振動が、自分の中の恐れやためらいを少しずつ溶かしていく。薫は静かに息を吸い込む。礼司の髪から、夜の雨を思わせる淡い湿り気と、体温が混ざった匂いが漂う。仄かな香りに包まれ、薫はふいに自分の存在が礼司の腕の中で少しずつ溶け出していくような感覚を覚える。ふたりの間に言葉はなかった。ただ、薫はこれまでのように礼司に身を任せているだけではなく、今度は自分からも応えたいと願っていた。薫の手が礼司の頬に滑り、髪にそっと指を差し入れる。その指先が触れた瞬間、礼司の身体が僅かに揺れる。薫の中で、小さな誇らしさと戸惑いが同時に芽生える。礼司の肌に触れることで、自分が彼に何かを与えられているのだと実感した。礼司は目を閉じ、静かな呼吸を整えている。薫はその横顔を間近で見つめる。額の生え際から頬骨の稜線、唇の薄さ、まぶたの下の薄い青い血管。今まで何度も見てきたはずの顔が、今夜は別のものに見える。触れることで初めて分かる熱。愛しいと思う心が、薫の中で静かに大きくなっていく。やがて礼司が目を開く。薫と目が合う。その瞬間、硝子越しに光が差し込むような錯覚に包まれ、薫は視線を逸らすことができなくなる。礼司の目は、いつになく柔らかく、けれどどこか脆さも孕んでいた。
last updateLast Updated : 2025-10-12
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62.指先で語る愛

礼司の手のひらが、薫の肌をなぞるたび、微かな熱が薫の奥底にまで染みわたっていく。夜のアトリエには、遠い街灯りと雨のしずくが揺れる窓明かりだけが灯り、ふたりの体温と吐息だけが小さな世界を作っていた。布団の上、灯りの下、薫は自分の手のひらをゆっくりと開く。礼司の大きな手に重ね、指を絡める。その指先ひとつひとつが、これまで触れたことのないほど柔らかで、確かな温もりを持っていた。「薫」礼司の低い声が耳元に落ちる。名を呼ばれるたび、薫は自分がこの世のすべてを許されるような気がした。けれど今夜は、それ以上に、自分の中に深く沈んでいくものがある。礼司の指先が頬に触れ、あごのラインをゆっくり辿る。薄闇の中でその動きはまるで波紋のように広がり、薫の体の奥で静かに揺れる。唇の端がそっと持ち上げられる。次いで、礼司の親指が薫の下唇をなぞった。くすぐったいほどの刺激に、薫は自然と瞼を閉じる。視界が暗くなると、他の感覚が研ぎ澄まされる。礼司の呼吸、衣擦れの音、汗ばむ掌の微かな湿度。自分の首筋に沿って降りてくる指先は、ひやりとした緊張の残り香と、じんわりとした快楽の両方を同時に生み出していた。薫は、これが愛されているということなのだと、はじめて身体で知った。言葉はない。指先の圧、体温、吐息の強さ。たったそれだけで、これほどまでに自分が満たされていくのかと驚く。礼司の指が鎖骨をなぞり、肩の骨を優しく指先で描いていく。自分の身体の線が、礼司によって確かめられていく。その度ごとに薫の中で何かが溶けていく。息を詰めるような静けさのなか、薫は自分の指で礼司の腕を辿り、肘から手首へ、そしてその指先にそっと口づけた。細く息を吐きながら、礼司がわずかに声を洩らす。その小さな反応が、薫に安堵をもたらす。礼司もまた、この時間に酔っている。自分だけではないのだと分かると、薫はさらに大胆に、礼司の胸元に顔を埋める。「…好きです」薫はほとんど夢のなかのように、その言葉を落とす。礼司の手が背中をゆっくり上下し、衣服越しに撫でてくる。その熱は、指の先からじわじわと薫の心臓にまで染み込んでいくようだ。薫の呼吸が浅くなり、身体の芯が緩んでいく。礼司の親指が肩甲骨のくぼみに触れ、指で円を描くたび、薫
last updateLast Updated : 2025-10-13
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