明治末期。名門財閥の御曹司として将来を約束された青年・礼司は、形式だけの結婚に身を置きながらも、空虚な日々を送っていた。 そんな彼の前に現れたのは、幼き日を共に過ごした、画家・薫。涼やかな眼差しと繊細な手を持つ薫との再会は、長く閉ざされていた心の扉を静かに揺らしていく。 光と影、秩序と衝動。 芸術の世界に身を投じる薫と、家という檻に縛られた礼司。 交わらぬはずの二人が、やがてひとつの情熱へと向かうとき―― その選択がもたらすものは、破滅か、それとも救いか。 誰にも言えない想いが、キャンバスに浮かび上がる。 時代のしがらみと心の真実の狭間で揺れる、ふたりの物語。
View More窓の向こうに広がる庭が、夕刻の雨にしっとりと濡れていた。
枝葉に残る雫が風にゆれ、滴が静かに石畳を打つ。晩夏の空気には微かに湿った土と落ち葉の匂いが混じり、和洋折衷の木造館に沁みこんでいた。薫は白磁のカップを手にしたまま、書きかけの手紙を睨むように見つめていた。インクの香りがまだ鼻をくすぐる。文面は途中で止まっている。もう書けることなどなかった。これ以上続ければ、言葉ではなく感情があふれてしまいそうだった。
彼はゆっくりと立ち上がり、室内の桐箪笥の前で足を止めた。鏡の中に映る自分は、パリを出たあの日と何も変わっていないように見えた。けれど、確実に違っている。肌の下に沈んだ時間。手の奥に残った熱。描き切れなかった輪郭。
桐箪笥の引き出しを開ける。黒地に銀の刺繍が施された羽織を指でなぞったあと、となりに畳まれている洋装にも目をやる。今夜の夜会。どちらを纏うべきか、心はまだ決めかねていた。
「和装で行けば、父は満足するだろう。でも…」
薫は手を止めた。
そのときふいに、扉の外から控えめなノックが響いた。
「薫様、お支度のお手伝いに参りました」
静かに開かれた扉の隙間から、若い女中が顔をのぞかせた。
「ありがとう。…少し、時間をくれますか」
「はい。お呼びつけくださいませ」
扉が静かに閉まると、室内は再びしんとした空気に包まれた。
薫は窓辺に歩み寄り、濡れた庭を見下ろした。軽井沢の夏は、東京よりいくらか涼しく、夕立のあとは特に空気が澄んでいる。石灯籠の上に溜まった雨がぽたりと落ちた。
その瞬間、ふとある面影が蘇った。
あの人も、あの石灯籠のそばで立っていた。少年だった頃、まだ声変わりもしていなかった自分の手を、あの人は軽く握って笑っていた。
「雨が降る前って、風の匂いが違うだろう。…ほら、こうやって吸ってみな」
ひとまわり以上大きな手のひらと、低く響く声。兄のようでいて、父よりも柔らかく、けれど背筋を伸ばさせられる何かがあった。
その声が、明確に自分の記憶に残っている。身体の奥に染み込んで、絵筆の動きよりもずっと先に浮かび上がることさえある。
「…早川、礼司」
名を声に出すと、胸の奥にかすかな痛みが走った。
四年ぶり。いや、正確には四年と五ヶ月。薫が日本を離れ、パリでの生活を始めてから、それだけの月日が経っていた。絵を学び、裸を描き、人と触れ、恋を知った。欲望にのまれ、また置いてきたものもある。けれど、そのどれにも、礼司の影は薄くなかった。
薫は羽織をゆっくりと取り出し、左肩にかけた。絹が肌に滑り、身体が静かに緊張する。姿見の前に立ち、襟元を整える。
目元の涼しさと、結った黒髪が映る自分の姿は、もはや子どもではなかった。けれど、礼司が今も自分を「弟のような存在」として見るのなら、それを覆す準備はしておかなければならない。
そう思うことが、なぜこんなにも呼吸を浅くさせるのか。
薫は羽織を脱ぎ、次に洋装のジャケットに手を伸ばした。やわらかく仕立てられた黒い布は、パリで仕立てたものだ。体の線を拾いすぎないよう細工が施されている。礼司の前で、自分を誇張することはしたくなかった。けれど、隠す必要もない。
今夜は、絵ではなく、生身で向き合う夜になる。
「…お呼びでしょうか、薫様」
再び控えめに開いた扉から、今度は化粧道具を持った使用人が入ってきた。
「お願いします。軽くで」
鏡台の前に座ると、女中が手慣れた様子で髪を整えていく。結い上げられるたびに、襟足に風が通る。香油のやわらかな香りが広がった。
「皆様、薫様がお戻りになるのを楽しみにしておりました」
「そうですか」
「お顔立ちも、すっかりご立派に…」
薫はその言葉に、ほんの一瞬だけ微笑んだ。けれど、女中が視線をそらしたのを見逃さなかった。おそらく彼女の中にある「男性」としての薫への戸惑い。過去の少年時代を知っている者ほど、それに混乱するのだ。
自分が「女に見える」と言われたことは一度や二度ではない。パリでもそうだった。けれど、それに怒りはなかった。ただ、それが人の「視線」の持つ意味だということを、今では理解している。
礼司は、どう見るのだろうか。
その問いは、深く沈んでいたはずの何かを掘り起こす。身体の奥に残る痛み。触れられたことのない皮膚が、まだそこにある。
「仕上がりました」
鏡の中の自分は、無表情だった。何も映していないようでいて、その奥に何層も感情が沈んでいる。まるで、描きかけの絵のようだった。
薫は立ち上がり、そっと窓辺に戻った。庭に出ると、地面に残った雨の痕が、まるで過去の記憶のように静かに光っていた。
石灯籠の前で、風がまた枝を揺らした。
「…行こう」
礼司がどんな顔をするのか、何を言うのか、想像しても意味はない。けれど、あの人の視線が、薫に何を思い出させるかは、もう知っている。
硝子窓の向こうに、薫が映るならーー礼司の心も、きっとそこに映る。
黒いジャケットの裾を払うようにして、薫は静かにその場をあとにした。
その足取りに、もう少年の影はなかった。 ただ、一人の男が、自分の過去と未来を揺らす誰かに向かって歩いていく音だけが、床に落ちていった。薫は、ふたりきりになったアトリエの仮眠用ベッドの上で、静かな緊張を全身に纏っていた。天井の裸電球が薄く滲んだ光を落とし、室内は外界と切り離された密やかな闇に沈む。雨上がりの夜の名残が、窓ガラス越しにうっすらと硝子の結露を残し、その水滴が微かに灯りを吸い込んでいる。礼司は薫の背中をやさしく抱き寄せ、薫は自分がその腕の中にすっぽりと包まれていることを、呼吸のたびに痛いほど実感していた。礼司の掌が薫の肩越しに回り、布越しに僅かな熱を移してくる。その温もりは、今にも壊れてしまいそうな硝子細工のように、薫の心をきしませる。けれど、今夜はただ「受け入れる」のではなく、何かを返したいという思いが、薫の胸を密かに膨らませていた。緊張と不安が波のように揺れ動きながらも、薫はそっと自分から礼司の指先を辿る。初めて自ら手を伸ばす瞬間、心臓が跳ね上がる音が耳の奥で爆ぜた。薫の手が礼司の胸元に触れ、その鼓動を指先で感じ取る。布地の下で脈打つ熱と、微かに震える皮膚。その振動が、自分の中の恐れやためらいを少しずつ溶かしていく。薫は静かに息を吸い込む。礼司の髪から、夜の雨を思わせる淡い湿り気と、体温が混ざった匂いが漂う。仄かな香りに包まれ、薫はふいに自分の存在が礼司の腕の中で少しずつ溶け出していくような感覚を覚える。ふたりの間に言葉はなかった。ただ、薫はこれまでのように礼司に身を任せているだけではなく、今度は自分からも応えたいと願っていた。薫の手が礼司の頬に滑り、髪にそっと指を差し入れる。その指先が触れた瞬間、礼司の身体が僅かに揺れる。薫の中で、小さな誇らしさと戸惑いが同時に芽生える。礼司の肌に触れることで、自分が彼に何かを与えられているのだと実感した。礼司は目を閉じ、静かな呼吸を整えている。薫はその横顔を間近で見つめる。額の生え際から頬骨の稜線、唇の薄さ、まぶたの下の薄い青い血管。今まで何度も見てきたはずの顔が、今夜は別のものに見える。触れることで初めて分かる熱。愛しいと思う心が、薫の中で静かに大きくなっていく。やがて礼司が目を開く。薫と目が合う。その瞬間、硝子越しに光が差し込むような錯覚に包まれ、薫は視線を逸らすことができなくなる。礼司の目は、いつになく柔らかく、けれどどこか脆さも孕んでいた。
夜明け前の寝室は、息を潜めたように静まり返っていた。障子越しの闇はまだ濃く、空がほんのりと白み始める気配すら見えない。掛け布団の下に潜むぬくもりだけが、現実の輪郭を辛うじてつないでいた。美鈴は仰向けのまま、まぶたを閉じても一向に眠気が訪れない。身じろぎさえためらわれるような沈黙の中で、彼女は呼吸を整えながら、遠い昔の夢のような安らぎを思い出していた。あのころの自分は、ただ夫の隣で目を閉じるだけで未来がすべて約束されていると信じていた。いま、布団の下で握りしめた自分の指は冷たく、身体の中心にぽつりと穴が開いてしまったような感覚に襲われている。隣の布団には、礼司が背を向けて静かに横たわっていた。その肩越しに、ゆるやかな呼吸の起伏が見て取れる。眠っているのか、眠ろうとしているだけなのか。どちらにせよ、彼の心が自分のほうへ向いていないことだけは、確かな直感で分かっていた。時折、外の木々が風に揺れるかすかな音が、夜気とともに障子の隙間から流れ込む。美鈴は、手をそっと布団の上に置き、静かにその温度を感じる。やがて目を開けて天井を見つめた。暗闇の中で、夫婦という形の輪郭がぼやけていく。家のために、妻として、嫁として、過ごしてきた日々。その先に“未来”と呼べるものは本当にあるのだろうか。心の中でそっと呟く。「私は、もう知っているのです」——昼間、礼司に告げたあの言葉。真実に形を与えたことで、苦しみと同時に奇妙な解放感も訪れていた。何を選ぶのか、もう自分では決められない。だから、美鈴は静かにその決定を夫に託すことにした。ただ、最後に残された「信頼」だけを手放さずに。ふいに、礼司が寝返りを打つ音が聞こえた。美鈴は息を止め、彼の背中を見つめる。寝具の擦れる音、浅い呼吸、そしてたったいま、夫の視線が壁の向こう側にあることを、痛いほど感じていた。美鈴は自分の心臓の音が聞こえてしまうのではないかと不安になる。その音に耳を澄ませると、孤独と、ひりつくような諦念が体の内側に広がっていった。礼司もまた、まどろみのふりをしながら眠れていなかった。眼を閉じるたびに、父の言葉と薫の指先、そして美鈴の微笑みが交互に浮かんでは消える。「家のために生きる」ことが、
夜の帳が下り、早川家の廊下にはわずかな足音さえ響かない。家人はすでに眠りについたはずだったが、礼司の部屋の障子だけは、深い闇の中にわずかに灯りを滲ませていた。書斎の机上には油を満たした行燈が置かれ、細く揺れる炎が、書付や本の端、手紙の束、礼司の硬く握られた手の甲に長い影を落としていた。礼司は椅子の背に身をあずけ、天井を仰ぐ。窓の外からは虫の音さえ聞こえず、ただ心臓の鼓動と、呼吸音だけが静かに部屋を満たしている。昼間、父の口から発せられた「家」の言葉が、いまも耳の奥にまとわりついて離れない。家督、血筋、跡継ぎ——そのいずれもが、今の自分にとっては氷のように冷たく、重い鎖となって背中に絡みついている。書斎の壁には家族写真が静かに並ぶ。義父の厳格な横顔、美鈴の優しい微笑み、自分の静かな顔。だがそのどれもが、いまの自分とはまるで別人のようだった。あの日、父の静かな口調で語られた言葉が、肉体の芯まで染み渡っている。「家の名は、血でつながれるものだ」礼司は、その言葉を何度も反芻しながら、机の上に置かれた手紙の束を指先でなぞる。筆先が紙に引っかかる感触、乾いた羊皮紙の匂い。指の間に残るのは、ただ“家”という呪縛の手応えだけだった。けれど、意識の底には、別の熱が絶えず燃え続けていた。薫。柔らかな髪、無垢な瞳、火照った唇、細く長い指先。あの夜の温度と香り、互いの肌が触れ合うたびに確かめ合った快楽の残像が、心の隙間に幾重にも重なっている。自分はどちらへ進むべきなのか——その答えは、夜が更けるほどに曖昧になる。家の名と、個人の幸福と。どちらかを選べば、必ず何かを切り捨てることになる。その思いが、礼司の胸を何度もえぐる。障子の隙間からわずかに流れ込む夜気が、足元にまとわりつく。白椿の花瓶が机の隅に置かれており、その花弁の影が灯火の揺れとともに、壁に大きく伸びていた。揺れる花の影と同じように、礼司の心も、強い葛藤に飲み込まれていく。父の言葉が、再び頭の中で甦る。「家を絶やすな」——それは脅しではなく、静かな命令だった。美鈴の苦悩を思うたび、礼司は自分の不実を呪いたく
障子を隔てて父の足音が遠ざかると、居間の空気はわずかに緩んだ。しかし、それは息苦しさからの解放ではなく、芯まで沁み込む重い余韻だった。食卓に残されたふたり、礼司と美鈴は、まるで細く裂けた畳の目地の上にそれぞれ腰かけているような感覚だった。膳の上の湯飲みからは、まだ微かに湯気が立ちのぼっている。美鈴は正しい所作で箸を置き直し、両手を揃えて膝の上に置いた。その手指には朝の冷気がしみていた。礼司は目の前の白米に箸を伸ばすが、米粒がやけに遠く思える。何か言葉を発すべきか、あるいは何も言わずにおくべきか――そのどちらも、今日の自分にはできない気がした。静けさの中、食器の縁が微かに合わさる音がした。美鈴が茶碗を持ち上げるとき、その指先の動きがほんの少し震えていることに礼司は気づく。それでも美鈴は視線を上げない。ふたりの目線は、食卓の上に置かれた器や箸や、わずかに残った味噌汁の色にだけ向けられている。「……冷めてしまいましたね」美鈴がぽつりと呟く。けれど、その声には普段の柔らかさがなかった。微かな濁りが混じり、部屋の隅に響いて消える。「……ああ」礼司は短く返す。続けて言葉を探したが、唇はただ無意味に動くだけだった。美鈴は少し首を傾けるが、視線はまだ膝に落としたままだ。二人の間には、明確な“問い”がある。けれど、それを口にした途端、何かが取り返しのつかない形で崩れ落ちてしまう。そんな予感が、静かに食卓の隅を満たしていく。庭の方から、雨粒が縁側の木を打つ音が聞こえてくる。今日は薄曇りで、障子越しに淡い光が部屋を満たしているが、その光は決して温かくなかった。どこか、すべてが灰色に沈んでいる。美鈴はふと、障子の向こうに揺れる葉陰を見つめる。その瞳は深い湖面のように静かで、底知れぬ思いを湛えていた。「……お義父様のこと、お気になさらないでください」ようやく美鈴が言葉を紡いだ。だが、その声音にはどこか、自分に言い聞かせる響きがあった。「俺は……」礼司は続けかけて、
障子越しの光が居間の畳に淡く落ちている。早朝の家は、まだ冷え残った空気に包まれ、炊き立ての米の湯気と、味噌汁の香りが静かに広がっていた。食卓には三つの膳が並び、その中心に座る早川惣右衛門の背筋は、朝の空気よりもさらにぴんと張りつめていた。惣右衛門は無駄な言葉を嫌う人間だ。その沈黙には、いつも何かを問う鋭さがあった。今日の朝食も、箸の音と茶碗の音、そして微かな湯気の立ち上る音だけが流れている。美鈴は礼司の隣に控えめに座り、白椿のように楚々とした佇まいで、静かに膳を進めていた。「……最近、屋敷が静かだな」惣右衛門の声が、障子の外の風よりも低く重く響いた。その一言で、食卓の空気が一段、重たくなる。礼司は箸を置く動作を一瞬だけ止め、すぐに持ち直す。美鈴は変わらぬ微笑みを唇の端に浮かべたまま、小さく首を傾ける。「ご不自由をおかけしていませんか」美鈴の声は柔らかく、だが芯のあるものだった。惣右衛門はその声に直接返すことなく、ゆっくりと茶をすする。「家というのは、ただ静かに在ればよいというものでもない。……賑わいがあってこそ、血が通う」それはつまり、子のいないこの家を指していることは明白だった。礼司は言葉を探して喉を動かしたが、結局何も出てこなかった。惣右衛門は視線を正面に据え、少しだけ顔を上げる。「礼司。お前もそろそろ二十五歳に近い。……家の跡目のこと、考えたことはあるか」その問いは、まるで釘を打ち込むように、静かだが重くのしかかる。美鈴の手がわずかに震えたのを、礼司は横目で見て取った。「……はい」礼司は小さく答えた。それだけで胸が締め付けられる。「美鈴も、体調はどうだ。最近は無理をしていないか」惣右衛門は美鈴にも視線を移す。その目には、情よりも家を存続させる意志のほうが強く宿っている。美鈴は微笑みを崩さず、丁寧に膝を揃えた。「ご心配には及びません。身体は、元気でございます」その声には揺らぎがない。だが、心の内側では、どこかに
朝の光が障子を透かし、廊下にやわらかな四角い模様を落としていた。縁側の木の床が陽射しで温まると、冷えた空気のなかに新しい一日の気配が満ちてくる。美鈴は早くから起き出し、台所で湯を沸かし、鍋に出汁を張り、味噌を溶いた。昨夜の雨は上がって、軒先から水滴がぽたりぽたりと落ちている。ふたり分の朝食を用意しながら、美鈴は動作ひとつひとつに注意深さを込めた。箸の先に鮭をよそい、湯気立つご飯を椀に盛る。家族のために何千回も繰り返してきた動きだが、今朝はそのひとつひとつが新しい意味を持っていた。やがて、礼司が静かに廊下を歩いてきた。昨日の夜の面影をまだ引きずったまま、顔色は少し冴えない。だが、その歩みに決意のようなものが宿っているのを、美鈴はすぐに感じた。ふたりは何も言わずに食卓につき、淡い朝の光に包まれる。湯気とともに立ち上る味噌の香りが、静かな部屋にやさしく広がる。「いただきます」礼司の声が、低く響く。美鈴はその声に、初めてほんの小さな安堵を覚えた。ふたりの箸の音だけが、食卓の上に規則正しく響く。時折、鳥の声が遠くから届く。椿の枝が風に揺れて、葉の影が障子に映る。美鈴は、向かいに座る礼司の横顔をじっと見つめていた。昨夜のすべてを経て、もう自分が「妻」であることも、「ひとりの女」であることも、恐れずに受け止められるようになっていた。「礼司さん、今日は……お帰りは遅くなりますか」ほんのりとした声で、美鈴は尋ねた。礼司は一瞬、箸を止めてから、「……多分、遅くなると思う」と、静かに答える。その声に嘘はなく、むしろどこか澄んだ響きがあった。「分かりました。お気をつけて」美鈴はそれ以上、何も問わなかった。疑いも、詮索も、求めなかった。ただ、夫が出発するこの朝のすべてを、心の奥深くで見届けている。朝食を終え、食器を片付ける音が台所に移る。湯のみをすすぎ、手を拭うと、朝の光が硝子越しに差し込んだ。美鈴は窓際に立ち、庭の椿の白い花に目を向ける。昨日までの自分なら、夫を問い詰めることでしか埋まらない隙間があったはずだ。だが今は、違っていた。全てを知
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