光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語

光を描くひと、家を継ぐひと~明治を生きたふたりの物語

last updateปรับปรุงล่าสุด : 2025-11-24
โดย:  中岡 始ยังไม่จบ
ภาษา: Japanese
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明治末期。名門財閥の御曹司として将来を約束された青年・礼司は、形式だけの結婚に身を置きながらも、空虚な日々を送っていた。 そんな彼の前に現れたのは、幼き日を共に過ごした、画家・薫。涼やかな眼差しと繊細な手を持つ薫との再会は、長く閉ざされていた心の扉を静かに揺らしていく。 光と影、秩序と衝動。 芸術の世界に身を投じる薫と、家という檻に縛られた礼司。 交わらぬはずの二人が、やがてひとつの情熱へと向かうとき―― その選択がもたらすものは、破滅か、それとも救いか。 誰にも言えない想いが、キャンバスに浮かび上がる。 時代のしがらみと心の真実の狭間で揺れる、ふたりの物語。

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บทที่ 1

1.硝子窓の向こうに君がいた

氷室彩葉(ひむろ いろは)は力なくベッドに横たわり、冷たい器具が、鈍く痛む下腹部を滑っていく感触に耐えていた。

「赤ちゃんは……大丈夫ですか……?」震える声で尋ねると、医師は憐れむように溜息をついた。

「切迫流産です。残念ながら……お子さんの心音は、もう聞こえません」

その瞬間、彩葉はシーツを強く握りしめた。心臓が氷の手で鷲掴みにされたように、軋む。

「仮に心音が確認できたとしても、出産は推奨できませんでした。火災で大量の有毒煙を吸い込まれている。胎児への影響は計り知れません」

二時間前──氷室グループ傘下の新エネルギー研究室で火災が発生し、彩葉は開発中の最新チップを守るため、躊躇なく炎の中に飛び込んだ。

チップは守れたものの、彼女自身は濃い煙に巻かれて意識を失ったのだ。

救急室に運ばれた時、体は擦り傷だらけで、下半身からは血が流れ、目を覆いたくなるほどの惨状だったという。

家庭と仕事に昼夜を問わず奔走し、心身ともに疲れ果てていた彼女は、この時になって初めて、自分のお腹に新しい命が宿っていたこと──妊娠二ヶ月だったことを知った。

「あなたはまだ若い。きっとまた授かりますよ」

医師はそう慰めながら、「今は安静が第一です。ご主人に連絡して、付き添ってもらってください」と告げた。

身を起こすことすら億劫な体で、彩葉は夫である氷室蒼真(ひむろ そうま)に電話をかけるのを躊躇った。

二日前、彼は息子の氷室瞳真(ひむろ とうま)を連れてM国へ出張したばかりだ。

「プロジェクトの商談だ」と彼は言っていた。仕事中の彼が、邪魔をされることを何よりも嫌うことを、彩葉は知っていた。ここ二日間、彼からの連絡は一切ない。それほど忙しいのだろうか。

その時、携帯の短い振動が静寂を破った。

画面に表示されたのは、異母妹である林雫(はやし しずく)の名前。

震える指でメッセージを開いた彩葉は、息を呑んだ。

そこに添付されていたのは、一枚の写真。雫が息子の瞳真を抱きしめ、二人で笑顔のハートマークを作っている。そしてその隣には、眉目秀麗な夫・蒼真が静かに座っていた。

結婚写真すら「くだらない」と撮ろうとしなかった彼が、その写真の中では、薄い唇の端をわずかに上げ、滅多に見せない穏やかな笑みを浮かべていた。

その姿は、まるで幸せな三人家族そのものだった。

【お姉ちゃん、今ね、蒼真さんと瞳真くんとミュージカルを観てるの。「ナイチンゲールの歌」って、お姉ちゃんが一番好きな作品よね?お姉ちゃんの代わりに、私が先に観ちゃった!】

チケットは常に完売で、手に入れることすら困難な人気の演目。

いつか一緒に観に行きたい、と何度も蒼真に伝えたが、いつも冷たく突き放されるだけだった。

「今忙しいんだ。それに瞳真もまだ小さい。また今度だ」

……忙しいんじゃなかった。ただ、自分と行きたくなかっただけなんだ。

元々張り裂けそうだった胸に、鋭い杭を打ち込まれたような激痛が走る。

それでも諦めきれず、病室に戻った彩葉は腹部の痛みに耐えながら、蒼真に電話をかけた。

数回のコールの後、低く、それでいて芯のある冷ややかな声が鼓膜を揺らす。

「……どうした」

「蒼真……ごめんなさい、体調が悪くて、病院にいるの。少しだけ、早く帰ってきてもらえないかな……?」彼女の顔は蒼白で、声には力がなかった。

「こっちはまだ商談中だ。戻るのは二日後になる。家のことは山根に任せろ」蒼真の態度は、どこか冷めていた。

彩葉はスマホとを握りしめる。「……ねえ。もしかして、雫と一緒にいるの?」

その問いに、蒼真の声は露骨な苛立ちを滲ませた。「彩葉、そんな詮索に何の意味がある?もう五年だぞ。雫は妹のようなものだと何度も言ったはずだ。仮に一緒にいたとして、それがどうした。

最近のお前は、仮病まで使って同情を引こうとするようになったのか?」

「パパ、声大きいよ!僕と雫の邪魔しないでよ!」

電話の向こうから、瞳真の高い声が響いた。「もうママなんてほっときなよ!本当にうざいんだから!」

彩葉が何かを言う前に、通話は一方的に切られた。

ほんの少しの時間すら、彩葉のために割いてはくれない。

がらんとした病室で、彼女は布団を固く握りしめ、体の芯から冷えていくのを感じていた。

三日後、彩葉は無理を言って退院した。

研究開発部の仕事が、まだ山のように残っていたからだ。

特に今回の新製品発表会は、蒼真も期待を寄せている。そして自分にとっても、この二年間心血を注いできたプロジェクトを、成功させたかった。

夕方、疲れ切った体を引きずってブリリアージュ潮見の自宅に戻ると、リビングから楽しげな笑い声が聞こえてきた。

息子の瞳真と、雫の声だ。

胸がどきり、と嫌な音を立てる。彩葉はとっさに身を隠し、鉢植えの影からリビングの様子を窺った。

ソファには、氷室父子の間に座る雫の姿があった。テーブルの上には、バースデーケーキ。そして彼女の首には、赤いルビーのネックレスが輝いていた。それは某高級ブランドの世界限定品だ。

先月、ショーウィンドウで見かけて心惹かれたものの、目を見張るような値段に諦めた、あのネックレス。

それが今、雫の胸元を飾っている。

「蒼真さん、素敵なプレゼントをありがとう。すごく嬉しいわ」雫はペンダントに優しく触れ、潤んだ瞳で男の端整で凛々しい顔を見つめる。「でも、こんな高価なもの……これからは無理しないで。気持ちだけで十分嬉しいから」

蒼真は淡然とした表情で言った。「金などどうでもいい。お前が喜んでくれるなら、それが一番だ」

「ねえねえ雫、お目々閉じて!」瞳真がはしゃいだ声で言った。

雫が素直に瞳を閉じると、瞳真は小さな手で、色とりどりのクリスタルが繋がれたブレスレットを彼女の腕に通した。

「もう開けていいよ!」

「わぁ、綺麗!」雫は驚きの表情を見せた。

瞳真はへへっと笑い、頭を掻く。「これね、僕が一つひとつ選んで、糸に通したんだ。雫への誕生日プレゼント!」

「ありがとう、瞳真くん。一生大切にするわ」雫が身をかがめて瞳真の額にキスをしようとした、その時。

瞳真は自ら顔を上げ、ちゅっ、と音を立てて雫の頬にキスをした。

瞳真は父親に似て、どこか冷めた子供だった。実の母親である彩葉にさえ、ほとんど懐こうとしなかったのに。

自分が喉から手が出るほど欲しかったものを、雫はこんなにもたやすく手に入れてしまう。

嫉妬と絶望で、胸の奥がキリキリと痛んだ。

瞳真はキラキラした目で雫を見つめ、真剣な顔で言う。「雫は体が弱いから、これからは僕とパパが守ってあげる。だから安心してね」

「ふふっ……ありがとう。頼りにしてるわね」雫は恥じらうように頬を染め、ちらりと隣の男に視線を送る。

蒼真は切れ長の瞳を細め、自らケーキを一切れ切り、雫の手に渡す。

血の気が、すうっと引いていく。立っていられなくなりそうだった。

全身全霊で愛した夫は、他の女の誕生日を祝い、命がけで産んだ息子は、母親からすべてを奪った女を守ると誓う。

彩葉は、赤く染まった目で静かに笑った。そして踵を返すと、五年もの間自分を縛り付けた結婚という名の牢獄から、毅然と歩み出した。

自宅の外は、冷たい雨が降っていた。

全身ずぶ濡れになりながら、彩葉は道端に立ち、久しぶりにかける番号を呼び出す。電話の向こうから、懐かしい声が聞こえた。

「お嬢!お久しぶり!元気か?」

「えぇ、元気よ」彼女は微笑んだ。その美しい瞳には、かつてないほど冷徹な光が宿っていた。

「離婚することにしたの。だからお願い、離婚協議書を用意してちょうだい。なるべく、早くね」
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1.硝子窓の向こうに君がいた
窓の向こうに広がる庭が、夕刻の雨にしっとりと濡れていた。枝葉に残る雫が風にゆれ、滴が静かに石畳を打つ。晩夏の空気には微かに湿った土と落ち葉の匂いが混じり、和洋折衷の木造館に沁みこんでいた。薫は白磁のカップを手にしたまま、書きかけの手紙を睨むように見つめていた。インクの香りがまだ鼻をくすぐる。文面は途中で止まっている。もう書けることなどなかった。これ以上続ければ、言葉ではなく感情があふれてしまいそうだった。彼はゆっくりと立ち上がり、室内の桐箪笥の前で足を止めた。鏡の中に映る自分は、パリを出たあの日と何も変わっていないように見えた。けれど、確実に違っている。肌の下に沈んだ時間。手の奥に残った熱。描き切れなかった輪郭。桐箪笥の引き出しを開ける。黒地に銀の刺繍が施された羽織を指でなぞったあと、となりに畳まれている洋装にも目をやる。今夜の夜会。どちらを纏うべきか、心はまだ決めかねていた。「和装で行けば、父は満足するだろう。でも…」薫は手を止めた。そのときふいに、扉の外から控えめなノックが響いた。「薫様、お支度のお手伝いに参りました」静かに開かれた扉の隙間から、若い女中が顔をのぞかせた。「ありがとう。…少し、時間をくれますか」「はい。お呼びつけくださいませ」扉が静かに閉まると、室内は再びしんとした空気に包まれた。薫は窓辺に歩み寄り、濡れた庭を見下ろした。軽井沢の夏は、東京よりいくらか涼しく、夕立のあとは特に空気が澄んでいる。石灯籠の上に溜まった雨がぽたりと落ちた。その瞬間、ふとある面影が蘇った。あの人も、あの石灯籠のそばで立っていた。少年だった頃、まだ声変わりもしていなかった自分の手を、あの人は軽く握って笑っていた。「雨が降る前って、風の匂いが違うだろう。…ほら、こうやって吸ってみな」ひとまわり以上大きな手のひらと、低く響く声。兄のようでいて、父よりも柔らかく、けれど背筋を伸ばさせられる何かがあった。その声が、明確に自分の記憶に残っている。身体の奥に染
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2.再会は音もなく
薄暮が完全に落ちきる前、中原家の迎賓館はすでに淡い灯りに包まれていた。天井の高い広間には、洋式のシャンデリアと、壁際に控えた和の行燈が互いの光を遠慮がちに交差させていた。漆喰の白壁には季節の草花を描いた屏風が据えられ、洋絨毯の上には艶やかな裾が波を描いている。和装の婦人たちと、燕尾服をまとった紳士たち。金襴やレース、香水と香の混じる空気が、まるで一枚の抽象画のように視界を彩っていた。その場に立つ者たちは皆、互いに名を知り、あるいは誰かの紹介で名刺を交わすような間柄だった。けれどその空間において、ひときわ異彩を放つ姿があった。薫である。彼は深い墨色の洋装をまとい、首元に柔らかく巻かれた白いスカーフが肌の白さを引き立てていた。背筋はまっすぐに、肩の線は細く、しかしどこか凛とした張りを持っている。髪は後ろに軽く結ばれ、結い目からこぼれるような黒髪が、動くたびに小さく揺れた。一歩足を踏み入れた瞬間、何人かの視線が彼に向けられたのを薫は感じた。感嘆、好奇心、あるいは噂の具現としての視線。けれど彼の瞳は、どこにも焦点を合わせていなかった。見ているようでいて、誰も見ていない。見られていることを受け入れながら、その視線の奥にあるものだけを掬い取ろうとするような、そんな冷静なまなざしだった。グラスを手にしたまま、薫は広間の奥へと進む。壁際の花瓶には秋草が活けられていた。薄と桔梗。色とりどりの着物が咲く中、その静かな佇まいはかえって視線を引いた。と、不意に。視界の端で、ある一人の男が動いた。薫は無意識にそちらへと顔を向けた。その瞬間、空気が止まった。時間さえ、ゆっくりと折りたたまれるように感じられた。礼司。人混みの向こう、ちょうど窓際に立っていた。燕尾服に身を包み、凛とした立ち姿。やや長めの髪を後ろへ撫でつけた輪郭。目元に浮かぶのは、微かな疲労と、どこか人を寄せつけない冷ややかさ。それでも、その眼差しがこちらを見たとき――薫の胸が音を立てて跳ねた。「…」言葉にならない
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3.君はもう“弟”じゃない
礼司は、グラスの底に残った氷を音もなく傾けた。ブランデーはすでにぬるく、香りは輪郭を失っていた。広間の賑わいは少しずつ落ち着きを見せ、人々は各々に集まり、噂話や商談、近況の交換に花を咲かせている。礼司は人波の切れ目を縫うようにして、館内の奥まった書斎に向かった。この迎賓館の一室、重厚な書棚と黒革のソファが並ぶその部屋は、礼司にとってわずかな休息の場だった。扉を閉めると、遠くから聞こえる弦楽の音も霞んでいった。礼司は深く息を吐き、ソファの背にもたれた。会いたくなかったわけではない。むしろ、四年という歳月の間に何度も、あの少年のことを思い出していた。だが今日、再会して初めて目の当たりにしたその姿は…思っていた以上に、心を乱した。礼司は目を閉じる。「…薫」その名を口の中だけで転がすと、どこか甘い痛みが滲んだ。あの細い肩、首筋から頬へと続くやわらかな線、濡れたような黒い目、結わえた髪の結び目…一つ一つが記憶の中の少年とはまるで違っていた。薫はもう、弟ではなかった。かつて膝にのせて本を読んでやった手。風呂上がりの濡れた髪を拭いた記憶。細い指で裾をつかんできた夜…それらは、もう通じない。あの目が、そう言っていた。礼司はブランデーの残りを喉に流し込んだ。喉が焼けるような感覚すら、今は心地よかった。ドアの向こうから、足音が近づく気配がした。軽く、しかし確かな歩み。やがてノックの音が響いた。「…入れ」扉が静かに開き、そこに現れたのはやはり彼だった。薫は一礼し、ゆっくりと部屋に入る。「お久しぶりです、礼司さん」礼司は答えようとして、言葉が出てこなかった。その声は、昔と変わらない響きを持ちながらも、低く、深くなっていた。大人の男の声だった。「こうしてご挨拶を申し上げるのも、ずいぶんと久しいですね」「…ああ。そうだな」ようや
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4.燕尾服に潜む欲望
月の光が、回廊の床に淡い影を落としていた。広間から漏れてくる楽団の音は、今や遠く、まるで水の底から聞こえてくるようだった。秋の夜気はすでに冷えを含み、石造りの柱に触れた空気が肌を刺す。薫はひとり、回廊の隅に身を潜めるようにして立っていた。手には空になったグラスを持ったまま、視線だけを静かに庭へ向けていた。夜会の空気が少しずつ緩み始めていた。帰路につく者、酔いを深めた者、あるいは別室へと消えてゆく影。広間では、最後のひと盛り上がりを迎えているらしかった。けれど薫は、それらの喧噪から距離をとっていた。理由は、ひとつだった。彼の目は、ずっとある一点だけを追っていた。早川礼司。一番奥の柱の影から、正面の中庭を挟んだ向こうに立つ男の姿が見える。白い石畳の上、控えめな月光が燕尾服を照らしていた。夜会にふさわしい黒の正装に身を包み、横には妻の美鈴が寄り添っていた。礼司は微笑んでいた。端正で穏やかな笑みだった。どの角度から見ても完璧なものだった。誰が見ても理想的な夫、財閥の長男として恥じぬ佇まい。所作に乱れはなく、誰にでも丁寧で、礼を欠かすことはない。だが。薫の目に映ったのは、その仮面の裏だった。確かに礼司は笑っていた。けれど、その笑みに熱がなかった。目だけが、どこか置いてきぼりにされていた。美鈴が袖を軽く引いて微笑んでも、彼は優しく応じる。けれど、その視線はほんの僅かに彼女の輪郭を避けていた。言葉にすれば、ほんの一ミリ。けれど薫には、その「ずれ」がはっきりとわかった。女として愛される者に向ける目ではなかった。まるで陶器の花瓶に目をやるような、完璧で冷静な、けれど…どこか他人事のまなざし。薫はゆっくりと自分の胸元に手を置いた。スカーフの奥で心臓が静かに鼓動を刻んでいる。礼司は変わっていなかった。けれど、変わっていた。かつての「兄」は、穏やかに笑って肩を抱いてくれた。けれど今、そこに立つ男は、あまりにも完璧すぎる殻の中に自らを閉じ込めていた。
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5.名を呼ばれたら、息が詰まった
廊下に灯された蝋燭の光が、壁に揺れる影を描いていた。夜会もすでに終盤を迎え、人の気配はまばらだった。賓客たちは次々と馬車に乗り込み、中原家の使用人が忙しなく足音を響かせている。屋敷の裏手へと伸びる廊下は、普段は使用人が行き来するだけの場所だ。細く長く、窓は小さく、光の届かぬ角には闇が澱む。その廊下の中ほどで、薫は足を止めた。遠くから、足音がひとつ。革靴の音だ。ゆっくりと、だが確かに近づいてくる。振り返ると、礼司がいた。漆黒の燕尾服、白手袋を外した手には、丸められたハンカチを握っていた。「……薫」その名を呼ばれた瞬間、空気が止まった。薫の胸がかすかに跳ねたが、表には出さず、ただ静かに会釈を返した。「遅い時間に申し訳ない」「いいえ、礼司さんこそ」声は低く穏やかだった。けれど、礼司の喉がかすかに鳴ったのを、薫は見逃さなかった。「さきほどは、あまり話せなかったから」「……お忙しいお立場ですから」「いや、それは関係ない。……ただ、君と話すときは、どうにも、言葉を選んでしまう」「僕のせいですか?」冗談のように笑った薫の声に、礼司は目を細めた。蝋燭の明かりに照らされたその顔は、どこか濡れたように美しかった。陰影の中で浮かび上がる輪郭、細い鼻梁、結われた黒髪の艶。ふと、礼司の鼻先を、微かに香がかすめた。薫が動いたのだ。すれ違うように半歩、近づいたその瞬間、彼の髪の奥から香りが立ちのぼった。どこか懐かしく、しかし甘すぎない香り。異国の街角のような、夜の静けさの中に溶けるような香。礼司の呼吸が、止まった。「……薫」二度目の名を呼ぶ声は、ほんのわずかに掠れていた。薫は何も答えなかった。ただ、視線だけを向けてきた。その瞳の中には、なにも問いかけてこない、なにも押しつけて
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6.硝子越しの夜
屋敷の広間に響いていた音楽が、静かに終わりを告げた。最後のワルツを奏で終えた楽団が、控えめに一礼し、客たちの拍手の波も徐々に収束していく。中原家の迎賓館に漂っていた華やぎは、花火が消えたあとの余熱のように、どこか儚い静けさを残していた。薫は薄手のコートを肩に羽織りながら、廊下を歩いていた。外は深夜の気配に沈み、扉の向こうには馬車の車輪が土を踏む音がかすかに届く。屋敷の灯りがすでにいくつも落とされ、奥の方では片付けに動く使用人たちの声が低く交わされていた。歩きながら、薫は思っていた。今夜、自分はあの人の何を見たのか。そしてあの人は、自分の何を見ていたのか。答えは、口にされたわけではない。触れられたわけでもない。ただ視線が交わった。言葉にならぬ震えが走った。それだけだった。だが、それだけで充分だった。誰にも知られることのない、ひと夜の中で、何かが確かに生まれ、息をし始めた。硝子窓の前に差しかかったとき、薫はふと足を止めた。そこからは広間が見えた。まだ片付けの済んでいないテーブルがいくつも並び、散らばったグラスの向こうで、ひとり立っている男の姿があった。礼司だった。黒の燕尾服に身を包み、手袋もハンカチも外したまま、誰にも話しかけられることなく、窓の外を見ていた。彼の目線の先に、自分がいる。そう、わかってしまった。薫はわずかに身体を傾けて、そのまま静かに彼を見返した。硝子一枚を隔てて、互いの姿がはっきりと映る。音は届かない。言葉も、気配も、互いの胸の内でしか感じられない。それでも、薫の鼓動は確かに高鳴っていた。礼司の瞳が、今、自分だけを見ている。過去の弟としてでもなく、ただの旧知の画家としてでもない。男として。目を逸らそうとはしなかった。むしろ、その目は揺れていた。微かに見開かれ、何かを訴えるようにして、硝子の奥からこちらを捉えて離さない。薫は、ゆっくりと視線を返したまま、硝子の外側に手を添えた。指先がガラスに触れる。冷た
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7.静けさに埋もれる声
白漆喰の壁に朝の光が淡く滲み、障子越しの書斎は墨のように静けさを湛えていた。礼司は文机の前に座り、新聞を手にしていたが、目の動きは緩慢で、行間を追っているというよりは、文字の海にただ身を預けているようだった。襖の向こうから、そっと足音が近づいてくる。衣擦れの音と、陶器のわずかな音。それだけで、誰が来たか分かる。襖がゆるりと開き、美鈴が茶盆を抱えて入ってきた。「……お茶をお持ちしました」「ありがとう」礼司は新聞を脇に寄せ、両手を膝の上に置いたまま、そのまま視線を床に落とす。美鈴は几帳面に盆を置き、湯呑を礼司の手前に差し出した。香ばしい焙じ茶の香りが、静かな空間にわずかに広がる。礼司は湯呑に手を伸ばしたが、すぐには口をつけなかった。「冷めないうちにどうぞ」「……ああ」言葉のやりとりは、それで終わった。書斎の障子の向こうでは、木立が朝の風にざわめいている。鳥の声すら、この部屋には届かない。美鈴は黙って礼司の前に座り、手を膝に揃えて置いた。その仕草は、あまりに淑やかで、完璧で、だからこそ礼司の胸に静かな圧を与える。結婚して三年。美鈴の手料理を口にし、美鈴の笑顔を受け取り、美鈴の隣に並んで人前に出ることは、もはや日常の一部だった。それでも、いや、だからこそなのか——そのすべてが、どこか遠い。「お加減は、いかがですか」「問題ないよ。君こそ、昨夜はよく眠れたかい」「はい。お陰さまで」礼司は湯呑を口に運び、ひと口だけ含んでから、再び机に戻した。温かさの感触も、喉を通るときの香りも、すべてが表面で留まっている気がする。美鈴は礼司の横顔を見ていた。その顔は、結婚前から変わらず整っていて、優しげで、冷静で、礼儀正しい。けれどその奥に何があるのか、彼女はまだ、一度も触れたことがなかった。触れようとしたことはある。たとえば結婚初夜。「…&helli
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8.午後の硝子窓
午後の陽光が応接間に柔らかく差し込み、障子越しの光と洋窓からの直射が淡いコントラストを生んでいた。絨毯の模様がほのかに浮かび、家具の木目が温かく輝いている。香ばしいお茶の湯気が、小さく揺れながらカップの縁に絡む音がした。客間の中央に置かれた大理石のテーブルに、薫と美鈴が向かい合って座っている。薫は礼儀正しく背筋を伸ばし、白磁のカップを指先で静かに回していた。美鈴は、上品な着物の裾を整えながら慎ましく頭を下げる。柔らかな会話が、春の午後の穏やかな調べとなって広がっている。「パリではどのようなご様子でしたか」美鈴の声は静謐で、瑞々しい響きを帯びていた。薫は軽く笑って、口を開いた。「街の空気も美術館もすべてが刺激的でした。特にエコール・デ・ボザール(美術学校)では、観ることと触れることの境界が薄れて…」その言葉が柔らかい振動となって響く間に、薫の瞳はふいに窓の外へと泳いだ。クッションに寄りかかったまま、まるで無意識に視線だけが移動していく様子だった。美鈴もその変化に気づいて視線をそっと向けたが、薫はすぐに再び会話に戻った。だが、窓の外にあった視線の先には、確かに礼司がいた。庭をゆっくりと歩きながら、何かを考えているような姿が見え隠れしていた。太い木枠に収まる硝子越しの光景は、ひとつの絵のようだった。庭の苔の緑と礼司の背広の黒が淡いコントラストを描き、礼司は歩を緩めたり止めたりしながら、空茅の揺れや落ちる陽光をただ受け取っていた。薫の視線はそのまま動かず、彼の存在を確認した瞬間、礼司がふいに頭を上げた。まるで薫の視線を知覚したかのようだった。その目がこちらを探そうとしているのを、薫は硝子越しに捉えていた。ただし、すぐに薫は視線を逸らした。窓の外には、庭の風情と礼司の背中だけが残されていた。沈黙はその場の空気を少しだけ変えた。湯気がカップからゆらりと立ち上る、その香りも、木漏れ日も、まるでそれが何かの前触れであるかのように深く薫の感覚の奥に沈んでいった。時間が止まったような感覚。会話の余韻を引きずるように、ふたりの沈黙が間延びしながら広間に広がる。そしてその静けさは、やがて薄いざわめ
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9.食卓の距離
夕陽が窓枠を朱色に染め、食堂には夕刻の柔らかな光が差し込んでいた。重厚な木のテーブルに並べられた銀器が光を反射し、食卓はまるで静かな舞台のように整えられていた。薫は控えめに着席し、膝の上にナプキンをたたんで置いた。香り立つスープの湯気と、煮込みの香りが混じり合う空気を、ゆるやかに吸い込んだ。目の前には、美鈴が丁寧に整えた皿が並び、小声で「召し上がってください」と言いながら、礼儀正しい微笑みを浮かべた。礼司は背筋を伸ばし、ナプキンを広げて丁寧に膝に置いた。その動きはまるで儀式的で、所作の一つ一つに無駄がなかった。薫はその様子をまっすぐ見つめた。外観上、食事は穏やかに進んでいた。料理の説明、美鈴の彩り豊かな献立の声、客としての薫への配慮――すべてが完璧に履行されていた。しかし、その完璧に揃った空間の中で、明らかなずれもそこかしこにあった。まず、視線が交わらない。美鈴が目を上げて礼司に微笑んでも、礼司はそっと頷くだけで目をそらす。視線の代わりに微かな気遣いが交わされ、彼女の頬に浮かぶ笑みはすでに儀礼の域を出ない。その冷たい静けさを薫は感じ取っていた。次に、身体の距離。椅子が向かい合わせという配置にもかかわらず、礼司と美鈴の間には明確なすき間があるように感じられた。肘をつく距離、カップを持ち上げる時の肩の角度、すべてが慎重に計算された配置に見えた。薫はフォークを軽く持ち、口に運ぶ動作を止めて目線だけを礼司へ向けた。彼の横顔は整っていた。けれどその横顔には、燃えるような温度はなかった。スープを一口飲む時の喉の動きすら、薫には演技のように思えた。「薫さん、お味はいかがでしょうか?」美鈴が穏やかに尋ねた。礼儀正しい問いかけに、薫は小さく笑って答えた。「とても美味しいです。こんなに落ち着いた夕食は久しぶりです」礼儀を尽くした言葉だったが、心の奥では、ある確信が広がっていた。——この二人には、感情の火がない礼司はその言葉に軽く微笑んだが、再び目を伏せた。薫の中で、静かな動揺が芽吹き始めていた。それは単な
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10.視線を知る日
夜の回廊には、濡れたような静けさが満ちていた。庭から吹き込む風が、竹の葉をかすかに揺らす音だけが障子の向こうで細く響き、早川家の重厚な邸内を包む沈黙を際立たせていた。礼司は回廊の柱に背を預け、手には小さな煙草の銀製ケースを持ったまま、蓋を開けもせず、ただ立ち尽くしていた。吐く息は白くない。空気はすでに夏の湿り気を帯び、けれど体の奥に溜まるものは冷えていた。数刻前の夕餉の光景が脳裏に蘇る。食卓に座る薫の姿、ナイフとフォークを扱うその手の滑らかさ、まっすぐ差し向けられた視線の、何かを試すような熱。それは明確な挑発ではなかった。だが、視線の底には、明らかに意図があった。礼司はそれに気づきながら、終始気づかないふりをして食事を続けていた。少しでも目を合わそうものなら、何かが壊れる気がした。「壊れる…?」自嘲のように唇がわずかに歪む。何が、何の関係が、と問えば、答えはなかった。ただ、壊れ得る何かが自分の中にあることだけが、妙に確かだった。そのとき、不意に背筋がぴんと伸びた。何かに見られている。ただの気配ではなかった。明確な、射抜かれるような視線の感覚が、肩口に触れた。ぎり、と煙草ケースの蓋を閉じる音が、やけに大きく響いた。礼司はゆっくりと振り向いた。回廊の先、客間の障子越し。少しだけ開かれた硝子窓の奥、薄く灯りの落ちる部屋の中には誰の姿もない。しかし、あの視線の残滓が、まだ皮膚の上に残っている。「…気のせいか」声に出してみても、その響きは空虚だった。いや、気のせいではない。そう思わせるのに十分すぎる強度で、あの視線は確かに自身を貫いていた。薫だったのか。そう思った瞬間、礼司は無意識に目を伏せた。顔の内側がじんわりと熱を帯び、心臓の奥が、まるで水に沈んだ石のように鈍く疼いた。まさか。あの少年が、男として…?否定しようとしたが、記憶が早すぎた。薫の黒髪がわずかに揺れた瞬間。涼やかな目元。光の下で白く浮か
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