天才ピアニストと結婚して十年目、私は奇妙な病にかかった。ひと月前――夫は病弱な義妹の看病を理由に、私の誕生日パーティーを欠席した。私はその日も彼の帰りを待ち続け、やがて待つことすら忘れて早くに眠り込んでしまった。半月前――夫は義妹を伴い、大切な舞台に立った。普段の私なら嫉妬で怒りを露わにしていただろう。だがその夜、私は声を荒げることもなく、ただ静かにひとり帰路についた。三日前――私が高熱で倒れたとき、夫は遠方から慌てて戻ってきた。けれど彼が駆けつけたのは、火傷を負った義妹を案じてのことだった。病院の廊下で偶然出会ったとき、かつてなら激しく嫉妬したはずの私は、異様なほど平静でいられた。私たちが白髪になるまで添い遂げようと誓った言葉も、彼が小さな擦り傷を気遣ってくれた優しさも、もはや遠い記憶の彼方に霞んでいた。夫が「義妹を一生面倒みるために家に迎えたい」と告げたその瞬間、曖昧になっていく記憶の中で、私はシステムを呼び出した。「元の世界に帰りたい」「かしこまりました、ご主人様。別の世界で用事がありますので、三日後に、迎えに来ます」システムの懐かしい機械音が耳の奥に響き、私は蒼ざめた顔に無理やり微笑みを浮かべて答えた。「ええ、待ってる」十年前。私はこの世界に残る道を選んだ。佐野晋佑(さのしんすけ)と白髪の生える日まで共に暮らせると信じ、二度とシステムには頼らないと心に決めた。だが十年の時を経て、私は現実に敗れたのだ。ドアが開き、晋佑が帰宅する。冷たい印象の顔立ちは、私を見た途端にやわらいで優しい笑みに変わった。彼は足早に近づき、私を強く抱きしめる。「ねえ、今日はお弁当を持ってきてくれなかったの?お腹空いちゃった」甘えるような声音で続ける。「いつもは忘れずに持ってきてくれるのに」悲しそうに見せかける夫の顔を見ながら、私はまぶたを伏せ、小さな声で言った。「……忘れてたの」晋佑は多忙な人で、しばしば食事を抜き、そのせいで胃を痛めていた。だから私は十年もの間、雨の日も風の日も欠かさず弁当を届け続けた。彼が苦しむ姿に耐えられなかったからだ。けれど今日、私はそれを忘れてしまった。お弁当を忘れるのは、ほんの些細なことにすぎない。だが私が忘れたものは、ほかにも数え切れないほどある。システムから聞いたことがある。
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