All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 191 - Chapter 200

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第191話

志帆には、美穂の魂胆などお見通しだった。「誰か、目星でもついてるの?聞いてあげるわ」美穂の頬が、ぽっと赤らむ。「それがね、サカザキ・モータースの、坂崎譲さん……」「お目が高いじゃない」志帆は感心したように褒めてみせる。「わかったわ。今度セッティングしてあげる」少なくとも、あの遊び人の太一に目をつけたわけじゃないだけマシね。「ありがと、お姉ちゃん! お姉ちゃんも柊也さんと、末永くお幸せにね!」志帆は鏡に映る完璧な自分に満足げな視線を送り、自信に満ちた声で呟いた。「ええ、もちろんよ」……詩織の姿を見た密は、ぎょっとして声を上げた。「し、詩織さん、その格好で……?」「え、何か変?」詩織は自分の服装を見下ろす。いつもと同じ、シンプルなビジネススタイルだ。「だっていくらなんでも今日は『ココロ』の発表会ですよ?てっきり、詩織さんもドレスアップしてくるんだと……」「今日の主役は、智也さんたち開発チームよ。彼らこそが、『ココロ』を生んだ技術者なんだから。私はただの出資者。主役の邪魔をしちゃだめでしょ」その言葉に、理不尽なところは一つもなかった。密は、ぱっと目の前が開けるような感覚に襲われる。――やっぱり詩織さんについてきてよかった!この人の下なら、本物の仕事が学べる!発表会は午前九時からだったが、詩織がホテルに着いたのは七時半。これは、完璧主義者の柊也に長年鍛え上げられた彼女の習慣だった。すべての段取りを事前に確認し、問題が起きないように万全を期す。万が一問題が起きても、すぐに対応できるよう代替案も用意しておく。すべてのチェックを終え、詩織は智也と最終確認を行う。準備は、万端だった。……だが、来ない。記者が、一人も。智也は目に見えて焦っていた。しきりに額の汗を拭っている。密も同じだった。何度も会場の外に出ては、様子を窺ってくる。人は大勢来ている。けれど、その誰もが『飛鳥』の祝賀パーティー会場へと吸い込まれていく。こちらの発表会に足を運ぶ者は、一人もいなかった。かたや『ココロ』の会場は、閑古鳥が鳴いている。かたや『飛鳥』の会場は、人が溢れかえり、ごった返している。その対照的な光景は、あまりにも残酷だった。重苦しい空気が、発表会前の会場に漂う。誰もが黙々と自分の作
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第192話

スタッフたちを励まし、落ち着かせると、詩織はようやく会場の外へ様子を見に出た。時刻は八時半。行き交う人の波は、さらに大きくなっている。だが、そのすべてが『飛鳥』の会場へと吸い込まれていく。こんな時に限って、出くわしたくない相手に会ってしまうものだ。向井文武だった。気まずそうな顔をしている。先日、詩織が招待状を送った時、彼は「用事がある」とかなんとか理由をつけて断ってきたのだ。その嘘がばれてしまい、どう言い訳しようか戸惑っている彼より先に、詩織が口を開いた。「向井社長は、『飛鳥』のパーティーへ?でしたら、出て左ですよ。会場はあちらです」文武は笑うに笑えず、ばつの悪そうな顔で頭を掻く。「あ、いや、江崎社長……その、あとで時間を見つけて、そちらの発表会にも顔を出させてもらいますから。応援してますんで」ただの社交辞令だ。詩織は本気になどしなかった。文武は二、三言お世辞を並べると、そそくさとその場を去っていった。その時、海雲から電話がかかってきた。詩織は慌てて電話に出る。発表会のことは、彼には伝えていなかった。どこから聞きつけたのだろう。電話の向こうで、海雲がこちらの状況を尋ねてくる。詩織は心配をかけまいと、明るい声で答えた。「はい、おかげさまで、すべて順調です」「そうか。それならいいんだ」電話の向こうで、海雲が安堵したように言った。海雲との電話をちょうど終えたところに、太一がやって来た。『飛鳥』のパーティー会場へは外から直接行けるというのに、彼はわざわざこちらに顔を出したのだ。その目的は、火を見るより明らかだった。詩織を嘲笑うためだけに、わざわざ立ち寄ったのである。「よぉ、なんだこの発表会は。誰もいねぇじゃんか。身内だけの発表会ってお遊びかよ?」詩織は彼を意にも介さなかった。太一は大げさな様子で現れた。彼の後ろには数人の男が控え、巨大なひまわりの花束を抱えている。わざわざ彼が選んだ花だった。以前、京介が詩織に贈ったひまわりへの、あからさまな当てつけだ。それも、十倍はあろうかという巨大な花束で、見せつけるように。お前など、志帆と比べる価値もないのだと、詩織に思い知らせるためだ。「どいて、どいて!」花束を抱えた男が叫びながら、詩織を乱暴に突き飛ばした。ドンッという
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第193話

京介と志帆は、他の誰とも違う、特別な関係だったのだから。彼女は彼のために、道を示した。「『飛鳥』のパーティーなら、左手よ」すると、京介はふっと笑った。「俺は、『ココロ』の発表会に来たんだ」一瞬の間を置き、彼はからかうように続ける。「もしかして、俺を追い払おうとしてる?」「てっきり、パーティーに行くのかと……」「いや。今日の予定は『ココロ』の発表会だけだ。他には何もない」京介は、はっきりとそう告げた。彼の言葉には、詩織に自分の気持ちを気づかせたいという、かすかな期待が込められていた。だが、詩織はそれを投資家としての立場から来たものだと解釈しただけで、それ以上深くは考えなかった。「京介さん、どうぞこちらへ」彼女は自ら先導する。その背中を見つめながら、京介は心の中で苦笑した。どうしてこの人は、学生の頃から変わらないんだ。恋愛には、こんなにも鈍感だなんて。七年という長い恋愛が終わったばかりで、心身ともに疲れ果てている彼女のことを考えなければ。新しい一歩を踏み出すには、時間が必要なのだと、自分に言い聞かせなければ。きっと、とっくにこの想いを隠すことなどやめていただろう。……まあいい。七年も待ったんだ。今さら一日二日、急ぐ必要はない。少なくとも彼女は今、失恋に打ちひしがれることなく、ひたすら仕事に打ち込んでいるのだから。一方、太一は『飛鳥』の祝賀パーティー会場に、これ以上ないほど派手に登場した。彼が持ち込ませた巨大な花束は、会場の誰もの度肝を抜いた。そのひまわりを見て、志帆はすぐに太一の意図を察し、笑顔で礼を言った。「ありがとう。でも、あなたが来てくれるだけでよかったのに。こんなに散財しなくても」なんと気品のある言葉だろう。なんと大きな器だろうか!太一は、志帆に未来の名家の女主人としての風格を改めて感じ、ますます彼女への敬服を深めた。「当然だろ!志帆ちゃんの晴れ舞台なんだから、このくらい派手にやらねぇと!それからこれ、お祝いだ!」 彼が贈ったのは、高価なダイヤモンドのネックレスだった。今、彼女が身につけている宝飾品には及ばないものの、それでも相当な大盤振る舞いだ。「ありがとう」「さっき、『ココロ』の発表会の前を通ってきたんだぜ。マジで誰もいやしねぇの! 江崎の奴、とんでも
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第194話

志帆は、艶やかな唇に笑みを乗せた。「柊也くんなら、私の両親を迎えに行ってくれてるわ」その一言に、太一と譲は同時に目を見開いた。付き合いは長いが、彼らは柊也が誰かに対してそこまで尽くすのを見たことがなかった。相手の両親を、自ら迎えに行くなんて。それほどまでに、彼は志帆を大切に想っている。本気なのだ。「柏木部長も、今日いらっしゃるんですか?」譲が尋ねた。「ええ。お父様はいつも私の仕事を応援してくれているの。こんな大事な日に、来ないわけがないわ」志帆が頷く。「だよなー。俺に志帆ちゃんの半分でも甲斐性があったら、うちの親父なんか入口でドアマンやってるぜ、きっと」太一は自嘲気味にそう言うと、ふと思い出したように続けた。「それにしても、柊也は未来の義父さんに甲斐甲斐しいな。なあ、柊也のお父さん……海雲さんは、来られるのか?」最後の質問は、明らかに太一の単なる思いつきだった。何も考えていない、いつもの軽口だ。だがそれは、図らずも志帆の心の痛いところを突いていた。彼女は誰よりも、海雲がこの場に来てくれることを望んでいた。それは、彼から認められたという証になるから。そうなれば、柊也との結婚話も、そろそろ具体的に進められるはずだった。だが、柊也がその話を切り出さない以上、自分から言うわけにもいかない。きっと、まだ自分は十分に高い場所まで上れていないのだ。だから、彼の目に留まらないのだ、と。もっともっと、上へ。いつか必ず、海雲に自分を認めさせてみせる。とはいえ、太一に問われたからには、体裁は保たなければならない。志帆は努めて平静を装い、答えた。「おじ様は、もう何年も前に引退なさってるでしょう? こういう場には出ないと公言されてるから、わざわざお声がけはしなかったの」太一はそれをあっさり信じ込んだ。「だよな。俺らだって、正月に挨拶行った時くらいしか会えねぇもんな」その時、譲が不意に口を挟んだ。「誰が?この間、東方庭園で会ったばかりじゃないか」その言葉に、三人は同時に押し黙った。確かに、会った。だがそれは、ある人物を介してのことだった。そしてその人物こそ、志帆が最も触れたくない名――江崎詩織。気まずい空気が流れる。太一が慌てて話題を変えた。『セレスタ』という有名なワインセラーで、志帆のため
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第195話

「ああ、様子を見にな」海雲の口調はごく平然としていて、まるで散歩のついでに立ち寄ったかのようだった。だが詩織は知っていた。引退後の彼は俗世間から離れて静かに暮らしており、もうずっと、この手の催しには顔を出していない。明らかに、わざわざ来てくれたのだ。ただ、それを決して表には出さない。そういうところが、柊也は彼によく似ている。詩織は海雲を迎えるため、急いで外へ向かった。少し急いでいたせいで、回転扉のところで誰かと肩がぶつかった。たいした衝撃ではなかったが、それでも詩織はすぐに頭を下げた。「すみません」「いえ」男性にとって、その程度の衝撃は何でもなかった。足早に去っていく詩織の後ろ姿を、男はただその場に立ち尽くし、見送っていた。意識は、どこか遠くへ飛んでいる。ほんの少し前の、あの一瞬。まるで時が巻き戻ったかのような錯覚に陥ったのだ。思わず、あの名前を呼びそうになった。もし、こちらを見つめる彼女の瞳に、見知らぬ人を見る色が浮かんでいなければ。「お父様!」外へ出た志帆は、長昭の姿を見つけると、すぐに嬉しそうな声を上げた。長昭は我に返り、慈愛に満ちた笑みを顔に浮かべる。「どうしたんだ、外まで。ドレスでは動きにくいだろう」「お父様とお母様を、自分でお迎えしたかったの」志帆はきょろりと辺りを見回して尋ねた。「お母様は? 一緒じゃなかったの?」「車に携帯を忘れたそうでな。柊也くんが付き添って取りに行っている」長昭が言い終えるのと同時に、柊也が佳乃を連れて入ってきた。「お母様!」志帆は甘えるように佳乃に抱きついた。「まあ、ドレスがしわになるわ」佳乃が優しく諭す。「大丈夫よ。スタイリストさんも会場にいるから、乱れたら直してもらえるもの」上機嫌な志帆は、両親との会話もそこそこに、柊也に感謝を伝えた。「柊也くん、ありがとう。私の代わりに、両親を迎えに行ってくれて」「さあ、中へ」柊也はそう言って、皆を促した。志帆は佳乃の腕を引いて、中へと歩き出す。 「もうすぐパーティーが始まるの。二人とも間に合ってよかったわ。もう少しで遅れちゃうところだった。道、混んでたの?」「来るときは空いていたけれど。きっと、柊也くんが向かう時に混雑していたのね」 佳乃が答えた。「まあいいわ。とに
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第196話

それでも彼女は、釘を差すことを忘れなかった。「だからこそ、鉄は熱いうちに打つのよ。早く二人のことをきちんと決めなさい!ぐずぐずしてると、何が起こるかわからないわよ!」「ありえないわ。柊也くんは、本気で私のことを想ってくれてるもの」「本気なんて、いつ変わるかわからないのよ!彼がずっとあなたを大事にしてくれる保証なんて、どこにもないの。男っていう生き物は、あなたより私の方がわかってるわ。何とかして、相手をしっかり捕まえておかないと!……前の京介くんの時みたいに、また七年も無駄にするんじゃないわよ!」志帆の表情が、すっと真剣なものに変わる。「……わかったわ」「もっと頭を使いなさいよ。必要な時には、手段は選ばないこと。お高く留まってるだけじゃ意味ないわ。私を見習って」その言葉は、周りに聞かれないよう、佳乃が声を潜めて言ったものだった。志帆は唇を噛むだけで、返事をしない。娘のすべてを知り尽くしている母親には、その一瞬の曇りを見逃すはずもなかった。佳乃は娘のその表情の意味を、一目で見抜いた。「まさかあなたたち、まだ何もないの?」「……柊也くんは、私のことを尊重してくれてるの」志帆は、そう言うしかなかった。佳乃の顔つきが、すっと険しくなる。「男女の仲に、尊重なんて言葉いらないのよ!私がどれだけの犠牲を払って、あなたのために状況をお膳立てしてあげたと思ってるの!それなのに、結果がこれじゃあ、話にならないわ!」佳乃の言う『犠牲』とは、わざと自宅に火を放ち、娘に帰る場所がないという口実を与え、柊也の家に転がり込ませた、あの一件のことだ。だが、さすがに今日は志帆の晴れ舞台だ。佳乃も、これ以上は説教じみたことを言うのは控えた。「とにかく急ぎなさい。もう、ぐずぐずしないことね」「……わかってる」柏木夫婦の到着をもって、いよいよ『飛鳥』の祝賀パーティーは華やかにその幕を開けた。ステージに上がった司会者が高らかに開会を宣言する。それを見ながら、太一は柊也の豪勢なやり方に改めて舌を巻いた。なにせ司会は、市のテレビ局から引っ張ってきた看板アナウンサーなのだ。力の入れようが違う。ふと隣の席に目をやる。譲の席だ。だが、もうパーティーは始まってしまったというのに、その席は空いたままだった。太一は慌てて譲に電話をかける。だが譲のやつ
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第197話

タワーの頂点で輝くグラスは、彼女のものだ。残りはコンパニオンたちが手際よくゲストへと配っていく。全員の手にグラスが行き渡ったのを見計らって、志帆はグラスを高々と掲げた。集まった人々への感謝を口にしながら、彼女は『飛鳥』の最新データを公開すると高らかに宣言する。その時を待つ彼女は自信に満ちあふれ、口元には勝利者の笑みが浮かんでいた。この演出は、志帆自身が考案したものだ。この祝賀会の場で、『飛鳥』の最新ダウンロード数を大々的に発表する。事前の大規模なプロモーションも功を奏している。だからこその自信だった。今日一番の、割れんばかりの拍手が会場に響き渡るのを、彼女は期待していた……しかし、ダウンロードランキングがスクリーンに映し出されたその瞬間、あれほど賑やかだった会場が、ぴたりと静まり返った。死んだような静けさだ。志帆は一瞬、戸惑った。まさか、『飛鳥』のダウンロード数に、言葉を失うほど圧倒されているの?ありえない話ではない。『飛鳥』はリリースから三日で、ダウンロードランキングの一位に輝いたのだ。データは毎日チェックしている。だからこそ、これほど自信があった。「皆様、グラスをお上げになって」志帆は再び声を張り、共に祝杯を挙げるよう促した。だが、壇下の招待客たちは一様に不可解な表情を浮かべるばかりで、誰一人としてグラスを上げようとしない。志帆はようやく、何かがおかしいと気づいた。焦って背後のスクリーンを振り返る。そして、ランキングの一位に表示された名前をはっきりと認めた瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。ダウンロード一位が、どうして『ココロ』なの……!?あまりの衝撃に手が震え、グラスの中のシャンパンが、ぱしゃりと音を立てて溢れた。いち早く反応したのは柊也だった。彼は即座に進行を止めさせ、スタッフに映像を切り替えさせた。大勢の招待客と、ずらりと並んだメディアの前で。志帆にできることは、平静を装い、とっさの言葉でその場を繕うことだけだった。「『飛鳥』はリリースから十日間、七日連続で首位を維持し、ダウンロード数も大変好調で……」だが、彼女が言葉を言い切る前に、突然、一人の記者がカメラを担いで慌ただしく走り出した。「急げ、急げ!早く行かないと場所がなくなるぞ!」「何があったん
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第198話

それが今、どうだ。完全に面目を潰されてしまった。さすがは数々の修羅場をくぐり抜けてきた男だ。長昭の表情は、佳乃ほどには崩れていなかった。「行こう」長昭は妻を促して席を立つ。佳乃はもう一秒だってここに座ってなどいられなかった。夫の言葉に、待ってましたとばかりにコートを手に取り、足早にその場を去っていく。メインテーブルの主賓が二人もいなくなり、残されたのは太一と柊也だけになった。太一はまだ状況が呑み込めておらず、ただただ呆然としている。いったい何がどうなっているのか、さっぱり理解が追いつかない。そんな非難めいた囁き声が満ちる中、柊也がすっと立ち上がり、ステージへと向かった。志帆の手からマイクを受け取ると、心ない誰かが彼女の写真を撮らないよう、自分の背後へ隠すようにして庇う。「申し訳ありません、皆様。柏木部長は連日、心身を削って業務にあたってきたため、少々疲れが見えるようです。ここからは私が代わって進行を務めさせていただきます」その言葉を聞いた瞬間、会場の空気と、人々の彼らを見る目がまた変わった。柊也と志帆の関係が親密であること、そして賀来家と柏木家が縁談を進めているという噂は、招待客の誰もが知るところだ。それは江ノ本市の社交界における、最大の関心事でもある。柏木家がこれほどまでに持て囃されるのも、その関係あればこそだ。柊也がステージに上がり、かいがいしく志帆を庇う姿は、二家の縁談という噂を裏付けるには十分すぎる光景だった。たとえ今日、志帆が恥をかいたとしても。後ろ盾に賀来柊也がいるのなら、こんなことは些細な問題に過ぎない。隣の会場の様子をひと目見てみたい。財界の大物たちの顔を拝み、ビジネスチャンスを掴みたい。誰もがそう思ってはいたが、今となっては諦めるしかない。賀来柊也の顔を潰すわけにはいかないからだ。おかげで、祝賀会場から人が完全にいなくなるという最悪の事態だけは避けられた。だが、その場に残った者たちの心は、とっくの昔にここにはなかった。ある者は適当な口実をつけて席を立ち、部下に電話をかけて隣の会場の様子を探らせる。このビッグウェーブに乗り遅れまいと必死なのだ。またある者は、この祝賀会の会場にいながら、こっそりとスマートフォンで『ココロ』の生配信を覗き見ている。太一
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第199話

見せられるわけがない。太一はしどろもどろに言い訳した。「い、いや、これ、ちょっとヤバい系の配信見てたからさ。あんたが見るようなもんじゃないって」だが、志帆はそれ以上は追及しなかった。無言で自らのスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで『ココロ』の生配信を検索し始める。「志帆ちゃん……」太一は彼女の危うげな様子が心配で、思わず声をかける。志帆は顔も上げずに答えた。「大丈夫よ。ちょっと見るだけだから」そうは言うものの、彼女の顔色はひどく悪い。それでも、太一にはかけるべき慰めの言葉が見つからなかった。生配信の画面が志帆に与えるプレッシャーは、太一が感じていたものの百倍、いや千倍は強かっただろう。スマートフォンを握る彼女の手に、どんどん力が入っていくのが太一にも見て取れた。指先は血の気を失い、白く変色してしまっている。「京介……『ココロ』の発表会に行ったのね」 その声は、押し殺してもなお震えていた。太一は慌てて取り繕う。 「あいつは『ココロ』の出資者の一人なんだから、顔を出すのは当然だろ」「じゃあ、譲は?」「あいつは親父さんに呼び出されたんだよ!気持ちはこっちにあるって!だってお前、あいつが真っ先にこっちに来てたの知ってるだろ?」そんな言い訳が、今の志帆の耳に入るはずもなかった。彼女が理解したのはただ一つ。彼らが皆、江崎詩織の元へ行ってしまったという事実だけだ。「賀来のおじ様まで……あんなに江崎詩織を応援してるなんて」「……」これには、さすがの太一も返す言葉がなかった。志帆に「もう見るな」と言おうとした、その時、太一自身のスマートフォンが鳴った。父親からだ。電話に出るなり、父親の怒声が鼓膜を突き破った。今すぐ『ココロ』の発表会へ顔を出せという、有無を言わさぬ命令だった。「行きたくねえよ」「そうか。なら今すぐに海外行きの片道チケットを手配してやる」父親は本気だった。太一は即座に白旗を上げた。「わかったよ!行けばいいんだろ、行けば!」電話を切ると、彼はしどろもどろに嘘をついた。「志帆ちゃん、親父が倒れたって連絡が……悪い、病院行く。埋め合わせは後日必ず!」志帆は彼の方を見ようともせず、冷たく言い放つ。「行って」彼女の視線は、スマートフォンの画面に縫い付けられたままだった。
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第200話

まさか、自分がこんな目に遭う日が来ようとは。こんなことになるくらいなら、あの時もう少し手加減しておけばよかった。後悔しても、もう遅い。穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。「おい、挨拶をしろと言っているんだ!」厳に再び怒鳴られ、太一は唇を噛み締めながら、ようやく四文字を絞り出した。「……江崎社長」詩織は感情の読めない顔で小さく頷いただけだった。太一の方に目を向けようともしない。賢い人間が見れば、すぐにわかるだろう。その頷きは、父親である厳の顔を立てただけ。詩織が太一を歓迎していないのは明らかだった。もちろん厳もそれに気づいていたが、彼は気づかないふりをして、なおも言葉を続ける。「お二人とも歳も近いですし、今後ぜひ交流を深めていただきたい。我々はもう古い人間ですからな。これからの江ノ本市の発展は、あなた方のような若者の双肩にかかっております」そして、彼はさらに言葉を重ねた。「特に江崎社長のように若くしてこれだけの才覚をお持ちであれば、いずれ江ノ本市の商工界を背負って立つ柱となるでしょう。つきましては、どうかこの倅にもご指導を。こいつもAIに興味があるとかで、少し前に『飛鳥』というプロジェクトに投資したそうでしてな」太一「……っ」こんなことになるなら、いっそ海外に放り出された方がマシだった!あちらなら苦労はしても、こんな恥をかかずに済んだ。『飛鳥』に投資した、という言葉を聞いて、詩織は初めて正面から太一を見た。だがその視線が、太一にはどうしようもなく居心地が悪かった。まるで自分を嘲笑っているかのような、冷たい眼差しだ。やがて詩織は、ゆっくりと口を開いた。「宇田川副社長には、それはそれは『出来の良いご子息』がいらっしゃいますね」その皮肉に気づかぬのか、厳は「いやいや」と首を振る。「顔だけはまあ人並みですが、中身は……どうもぱっとしませんで」詩織はただ、静かに微笑むだけだった。太一はもう、一秒も耐えられなかった。「親父、もう行こうぜ!」彼は厳の腕を掴んで、その場から逃げるように去っていく。――これ以上ここにいたら、俺はもう一生、表を歩けなくなる!ステージでは、智也が『ココロ』のデモンストレーションを終えようとしていた。彼は最後に、このプロジェクトを支えてくれた人々への感謝を述べ
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