All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 491 - Chapter 500

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第491話

二人は睦まじく会話を交わしながら車へと乗り込んでいった。志帆は柊也との会話に夢中で、悠人に手を振ることさえ忘れてしまっていた。悠人はその場に立ち尽くし、二人を乗せた高級車が走り去るのを見つめていた。耳に残る甘い会話、目の前で見せつけられた親密な空気。二人の絆は、想像していたよりも遥かに強固だった。取り残された彼の瞳には、暗く澱んだ影が落ちていた。……夜、密から電話があった。「明日の朝食、何がいいですか?」そう聞かれたものの、詩織の頭の中は大学院入試の資料で埋め尽くされており、すぐには答えが浮かばなかった。「……やっぱり、私がメニューリストを作っておきますね。詩織さんは当日、その中から選ぶだけにしましょう」「いいわね。業務効率化、心得てるじゃない」他愛もない雑談を二、三交わしてから通話を切る。それからまたしばらく参考書に目を落とし、ふと時計に目をやると、針はすでに十一時を回っていた。明日も重要な会議がいくつも控えている。そろそろ休まなければ。詩織は机の上の資料を片付け、寝室へ向かおうとした時、バルコニーの窓が開いているのに気づいた。閉めようとして窓辺に立ったその時――階下から微かに着信音のような響きが耳に届いた。ほんの一瞬、それも曖昧な音だったが、詩織の聴覚はそれを確かに捉えていた。窓を閉める手が止まる。詩織はバルコニーから身を乗り出し、眼下を覗き込んだ。そこにあるのは、街灯の光と並木道の樹冠だけ。あたりは静寂に包まれている。まるで幻聴だったかのように。詩織は迷いながらも部屋に戻り、ベッドに身体を沈めた。しかし、寝返りを打っても胸のざわめきは収まらず、結局すぐに起き上がり、上着を羽織って階下へと向かった。夜の通りはひっそりと静まり返り、風ひとつない。暖色系の街灯が、誰もいない道路を空しく照らし出しているだけだ。車もなければ、人影もない。やはり、ただの気のせいだったようだ。きびすを返して戻ろうとしたその時、コンビニで煙草と水を買って戻ってきた湊と鉢合わせた。湊は詩織の姿を認め、驚いたような顔を見せる。「社長、まだ起きていらしたんですか?」「……もう寝るところよ」詩織は彼が手に提げている眠気覚ましの強壮ドリンクに視線を落とし、少し間を置いてから言葉を継いだ。「家の中にい
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第492話

「ああ。新素材のチェックに来てね」柊也の声はどこか掠れており、隠しきれない倦怠感が滲んでいた。すると赤坂が、愛想よく笑いながら解説を始めた。「いやあ、賀来社長の柏木さんへの溺愛ぶりには頭が下がりますよ。ここまでは長旅になりますからね、彼女に負担をかけたくないと、こうして代わりにお見えになったんです。実にお熱いことで」詩織は愛想笑いを浮かべ、軽く受け流した。二人の仲を見せつけるような茶番劇になど、興味のかけらもない。「江崎社長、移動でお疲れでしょう。まずは私のオフィスで一服されますか?」赤坂社長が気遣わしげに提案するが、詩織は首を横に振った。「お気遣いなく。時間は有限ですから、さっそく現場を拝見させてください」「承知しました!ではこちらへ」赤坂社長が先頭に立って歩き出す。そして振り返り、柊也とその秘書である春菜にも声をかけた。「賀来社長たちも、どうぞ」赤坂の工場が製造しているのは、チップ製造において最も核心的であり、かつ高価な部材――シリコンウェハーである。詩織も事前に知識を詰め込んではいたが、あくまで机上の空論に過ぎない。本来なら源治が来るはずだったが、あいにく体調を崩して入院してしまったため、急遽彼女が代理で視察に来ることになったのだ。「初期段階の視察なら、工場が規範通りに稼働しているかを確認するだけで十分だ」と源治は言っていた。具体的な技術面の協議については、後日彼が専門の開発チームを率いて行う手はずになっている。工場内は詩織の予想以上に清潔で、管理が行き届いていた。彼女が率直に称賛の言葉を口にすると、赤坂は苦笑いを浮かべた。「これも全て、賀来社長に鍛え上げられたおかげですよ。当時、なんとしてもエイジアとの契約を取り付けたくて、必死に改善を重ねましたから。ご存じの通り、賀来社長の要求水準はとてつもなく高い。あの頃はプレッシャーで胃に穴が開くかと思いましたよ……まあ、なんとか合格点をいただけて今があるわけですが」その点については、詩織も同意せざるを得ない。柊也の厳格さは、他者だけでなく自分自身にも向けられている。――もっとも、志帆だけが例外だが。自らが歩んできた道の険しさを知っているからこそ、彼女には同じ苦労をさせたくないと思っているのかもしれない。プロダクトマネージャーが新素材のサンプル
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第493話

その時、柊也のスマートフォンが鳴った。着信音は初期設定のままの、無機質な電子音だ。詩織は話すのを一瞬止めたが、すぐに赤坂との会話に戻る。一方の柊也も通話に出た。電話越しに、志帆の声が聞こえてくる。「柊也くん、まだ終わらないの?」「ああ、まだ少しかかりそうだな。遅くなるから、夕飯は先に済ませておいてくれ」そのやり取りを聞いた赤坂が、ニヤリと意味深な笑みを浮かべ、軽く舌を鳴らした。言葉にしなくとも、その場にいる全員が察した。二人の仲の良さを冷やかしているのだ。春菜はほっと胸を撫で下ろし、先ほどの自分の勘違いを恥じた。――やっぱり、社長が想っているのは柏木さんだけなのだ、と。視察を終える頃には、すでに夕闇が辺りを包み始めていた。赤坂は一行のために、すでに懇親会の席を設けていた。春菜はてっきり、柊也は誘いを断って志帆の待つ江ノ本へと急いで帰るものだと思っていた。ところが予想に反して、彼は二つ返事で承諾したのだ。赤坂は実利を重んじるタイプの人間で、詩織たちがこれから車で帰路につくことを配慮し、酒は出さなかった。夕食を済ませ、赤坂に別れを告げた詩織たちは一足先に車上の人となった。柊也たちの出発は、それより少し遅れるようだ。「今日の賀来社長、珍しく人間らしい振る舞いでしたね」車内で密がぼそりと呟く。志帆がエイジアに来る前の、かつての柊也に戻ったかのような感覚を覚えたのだ。「他所様に関心を持つ暇があったら手を動かしなさい」詩織は資料で軽く彼女の頭を小突いた。「わかってますってば」帰りの道中、詩織はずっとノートを広げ、柊也から教わった知識を整理することに集中していた。途中、サービスエリアでの休憩を挟み、疲労を避けるために密が湊と運転を交代した。市内に入ると、湊が提案した。「このまま小林さんを自宅まで送りましょう。その後で私が社長をお送りします。その方がタクシーを拾う手間も省けますし」帰り道でのついでということもあり、密はそのまま自宅方面へとハンドルを切った。密の自宅付近に差し掛かったその時――車体が激しく揺れ、コントロールを失ったまま前方へ突っ込んだ。助手席に座っていた湊が鋭い反応を見せ、すぐさまハンドルを掴んで軌道を修正しようとする。直後、後方から再び轟音が響き渡り、車は
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第494話

病院。処置室で柊也の傷を縫合するのは、前回と同じ医師だった。傷口を見るなり、医師は渋い顔をした。「また同じ場所ですか?前は浅かったから傷跡も目立ちませんでしたが、今回は深くまでいってますね。これは確実に跡が残りますよ」詩織の脳裏に、彼が以前怪我をした時の記憶が蘇る。確か、志帆とのデート中に事故に遭ったと聞いていたが、軽傷だったはずだ。後遺症もなく、よく見なければ気づかない程度の傷跡しかなかった。もっとも、ここ数ヶ月、詩織はまじまじと彼の顔を見たことなどなかったのだが。医師に言われなければ、そんな事実は記憶の彼方に葬り去られていただろう。詩織は小首を傾げ、彼の額の傷を見つめていた。整った眉がわずかに歪んでいる。その表情は複雑で、心配の色が滲んでいるようにも見えるが――それ以上に、どこか憂鬱そうだった。柊也は彼女の心中を察したのか、ゆったりとした口調で言った。「今の傷跡除去技術は進んでるからな。心配いらない」詩織は言葉を詰まらせた。――心配しているわけではない。ただ、また彼に借りができてしまったことが、煩わしくて仕方がないだけだ。傷口の洗浄を終え、医師がいよいよ縫合の準備に取り掛かる。「彼女さんには外で待ってもらいましょうか。縫合の現場なんて、お嬢さんが見るには刺激が強すぎますからね」医師が気遣わしげに声をかけた。柊也が口を開こうとしたその瞬間、詩織が遮るように告げた。「私、彼の恋人じゃありませんから」その言葉に、柊也は気だるげに瞼を持ち上げ、静かに詩織を見やった。結局、詩織は処置室を出て行った。縫合処置がすべて終わるまで、彼女が戻ってくることはなかった。医師は仕方なく、術後の注意事項を柊也本人に説明し、炎症止めの点滴をオーダーした。処置室を出た柊也の視線は、無意識のうちに待合ロビーを彷徨っていた。やはり、詩織の姿はない。彼は手元の診療明細に視線を落とし、自嘲気味に口角を上げた。そのまま点滴室へ向かおうと歩き出した、その時――背後から、詩織の声がした。「柊也」足を止め、ゆっくりと振り返る。その瞳が一瞬、揺れた。詩織は買い出しに行っていたらしく、手にはレジ袋が提げられている。近づいてくる彼女に対し、柊也はわざとゆったりとした口調で言った。「てっきり、置き去り
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第495話

「あれ、江崎社長は?」思わず口をついて出た問いに、柊也は淡々と答えた。「帰ったよ」「……帰った、ですって?」春菜は耳を疑った。そんなことがあるはずがない。かつてエイジアにいた頃の詩織なら、四六時中、社長の側に張り付いていたはずだ。今回のような事故ならなおさら、ただの風邪ですら他人の手を借りようとせず、甲斐甲斐しく世話を焼いていたのに。あの頃の深い献身ぶりを知っているからこそ、春菜の驚きは大きかった。しかし柊也は気にする素振りも見せず、傍らのスタッフに顎をしゃくった。「専門のスタッフがいるだろう」「でも、置いていくなんて薄情すぎませんか? 社長は彼女を助けるために怪我をなさったのに」納得がいかない春菜に対し、柊也の声が鋭く冷たく響いた。「――その台詞は二度と聞きたくないな」春菜はハッとして息を呑んだ。越権行為だったと悟る。社長には今、婚約者がいる。それも、深く愛している相手が。もし「江崎詩織を助けるために怪我をした」などと志帆の耳に入れば、波風が立つことは避けられない。春菜は慌てて弁解した。「他意はありません。ただ、江崎社長が変わってしまわれたなと……なんだか、人間味が薄れたような気がして」柊也は椅子に深く身を預け、目を半分閉じたまま、掠れた声で呟くように言った。「それでいいんだ。そのくらいでなければ、この業界では生き残れない」一呼吸置いてから、さらに冷ややかな響きが加わる。「それに、彼女が負い目を感じる必要などない」感情においても、それ以外においても。春菜は困惑した。社長の言葉の真意が、あまりに深すぎて読み取れない。どう考えても、今回は詩織を助けて負った怪我だ。彼女が何も感じないで済むはずがないのに。だが、問い返す間もなく、柊也は話題を事故の件へと切り替えた。春菜は頭を切り替え、事実を報告する。「セダンの運転手は拘束されました。どうやら飲酒運転だったようです」その瞬間、柊也が見開いた瞳の奥底に、冷徹な殺気が渦巻いた。――飲酒、だと?……翌朝一番、詩織は柊也に電話を入れた。傷の具合を確認するためだ。柊也はすぐに出たが、その声には冷ややかな霧がかかっていた。「大したことない。わざわざ心配してもらう必要はないよ」「それならよかったわ」短い返事をして通話を切ろうと
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第496話

言い終わってから、詩織自身も黙り込んでしまった。ふと、遠い記憶が蘇る。以前、親友のミキに、自分も同じような言葉をかけられたことがあったからだ。まさか時を経て、自分が同じ台詞を、今度は第三者として誰かに告げる日が来るとは。密は詩織の胸中など知る由もなく、自信満々に言った。「彼は私を負けさせたりしませんよ」ああ、そういえば自分も当時、そう答えた気がする。恋とは、かくも人を盲目にするものか。だからこそ、もういらない。誰から差し出されようと、愛なんてもう結構だ。完全に魔法は解けた。あんなもの、小説やドラマの中だけの幻想にすぎない。周囲を見渡してみても、愛ゆえに幸福を掴んだ人間など、ほとんどいないではないか。「今夜も長丁場になりそうですか?」密がデスクに積み上げられた書類の山を見て、眉をひそめた。「ええ」これらを全て片付けなければならない。『ココロ』の上場に向けたロードショーに全神経を注ぐために。「じゃあ、私も付き合います」そう言うと、密は手慣れた様子でデスクの整理を始めた。詩織も再び業務へと没頭する。片付けを終えた密は、傍らに座って詩織の向こう数日のスケジュールを確認し始めた。どこか調整して、少しでも息抜きの時間が作れないものかと模索する。今の詩織はあまりにも働きすぎだ。見ているこちらが辛くなるほどに。だが、どれだけ睨めっこしても、針の穴を通すような隙間さえ見つからない。「はぁ……人間、不公平にできてますよね。詩織さんがこうして死に物狂いで働いてるのに、優雅にバカンスを楽しんでる人もいるんですから!」そこまで言って、密はハッと口をつぐんだ。口が災いの元とはよく言ったものだ。思わず自分の軽率な唇を叩く。詩織は苦笑した。「柏木さんが旅行に行ってる話?それなら知ってるわよ」何しろ、まだ柊也のIDがメッセージアプリに残っているのだから。三日前、彼が珍しくタイムラインを更新していた。『順調だ』という短い一文と共に、リゾート地と思われる海辺の写真が投稿されていた。滅多に更新しない彼が動けば、当然注目を集める。コメント欄は瞬く間に埋め尽くされ、嫌でも目に入ってしまう。金融業界という狭い世界、共通の知人が多すぎるのも考えものだ。特に太一などは、まるで遠吠えのように連投
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第497話

智也が大舞台に弱いことを、詩織は誰よりもよく知っている。だからこそ、こうして徹底的に馴らしておく必要があった。智也は神妙な面持ちで壇上に上がり、プレゼンテーションを開始する。詩織はスマートフォンを取り出すと、マスコミ役になりきって彼にレンズを向け、プレッシャーをかけ続けた。万全を期すため、二人はそんなシミュレーションを何度も繰り返した。「今の、すごく良かったわ!明日はその調子で行きましょう」詩織の輝いた声に、智也が振り返る。その瞳には感謝の色が浮かんでいたが、奥底にはそれだけに留まらない、熱い情動が渦巻いていた。彼はそれを懸命に押し殺し、どうにか平静を装って切り出す。「……詩織さん。もし『ココロ』の上場が成功したら、この前の話、もう一度考えてみてくれないか」以前、彼女に伝えた想いのことだ。しかし詩織は、撮ったばかりのリハーサル動画のチェックに余念がない。「え、何か言った?」「……いや、なんでもないよ」せっかく振り絞った勇気が、音を立ててしぼんでいく。智也は苦笑いして飲み込んだ。まだ、その時じゃないのかもしれない。無事に上場してから、改めて伝えればいい。そう自分に言い聞かせる。今、余計なことを言って彼女の気を散らせたくなかった。何よりも今の最優先事項は、『ココロ』の上場なのだから。詩織の意識もまた、ビジネス一色に染まっていた。他の感情が入り込む隙など、今の彼女にはない。すべての段取りを確認し終え、勝利を確信した矢先のことだ。時計の針が本番前夜の十時を回った頃、一本の連絡が入り、現場に激震が走った。「会場が……使えない?」あろうことか、押さえておいたはずのメインホールが手違いで既に貸し出されているという。残された選択肢は、隣にある小さな会議室だけだった。報告を受けた瞬間、密は血相を変えて受話器に食ってかかった。「貸し出されているって、どういうことですか!?半月も前から調整していたじゃないですか。明日が本番だっていうのに、今さらダブルブッキングだなんて……そんな話、通用しませんよ!」だが、先方の担当者の態度は、氷のように冷ややかだった。「こちらの伝達ミスがありましてね。まあ、起きてしまったことは仕方がないでしょう」「『仕方がない』で済む問題ですか!招待状だってとっくに発送済みなんですよ!」「で
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第498話

腹の底から湧き上がる怒りを必死に抑え込み、詩織は学長の曲山へ電話をかけようとスマートフォンを取り出す。だが、発信ボタンを押すより早く、聞き覚えのある声が鼓膜を震わせた。「曲山先生、こんな時間に申し訳ありません」声の主は、志帆だった。「いやいや柏木さん、気にしなくていいですよ。電話一本で済むことなのに、わざわざ賀来社長と二人でお越しになるとは」曲山の機嫌の良さそうな声が近づいてくる。「手が足りないようなら遠慮なく言ってください。うちの学生ボランティアを動員しますから」「まあ、助かりますわ。ありがとうございます」その時、機材を抱えたスタッフが二人の脇を通り抜けた。すると隣にいた柊也が、無言のまま志帆の二の腕を引き、自分のほうへと手繰り寄せる。次の瞬間、志帆の体はすっぽりと彼の腕の中に収まっていた。抱き寄せられた志帆は、甘えるように上目遣いで彼に微笑みかける。「では、私はこれで失礼しますよ。何かあればすぐに連絡を入れなさい」現場が滞りなく動いているのを見届け、曲山が二人に背を向けようとする。すかさず、柊也が口を開いた。「ええ、ご足労をおかけしました。この埋め合わせは、いずれ食事の席ででも」「はは、賀来社長にそう言っていただけると光栄ですな」曲山は満足げに手を振ると、上機嫌でその場を後にした。曲山が立ち去ると、柊也と志帆は親密な様子でホールへと消えていった。残された詩織は、深く息を吸い込む。そうでもしなければ、燃えさかる怒りに身を焦がしてしまいそうだったからだ。震える指で、曲山の番号を呼び出す。コール音が途切れると、開口一番、彼からの謝罪が飛び込んできた。「江崎さん、いや、申し訳ない!ちょうど私からお電話しようと思っていたところです。実は学内調整に手違いがありましてね、お貸しする予定だった会場を変更せざるを得なくなったのです」「ですが学長、事前の契約では……」「江崎さん、今回は私の顔を立ててはもらえませんか。この借りは必ず返します。今後、私にできることがあれば何でも言ってください、決して無下にしませんから!」曲山は詩織の反論を待たず、一方的に畳み掛けた。……もう、決まったことなのね。覆水盆に返らず。決定事項なのだ。無理もない。あの賀来柊也が直々に動いた案件を、曲山ごときが拒めるはずが
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第499話

人手が増えたことで、作業ピッチが上がる。それでも会場設営の目処がついた頃には、時計の針は午前三時を回っていた。深夜の緊急招集に応えてくれたスタッフたちに、詩織は申し訳なさを募らせる。せめてもの労いに差し入れでもしようと、デリバリーアプリを開きかけた時だった。「すみません、お届け物です!」元気な声と共に、配達員の青年が大量のドリンクと軽食を抱えて現れた。彼は入口で立ち止まり、中の様子を伺うように声を張る。「柏木志帆様はいらっしゃいますか?」「ええ、私よ」奥の椅子から、志帆が優雅に立ち上がって歩み寄る。「賀来様より、コーヒーと軽食のお届けです。サインをお願いします」「あら、ありがとう」受け取りを済ませると、志帆はすぐに通話ボタンを押した。その声は、隠しようのない甘い歓喜に濡れている。「柊也くん?コーヒー届いたわ。もう寝ちゃったかと思ってた……」「ううん、全然平気。私は座って指示してるだけだもの、疲れてなんていないわ」「ここ数日バタバタしてごめんなさいね。パース・テックが無事上場したら、またゆっくりバカンスに行きましょう」周囲の空気などお構いなしに、志帆は幸せそうな声で愛を囁き続ける。一方の詩織は、アプリの画面を睨んでいた。近場の店はどこも閉まっており、最短でも配達まで一時間はかかるらしい。……自分で行ったほうが早いわね。仕方なく自ら買い出しに出ようとした矢先、通路の向こうから密たちが駆け寄ってきた。彼等の手には、ずしりと重そうな袋がいくつも提げられている。「詩織さん!みんなのためにコーヒーや夜食を買ってきましたよ。これで少しは元気が出るかと思って」密が得意げに笑いかける。詩織は思わず安堵の息を漏らした。本当に……頼もしくなったわね。かゆい所に手が届く優秀な秘書のおかげで、詩織はようやく張り詰めていた肩の力を抜き、ひと時の休息を得ることができた。……朝七時。志帆は『Belle Fleur』のアトリエで、ヘアメイクの仕上げに入っていた。その傍らでは、従妹の美穂がアクセサリー選びに奮闘している。あまりの種類の多さに、美穂は目を回しそうだ。どれもこれも目が飛び出るような最高級品ばかり。柊也がいかに志帆を溺愛しているか、その証左のような輝きを前に、美穂は羨望のため息を漏らさずにはいられなか
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第500話

「お母さんも悪気があって言ってるわけじゃないのよ。安心して、私がこの街のキャピタル界で不動の地位を築いたら、あんな醜聞なんて私が握りつぶしてあげるわ」「……うん。分かった」理屈では理解していても、沈んだ気分は晴れない。志帆は手元のジュエリーボックスからネックレスを一つ選び、美穂の首にかけてやった。「ほら、これあげる」「わぁっ、本当!?」先ほどまでの不満はどこへやら、美穂は鏡に映るネックレスにうっとりと見惚れ、現金なもので機嫌を直した。「お姉ちゃん、ありがとう!……そういえばこの前、お姉ちゃんが拉致された時はヒヤヒヤしたよ。てっきり、柊也さんと別れちゃうんじゃないかって心配してたんだけど……相変わらずラブラブで安心した!」その瞬間、志帆の表情が凍りついた。「……その話、二度としないで」鋭い刃物のような声だった。「特に、柊也くんの前では絶対にダメよ」「えっ、あ、うん……ごめんなさい」美穂は志帆の剣幕に気圧され、青ざめて頷くしかなかった。……その日、江ノ本大学はかつてない熱気に包まれていた。市内の主要メディアというメディアがこぞって集結している。彼らのお目当ては二つ。一つは『パース・テック』、そしてもう一つは『ココロ』だ。会場入りした志帆は、入口に並べられた二つの案内板を目にして、ふっと冷笑を漏らした。「……ねえ」アシスタントを手招きし、短く命じる。「もっと大きな看板に替えなさい。隣のが目に入らないくらいのをね」「かしこまりました」会場に入ると、悠人からの着信が入った。もうすぐ到着するという。志帆の胸が弾む。悠人のバックには、巨大財閥である天宮グループがついている。彼らの後ろ盾を得られれば、『パース・テック』にとって計り知れない利益となるはずだ。ほどなくして、佳乃も到着した。今日は本当に多くの奥様方を引き連れてきている。どうやら、高温超伝導プロジェクトへの期待は相当なもののようだ。彼女たちは、政財界の重鎮を家族に持つ、いわば最強のインフルエンサーたちだ。その手に握られた人脈とリソースは底知れない。多くの大物たちが、実はこうした奥様会のネットワークを足がかりにのし上がったという事実は、業界では公然の秘密だ。志帆は満面の笑みを絶やさず、彼女たち一人一人に愛想を振りまいた。奥様連中をVIP席
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