All Chapters of 完美な妻になったら、社長の夫が後悔した: Chapter 1 - Chapter 9

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第1話

山本健太(やまもと けんた)と結婚して五年目、私はついにこの世界に別れを告げられるという朗報を受け取った。最後の三日間、私森下夏帆(もりした かほ)は健太の望む完璧な妻に、そして息子の望む静かな母親になると決めた。 一日目、健太は私が上品さに欠けると嫌がり、偽お嬢様しか宴会に連れて行こうとしなかった。私は文句ひとつ言わず、彼のスーツを丁寧にアイロンがけした。 二日目、息子は私のおしゃべりを嫌がり、偽お嬢様のところへ行きたいと騒いだ。私は笑顔で彼をその人のもとへ送ってやった。 三日目、友人から電話がかかってきて、歯がゆそうに問い詰められた。 「そんなふうにして、本当に二人を失うのが怖くないの?」 私はただ淡々と笑って答えた。 「大丈夫、もうすぐ家に帰るから」 その瞬間、健太がハッとこちらを見た。瞳の奥には、これまで見たことのない焦りが浮かんでいた。 「夏帆、お前は孤児だったろ?俺以外に、どこに帰る家があるんだ?」 健太の目に浮かんだ驚きを見て、私は電話を切り、不自然さを見せずに口を開いた。 「ただの冗談よ。たとえ帰れる家があったとしても、きっと私を歓迎なんてしないわ」 その言葉に健太はようやく安心したようだった。 「今夜は遥香の誕生日を一緒に祝うんだ。息子も一緒に行く」 私は笑みを浮かべて尋ねた。 「私も一緒に行くべきかしら?」 健太は不思議そうな顔をした。 以前なら、こんなことを言われたら私は必ず怒って駄々をこねて、健太や息子が森下遥香(もりした はるか)に会うのを許さなかっただろう。 けれど今の私は、怨みのない顔で、むしろ自分から一緒に行くと提案をしていた。 だが健太は冷たく私を拒んだ。 「お前は来なくていい。遥香の両親は長年お前を育ててくれたが、今は遥香が戻ってきたんだ。これは実の両親が彼女のために用意した最初の誕生日祝いだからな。お前が行ったら、余計に場が白けるだけだ」 言葉の端々まで、私が邪魔者だと突き付けてくる。 私は静かにそれを受け止めた。 実家にも馴染めず、養父母の家にも溶け込めず、嫁ぎ先の家にも居場所がない。 健太の言う「孤児」という言葉は、皮肉にもぴったり当てはまっていた。 私は淡々とうなずいた。 「分かったわ。じゃあ私は行かない。遥香へのプレゼン
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第2話

元々この贈り物の持ち主は、私なんかじゃなかった。 私は書斎からネックレスを取ってきて、健太に差し出した。 健太は箱を受け取り、険しかった眉尻がわずかに緩んだ。 「俺と息子はすぐ戻る。食べたいものがあったら、俺のカードで好きに買え」 私は笑って「うん」と返事し、視線を落として二人の背中を見送った。 玄関がバタンと大きな音を立てて閉まり、私は部屋へ戻ろうとした。背後では使用人の嘲笑が聞こえてきた。 「あの人、山本家の奥様としては失敗ね。夫の心を繋ぎ止められないばかりか、子供の心まで繋ぎ止められていないんだから。遥香さんと誕生日が同じなのに、夫も子供もみんな遥香さんの祝いに行って、彼女の誕生日を覚えてる人なんて誰もいなかった。私が見るに、この奥様の座も、そう遠くないうちに遥香さんに奪われるわね」隣にいた者がため息を漏らす。 「奥様も本当に不幸よね。実の両親は亡くなって、養父母には大事にされず……それに比べたら遥香さんは恵まれてる。二十年間、森下家で何不自由なく愛されて育ち、今では実の両親の勢力も拡大して、幸せまっしぐらだから」 使用人たちの会話は耳に鮮明に届いていたが、私は一度も振り返らなかった。 こんな言葉、初めて聞いたわけでもない。 最初は聞き捨てならず顔を曇らせて叱ったこともある。私は遥香が嫌いだが、それでも健太の心は私にあると思っていたから。 けれど、ある日遥香が私のブレスレットを「素敵」と言っただけで、健太は私への贈り物を取り上げ、彼女の誕生日会の品として渡してしまった。 それから少しずつ、私の心は麻痺していった。 ……でも大丈夫、3日間はもうすぐ終わる。 今夜、やっと家に帰れるのだから。 部屋へ戻った私は、壁にかかったウェディングドレスの写真を外し、指先でそのドレスをなぞった。 新婚の夜、システムが「攻略成功」と告げ、この世界から離脱する招待を送ってきた。 この数年間、健太を攻略するために散々甘い言葉を口にした。けれど、知らぬ間にその言葉の中には本心が紛れ込んでいた。 私は一晩中胸が痛んで、酔った勢いに任せ、真夜中に健太へ勇気を出して告げた。 「私はあなたの人生の通りすがりにすぎないの。これから本当に出会うヒロインは、上品で知性があって、気配りもできて、私なんかより何倍
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第3話

健太が振り返ったとき、その瞳には深い陰りが落ちていた。 「病院に行く。遥香がお前の作ったケーキを食べて倒れた」 病室の中では、息子の山本悠斗(やまもと ゆうと)がコップを両手に持ち、背伸びしながら遥香の口元へ運んでいた。ひと口ひと口、慎重に水を飲ませている。 そんな優しさ、私には一度も向けられたことがなかった。 この五年間、私が熱を出して寝込んでいても、水をお願いすると、彼は眉ひとつ動かさず顔を背けただけだった。 「僕は暗記しなきゃいけない。自分でやってよ」 あの時はまだ子どもだからと、ただ幼さのせいだと思っていた。 けれど今ならわかる。彼の心が求める「母親」は、私ではなかったのだと。 私が病室へ足を踏み入れた瞬間、遥香の身体がびくりと震え、涙ぐんで頭を下げた。 「夏帆さん、ごめんなさい……健太さんと近づきすぎたのは私のせいなんです」 その言葉を聞いた途端、悠斗は小さな身体で遥香を庇い、警戒心を剥き出しにして私を睨みつけた。 「この悪い女め!遥香お姉ちゃんはきれいで優しいのに、嫉妬してガラス片入りのケーキを食べさせたんだろ!」 胸の奥がどくんと跳ね、私は冷静を装って問い返した。 「……ケーキ?」 悠斗は足を強く踏み鳴らした。 「とぼけないで!僕はちゃんと見たんだ。ケーキはお母さんが持ってきたんだよ!それに手書きのカードだって添えてあった!もう少しで遥香お姉ちゃんを殺すところだったんだ!こんなの、母親だなんて認めない!」 慣れていたはずなのに、その幼い声は胸に鋭く突き刺さった。 私は健太を見た。 「……あなたも信じるの?」 答えは返ってこなかった。だが、彼の瞳に宿る失望が何より雄弁だった。 滑稽だとさえ思えた。数日前、健太に作ったスープで手を火傷し、それ以来、右手は包帯に覆われている。 ペンすら持てない。それなのに、どうやって贈り物のカードを書き、手作りケーキなんか用意できるというのか。 ほんの少しでも、健太か息子が私の右手を気にかけていれば、この嘘がどれほど稚拙かわかったはずなのに。 それなのに今、二人は並んで遥香を守り、敵を見るように私を睨んでいる。まるで、ここにいるのは私が「部外者」だと言わんばかりに。 私は悠斗に向かって淡く微笑んだ。 「母親にふさわしくないって
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第4話

いつから、こんな人間になったんだろう? もうよく覚えていない。おそらく最初は、私が遥香に濡れ衣を着せられたとき、彼が迷わず彼女を信じ、私は一晩中泣き明かしたあの夜だったのかもしれない。 あるいは、彼が次第に私をつまらない女だと嫌うようになり、宴会に連れて行ってくれなくなり、代わりに隣に座るのが遥香だったとき。私は三日三晩、泣き叫んで怒った。 または、明け方五時に心を込めて煮たスープを、彼がそのまま遥香に渡し、体を労うためだと言った夜。私は長い間、胸の奥でその苦しみを押し殺していた。 そんな出来事はあまりにも多すぎて、どこから語ればいいのかわからないほどだった。 健太は顔を強く張り詰め、冷たい声で言い放った。 「今すぐ遥香に謝れ。そうすれば、この件はそれで終わりだ」 私は口角を引き上げ、歯の隙間から言葉を搾り出した。 「夢でも見てなさい」 健太の顔色は一気に陰り、瞳に怒りの火がぱっと走った。 「夏帆、もう一度言ってみろ。俺が本当にお前に手を出さないと思ってるのか?」 私は冷たく鼻で笑い、気力を振り絞ってさっきの言葉を繰り返した。 「夢でも見てなさい。やってもいないことを謝るなんてありえない。私は何一つやましいことはない」 その瞬間、健太は完全に逆上した。 テーブルに残った半分のケーキを掴み、私の顎を力強く掴んで、そのまま口にねじ込んだ。 「見苦しいな……棺桶を見るまで泣かないってか。口答えする罰だ。お前が謝らないなら、その痛みをそのまま味わせてやる」 むせ返る咳がこぼれ、クリームに混ざったガラス片が喉を裂き、血の味が広がった。 視界の端では、遥香が実に愉快そうにこちらを眺めていた。 眼前では、健太が高みから私を見下ろしていた。 その嫌悪に満ちた目を見たとき、私はふと、この人が誰なのかわからなくなった。もうあの少年の面影は、どこにも残っていなかった。 気付けば悟っていた。かつての愛しい人は、もうとっくに死んでいたのだと。今ここにいる健太は、もう別人だった。 周囲は騒々しく、責め立てる声ばかりが響いていた。 私はもう聞きたくなかった。これ以上、一言たりとも。 一筋の涙が頬を伝い落ちたとき、頭の奥でシステムの機械音が響いた。 「宿主、世界離脱まで残り三十秒。二十九秒」 私は壁
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第5話

下の階は蜂の巣をつついたように大騒ぎになり、悲鳴や怒号が途切れることなく響いていた。 健太は震える体を引きずるようにして窓辺へと近寄った。 視線が私の真下に広がる真っ赤な血だまりに落ちた瞬間、健太の体がビクリと跳ね、思わず数歩後ずさって呆然と立ち尽くしてしまう。 背後から悠斗の震える声が響いた。 「お父さん……お母さん、すごくたくさん血が出てる」 その一言が健太の胸を鋭く抉り、我に返った彼は慌ただしく階下へ駆け出そうとする。 だが、遙香が慌てて口元の笑みを押し殺しながらベッドを降り、健太の腕を掴んだ。 「健太さん、行っちゃダメです。血を見たら縁起が悪いんですって。そのうち警備員が死体を処理してくれるし……私は彼女が死んでくれた方がいいと思います。そうすれば、あなたに離婚を迫ることもなくなるでしょ」 健太はそれを聞いた途端、腕を乱暴に振り払って彼女を突き飛ばした。顔には濃い影が落ちていた。 「ふざけるな!夏帆は俺と一生一緒にいるって約束してくれたんだ。死ぬなんてあり得ない!」 声が一気に張り上げられ、突き飛ばされた遙香はよろめいて壁に叩きつけられた。 さっきまでは、自分のために、私にガラスの欠片入りのケーキを無理やり食べさせた健太が、今は私が飛び降りたことでここまで取り乱すとは遙香も予想していなかった。 驚きに目を見開き、顔を上げた時には、もう健太の姿はなかった。 エレベーター前には長蛇の列ができていた。苛立ちと焦燥に駆られた健太は、待ち切れず階段に飛び込む。 こんなにも必死に私に会おうとしたのは、あの日以来だった――プロポーズをした日。 道路の真ん中で事故が起き、車が一斉に足止めを食らったあの日。 健太は迷わず車を飛び降り、花束と指輪を手に私へ向かって駆けてきた。 私は額に浮かんだ彼の汗を笑いながら拭い取り、「そんなに無理しなくても。私はいつまでも待っているから」と言ったのに、健太は首を振って笑った。 「大好きな人に早く会いたいから、どうしても走りたいんだ」 その時、私は彼の言葉に目尻を細めた笑みを浮かべた。それは彼の記憶に強く焼き付いた。 遠くから群衆のざわめきが耳に届き、健太の意識は現在に引き戻される。 人だかりで身動きもとれない場所に、私は倒れていた。健太は必死に人混みを押
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第6話

「今朝、お坊ちゃんが見たケーキを届けたのは、私なんです。遥香様に奥様の服を着せられて、マスクと帽子で顔を隠して運ばされました。もし断ったら、母の治療費を打ち切るって脅されて……でも……でも、ケーキの中にガラスが入っているなんて知りませんでしたし、自分の行いで人が死ぬなんてもっと知りませんでした。罪悪感で胸が押し潰されそうで、結局お二人に全てを正直に話すことにしました。旦那さま、どんな罰を受けても構いません。一生この後悔を背負って生きるなんてできませんから……」顔色を真っ青にした使用人が、ポケットから録音機を取り出した。「これがあの時、遥香様からの命令を録音したものです……奥様に本当に申し訳ございません……」使用人は耐え切れずに目を閉じた。そこから流れてきたのは、遥香の傲慢な声だった。「私が彼女を中傷してるって?健太の幼なじみは私でしょ!妻になるべきなのも私だった!夏帆が私の幸せを奪ったんだ!彼女に健太の愛を得る資格なんてない!言われた通りにやればいいの!逆らうなんて考えないことね。そうでなきゃ、あんたの母親、今夜で命は終わりよ!」息子は驚愕で口を大きく開けたまま、目を見開いていた。「遥香お姉ちゃんが……こんなことを……?」健太の拳は震え、そしてその顔には暗く冷たい影が落ちた。彼はふいに思い出してしまった。自分の妻が飛び降りる前に残した、あの絶望の言葉を。「健太、あなたこそ哀れよ。真実を見抜く力さえ持っていないなんて。私の想いを完全に踏みにじった」全部――遥香が知っていたんだ。心臓を鷲掴みにされたように、健太の胸は怒りで燃え上がる。彼の頭にあるのは、ただ遥香を捕まえて問いただすことだけだった。そして運命が皮肉にも手を差し伸べた。廊下を進む健太の前に、ちょうど遥香が現れたのだ。健太を見ると、彼女は心の底から込み上げる喜びを押し殺し、慌てて駆け寄ってきた。「健太、ここにいたのね!心配で心配で仕方なかったの!」彼の険しい表情など気にも留めず、遥香は勝手に言葉を続ける。「健太は情に厚いから、妻を亡くして辛いのは当然よ。でも人は前を向かないと。もし本当に妻が必要なら……私がいるじゃない」そう言って頬を赤らめ、彼の肩にもたれようとした瞬間――冷たい音が響いた。頬を打ち据える乾いた音だ。遥香は熱を帯びた
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第7話

遥香の泣きじゃくる声が途切れた。 さっきまで彼女のために、私にガラス片が詰まったケーキを無理やり食べさせた男が、今になって「愛していない」なんて言い出したのだ。 そこへ数人の警官がやって来て、人々に証明書を見せた。 「私たちはA区の交番の警察です。さっき通報したのは誰ですか?」 ずっと壁際で黙っていた悠斗が、突然手を挙げて遥香を指差した。 「僕が通報しました。彼女が他人を脅して、お母さんを傷つけました」 警官たちは遥香の前に進み、絶望に染まる彼女の目を冷たく見返すと告げた。 「すみませんが、状況を把握するため、ご同行いただけますか?」 気づいたとき、全身粉々に砕けたような痛みはすでに消えていた。 意識が戻った時、全身が砕け散るような痛みは消え去っていた。私は目をこじ開けて体を起こし、目の前にある見慣れた我が家を見て驚いた。巨大な安堵感が私を包み込み、脳内でシステムの機械音が響いた。「宿主、攻略完了おめでとうございます。賞金はあなたの銀行口座に振り込まれました。三次元での生活が順調であることを願います。もしまた任務を受けたい場合は、いつでも私を呼び出してください」言い終わると、システムは再び沈黙した。システムから20億円の報酬を受け取り、私は念願の裕福な人生を送ることができた。健太や恩知らずの息子からの軽蔑もなく、遥香の企みもない。あるのは一生使いきれないほどのお金と楽しさだけで、私の前途は明るかった。半月後、私がバリ島のビーチでカーリーヘアのイケメンと潮風にあたっていると、システムの機械音が突然鳴り響いた。「宿主、元の世界が崩壊しました。もう一度戻っていただく必要があります」私は慌ててカーリーヘアのイケメンを追い払い、こっそりとシステムに問いかけた。「何があったの?」システムは何も答えず、ただ一つの映像を私に見せた。飛び降りた後、私は植物人間となり、ベッドに横たわったまま重病で起き上がれなくなっていた。遥香の陰謀が明らかになった後、健太の裏での働きかけにより、傷害罪と脅迫罪で懲役60年の判決を受けていた。しかし、刑の執行当日に遥香は突然失踪し、行方はいまだ不明だという。そして健太は、私を治すために大金をはたいて世界中の最高の医師を呼び、仕事も構わず、息子を連れて毎晩私のベッド
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第8話

「健太、私たち離婚しよう」健太の手がピクッと震え、持っていたスープを落としそうになり、慌てて横に置いた。 落ち着かない様子で私を見つめる健太。 「いきなりどうしたんだ?離婚って……遥香のことか?あの件の真相はもう分かってる。今は逃げてるけど、もう人を探しに行かせた。いずれ必ず罰を受けるはずだ」 私は首を振った。 「それだけじゃないの」 健太は真剣な顔つきになる。 「じゃあ、前に俺がお前をパーティーに連れて行かなかったことが原因か?あれは俺が悪かった。今から人に頼んでお前のサイズで特別なドレスを仕立てさせる。どうだ?」 私はまた首を振る。 「そんなものは要らない。健太、あなたは思ってるのね、私が苦しい理由は遥香だけだって。健太……あなた誓える?私を最初のように愛してるって。これからも私があなたを縛っても、絶対に嫌にならないって。これから先、二人目の遥香なんて絶対に現れないって、そう誓える?」 健太は絶句し、答えに詰まった。 五年前なら、きっと胸を張って「愛してる」と言えたはず。むしろ以前にも増して強く愛していると。 けれど今は――五年が経ち、かつては愛おしく感じていた束縛が、結婚生活の中でただの煩わしさに変わり、私の小言は一番聞きたくないものになった。 その結果、彼が遥香のもとへ通い詰めたのも、ただ「静けさ」が欲しかっただけ。 愛なんて言葉は、賞味期限の短い贅沢品だ。五年前の彼は、人前で手を握り、高らかに宣言してくれたのに。 今の彼は、胸を張って言う勇気すら残っていない。 健太のためらいは、私にとって想定の範囲内だった。私は壁につかまり、ゆっくりと立ち上がる。しかし体がふらついた瞬間、健太がすぐに抱きとめた。 「やっと目を覚ましたばかりだろ。まだ体力戻ってないんだ。車椅子に座って、行きたいところがあれば俺が押していく」 そうして彼に車椅子へ乗せられ、私は小さく言った。 「外の花……もう咲いてるわ。連れて行って」 病院の裏には小さな庭園があり、健太がゆっくりと押して歩く。 地面に落ちたバラの花びらを拾い上げながら、視線は自然と沈んでいった。 五年前、健太と結婚した時、私はあの庭に大きなバラ園を作った。一本一本大切に世話をし、どの花も鮮やかに咲き誇っていた。 しかし遥香が家に居
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第9話

健太が私と決別できないのであれば、私は完全に彼のもとを去り、彼のすべての未練を断ち切るしかない。私が数歩踏み出したその時、突然、そばの茂みから冷たい光が閃き、ナイフの先端が私の腕をかすめた。現れた人物を見て、私は眉をきつくひそめた。「遥香!」遥香は冷笑を漏らし、私の喉を掴んで壁に押し付け、ナイフの切っ先を心臓に突きつけた。「まさかだろ、夏帆。このクソ女が、ついに私の手の中に落ちたんだ」彼女の目は怒りに燃えていた。私の体はまだ回復しておらず、彼女の接近にはなす術がなかった。ナイフの切っ先が私の心臓に突きつけられる力が強まり、刺すような痛みが走った。喉が息苦しくなり、私はふと、このまま死ぬのも悪くないかもしれない、と思った。この体が消滅すれば、健太も完全に執着を捨てられる。そうすれば、この任務は円満に完了する。私はゆっくりと目を閉じた。ナイフの切っ先が皮膚を突き破ろうとしたその瞬間、遥香の手が突然震え、ナイフはカシャンと音を立てて地面に落ちた。私が目を開けると、息子が遥香の腕を強く噛み、彼女を突き飛ばして、私の前に両手を広げて立ちはだかっていた。「お母さんをいじめるな!」悠斗の幼い声には、強い意志が満ちていた。続いて駆けつけてきた健太が、手際よく遥香を抑えつけた。健太は顔を上げ、もう一方の手で私にアイスクリームを差し出した。「警察がもうすぐ来る。今度こそ彼女は逃げられない。早く食べな、溶けてしまうぞ」まもなく、警察が到着し、遥香を連行していった。遥香は罪を逃れようとしていたため、元の判決に加えて罪が重くなる。今度こそ、彼女は完全に逃れることはできなかった。パトカーの姿を見送った後、健太は突然振り返り、悲痛な声で私に尋ねた。「さっき、どこへ行くつもりだったんだ?」私は黙って彼を見つめた。「もう答えは分かっているでしょ?この五年間にあなたが私に与えた傷を、たった二言三言で私が許すとでも思っているの?健太、もし本当に私を愛しているなら、私を行かせて」「俺と離婚して、お前はどこへ行くんだ?」「どこへでも行けるわ。健太、私はもうあなたのそばにはいたくないの!」健太も沈黙し、長い間私を見つめていた。そして、最後に自責の念にかられたかのようにため息をついた。「わかった。この五年は俺のせ
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