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domの王子はsubの皇子を雄にしたい のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

99 チャプター

第71話:戦支度の誓酒

鐘は三度鳴った。大聖堂の石床が薄く震え、王子は指先の汗を衣の裏へ滑らせた。彼は隣に立つ皇子の呼吸を聞いていた。浅く、だが逃げていない。公では皇子が前に出る。それが二人の取り決めで、今日がその初舞台だった。「条約婚を結ぶ」皇子が短く言った。声は澄んでいた。人々のざわめきが吸い込まれて消える。老司祭が聖油を差し出し、二人は互いの手首に油を引き、契婚印の魔紋を重ねた。藍の線は絡み、金の粒子がぱっと弾ける。冷たい石の匂いと、油の甘い匂い。王子はその微かな震えを、握った手を通じて拾い取る。「条件を」皇子が続ける。契約は愛の前に置く。彼らは一週間前、旅の寝台で紙に書いた全てを、今ここで人々に示した。「可は、口づけと抱擁。不可は噛み跡を残すこと」「合図は三つ」「『よい』は、指先を二度」「『待て』は、手の平」「『中止』は、合言葉」王子は低く補った。「合言葉は白燕。公務でも私事でも同じにする」ざわつきが起こり、すぐ収まった。老司祭が頷く。週に一度のスイッチ・デーについても明文化される。火の四日、役割の練習と点検を行う。公務は変わらないが、私室では皇子が支配と委任を練習し、王子が受け止める。これは二人の“雄になる”訓練の一部だ。誓酒の杯が運ばれてきた。大麦酒だ。泡が白い筋を残す。老司祭が言う。「戦支度の前に、契りの杯を」皇子は杯を掲げた。腕は伸び、肩は落ちていない。王子は小さく微笑んだ。彼が森で初めて見たときよりも背筋は真っ直ぐだ。霧の中で互いの弱さを晒して握った手は、その日からずっと離れていない。「後背を固める」皇子の二言目はもう政治の言葉だった。大聖堂の倉、地下街の問屋、納骨堂の氷室。三つの力が軍糧を巡って綱を引いている。誓酒の場で、それを解く。王子は合図を受け、巻物を広げた。「契式魔紋を穀袋に刻む。二重封緘。二つの鍵」皇子が端的に付け足す。「鍵は両押し。片方は大聖堂。片方は我ら」魔紋は簡素だが、流用できない。封緘の破りは光る。地下街の頭は最初に顔をしかめ、次に肩をすくめた。「割前が減
last update最終更新日 : 2025-11-13
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第72話:共闘の寝台

夕刻の鐘が三度、石の街に低く響いた。大聖堂の前階段には白い布が張られ、たいまつの匂いと香油の甘さが絡み合っていた。人々が見守る中、皇子は前に立ち、王子の手を取って条約婚の文書に署名した。魔紋師が金の針で小指の付け根に微細な紋を入れ、共治の印は淡く光った。誓いは公だ。ふたりの視線だけは私的で、短く、しかしはっきりと頷き合った。儀礼が終わり、地下街に抜ける回廊へ降りると空気は冷え、石壁に溜まった湿りが頬に触れた。納骨堂へと続く香炉の煙が細く伸びている。祖霊の前で三呼息、皇子は喉を湿らせるように告げた。「先に民だ。戦は短く」王子が横で、静かに笑った。「そして長く生きる。約束だ」夜、私室。外のざわめきは遠い。蝋燭が一本、寝台の端で揺れ、小さな炎が金の糸の刺繍をなぞった。王子は扉に鍵をかけた。音は軽い。皇子は肩で息をし、儀礼の緊張を指先に残していた。衣の紐を解く手が止まる。王子が近づき、膝を合わせる距離で囁いた。「契約を、確認しよう」皇子は頷き、枕元の羊皮紙を取った。筆致は両者のもの。合意契約は明文化されている。「可は、手首を軽く縛る。目隠しは短時間。跪礼は言葉での許可に限る」「不可は、首への圧迫、出血、噛み痕を残す行為。否認の連想を呼ぶ言葉」王子が続ける。声は低い。「合図は三段階。手を三回叩いたら休止。黄は減速、赤で即停止」皇子が紙面に指を置いた。「セーフワードは、柘榴」寝台の軋みが小さく鳴った。王子は緩い絹の紐を見せた。儀礼の帯をほどいたものだ。結び目は一度で解ける仕掛け。皇子の手首に触れる。手のひらは温かい。絹は冷たい。「試す?」皇子は一瞬、息を飲んだが、目を伏せて頷いた。紐は軽く、手首には余裕がある。王子が掌を被せ、指で脈を確かめた。「ここにいる。意識はここに。呼吸を数えよう。三つ」「ひとつ。ふたつ」「……黄」皇子の喉が乾いた音を立て、たどたどしく言葉が出た。王子の指が即座に止まり、紐が解かれる。肩を抱き寄せ、水差しから
last update最終更新日 : 2025-11-14
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第73話:火口の前

風が硫黄を運んだ。火口の縁は熱を含んで、足裏から鼓動みたいな震えが上ってくる。皇子は深呼吸をひとつ。乾いた喉に熱気が刺さる。彼の手に、王子の指が重ねられた。「まだ間に合う。合図は決めた通り」王子は短く言い、肩を軽く押した。背で支える気配。いつもの位置関係。公では皇子が前、私室では王子が支える。二人でそう決めてきた。彼らは敵領の大聖堂を背にしていた。白い尖塔は晴天を切り裂くように立ち、麓の地下には街が広がり、さらにその下に納骨堂が横たわる。鐘の鳴りは、今日は拍がずれている。皇子は眉根を寄せた。「鐘が五つ、それから二つ。喪の合図にしては違う」「合図を混ぜている。中で引っ張り合いが始まってる」王子の声が低くなる。地下街の頭領がこちらに出した密書が思い出された。大聖堂の老いぼれ司教と納骨堂の番人、その背後の食料路を握る地下街。誰がどこまで誰の味方か。敵領の内紛は火口のように熱を孕んでいる。「時間を合わせよう。公開儀礼の最中に動くはずだ」王子の言葉に、皇子はうなずいた。条約婚――両国の停戦と交易再開の要。儀礼を人質にされるのは分かっている。だからこちらは外交と諜報を一つに束ねた。地上で誓いを立てる間、地下ではうちの斥候と書記官が納骨堂の鍵を押さえる。森を抜けてここに来るまでの道のりが、皇子の体内でまだ生きていた。湿った葉、甘い樹液、斥候の息と合図。森で出会った彼らに学んだ「静かな移動」。王子はそこで皇子の歩幅に合わせる癖を身につけた。歩みはずれていない。大聖堂の中は冷えた。磨かれた石床の匂いと、乳香の煙。皇子の喉は一瞬だけきゅっと縮んだ。人の目、言葉の刃、鐘の調子。王子が握りを深くする。合図。手首を二度叩けば、いつでも止める。セーフワードは白百合。口にしたら、その場のどんな段取りも中断する。それは条約文の付則としても、個々の合意としても明文化済みだ。可不可の項目も昨日書き直した。「人前での触れ方は手まで」「命令の語感は柔らかく」「終わったら水と甘味」。スイッチ・デーは週に一度、七日目だけ役割を入れ替える。書記官がその箇所を読みながら咳払いを何度もしたのは、ちょっと面白かった。「緊張してる?」
last update最終更新日 : 2025-11-15
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第74話:供応の罠

陽の落ちる手前、森を抜けて城門の白壁が見えた。大聖堂の尖塔は雪をのせたみたいに青く冷たく、鐘は喉を温める前の声で震えていた。 皇子は手袋の中で指をすこし丸めた。緊張で手の汗を吸った羊革が重い。隣りの王子が肩を寄せる。「息、三つ」 「うん」吸って、吐いて、もう一度。合図はいつも通りだ。三拍で整えて、二拍で目を見る。王子の瞳は茶色より深い、焼いた木の色。「今日の可・不可、復唱」 「可は手を引く、抱く、頬と額。拘束紐は短いの一重まで」 「不可」 「首はだめ。痛む罰もだめ。痕は衣の外はつけない」 「合図」 「止めは左の指で三度。困るは踵で二度」 「セーフワード」 「冬薔薇」皇子は言い終え、王子の掌の温度に身体を預けた。二人の間に、かすかな笑いが落ちる。「アフターケア」 「温かい飲み物。肩と手を揉む。言葉で確認。君の言葉で」王子が低く言い、皇子は頷いた。契約は愛より先。けれども、こうして言葉を重ねるほどに身体がほどけていく。皮肉なようで、正しい。門の中は明るかった。公開儀礼に合わせ、広場は市が延びている。香辛料の匂い、焼けた砂糖の甘さ、武具油の金属臭。大聖堂の司祭が来賓の位置を示し、マリエラが帳面を抱えたままふわりと現れる。「衣はここ。帯はこっち。順番は誓文、結印、二重の口づけ、供応」 「二重?」 「公では皇子が先、私室では王子が支える。儀礼どおり」王子が「了解」と短く返し、マリエラは皇子の肩にかける紗を直した。手際の良さはいつものことだが、今日は髪の結い方が違う。風見鳥の羽根を模す細工が、皇子の耳元で軽く揺れた。「森の風を連れてきたのね」 「はい。次の目的地へ、そのまま」彼女の眼差しは鋭く、優しかった。皇子は胸の内で一度笑い、扉の前へ進んだ。大聖堂に入ると、空気が冷たく張りつめ
last update最終更新日 : 2025-11-16
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第75話:翼痕の移譲

鐘の音が三度、厚い石壁を震わせた。大聖堂の中央、白金の祭壇に並んだ二人は、手甲を外し、掌を合わせた。皇子の喉元に淡い光が集まり、王子の鎖骨に刻まれていた翼痕が細い羽根を散らすようにほどけて、皇子の皮膚へ移った。「主導、交替」祭司の声が高まる。聖油の匂いと焼香の甘さが絡む空気の中、群衆は息を呑んだ。翼痕は皇子の喉ぼとけの上で定着し、薄く脈打った。立場は公の場で皇子が前に、私室では王子が支える。それが条約文に刻まれた二重統治の骨子だ。条約婚は成立し、公開儀礼は無事に締め括られる、はずだった。「鐘は四度のはずだろう」地下街の顔役が嘆息し、納骨堂の守り人が杖を突く。「四度は葬儀だ。婚礼で鳴らしたら縁起でもない」「なら三度は誰の都合だ」「大聖堂の都合だ」言い合いに火がつく気配。王子は一歩出て、掌を人差しの形にして胸の高さで二回、皇子の視界に入るように軽く空を叩いた。二人だけの合図。皇子はうなずき、翼痕に指先を当てる。喉元の羽が一瞬だけ眩く光った。皇子の声が澄んで響く。「鐘は三。婚礼の数。納骨の鐘は数えない日だ。地上は生を祝い、地下は静かに見守ってほしい」地下街の笑いがこぼれ、納骨堂の守り人は目を細めた。「なるほど、覚えておこう」緊張が緩む。司祭がほっとして、聖油の壺を抱え直した時、蓋がするりと落ち、床に跳ねて祭壇布に転がった。小さな音。王子が拾い上げて司祭に返すと、司祭の耳が赤くなった。小さな段取りミス。笑いの種になり、場は完全に和らいだ。儀礼の奥の控室に戻ると、二人は同じ書板に顔を寄せた。合意契約は条約の付属文書として公開される。可、不可能、合図、アフターケア。筆跡は読みやすく、赤の線で訂正が入っていた。「『不可』に公的場面での跪礼命令を追加。……ありがとう」皇子が言うと、王子は首を振った。「君の喉元の羽が嫌がった。それで十分だ」「合図は、掌二回で『任せる』、掌一回長く押して『続行』、翼痕に指先を沿わせて一巡で『交替』。セーフワードは『灯』」皇子が読み上げ、王子は笑って頷く。「『灯』と口にしたら、何をして
last update最終更新日 : 2025-11-17
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第76話:白旗の使者

白旗は、朝の霧を裂く一枚の声のように、森の細道に掲げられていた。馬の吐息が白い。樹脂の匂い。濡れた土。皇子は深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。胸の内側で王子の教えをなぞった。言葉は刃ではなく鞘。前に立て。背中は、私が支える。王子は一歩後ろに立ち、手袋の上から皇子の手首に触れた。脈を、三度だけやさしく叩く。合図だ。準備はいいか。皇子は目だけで頷いた。白旗の使者は、灰を被った鎧の男だった。兜の継ぎ目に灰が詰まり、肩章に古い血が黒く残っている。彼は馬を降り、膝を折った。「停戦を」短く、乾いた声。相当、追い詰められている。皇子は一歩前に出た。喉の奥に緊張が張り付く。だが、それは悪くない張りだ。張った弦は澄む。「条件は厳しい」王子が笑いを含む息で、背で風を作る。それで十分に呼吸が回った。「聞こう」使者の肩がわずかに落ちた。だが先に、こちらが片を付けることがあった。皇子は王子に視線を送り、うなずき合う。ここで公の契約を結ぶ。二つの声を一つの政に束ねる儀礼。条約婚の成立を、白旗の下で示す。「まず、我らは今日、条約婚を成立させる。公に」「ここで?」使者が目を見張る。王子は肩をすくめた。「森は証人に向いている。耳が多いからな」それは半分冗談で、半分本気だ。風、樹、鳥、小さな祠。全てが見ている。儀礼の準備で段取りが一瞬空回りした。旗係が誤って予備の白布を洗濯に回し、戻ってきたのは匂いのいいシーツだ。「白すぎるな」王子が小声で突っ込み、皇子も思わず口元を緩めた。使者が気まずげに視線を逸らす。コメディは緊張をほぐす。ありがたい。王子は腰の小箱から銀の細糸を取り出し、皇子の手に巻いた。皇子は指先を針先でちくりと刺し、赤い珠を糸に落とす。王子も同じように。二滴がひと筋の光に吸われ、糸は淡く青く光った。魔紋が浮かぶ。二人の印章の紋が、重なって一つになり、糸に走った。王子が言葉を置く。「公にあっては皇
last update最終更新日 : 2025-11-18
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第77話:灰の王の護送

カスパルは灰をかぶった鎖帷子の上から旅装を締め直し、馬車の幌を叩いた。「出す」短い号令で車輪が泥を噛む。朝の霧は薄い灰色、鼻の奥に冷えた鉄の匂いが刺さる。幌の奥では「カスパル・グレイ」と呼ばれる男が布袋のように黙っていた。両手は前で束ねられ、鎖は無駄のない長さで床に固定されている。護送は表向き大聖堂へ。実際は地下街の納骨堂で交換。段取りは精密だが、道は一つではない。そういう計画だった。王都の尖塔が霧から突き出た頃、鐘が鳴り始めた。結婚の鐘。条約婚の公開儀礼。街は祝祭の匂いで満ちた。「良い煙幕だな」御者台の若い従者が笑い、カスパルは頷いた。大聖堂の扉では、「皇子」が先に歩いていた。金糸の外套に白い手袋。背筋はまっすぐで、視線は聴衆に。公では彼が前だ。隣の「王子」は半歩引き、視線は皇子の肩の高さに合わせる。二重統治の見本のような歩幅だった。祭壇には二つの契約が重ねられる。国家間条約と、彼ら自身の合意契約。羊皮紙に魔紋が淡く灯った。司祭が条文を読み上げる間、ふたりは視線だけで短く会話するように指先を触れ合わせた。人差し指が一度、二度、三度。合意の合図は三拍。指先が離れると、皇子が先に口を開いた。「公開する条項のみを読み上げます。第七日は相互監督の日。公務の優先を妨げず、権限の交換を行う」それは週一回のスイッチ・デーの覆い語だった。聴衆は理解しないが、ふたりは正確に理解している。王子が続ける。「不可の明記。身体を傷つける打擲はしない。血は見ない。痕は残さない。合図は黒紐の首飾り。外したら即時中止」司祭が驚いた顔をしたが、羊皮紙の魔紋が同意を示し、ざわめきは祝福のざわめきに紛れた。皇子が最後に言った。「セーフワードは藍。どの場でも即時停止の鍵とする。術は不使用。アフターケアは温茶、軟膏、言葉、就寝までの同伴」短く、澄んだ声だった。合意は愛より先に置かれるべき種。ふたりはそれを人前で播いた。鐘がさらに高く鳴る。ちょうどその頃、カスパルは馬車を糸道のような路地へ滑り込ませた。地下街の入口は古い井戸に偽装されている。蓋を開けると、湿った石の匂いがむ
last update最終更新日 : 2025-11-19
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第78話:誓約の盾

鐘が三度鳴り、広場の空気が澄んだ。大聖堂の白い段に、皇子は一歩先に立った。胸に薄い汗。衣の重み。視線の重み。公では自分が前に立つ——そう決めたのは二人だ。背後、半歩下がって王子がいる。掌に温い気配。知られない支え。老司教が巻紙を開く。条約婚の文言は静かに、しかし全員に届く声で読み上げられた。二国の境で市を共に開くこと。地下街の通行税を折半すること。納骨堂の守り手に両国の名を刻むこと。そして、二人の私的契約の公開——ここでざわめきが起きた。皇子の喉が鳴る。王子の指が背に触れ、二度、知らせる。大丈夫の合図。「合意の条。可は、抱擁、手を取る、命令訓練。不可は、公での侮辱、痛みを伴う罰、地位の濫用。合図は肩を二度叩く。セーフワードは『凪』。アフターケアとして温茶と休息、油による手当、言葉の確認を怠らない」老司教の発声は乾いていたが、言葉はやわらかく広がった。パン屋の老婆が小さく笑って「具体的」と呟く。皇子は頷いた。具体でなければ、守れない。王子が前に出る。指輪の代わりに、小さな青銅の盾飾り——誓約の盾——を差し出した。「この盾を、兵にも配る。略奪を禁じ、買い、支払い、礼を尽くすための印だ。盾の裏に、我らの可不可が刻まれている。境の村々よ、盾を掲げてほしい。我らはそれを見て、守る」将軍が一歩出た。硬い顔が揺れる。「兵法に……セーフワードなるものを混ぜるのか?」王子は笑った。「混ぜる。兵の訓練でも合図がある。止め、前進、退け。名を与えれば、守られる。兵のセーフワードは『灯』とする。誰であれ『灯』と叫べば、即時停止。理由は問わない。命を守る言葉だ」地下街の頭取が見上げて頷いた。納骨堂の監守は渋面を崩さない。老司教は巻紙を巻き戻し、儀礼の終を告げた。歓声が上がる。祝砲代わりに花粉が舞い、鐘がまた鳴った。——私室に戻ると、王子はすぐに皇子の肩紐を緩めた。足湯の湯気。リネンの匂いが落ち着く。皇子は力を抜く。王子は膝に頭を抱え、髪を撫でる。「言って。今の心地」「&
last update最終更新日 : 2025-11-20
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第80話:戦なき勝利

砦の風は乾いていた。硝煙の匂いはなく、煮出した骨の匂いが漂っていた。戦が始まらない匂い。皇子は胸の前で手を組み、城壁の上に立った。彼の前に並ぶのは疲れ切った兵と、腹から音を鳴らす騎馬。敵方の旗は遠く、たまに揺れるだけだった。「補給、十日で尽きる。彼らの麦蔵も三日持てば良い」王子は算木を撫で、静かに言った。昼の彼は寡黙な参謀で、夜の彼は支える腕だった。皇子は喉を鳴らし、声を張った。「矢を要らぬ。鍋を増やせ。市井から骨と塩を買い上げ、煮よ」周囲がどよめき、地下街の顔役が片眉を上げた。大聖堂の使いは唇を尖らせた。納骨堂の管理を握る古びた司祭が、袖の下で鍵を鳴らした。この街では、聖も俗も地下でつながる。そこを握れば、馬より早い。王子は夜陰、地下街の帳場で小麦札を積んだ。塩と飼葉、馬の蹄鉄、灯に使う聖油までを買い切る。いびつな交易が生まれる。街は腹を満たし、敵は餓えた。大聖堂は煮炊きの釜を貸し、地下の運び屋は音のしない車輪で夜ごと城外へ。敵陣に向けて? いや、城内の炊き出しへ。人は満ち、敵は焦る。矢の代わりに香りが戦場を覆った。「手紙は?」「送った。彼の妻へ。条約婚の条件、持参金の半分を穀に。彼が退けば飢えた者の救済も我が方が担う、と」皇子は頷き、胸の中で呟いた。彼はもう逃げない。王子が背に手を添えるだけで、足は前へ出た。森で出会った夜から変わったのだ、彼の中心が。公開儀礼の日。大聖堂は光で満ちた。高窓の彩が床に魔紋を描き、香の煙が天へ昇った。皇子と王子は白金の糸で結んだ薄手の手袋を外し、掌を重ねる。白い墨で描かれた契約紋が、互いの手の甲にじわりと灯った。「条約婚の成立を宣言する。国と国、身と身。まず契約」王子が朗々と読み上げる。紙は二枚。国家条約と、彼らだけの合意契約。大司祭が目を細め、書記が筆を走らせた。「可は、指示・口上・接触。不可は、傷と嘲りと侮蔑の言葉」「合図は三つ。緑は続行、琥珀は調整、赤は停止」「赤の言葉は『柘榴』。週一回のスイッチ・デーを設け、互いの役目を入れ替える」書記が一瞬固まった。筆先が震え、紙にこう記した。「週一スープ
last update最終更新日 : 2025-11-21
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第81話:納骨堂の告解

鐘の音は、石の天井に重く甘く響いた。大聖堂の中央、銀糸の絨毯を踏みしめて、皇子が一歩前へ出た。公では皇子が前に立つ、それが新しい約束だった。王子は半歩うしろ、掌で肩甲を支える。指先の圧は合図だった。「呼吸を忘れるな」。皇子は短く頷く。「条約婚を、ここに」祭壇の燭台が魔紋を照らし、ふたりの腕輪が同時に発光する。王子の腕輪は黒金、皇子のは白銀。内側に刻まれている条文は外交官たちと一字一句磨いたものだ。王都と帝都、互いの関所を共同管理。軍令は連印でのみ有効。公的発表は皇子が読み上げ、王子が書面を保証する。二重統治の枠組みが、光の帯になって絡まり合う。「付記。私的な合意契約について」書記官が咳払いを一つ。大聖堂がぴたりと静まる。王子が笑みを堪える。ここも公開する必要がある、と皇子が言ったのだ。「合意は公の土台になる」——雄になる訓練の一環で。王子が木箱から薄紙を取り出す。可・不可、合図、アフターケア。すべて明文化。教会側の顔がわずかに引きつるのは、たぶん気のせいではない。「可。拘束は軽度、痕が残らない範囲。命令口調の使用」「不可。打擲、呼吸を妨げる行為、第三者の関与」「合図。三度の指先タップで『弱めて』。握手の離脱で『停止』。セーフワードは『蒼葉』」「アフターケア。温い湯、蜂蜜の入ったハーブ茶。互いに『誇りだ』と口にすること」週に一度、役割を入れ替えるスイッチ・デーの設定も、紙の上で公式になった。王子が読み上げ終えると、皇子はわずかに笑って、声を響かせた。「公では、私が先に立つ。私室では、彼が私を支える。それが、我々の契約である」拍手。緊張とくすぐったさが混ざった音。大司教が祝詞を唱える間、王子は小声で囁く。「セーフワード、音漏れしてたぞ」「記録に残るのも、抑止力だ」皇子の耳がうっすら赤い。甘い。儀礼が終わると、ふたりは司祭団の案内で地下へ向かった。大聖堂の地下街を抜ける。香料商の棚、献香の小袋、巡礼者向けの簡易宿。そこからさらに扉を三つ。空気が冷える。灯りが青みを帯び、納骨堂の石灰の匂いが鼻に満ちた。「緊張してる?」王子が問い、皇子が首を
last update最終更新日 : 2025-11-22
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