LOGIN帝国のsub皇子ルシアンは、同盟のため王国のdom王子アルトリウスと条約婚を結ぶ。二人が交わしたのは、愛より先に合意契約――可・不可、合図、アフターケア、そして週に一度だけ主導権を入れ替えるスイッチ・デー。 公の壇上では皇子が前に、私室では王子が一歩引いて支える。権謀うずまく宮廷で、役割は枷ではなく翼へ。 “雄になる”夜の練習が、やがて帝国の未来を動かす力になる。
View More鐘が六つ、白い石を震わせた。大聖堂の段に朝陽が跳ね、旗の紋が風で鳴る。香草の甘い匂いが鼻の奥に落ちた。王子は皇子の革当てを締め直す。指は容赦なく、体温はやさしい。「深呼吸」「……吸う、止める、吐く」チェックは短く、抜けがない。「合図」「左手二度。呼吸を二つ。停止語は――石榴」「可」「手首まで。刃は寸止め。命令語は短く」「不可」「首輪の露出、公での跪拝、痕」「アフター」「甘味、温水、肩を揉む。翌朝の政務は短縮」王子が頷く。「週に一度、反転。――スイッチ・デー」皇子はわずかに笑った。震えより笑いが勝ち始める。若い従者が帯を抱えて駆け込む。出したのは赤。
朝の光が城門の金具を白く撫で、街路の旗が同じ方向へ揃った。王都は祝いの装いだ。石畳の継ぎ目に、薄い花の影。太鼓が二度、鐘が三度。人のざわめきがふくらんで、やがて一つの音になる。王子は皇子の右手の帯を整えながら、呼吸を数えた。四拍で吸って、四拍で止めて、四拍で吐く。「主導は呼吸から」皇子が小さく頷き、半歩、前に出た。公では彼が前に。私室では王子が支える。いつもの合意が、今日は街じゅうの目に触れる。広場の壇には、三つの印が並んだ。大聖堂の銀、地下街の銅、納骨堂の骨白。そして中央に、二人の共治紋。王妹フローラが視線だけで合図を送る。――段取りは整った、行ける。大司教が杖を横にし、開式の言葉を短く置く。皇子は前へ出て、掌をひらりと見せた。「条約婚は、ここから運用に入る。祈りは内に、法は外へ。今日は“見える手当て”を置く」王子が巻紙を開き、読み上げは簡潔に。・共同監査局の設置(大聖堂・地下街・納骨堂の三者と王宮使い)・共同の箱(鍵は三本、開封は三印一致)・地下通路の夜半巡回と、灯り・蓋の費用負担の分担・広場掲示の公開台帳――税と寄進と支出の見える化ざわめきが波紋になる。地下街の行商長は腕を組み、納骨堂の守り手は数珠を転がす。大聖堂の副祭司は羽根を揺らして、頷いた。王子は巻紙の下段を指でなぞり、もう一つ、声を落とす。「合図の項。公の場にも“止める仕組み”を置く」・異議(議場の手順)と停止(関係の手順)を分ける・停止語は当事者の発声に限って効力(外部の発声は確認ののち再開)・嘲笑目的の模倣は禁止、侮辱罪に準ず・鐘の合図は三つ(合流・開印・避難)、小鐘は子どもと司祭がともに引く人々の顔がほどけていくのがわかる。見えないところにあった“止め方”が、今、広場に置かれたからだ。王子は袖の内側で、皇子の手の甲を二度、軽く叩いた。緩めて。皇子はうなずき、息を少しだけ落とす。
鐘の音が石壁を震わせた。冷えた香の匂い。白い布の海。大聖堂の中央で、皇子は胸の鼓動を数えていた。彼の前に立つ王子が、掌を差し出す。指先が触れた。温度が移る。「契約を読む」大司教の声は乾いた羊皮紙の音に似ていた。条約婚。互いの国境の緩衝。使節往来の自由。軍の統制権の共有。その中に、皇子が昨夜まで書き直し続けた一段が挟まる。「合意の規定。可。抱擁、口づけ、手を引く。不可。公の場での命令口調、同意なき接触。合図。三度の指先タップ。セーフワード。琥珀」ざわめきが一波だけ起こり、消えた。王子は笑わなかった。ただ親指で皇子の手の甲を一度撫でて、囁く。「運用までが契約だ」「知ってる」皇子は息を整えた。魔紋の刻印師が膝をつき、朱を指に乗せる。王子の手首に銀糸の紋が浮き、皇子の指輪に淡い光の鱗が走った。魔紋は互いの脈拍と同期する。鼓動が重なったところで、大司教が最後の巻物を広げる。上下が逆だ。王子が片眉を上げた。「反転。今は縁起が良い、そういうことに」皇子が小声で助け舟を出すと、大司教の耳まで赤くなった。笑いが風のように広がり、緊張がほどける。王子はひと言だけ。「助かった」「スイッチ・デー、今週はあなたの日」「了解」公では、皇子が半歩前に立つ。私室では、王子が支える。そう決めた。互いの位置を確かめるように、王子はわずかに背を引いた。群衆の前で、皇子は名を名乗り、誓う。声は震えず、床の石が乾いていくみたいに静かに通った。◆◆◆儀礼を終え、側廊の控え室。羊皮紙の束。老宰相が鼻眼鏡の下からこちらを射抜く。地下街の顔役、大司教、納骨堂の管理者も並ぶ。石膏の白さが厳しい。王子が書簡の一枚をすっと前に出す。新条項。主従の交換条項。毎週一度、主と従を定め、互いに委任し合う。それを政治にも写す。「政治会議の議長を交互制に」王子は短く言った。皇子の肘が熱くなる。老宰相が苦
夕刻の写本室は、蜜蝋の香りと乾いた紙の音で満ちていた。外では鐘の余韻。中では羽根ペンの先が、誓詞の行間を静かに縫う。王子は灯をひとつ落とし、羊皮紙を二枚、左右に並べた。左は公の条約文。右は私室の合意契約。どちらも昨日までの“正しさ”だが、今朝の紙切れ—風聞—が、言葉の継ぎ目に新しい綻びを示した。「再構成しよう」王子が言った。「うん。誓いは壊れたわけじゃない。けれど、曲げられた」ルシアンは袖口を正し、背筋を伸ばした。公では彼が前に立つ。影の位置に王子の熱がある。二重統治の約束は、ここでも有効だ。王妹フローラが小走りで入ってくる。「三者、揃えたわ。大聖堂、地下街、納骨堂。小礼拝堂で短い公聴を—“文言の手入れ”として」王子は頷き、右の紙に細字で一行、書き足す。付記:セーフワードの効力は当事者の発声に限定。外部の発話は一度停止して確認、異常なしなら再開。「風聞は“合図の言葉を叫べば止まる”に賭けた。外からの手は切る」王子が言い、ルシアンが続ける。「公でも同じだ。『異議』と『停止』を分ける。異議は議場の手順、停止は関係の手順」フローラが笑んだ。「言葉の綱引きは、こちらの得意分野」◆◆◆小礼拝堂。白い壁に金の縁取り。参列は最小限。大司教、地下街の長、納骨堂の守り手。王妹。書記官は一人—銀糸の仮面は外され、素顔は緊張で固い。王子が短く説明する。「誓いは二つ。公と私。今日はその“接合部”の再構成です」ルシアンは壇に出て、言葉を整えた。「跪礼は祈りに限る、が誤読された。だから追記する。『跪礼は主従でなく、共同体への敬意』。また、『合図は相互の救済手順であり、嘲笑の道具に非ず』」地下街の長が鼻で笑い、すぐ真顔に戻る。「商いでも同じだ。手仕舞いの合図を外から壊されたら、粉が散る」守り手が数珠を転がした。
鐘が七つ、蜜蝋の滴る音さえ柔らかく呑み込み、葡萄の酸が夜気にほどける。白布で覆われた長卓、天井から垂れる蔓灯、床石に散らされた香草の粉。仮面の宴は、匂いと光でしか素顔を許さない。皇子は銀青の仮面。頬の縁に極細の双権紋。胸元には半輪の小紋章。王子は黒檀に鈍金の縁取り——影の意匠。半歩うしろで灯を遮り、視線の矢を折る。(公では皇子が前、影は王子。)取り決めは姿勢にまで染みている。「手を」皇子。「合図は二回」王子。「うん。危険は二回、撤退は三回」短い復唱は、羊皮紙に刻んだ合意の再点検。条約婚の夜に交わした四つの枠——可・不可・合図・アフターケア——は、今宵の仮面にも効く。可:儀礼内の口上命・姿勢の誘導・絹の拘束(短時間)。不可:跪礼の強要・痕を残す示威・公衆での屈辱。合図:二圧=危険/三圧=撤退。セーフワード:「青磁」。週一のスイッチ・デー厳守。破れた週は日の出前のケアで穴を埋める。
鐘が三度、白い身廊を震わせた。香は金糸を焦がすように甘く、金粉の魔紋が床に淡く浮き、波紋のように柱影を撫でて消える。王子は半歩うしろ、皇子は前。——公では彼が前、私室では王子が支える。ふたりの合意は今日から条約文の一部、政治の骨へと刻まれる。祭壇脇。王妹フローラは薄衣の袖口に指を差し入れ、脈を一度押し沈めた。老貴族は杖で緩やかに拍を刻み、地下街の行商は帽子の縁をいじり、納骨堂の管理人は数珠を鳴らす——ばらばらの音を、一枚の卓に載せる。それが彼女の役目だ。「条約婚の宣示に移る」大司教の声が高窓の硝子をゆらし、白壁の冷気を一段深くする。王子の指が、皇子の肩甲の間で一拍。支えの合図。皇子は喉の奥で音をひとつ砕き、胸で大きく吸う。森で覚えた“痛みを怖がらない呼吸”。王子から授かり、自分の筋肉に編み直した方法だ。フローラは視線で細い綱を投げる。地下街の長が肩を竦め、納骨堂の管理人は数珠を止め、老貴族は杖先を床から離す。——帝国案、通せる。手応えはある。そこへ若い司書が巻物を抱え、やや足をもつれさせて上がった。顔色が紙の色だ。嫌な予感は、案外よく当たる。開かれた巻物から、澄んだ声が降る。
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