All Chapters of ワンナイトから始まる隠れ御曹司のひたむきな求愛: Chapter 101 - Chapter 110

154 Chapters

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「野菜を見に行きましょうか。今日の主役ですから」 彼はごく自然に野菜コーナーへと美桜を促すと、山と積まれた玉ねぎの中から、慣れた手つきでいくつかを手に取った。「陽斗君、なんだか手際がいいのね」 感心する美桜に、彼は少し得意げに笑いかける。「良い玉ねぎは、ずっしり重くて硬いのがいいんですよ。あと、芽が出てないやつですね」 陽斗は一つひとつ重さを確かめて、表面に傷がないかを入念にチェックしている。その目は真剣そのものだ。(いつもは少し子供っぽいところもあるのに……) 鶏肉コーナーへ移動すると、彼は「オムライスにはやっぱりもも肉ですよね」と言いながら、パックをいくつか見比べ始めた。肉の色つや、パックの底に溜まった水分の量。その視線は、まるで目利きの料理人のようだ。 陽斗の知らない一面に触れた気がして、美桜の心臓が小さく音を立てた。「陽斗君、なんだか手際がいいのね」 美桜が感心して言うと、陽斗は少し笑う。「昔、ちょっとだけ洋食屋でバイトしてたことがあるんです」 軽く誤魔化すような調子に美桜は首を傾げたが、それ以上は気にしなかった。 会計の際、陽斗は美桜が財布を出すより早く、自分のスマートフォンで決済を済ませてしまう。「あ、私が払うのに」 恐縮する美桜に、彼は悪戯っぽく笑いかける。「これは俺から先輩への『元気回復プロジェクト』への投資なんで。経費ですよ、経費」「あはは。なにそれ」(本当は私が陽斗君を元気づけたかったのにね。あべこべになってしまったわ) 美桜は内心で苦笑しながら、帰路についた。◇ 美桜の部屋のキッチンは、一人暮らし用で決して広くはない。そこに陽斗と二人で立つと、肩が触れ合いそうな距離になる。 陽斗は持参したシンプルな黒いエプロンを手際よく身につける。買ってきた食材を冷蔵庫にしまい始めた。淀みない動きに、美桜はただ見ていることしかできない。「先輩は卵を溶いて
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「美味しい」 思わず笑みがこぼれる。その笑顔を見て、陽斗の顔が満足そうに緩んだ。 クライマックスは、卵を焼く工程だ。陽斗はフライパンを巧みに操り、プロ顔負けの半熟とろとろの卵を、鮮やかな手つきで作り上げていく。真剣な横顔と普段の彼とのギャップに、美桜は知らず知らずのうちに見とれていた。 出来上がったオムライスに、陽斗はケチャップで何かを書き始める。『いつもありがとう』という言葉と、少しだけ歪んだ温かい笑顔のマークだった。 ダイニングテーブルで、二人は向かい合って座る。「いただきます」 手を合わせてから、美桜はスプーンをオムライスに入れた。ふわふわ、とろとろの卵の中から、湯気の立つチキンライスが現れる。 一口食べて、優しい味に目を見開いた。(美味しい……。ただ美味しいだけじゃない。陽斗君の優しさが、全部詰まっているみたい)「とっても美味しいわ。陽斗君が料理上手で、びっくりしちゃった」「先輩に喜んでもらえて、俺も嬉しいです。これからは男も料理ができないと、だめですからね。練習したんですよ」 食事の間、不思議と仕事のことは一切頭に浮かばなかった。「あの最後の逆転トライ、すごかったですよね! 残り30秒で、あそこから繋いでいくなんて。俺、興奮して声、枯れちゃいましたよ!」 陽斗はスプーンを握りしめて、身振り手振りを交えながらラグビーの試合の興奮を熱っぽく語る。少年のような姿に、美桜は自然と引き込まれていた。「あのミステリー作家の新作、もう読みましたか?」 という彼の問いかけからは、思いがけず共通の趣味が見つかった。「もちろん! 私は特に初期の作品の、あの叙述トリックが好きで……」「え、先輩もですか。俺もです! あの最後の一行で、世界が全部ひっくり返る感じ、たまらないですよね!」 目を輝かせて同意する彼に、美桜も熱を帯びて語り返す。(翔といる時は、いつも仕事の話か、自慢話ばかりだった。こんなふうに同じものを見て、同じ
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「美味しかった~。ごちそうさま」 食事を終えて、満たされたため息が美桜の口から漏れた。長年の習慣から無意識に立ち上がり、空になった皿を重ねようとする。「先輩、そのままで」 すぐに陽斗の声がそれを制した。彼は美桜よりも先に立ち上がると、手際よく食器をシンクへと運んでいく。「私がやるよ。作ってもらったんだから」 美桜がそう言うと、陽斗はキッチンから振り返る。少しだけ真剣な顔で首を振った。「ダメです。今日は俺が、先輩をもてなす日ですから。先輩はソファでゆっくりしててください」「う、うん。じゃあ食洗機を使ってね」「あ。これ、前に一緒に買いに行ったやつですね」「そうなの。食洗機もロボット掃除機も、とっても便利で」 立ち働く陽斗の姿に、美桜は戸惑いながらもリビングのソファに腰を下ろした。もてなされることに慣れていなくて、少しだけ落ち着かない。(翔だったら、「早く片付けろ」って言うだけだったのに……) キッチンからは、陽斗が食洗機に食器をセットする音が聞こえてくる。軽く水洗いされて、手際よく食洗機の中に入れられていく。 フライパンはスポンジで洗われて、水が流れていく。 美桜はソファの背もたれに体を預け、それらの音に耳を澄ませた。 彼の広い背中が、てきぱきと動いている。美桜の大切なマグカップを丁寧に扱う指先。その一つひとつの所作に、陽斗の誠実な人柄がにじみ出ているようだった。 時折、彼が「先輩、ちゃんと座っててくださいよ?」と、悪戯っぽく振り返る。その度に目が合い、美桜は少しだけ頬を染めた。 こんなふうに誰かに大切に扱ってもらえるのは、いつぶりだろうか。陽斗が作り出す温かい空気の中で、美桜の心はゆっくりと癒されていくのを感じていた。「よし、終わりっと」 洗い物を終えて、陽斗がキッチンを離れた。「先輩、今日はありがとうございました。一緒に食事ができて、楽しかったです」「お礼を言うのは私でしょ。何から何までお世話になってしまって、ごめ
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105:蒼也と本物の世界

 陽斗とのオムライスデートから数日が過ぎた、週半ばの午後。 オフィスにはキーボードを叩くリズミカルな音と、鳴り響く電話の音。時折交わされる低い声の会話が響いている。 美桜はモニターに映し出された複雑なデータとにらめっこしていたはずなのに、いつの間にか意識は週末の出来事へと飛んでいた。 脳裏に蘇るのは、陽斗がケチャップで描いてくれた、少し不格好な笑顔のマーク。「美味しい」と呟いた自分に向けられた、彼の心の底から嬉しそうな顔。思い出すだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。 はっと気づくと、自分の口元が緩んでいる。美桜は慌てて周囲を見回し、誰にも見られていないことを確認すると、小さく咳払いをした。無理やり表情を引き締める。(浮かれている場合じゃないわ。集中しなきゃ) 自分に言い聞かせるが、一度色づき始めた世界はもうモノクロには戻らない。 以前は気にも留めなかった、窓の外を流れる雲の形。給湯室から漂うコーヒーの香ばしい香り。それら全てが、少しだけ特別な意味を持って感じられる。陽斗という存在が、彼女が失いかけていた日常の彩りを、一つひとつ丁寧に取り戻してくれているようだった。 そんな週後半のことだった。プロジェクトの資料に目を通していると、PCの画面の隅にチャットの通知がポップアップした。差出人は、如月蒼也である。『高梨さん、週末の予定は? プロジェクトのUI/UXデザインの参考に、ぜひ君の意見を聞きたい場所があるんだ。付き合ってもらえないだろうか?』 仕事の参考に、というスマートな口実。プロジェクトのリーダーとして彼の誘いを断る理由はどこにもなかった。『はい、ぜひ』 そう返信しながら、蒼也との再会に少しだけ緊張している自分に、美桜は気づいていた。◇ 週末の午後、美桜は指定されたホテルのロビーで蒼也を待っていた。磨き上げられた大理石の床と、静かに流れるクラシック音楽。上品な身なりの人々が行き交う空間だった。 陽斗とスーパーの前で待ち合わせた、あの日の気楽な雰囲気とは全く違う。美桜はどうにも場違いな気がして、ガラス窓に映る自分の
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 約束の時間の少し前、ロビーの喧騒の中から蒼也が現れた。上質なカシミアのニットに、体のラインに沿ったネイビーのジャケット。ラフでありながら、彼の知的な雰囲気を際立たせる完璧な着こなしだ。仕事の時とは違う柔らかなオーラに、美桜は少しだけ心臓の鼓動が速くなるのを感じた。 蒼也は美桜を見つけると、クールな表情をわずかに緩めて歩み寄る。「美桜さん。待たせたかな?」「ううん、私も今来たところ」 少しだけ嘘をつくと、彼は「そう」と言って小さく微笑んだ。「仕事の時のまとめ髪もいいけれど、そうやって下ろしているのも新鮮だね」「蒼也君は口がうまいんだから」 蒼也に促されるまま隣に並んで歩き出す。ロビーを横切る人の流れが多く、美桜は少しだけ身を固くした。 その瞬間、蒼也がすっと彼女の左側に回り込み、自分の体を盾にするようにして美桜を内側に入れてくれる。軽く腰に添えられた彼の手は、進むべき方向を示すだけのごく自然で紳士的なものだった。 陽斗が人混みから守ってくれる時の、力強い腕とは全く違う感触。 スマートな気遣いに、美桜はどう反応していいか分からず、ただ一歩引いて後ろを歩くことしかできない。 車寄せに停められていた彼の高級イタリア車は、ホテルの照明を反射して濡れたように艶めいている。美桜が感心して見とれている間に、蒼也は少しだけ歩調を速めて彼女を追い越し、先に回り込んで助手席のドアを静かに開けた。「さあ、どうぞ」(え……?) ドアを開けてもらうなんて、翔と付き合っていた頃はもちろん、陽斗とのドライブでもなかった経験だ。まるで映画のワンシーンのようで、自分が主役ではない何かの物語に迷い込んでしまったような、不思議な感覚に陥る。 美桜が戸惑いながら車に乗り込もうと身をかがめると、蒼也がルーフの上部にさりげなく手を添えた。彼女が頭をぶつけないように、という無言の配慮。そのために彼の腕の下をくぐる形になり、一瞬、彼のまとう上品な香水の香りにふわりと包まれる。 一連の流れるような完璧なエスコート。美桜は心臓が大きく音を立
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「今日は現代アートのギャラリーに行こう。プロジェクトのUIデザインに参考になると思ってね」 蒼也が指し示したのは、都心にある現代アートのギャラリー。その建物は周囲の華やかなビル群とは一線を画す、コンクリート打ちっぱなしの外観をしていた。 中へ足を踏み入れると、ひやりとした空気が肌を撫でた。音という音がすべて吸い込まれてしまうような、静寂に満ちた空間。どこまでも続く白い壁とむき出しのコンクリートの床が、無機質な静けさを際立たせている。陽斗と行ったスーパーの、生活感に満ちた喧騒とはひどく対照的だった。「不思議な場所ね」「アートの展示場所だから。展示そのものにも気を配っているのさ」 少し進むと、壁一面を占めるほどの巨大なキャンバスがあった。その広大な白の真ん中を、ただ一本の黒い線が縦に走っている。絵の具は厚く盛り上がり、乾いたアスファルトのような無機質な質感を持っていた。(これが、絵画?) 美桜は言葉を失い、声なきままに何かを強く訴えかけてくるその絵画の前に、ただ立ち尽くした。 少し視線を移せば、錆びた鉄の塊が鎮座していた。まるで巨大な機械の残骸か、事故車両を圧縮したかのような、歪で苦しげなフォルム。それが発する重苦しい圧迫感に、思わず一歩後ずさる。 最も不可解だったのは、部屋の隅に、ぽつんと一つだけ置かれたガラスの塊だ。スポットライトに照らされたそれは、溶けかかった大きな瓶のように濁った緑色をしていた。内部には無数の気泡が閉じ込められていて、まるで呼吸を止めた未知の生き物の肺のようにも見える。(これが、作品なの? 全然分からないわ……) 一つひとつに何か意味があるのだろうが、今の美桜にはそれを読み解く術がない。陽斗と過ごす日常の延長線上には決して存在しない、理解を超えた世界。この静謐(せいひつ)な空間で、美桜はわずかな心細さを感じていた。 美桜が戸惑いながら作品を眺めていると、隣に立つ蒼也が美術館の学芸員のように解説を始めた。 蒼也は、美桜が立ち尽くしている巨大な絵画を指し示す。「この作家は、一貫してデジタル社会における
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 蒼也の知性的な言葉が、美桜の頭の中にあった霧を晴らしていくようだった。(ノイズ。そうだ、これは、ただの線の乱れじゃない。意味を失った言葉の洪水なんだ) ただの黒い線の集まりにしか見えなかったものが、悲鳴や怒号、あるいは空虚な賞賛の言葉となって、美桜の心になだれ込んでくる。 蒼也は絵画の右下にある、ひときわ絵の具が厚く塗り重ねられた部分を指で示した。「ここを見て。この部分だけ他の線とは違う、インクを塗り潰したような深い黒になっている。これは、無数のノイズに耐えきれず、完全に沈黙してしまった個人の心象風景……作家はそう表現している」 その瞬間、美桜の中で世界が反転した。 ただの抽象画が、深い悲しみを湛えた一つの物語として立ち上がってくる。 絵に込められた想い。それがまざまざと心に迫ってきて、美桜は思わず息を呑んだ。 一枚の絵に込められた緻密な設計と、それを読み解く蒼也の鋭い感性。その両方に、美桜は強い知的興奮を覚えていた。(すごい……。私には、ただの落書きにしか見えなかったのに。蒼也君にかかると、こんなにも深い意味が見えてくる) 陽斗が見せてくれる、まっすぐで温かい世界とは違う。蒼也が見せてくれるのは、複雑で少しだけビターで、どこまでもクレバーな世界。美桜は、知らない世界の扉を彼が開けてくれたような感覚に、強く心を揺さぶられていた。 二人が巨大な青い絵画の前に佇んでいると、ギャラリーの奥から、銀髪を綺麗に撫でつけた初老の男性が近づいてきた。仕立ての良いグレーのスーツを上品に着こなし、襟元には小さなギャラリーのロゴピンが輝いている。 このギャラリーのオーナーだ。 オーナーは蒼也の姿を認めると、その隣に立つ美桜にも温かい歓迎の視線を向けて、二人の前で足を止めた。「如月社長、ようこそお越しくださいました」 深く丁寧な一礼が捧げられる。「如月社長。先日は、若手作家支援の基金設立にあたり、多大なるご支援を賜り、誠にありがとうございました。おかげさまで、来月には第一回のコンペティ
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 オーナーに会釈を返しながらも、美桜は内心で驚いていた。「基金の設立? 蒼也君は、そんな支援までしているの?」 ただ作品を一つ買うといったレベルの話ではない。文化そのものを育てて未来の才能に投資するという、大きなスケールの支援だ。 どれほどの作家がその基金に助けられることだろう。画廊のオーナーがわざわざ礼を言いに来るくらいだ。相当の規模なのだろう。「才能ある者が、金銭的な理由で筆を折るのは社会の損失だ。当然のことをしたまでだよ。それより、この作家の新作は素晴らしいね」 蒼也がただのIT企業の社長ではないこと、美桜は薄々感じてはいた。しかし、若手作家の基金を設立するほど文化の世界に関わっているとは、想像もしていなかった。 オーナーが去った後も、美桜の心はざわめいたままだった。蒼也は何事もなかったように、再び青い絵画へと視線を戻して、色彩の持つ意味について語り始めている。 彼の言葉を聞きながら絵を見れば、また新たな発見があった。 青い絵は空の青とも海の青とも同じように見えて、また違う。広大さと深さに満ちあふれていた。(陽斗君と一緒にいる時の、あの太陽の下にいるような温かい安心感とは違う……) 美桜は蒼也の横顔を盗み見る。ここはどこまでも透明な、深い水の底のようだ。息をするのも忘れるほどの緊張感と、けれど不思議と心地よい静けさが同居している。そしてその世界の主は、紛れもなく隣にいる彼なのだ。 その事実に、美桜は軽いめまいを覚えた。 陽斗と分かち合う温かい日常とは全く違う、静かで知性的で大きな世界。自分とは住むステージが違うのだという実感がある。 その隔たりは少しだけ心細くもあったが、それ以上に蒼也の存在をより一層輝かせて見せる。 美桜は眩しさに、ただ目を細めることしかできなかった。 青い絵画について語っていた蒼也が、ふと美桜を見る。「この深い青を見ていると、君の瞳の色を思い出す。静かで、どこまでも優しくて……吸い込まれそうだ」 不意打ちの言葉に、美桜の心臓
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 目に飛び込んできたのは、琥珀色の光と深い影が織りなす空間。カウンターの上には、ウイスキーのボトルを鈍く輝かせるペンダントライトが吊り下がり、客たちの顔に親密な影を落としている。 空気には古い木材の匂いと、微かに香る葉巻の燻した香りが混じり合っていた。それは不快な煙たさではない。この空間に深みを与える、一つのスパイスのようだった。「ここは?」 美桜が扉の向こうの別世界に目を丸くする。蒼也は微笑んだ。「僕の行きつけのバーだ。隠れ家みたいなものでね。ぜひ君を連れてきたかった」 店内の全てを包み込むように、ジャズの生演奏が満ちていた。 ステージでは、ウッドベースが心臓の鼓動のような低いリズムを刻んでいる。その上を滑るように転がるのは、ピアノの少しだけ物憂げな美しい旋律。二つの楽器が交わす会話が、客たちの囁き声と、時折響くグラスの触れ合う澄んだ音に溶け込んでいく。 壁一面には、色褪せた古いレコードジャケットが、まるでアートのように飾られていた。モノクロのポートレート、大胆なタイポグラグラフィ。それら一枚一枚が、この店の長い歴史と音楽への深い愛情を静かに物語っているようだった。「如月さん、お待ちしておりました」 白シャツにベストを着たバーテンダーが、静かに微笑んだ。「美桜さん、さあ座って」 蒼也は美桜をカウンター席に促す。「彼女に似合う、美しいカクテルを」 とだけ注文した。 美桜の前に置かれたのは、スミレのリキュールを使った淡い紫色のカクテル「アビエーション」。洗練された花の香りとアルコールの柔らかな刺激が、美桜の感覚を優しく蕩かしていく。「アビエーションか。これは、飛行という意味だよ。空の青――あの絵画の青のように、君にぴったりな色だ」 蒼也が微笑んでいる。(陽斗君といる時の、あの陽だまりの中にいるような温かい安心感とは、全く違う……) 蒼也は仕事やプロジェクトの話は一切しない。先ほどの現代アートや、古い映画や音楽について静かに語る。 彼の洗練された
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 バーを出て現実に戻ったはずなのに、非日常の時間はまだ続いていた。蒼也が運転する車は、夜の街を滑るように進んでいく。窓の外では、ビルの灯りやネオンサインが流線を描いては後方へと消えていく。まるで光の川の中を泳いでいるようだ。 車内には、先ほどのバーで流れていたジャズのCDが、ごく小さな音量でかかっていた。ピアノのメロディが、静かな空間を優しく満たしていく。 隣でハンドルを握る蒼也は何も話さない。時折、街灯の光が彼の端正な横顔を照らし出し、整った鼻筋と眼差しを浮かび上がらせた。 沈黙は気まずいものではない。むしろ今日の出来事の余韻に浸るための、心地よい時間のように感じられた。 やがて見慣れた街並みが見えてくる。美桜のアパートの前で、車は音もなく停車した。蒼也がエンジンを切ると音楽も途切れて、完全な静けさが二人を包んだ。 不意に、蒼也が美桜の方へと向き直った。夜の闇に慣れた瞳が、暗闇の中でまっすぐに美桜を捉える。その真剣な眼差しに、美桜は息を呑んだ。「今日はありがとう。君のおかげで、楽しい時間を過ごせた」 蒼也のセリフは、美桜の予想に反してありきたりなもの。美桜はほっと息を吐き、微笑みを返した。「こちらこそ。私の知らない世界をたくさん見せてもらったわ。とても楽しかった」「今日の君は、いつも以上に綺麗だったよ。僕がまだ知らない君の魅力を、これからももっと引き出してみたい」「……!」 不意打ちのように投げ込まれた、熱を帯びた言葉と眼差し。 固まる美桜に、蒼也はふと笑った。彼は先に車を降りて、助手席のドアを開けてくれた。「あ、ありがとう」 ぎくしゃくと降りる美桜の手を取る。彼女の髪がはらりと落ちかかった。 蒼也はその髪を指に絡めて、軽く口づけた。極めて自然な動作だった。「では、また」 夜の暗がりで見えた彼は、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべている。 美桜は呆然と走り去る車を見送ることしかできなかった。 部屋に戻れば、ふとカクテルの残り香がする。美桜の指先に残っ
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