All Chapters of 君は白昼にも落ちぬ星: Chapter 1 - Chapter 9

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第1話

私は相馬隼人(そうま はやと)と付き合い始めてから十年、結婚して六年になる。愛し合った年月があまりにも長く、私たち二人はもう、どんな体位も試し尽くしていた。私が二十八歳のある日、隼人が突然思い出したように語った。十八歳のころ、全身で私――水城柚葉(みずき ゆずは)にのめり込んできた、あの夜のことを。私は笑って受け流しながら、きっとどこかがもうおかしくなっている――そう悟った。離婚を決意したあの夜、その引き金となったのは、神崎莉緒(かんざき りお)から届いた一通のメッセージだ。それは腰に刻まれたハートのタトゥーの写真。そして、添えられていたのは、たった一行の挑発だ。【彼、毎日ここにキスするよ】その短い言葉に、私は心臓をぎゅっとつかまれる。だって、かつての私の腰にも、同じタトゥーがあったから。あのころ――隼人は、命を落としかけるほどの勢いで十八歳の私を求めていた。そのメッセージが届いたとき、私はちょうど隼人に隠れて、離婚協議書を作っていた。私たちは十八歳で恋人になり、二十二歳で結婚した。二十八歳のある日、私は彼のスマホの中に、本名の入っていないプロフィール画像を見つけた。柔らかいタッチで描かれた子猫のアイコン。表示名は「抹茶ケーキ」。けれど、トーク画面はまっさら。やり取りの跡はなく、あるのはただ一つ。ほんの数分前に送られ、消し忘れた猫のスタンプだけだ。同じスタンプは、今月、隼人が私にも八回送ってきた。嫌な勘と、信じたくない気持ちが、同時に背中を押した。私はその女のタイムラインを開く。年は若い。二十三歳だ。猫が好きで、犬は苦手。夜はバーでバイトをしていて、彼氏の左の手のひらには十センチほどの刃物傷の痕がある。なぜそれが「刃の傷跡」だと分かったのか?十八歳のとき、隼人は左手で私を庇い、継父の振るった刃物を真正面から受けたからだ。傷はあまりに深く、血は止まらず、医者はその痕が二度と消えないと告げた。十八歳の隼人はそれを誇りにして、私への愛の勲章のように語った。「柚葉、この傷がある限り、お前はもう俺を捨てられない」二十八歳の隼人はだらしなく、その傷を隠し忘れていた。だから私は、別の若い女のところで、一目でそれを見抜いた。思いを巡らせていた心が現実に戻ったとき、私は離婚協議
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第2話

ああ、彼女か。思い出した。半年前、隼人と結婚五周年の記念日だった。お祝いに訪れたレストランで騒ぎが起きて、アルバイトの女の子が土下座を強いられていた。私は警察に通報し、彼女を自分のそばへ引き寄せ、涙を拭いて「もう大丈夫」となだめた。隼人は私をかばいながら、暴れていた男を容赦なく打ち据え、顔を腫れ上がらせて黙らせた。騒ぎが収まると、その女の子は何度も頭を下げて礼を言った。「本当にありがとうございます。お二人がいなければ、どうなっていたか分かりません。心から、何度感謝しても足りないくらいです」私は微笑み、隼人を見上げた。だが隼人の視線は私には向けられず、ただ呆然と彼女の目元を見つめていた。しばらくして、複雑な表情のまま口を開いた。「柚葉、なあ、彼女、お前に似てない?」あの夜、隼人が何度も上の空だったのは、私たちが九年も一緒にいることへの感慨だったのか?それとも、私に似たあの女の子のことを思っていたのか?分からない。けれど、答えはもう心の中にある。幸いにも、離婚協議書は出来上がっている。あとは、署名するだけだ。隼人は一晩、帰ってこなかった。翌朝、私は法律事務所へ出勤した。席に着くなり、同僚たちに取り囲まれる。「水城先生の旦那さん、本当に素敵ですよね。結婚して六年も経つのに、あんなにロマンチックなんて。海辺の花火のニュース、もうトレンド入りしてましたよ!」「ほんとそれ。私、残業中に見ちゃって、羨ましくてやってられませんでした」「やっぱり水城先生は幸せ者ですよね。旦那さんは格好よくてお金持ち、しかも幼なじみ。で、昨日は何のお祝いだったんです?誕生日?記念日?」私はその場で凍りつく。名うての弁護士であるはずの私が、こんなにも簡単な問いに追い詰められている。少し沈黙してから、私は小さな声で口を開く。「特別なことなんて何もない。私は離……」「柚葉!」入口から声が飛び込んできた。隼人が汗だくの顔で飛び込んできて、私の腕をつかみ、半ば強引に車へ押し込む。顔は焦りと動揺でこわばっている。「柚葉、今日のニュース、見てないよな?昨日、亮介が俺の車を借りてナンパに行ってさ、運悪く撮られてトレンド入りしたんだ。誤解されると困るから、ちゃんと説明しに来た。電話で亮介に話さ
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第3話

長い沈黙のあと、隼人はようやくゆっくり口を開く。「俺と柚葉は、もう十年だ」「それで?」「なぜかは分からない。ただ、柚葉とそんなに長く一緒にいたと思うと……飽きた……もう愛していないんだ」電話の向こうで息づかいが荒くなり、亮介のかすれた声が聞こえる。「本当に愛してないのか?それともただ新しいものに目がくらんでるだけなのか?自分でよく考えろ。それとな、もし柚葉にバレて離婚になったらどうする?ほんとに手放せるのか?だって莉緒と柚葉、顔はほとんど見分けがつかないくらいそっくりなんだろう?」いつだって、よく見えているのは傍観者だけ。隼人の指先がかすかに震え、手の甲に落ちた灰がじゅっと焼きつく。黒ずんだ痕が残った。「そっくりだって?そんなはずが……」私はそっと目を伏せ、踵を返して事務所へ戻った。離婚協議書に条項をもう一つ、付け足したい。【離婚後は、双方いかなる形でも相手を騒がせないこと】すべて終えると、私は引っ越し業者に電話をかける。明日の十二時、搬出の予約を入れる。夜、隼人は帰らなかった。きっと、あの莉緒と一緒にいるのだろう。なにしろ退勤前、彼女からおつかい便で荷物が届いたのだ。隼人の車にあった下着と同じシリーズの赤いブラジャー。メモにはこうあった。【下着を置き忘れちゃったから、代わりにこれあげる。セットにしてね】それを受け取って、私は証拠として保管する。身支度を終えて眠りにつこうとした矢先、スマホが立て続けに震え始めた。画面に並んでいたのは、隼人からの何十件もの着信。事故に遭い、今は病院にいる。すぐに来てほしい、と。考える間もなく私は家を飛び出す。救急処置室の前で、隼人は落ち着きなく行き来していた。私の姿を見つけるなり駆け寄り、そのまま採血室へと押し込む。「莉緒が今、手術中だ。輸血が必要なんだ。お前はO型で、いわゆる万能型だろう?きっと助けられる」腰のあたりをドア枠にぶつけ、鋭い痛みに息を呑んだ。堪えきれず、私は思わず隼人に問いかける。「莉緒は、誰のこと?」隼人は視線を落とし、話を逸らす。「柚葉、お前は優しいだろう。人が死にかけていても、見捨てたりしないよな?それに、昔、俺だって一度、お前を救ったじゃないか」心臓が一拍、止まった。私はひどくぎこ
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第4話

「柚葉、起きた?どこか具合悪くない?医者を呼ぼうか?」私は首を横に振る。「彼女は無事?」隼人は身じろぎし、視線を彷徨わせる。「だ……大丈夫……」彼は恐れている。私があの女は誰かと訊くことを。彼女と彼の関係を。そして、子どものことを。私が目を覚ます前から、隼人は嘘をつくつもりでいた。けれど私は、小さくうなずいただけで、帰る支度を始める。「何も、聞かないのか?」隼人は自分から口を開いたものの、言い終えると、堪えきれず拳を握りしめる。その緊張した顔が可笑しくて、私は思わず笑い、扉を押し開けて出ようとする。だが隼人は引き下がらず、追いかけてきて「送る」と言い張る。帰り道、隼人は執拗に問いかけてくる。「気にならないのか?」私は首を振る。「気にすることなんてないわ。ただの友だちだよね」長い沈黙ののち、隼人がまた口を開く。「近いうちに温泉旅行でも行かないか?前から行きたいって言ってたし、プランも何度も練ってたよね?」私は視線を落として腕時計を見る。引っ越し業者が到着するまで、あと四時間。「いい。暇がないの」隼人のハンドルを握る手がこばわり、危うく赤信号を突っ切りそうになる。「じゃあ、海は?それとも、前から行きたいって言ってたあのフレンチ?いや、いっそ学校に戻ろうか。お前、ずっと言ってただろ?キャンパスでのブライダルフォトを撮りたいって」隼人は次々と、かつて私が口にした願いごとを並べ立てた。だがそのすべてを、私は首を振って退けた。車を降りるころには、彼の表情は気まずさと罪悪感から、やがて疑念と不満へと変わっていた。その顔を見て、まだ時間があるのを思って、私は自分から言う。「じゃあ、駅前の商店街で、蒸したての点心を買ってきてくれる?」駅前の商店街――隼人と私が初めて出会った場所。そこの蒸したての点心は、おいしくて、私たちの青春をずっと支えてきた味だ。今でも、ふと懐かしくなる。隼人も思い出したらしい。強張っていた顔が、ぱっと晴れる。「分かった。ここで待ってて」彼は私を降ろすと、そのまま車を走らせて行った。私は鍵を開けて家に入る。午前九時、荷物をすべてまとめ、私はホテルのエグゼクティブスイートを予約した。午前十時、私は隼人との思い出が詰まった
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第5話

空気が、ぴたりと止まった気がする。隼人はその場に立ち尽くし、目にじわじわと赤が滲む。あの頃のことを思い出す。私が拗ねて、冗談めかして「別れよう」と言った日。身長180を超える大きな男が、その場で目を真っ赤にして叫んだ。「だめだ。お前が俺を捨てるなんて、だめだ!俺はお前なしじゃ、生きていけない!」そのとき私は、泣き笑いするしかなくて、彼を抱きしめながら「分かった」と耳元で呟いた。――柚葉は、永遠に隼人を置いていかない。――柚葉は、隼人とずっと一緒にいて、白髪になるまで添い遂げる。でも、今回は違う。私はスーツケースを私の前に置き、彼との距離をはっきりと隔てた。「隼人、私たち離婚しよう」ちょうどそのとき、引っ越し業者が上がってきて、私の手から最後のスーツケースを受け取った。私はその後ろについて階段へ向かう。隼人の顔には狼狽が浮かび、その奥には隠しきれない動揺が透けて見える。「柚葉、お前……何か、知っているのか?」私は一歩、足を止めて振り返る。「どう思う?隼人」長い年月を共に過ごした私たちには、もう言葉はいらないほどの暗黙の了解がある。言わなくても分かることがある。彼も分かっている。私も分かっている。隼人が私を引き止めることはない。たとえ引き止めたいと思ったとしても、もう彼にはできない。想像したような怒鳴り合いも、責め合いも、弁解も、何も起きなかった。一階に下りたとき、私は点心の包みをそのままゴミ置き場に放り込んだ。――これが大人の体面というものなのかもしれない。彼が汚れているなら、彼の買ってきたものも同じだ。それでも、私は覚えている。初めて彼が点心を買ってきてくれたときのことを。あの頃、彼のポケットには六百円しかなかった。その日は、私と隼人は一緒に山登りに行った。下山の道すがら、私は駄々をこねて「背負って」とせがんだ。彼は腹を立てることもなく、にこにこと笑いながら私を背に乗せた。「お嫁さんをおぶってるぞー!」その「お嫁さん」に、私は顔が真っ赤になって拳で彼の背を叩いた。「まだ結婚してないよ。誰があなたのお嫁さんよ」そこへ突然、激しい雨が降り出したせいで、二人とも学生寮の門限を過ぎてしまい、学校へ戻ることができなかった。スマホは
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第6話

私が去るのは、彼と莉緒のことを知ってしまったからだ。彼が何も聞こうとしないのは、知りたくないからじゃない。事実に向き合う勇気がないだけだ。彼はいつも思い込んでいる。沈黙を守っていれば、何をしても私は許してしまう、と。隼人が家に入ってまず目にしたのは、玄関脇に置かれたごみ箱だ。中にあるのは、この長い年月を共にしてきた私たちのツーショット。正確にいえば――私が切り離して、彼の片側だけになった写真だ。テーブルに開いたアルバムには、切り取られたもう片方、私のほうだけが収まっている。長く一緒にいたからこそ私は知っている。どんなやり方が、彼にいちばん堪えるかを。足元が崩れたように、隼人は玄関の下駄箱にもたれ、震える手でゴミ箱の写真を一枚ずつ拾い上げる。彼は、私を愛しているのだろう。でなければ、切り裂かれた写真を見て泣くはずがない。けれど、もし愛しているのなら、どうして裏切れるのだろう?男というものは、やっぱり理解しがたい。隼人は涙を拭い、スマホを取り出してメッセージを打ち始める。【柚葉、誰が何を言ったか知らないけど、俺は説明できる。写真を切る必要なんてない、引っ越す必要もない】いつまで待っても、既読がつかないトーク画面が突き刺さるように静まり返っていた。――何年も一緒にいて初めて、私は問題を解決しようとせず、彼をブロックした。隼人は、数秒間、呆然と立ち尽くす。そして、信じられないといった表情のまま、ふらふらと部屋の奥へ足を踏み入れる。足は頼りなく、よろけながら。だが、ふいに彼の表情が変わる。すると、テーブルへ駆け寄る。そこには、私が置いた離婚協議書があった。端は彼に強く握りしめられたのか、白く擦り切れた跡が残っている。愛した過去は消えない。けれど裏切った以上、彼には財産分与の権利はない。すべてを置いて出て行ってもらう。離婚協議書の条項は多いが、隼人は歯を食いしばって一つひとつ噛みしめるように最後まで目を通した。ただ、最後の一行で止まった。【離婚後、双方いかなる形でも相手を騒がせないこと】その一文に、隼人は逆上して、怒りに任せて離婚協議書を引き裂いた。飽きたと口にしたのは彼なのに、怒りをぶつけてくるのもまた彼だ。けれど、彼の思いどおりに世の中が動くわけじゃない。すべてが彼の
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第7話

周りの誰もが、隼人が妻を溺愛していることを知っている。浮気なんて言葉は、どう考えても彼には似合わない。けれど、そんな彼のイメージも結局は崩れ去った。もし隼人の仲間たちの前で「隼人がいちばん愛しているのは私」と言ったら、きっと腹を抱えて笑うだろう。私はスマホから適当に何枚かの写真を見せた。紗英はそれを見るなり、思わず罵声を吐き、テーブルの上の瓶を掴んでは隼人のもとへ殴り込みに行こうとする。「最初に結婚したときから、あいつがまともな男じゃないって思ってたわ。この何年も、よくもここまで取り繕ってきたもんだわ。で、その女はどこ?分かってて浮気相手になったよね?絶対に叩きのめしてやる!」あらかじめ伝えなかったのは、紗英が衝動的に誰かを傷つけるのを恐れたからだ。私は慌てて紗英の腕を引き止め、すべてはもう私が片づけたと伝える。「今あなたにしてほしいのは、ただ一つ。私と一緒にタトゥーを消しに行ってくれることよ」「柚葉、あなたがどれだけつらかったか、ほんとはもっと早く……」打ち明けてくれればよかったのに。言いかけて、紗英は言葉を飲み込む。そっと私は彼女の手を軽く叩いた。大丈夫、と無言で伝える。私はいつもそうだ。ひとりで、すべてのつらい気持ちを飲み込んでしまう。隼人はいつも言っていた。私が怒ったときは、思いきり彼にぶつければいいって。一人で抱え込まず、話してくれ、と。彼は、私の八つ当たりを受け止める役でいいんだ、と。――けれど、莉緒が怒ったときは、彼は真っ先に駆けつける。どうして私の怒りだけは、気づいてくれないのだろう。どうして、私の口から言わせなければわからないのだろう。茫然としている私に、紗英が声をかけてくれる。「行こう、タトゥーを消しに」隼人は気づいた。私との連絡手段が、LINEをはじめとしてすべて消されていることに。彼は私の行方をあちこちに当たり始める。街はそう広くもないし、私も別に隠そうとしているわけではない。隼人はほどなくして、私が滞在しているホテルを突き止めた。ホテルへ向かう途中、彼の友人から電話が入る。「隼人、柚葉を見たぞ!」「どこだ?」「ブラックローズタトゥーって店だ」「タトゥー」という言葉を耳にした瞬間、隼人の胸の奥が刃物で抉られるような痛みが
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第8話

「本当に離婚するつもり?本当にタトゥーを消すの?」「もちろん」隼人は逆に笑い、鼻で息を鳴らす。「分かった。離婚協議書をもう一部用意してくれ。市役所に出しに行く日が決まったら連絡しろ」隼人はいつもこうだ。自分が悪いと分かれば頭を下げる――ただし、一時的なだけ。こちらが許さなければ、すぐに逆上する。「柚葉、お前がいなきゃ俺が生きられないとでも思ってるのか!」その瞬間、私は吹っ切れた。隼人が私の前に現れても、ひと言の謝罪さえなかった。最初から最後まで、ただの詰問。離婚は許さない、タトゥーは消すな。彼はまるで、私がここまでしたのが彼の裏切りのせいだということを、すっかり忘れているかのようだ。私は深く息を吸い、必死に胸の奥の感情を押し殺した。堪え続けたせいで、両手は小刻みに震えている。腰の痛みなんて心の痛みに比べれば取るに足らない。どうして私と隼人は、こんなところまで来てしまったのだろう。私は手早く別の店を探して、残っていた半分のタトゥーを消した。夜には何人かの友人を呼び、独身に戻ったことを祝った。泣いたし、苦しかった。長い年月の愛情が嘘だったわけじゃない。でも、いつかは過ぎていく。くだらない相手のために、もう泣くのはやめよう。ホテル暮らしを続けるわけにもいかず、数日後、私は新しい住まいを見つけ、部屋の掃除などで忙しい。やることはいくらでもある。隼人のことを思い出すことも、しばらくはなかった――亮介から突然の連絡が来るまでは。「柚葉、本当は電話なんかすべきじゃないのは分かってる。俺は隼人に加担して、君を騙した。でも、この前、隼人がタトゥー店に行ったときに事故って、足を怪我したじゃないか?何とか病院に運んだけど、全然治療に協力しないんだ。このままじゃ、本当に足がダメになる」「柚葉、隼人も自分の過ちに気づいてる。君からも少し言ってやってくれないか?」亮介は話し終えると、病院の場所をメッセージで送ってきた。もっとも、それもダメもとでの連絡にすぎない。だから私が病院に姿を見せたとき、彼は驚きのあまり声を失う。亮介は無駄口も叩かず、せき立てるように私を案内して、隼人のいる病室へ向かう。病室の前に着いたとき、亮介は足を止め、わずかに表情を曇らせた。どうせ来ないと思っ
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第9話

廊下で私が去るのを見るや、亮介があわてて病室に入ってくる。「隼人、せっかく柚葉を連れてきたんだから、ここは折れてくれよ。それと、神崎さん、もう来るなって忠告したよな。金も渡したはずだ」隼人は顔をこわばらせ、黙り込んだ。傍らで莉緒は泣き声をあげながら隼人の手にしがみついている。「これは私たちの子どもなの。中絶なんてできない!隼人、あの人はもうあなたを愛してないけど、私はまだ、あなたを愛してるの!」だが、これまでなら効いたはずの甘えは、もう通じない。隼人は嫌悪を隠さず、彼女の手を振り払った。「お前が彼女に似ていなければ、俺のそばにいる資格なんてないんだ。勘違いするな」莉緒は目を見開き、信じられないという表情を浮かべる。「……今、何て言ったの?」「俺の子を産むと言うなら――お前は生きてはいけない」その脅しが口先だけでないことは、数日前に亮介から聞かされていた。だがそのとき、莉緒は信じなかった。隼人が彼女を救うために、私にあれほどの輸血をさせたのだ。そんな隼人が、子どもを堕ろせなんて言うはずがないと莉緒は思った。だから彼女は、時おり病院へ足を運ぶ。私がいない代わりに、似た顔を見せれば、隼人の心も慰められる――そう思って。その目論見どおり、冷たい態度は取られても、追い出されることはなかった。ただ、運悪く今日は私が来て、鉢合わせになった。私はどうでもよかったが、隼人は私の冷ややかな態度を莉緒のせいにしたらしい。病室の中で、莉緒は声をあげて泣き叫んでいる。「隼人!何の権利があってそんなこと言うの!私はこの子を産む!どうせ柚葉のことを気にしてるんでしょ?だったらなおさら産んでやる。子どもを連れて、彼女の目の前で見せつけてやる。あの女、あなたのことなんて少しも気にしてないんだから……」莉緒はなおも言葉を続けようとしたが、隼人の鋭い眼差しに射すくめられ、唇を噤んだ。彼が亮介に目配せすると、亮介はすぐ意図を理解した。莉緒が口を塞がれたまま病室から連れ出されるとき、耳に届いたのは隼人の冷酷な一言だけだ。「お前ごときが、彼女の前に現れる資格なんてない」もみ合ううちに、莉緒の手首からブレスレットが床へと落ちる。その音に導かれるように、隼人の脳裏に先ほどの莉緒の言葉がよみがえる。―
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