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第6話

Author: 局所宇宙
私が去るのは、彼と莉緒のことを知ってしまったからだ。

彼が何も聞こうとしないのは、知りたくないからじゃない。事実に向き合う勇気がないだけだ。

彼はいつも思い込んでいる。沈黙を守っていれば、何をしても私は許してしまう、と。

隼人が家に入ってまず目にしたのは、玄関脇に置かれたごみ箱だ。

中にあるのは、この長い年月を共にしてきた私たちのツーショット。

正確にいえば――私が切り離して、彼の片側だけになった写真だ。

テーブルに開いたアルバムには、切り取られたもう片方、私のほうだけが収まっている。

長く一緒にいたからこそ私は知っている。どんなやり方が、彼にいちばん堪えるかを。

足元が崩れたように、隼人は玄関の下駄箱にもたれ、震える手でゴミ箱の写真を一枚ずつ拾い上げる。

彼は、私を愛しているのだろう。

でなければ、切り裂かれた写真を見て泣くはずがない。

けれど、もし愛しているのなら、どうして裏切れるのだろう?

男というものは、やっぱり理解しがたい。

隼人は涙を拭い、スマホを取り出してメッセージを打ち始める。

【柚葉、誰が何を言ったか知らないけど、俺は説明できる。写真を切る必要なんてない、引っ越す必要もない】

いつまで待っても、既読がつかないトーク画面が突き刺さるように静まり返っていた。

――何年も一緒にいて初めて、私は問題を解決しようとせず、彼をブロックした。

隼人は、数秒間、呆然と立ち尽くす。そして、信じられないといった表情のまま、ふらふらと部屋の奥へ足を踏み入れる。

足は頼りなく、よろけながら。

だが、ふいに彼の表情が変わる。すると、テーブルへ駆け寄る。

そこには、私が置いた離婚協議書があった。端は彼に強く握りしめられたのか、白く擦り切れた跡が残っている。

愛した過去は消えない。けれど裏切った以上、彼には財産分与の権利はない。すべてを置いて出て行ってもらう。

離婚協議書の条項は多いが、隼人は歯を食いしばって一つひとつ噛みしめるように最後まで目を通した。

ただ、最後の一行で止まった。

【離婚後、双方いかなる形でも相手を騒がせないこと】

その一文に、隼人は逆上して、怒りに任せて離婚協議書を引き裂いた。

飽きたと口にしたのは彼なのに、怒りをぶつけてくるのもまた彼だ。

けれど、彼の思いどおりに世の中が動くわけじゃない。すべてが彼の
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