ログイン私は相馬隼人(そうま はやと)と付き合い始めてから十年、結婚して六年になる。 愛し合った年月があまりにも長く、私たち二人はもう、どんな体位も試し尽くしていた。 私が二十八歳のある日、隼人が突然思い出したように語った。十八歳のころ、全身で私――水城柚葉(みずき ゆずは)にのめり込んできた、あの夜のことを。 私は笑って受け流しながら、きっとどこかがもうおかしくなっている――そう悟った。 離婚を決意したあの夜、その引き金となったのは、神崎莉緒(かんざき りお)から届いた一通のメッセージだ。 それは腰に刻まれたハートのタトゥーの写真。 そして、添えられていたのは、たった一行の挑発だ。 【彼、毎日ここにキスするよ】 その短い言葉に、私は心臓をぎゅっとつかまれる。 だって、かつての私の腰にも、同じタトゥーがあったから。 あのころ――隼人は、命を落としかけるほどの勢いで十八歳の私を求めていた。
もっと見る廊下で私が去るのを見るや、亮介があわてて病室に入ってくる。「隼人、せっかく柚葉を連れてきたんだから、ここは折れてくれよ。それと、神崎さん、もう来るなって忠告したよな。金も渡したはずだ」隼人は顔をこわばらせ、黙り込んだ。傍らで莉緒は泣き声をあげながら隼人の手にしがみついている。「これは私たちの子どもなの。中絶なんてできない!隼人、あの人はもうあなたを愛してないけど、私はまだ、あなたを愛してるの!」だが、これまでなら効いたはずの甘えは、もう通じない。隼人は嫌悪を隠さず、彼女の手を振り払った。「お前が彼女に似ていなければ、俺のそばにいる資格なんてないんだ。勘違いするな」莉緒は目を見開き、信じられないという表情を浮かべる。「……今、何て言ったの?」「俺の子を産むと言うなら――お前は生きてはいけない」その脅しが口先だけでないことは、数日前に亮介から聞かされていた。だがそのとき、莉緒は信じなかった。隼人が彼女を救うために、私にあれほどの輸血をさせたのだ。そんな隼人が、子どもを堕ろせなんて言うはずがないと莉緒は思った。だから彼女は、時おり病院へ足を運ぶ。私がいない代わりに、似た顔を見せれば、隼人の心も慰められる――そう思って。その目論見どおり、冷たい態度は取られても、追い出されることはなかった。ただ、運悪く今日は私が来て、鉢合わせになった。私はどうでもよかったが、隼人は私の冷ややかな態度を莉緒のせいにしたらしい。病室の中で、莉緒は声をあげて泣き叫んでいる。「隼人!何の権利があってそんなこと言うの!私はこの子を産む!どうせ柚葉のことを気にしてるんでしょ?だったらなおさら産んでやる。子どもを連れて、彼女の目の前で見せつけてやる。あの女、あなたのことなんて少しも気にしてないんだから……」莉緒はなおも言葉を続けようとしたが、隼人の鋭い眼差しに射すくめられ、唇を噤んだ。彼が亮介に目配せすると、亮介はすぐ意図を理解した。莉緒が口を塞がれたまま病室から連れ出されるとき、耳に届いたのは隼人の冷酷な一言だけだ。「お前ごときが、彼女の前に現れる資格なんてない」もみ合ううちに、莉緒の手首からブレスレットが床へと落ちる。その音に導かれるように、隼人の脳裏に先ほどの莉緒の言葉がよみがえる。―
「本当に離婚するつもり?本当にタトゥーを消すの?」「もちろん」隼人は逆に笑い、鼻で息を鳴らす。「分かった。離婚協議書をもう一部用意してくれ。市役所に出しに行く日が決まったら連絡しろ」隼人はいつもこうだ。自分が悪いと分かれば頭を下げる――ただし、一時的なだけ。こちらが許さなければ、すぐに逆上する。「柚葉、お前がいなきゃ俺が生きられないとでも思ってるのか!」その瞬間、私は吹っ切れた。隼人が私の前に現れても、ひと言の謝罪さえなかった。最初から最後まで、ただの詰問。離婚は許さない、タトゥーは消すな。彼はまるで、私がここまでしたのが彼の裏切りのせいだということを、すっかり忘れているかのようだ。私は深く息を吸い、必死に胸の奥の感情を押し殺した。堪え続けたせいで、両手は小刻みに震えている。腰の痛みなんて心の痛みに比べれば取るに足らない。どうして私と隼人は、こんなところまで来てしまったのだろう。私は手早く別の店を探して、残っていた半分のタトゥーを消した。夜には何人かの友人を呼び、独身に戻ったことを祝った。泣いたし、苦しかった。長い年月の愛情が嘘だったわけじゃない。でも、いつかは過ぎていく。くだらない相手のために、もう泣くのはやめよう。ホテル暮らしを続けるわけにもいかず、数日後、私は新しい住まいを見つけ、部屋の掃除などで忙しい。やることはいくらでもある。隼人のことを思い出すことも、しばらくはなかった――亮介から突然の連絡が来るまでは。「柚葉、本当は電話なんかすべきじゃないのは分かってる。俺は隼人に加担して、君を騙した。でも、この前、隼人がタトゥー店に行ったときに事故って、足を怪我したじゃないか?何とか病院に運んだけど、全然治療に協力しないんだ。このままじゃ、本当に足がダメになる」「柚葉、隼人も自分の過ちに気づいてる。君からも少し言ってやってくれないか?」亮介は話し終えると、病院の場所をメッセージで送ってきた。もっとも、それもダメもとでの連絡にすぎない。だから私が病院に姿を見せたとき、彼は驚きのあまり声を失う。亮介は無駄口も叩かず、せき立てるように私を案内して、隼人のいる病室へ向かう。病室の前に着いたとき、亮介は足を止め、わずかに表情を曇らせた。どうせ来ないと思っ
周りの誰もが、隼人が妻を溺愛していることを知っている。浮気なんて言葉は、どう考えても彼には似合わない。けれど、そんな彼のイメージも結局は崩れ去った。もし隼人の仲間たちの前で「隼人がいちばん愛しているのは私」と言ったら、きっと腹を抱えて笑うだろう。私はスマホから適当に何枚かの写真を見せた。紗英はそれを見るなり、思わず罵声を吐き、テーブルの上の瓶を掴んでは隼人のもとへ殴り込みに行こうとする。「最初に結婚したときから、あいつがまともな男じゃないって思ってたわ。この何年も、よくもここまで取り繕ってきたもんだわ。で、その女はどこ?分かってて浮気相手になったよね?絶対に叩きのめしてやる!」あらかじめ伝えなかったのは、紗英が衝動的に誰かを傷つけるのを恐れたからだ。私は慌てて紗英の腕を引き止め、すべてはもう私が片づけたと伝える。「今あなたにしてほしいのは、ただ一つ。私と一緒にタトゥーを消しに行ってくれることよ」「柚葉、あなたがどれだけつらかったか、ほんとはもっと早く……」打ち明けてくれればよかったのに。言いかけて、紗英は言葉を飲み込む。そっと私は彼女の手を軽く叩いた。大丈夫、と無言で伝える。私はいつもそうだ。ひとりで、すべてのつらい気持ちを飲み込んでしまう。隼人はいつも言っていた。私が怒ったときは、思いきり彼にぶつければいいって。一人で抱え込まず、話してくれ、と。彼は、私の八つ当たりを受け止める役でいいんだ、と。――けれど、莉緒が怒ったときは、彼は真っ先に駆けつける。どうして私の怒りだけは、気づいてくれないのだろう。どうして、私の口から言わせなければわからないのだろう。茫然としている私に、紗英が声をかけてくれる。「行こう、タトゥーを消しに」隼人は気づいた。私との連絡手段が、LINEをはじめとしてすべて消されていることに。彼は私の行方をあちこちに当たり始める。街はそう広くもないし、私も別に隠そうとしているわけではない。隼人はほどなくして、私が滞在しているホテルを突き止めた。ホテルへ向かう途中、彼の友人から電話が入る。「隼人、柚葉を見たぞ!」「どこだ?」「ブラックローズタトゥーって店だ」「タトゥー」という言葉を耳にした瞬間、隼人の胸の奥が刃物で抉られるような痛みが
私が去るのは、彼と莉緒のことを知ってしまったからだ。彼が何も聞こうとしないのは、知りたくないからじゃない。事実に向き合う勇気がないだけだ。彼はいつも思い込んでいる。沈黙を守っていれば、何をしても私は許してしまう、と。隼人が家に入ってまず目にしたのは、玄関脇に置かれたごみ箱だ。中にあるのは、この長い年月を共にしてきた私たちのツーショット。正確にいえば――私が切り離して、彼の片側だけになった写真だ。テーブルに開いたアルバムには、切り取られたもう片方、私のほうだけが収まっている。長く一緒にいたからこそ私は知っている。どんなやり方が、彼にいちばん堪えるかを。足元が崩れたように、隼人は玄関の下駄箱にもたれ、震える手でゴミ箱の写真を一枚ずつ拾い上げる。彼は、私を愛しているのだろう。でなければ、切り裂かれた写真を見て泣くはずがない。けれど、もし愛しているのなら、どうして裏切れるのだろう?男というものは、やっぱり理解しがたい。隼人は涙を拭い、スマホを取り出してメッセージを打ち始める。【柚葉、誰が何を言ったか知らないけど、俺は説明できる。写真を切る必要なんてない、引っ越す必要もない】いつまで待っても、既読がつかないトーク画面が突き刺さるように静まり返っていた。――何年も一緒にいて初めて、私は問題を解決しようとせず、彼をブロックした。隼人は、数秒間、呆然と立ち尽くす。そして、信じられないといった表情のまま、ふらふらと部屋の奥へ足を踏み入れる。足は頼りなく、よろけながら。だが、ふいに彼の表情が変わる。すると、テーブルへ駆け寄る。そこには、私が置いた離婚協議書があった。端は彼に強く握りしめられたのか、白く擦り切れた跡が残っている。愛した過去は消えない。けれど裏切った以上、彼には財産分与の権利はない。すべてを置いて出て行ってもらう。離婚協議書の条項は多いが、隼人は歯を食いしばって一つひとつ噛みしめるように最後まで目を通した。ただ、最後の一行で止まった。【離婚後、双方いかなる形でも相手を騒がせないこと】その一文に、隼人は逆上して、怒りに任せて離婚協議書を引き裂いた。飽きたと口にしたのは彼なのに、怒りをぶつけてくるのもまた彼だ。けれど、彼の思いどおりに世の中が動くわけじゃない。すべてが彼の
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