【プロローグ】「待って、樹(いつき)! そんなに走ると危ないわよ!」 柔らかな朝の光が降り注ぐ、地方都市の穏やかな並木道。小さな恐竜のアップリケがついたリュックを揺らし、4歳の息子がきゃっきゃと笑いながら駆けていく。その後ろ姿を、早乙女結菜(さおとめ・ゆな)は少し息を切らしながら追いかけた。 保育園の門の前でようやく追いつくと、くるりと振り返った息子は、満面の笑みを浮かべていた。額には、うっすらと汗がにじんでいる。「ママ、はやく!」「もう、元気すぎなんだから」 結菜はしゃがみ込み、息子の小さな手を握る。自分とよく似た柔らかな髪の下で、あの人から受け継いだ銀灰色の瞳が、期待に満ちてきらきらと輝いていた。「だって、きょうは先生に、きょうりゅうの絵本を読んでもらうんだもん!」 無邪気な笑顔に、結菜の胸がきゅっと愛しさで満たされる。彼女は樹を優しく抱きしめた。小さな子供特有の甘い匂いが、結菜の心を安らぎで包む。「ママ、お仕事に行ってくるからね。先生の言うことをちゃんときいて、いい子で待ってるのよ」「うん!」 元気な返事と共に腕の中から抜け出して、樹は友達の元へと駆けて行った。その小さな背中が見えなくなるまで見送ると、結菜はふっと表情を和らげ、自分の職場である市立図書館へと歩き出す。(この温かい宝物が、私のすべて) 今の穏やかな暮らしは、彼女が胸の奥にしまい込んだある一夜の美しい思い出と、引き裂かれるような痛みの上に成り立っていた。 その始まりは、5年前。大学を卒業して間もない頃。就職に失敗し、派遣社員として働いていた秋のことだった――。◇【5年前】 オフィスライトの白い光が、規則正しく並んだデスクを無機質に照らし出す。 結菜は、モニターに映し出される数字の羅列を目で追っていた。聞こえるのは、カタカタ、と響く自分のキーボードの音と、周囲の社員たちの当たり障りのない会話だけ。その声も、自分とは無関係などこか遠いもののように感じる。(今日も、同じ一日が終わる) 定時のチャイムが鳴った。結菜は誰にともなく小さく会釈をして、席を立った。 派遣社員である彼女のデスクには、私物と呼べるものはほとんどない。契約はいつ切られるか分からず、そのために周囲の社員と打ち解けることもない。空っぽの引き出しを閉めるたび、自分の居場所がここにはないのだと、改め
最終更新日 : 2025-09-29 続きを読む