地方の図書館で働く結菜は、息子・樹と穏やかに暮らしている。その胸には、一夜を共にした美貌のCEO・智輝への、引き裂かれた想いが眠っていた。 5年前、彼の母親と婚約者に手切れ金を突きつけられたあの日。「君も結局、金目当てだったのか」――愛する人の絶望に満ちた言葉に、妊娠の事実を告げられぬまま結菜は姿を消した。 そして今、彼女の前に再び現れた智輝は、自分と同じ銀灰色の瞳を持つ少年の存在に衝撃を受ける。 「……その子は、誰の子だ?」 氷のCEOが、たった一つの愛を取り戻すために犯した罪を贖う、絶望的な後悔から始まるラブストーリー。
View More【プロローグ】
「待って、樹(いつき)! そんなに走ると危ないわよ!」
柔らかな朝の光が降り注ぐ、地方都市の穏やかな並木道。小さな恐竜のアップリケがついたリュックを揺らし、4歳の息子がきゃっきゃと笑いながら駆けていく。その後ろ姿を、早乙女結菜(さおとめ・ゆな)は少し息を切らしながら追いかけた。
保育園の門の前でようやく追いつくと、くるりと振り返った息子は、満面の笑みを浮かべていた。額には、うっすらと汗がにじんでいる。
「ママ、はやく!」
「もう、元気すぎなんだから」
結菜はしゃがみ込み、息子の小さな手を握る。自分とよく似た柔らかな髪の下で、あの人から受け継いだ銀灰色の瞳が、期待に満ちてきらきらと輝いていた。
「だって、きょうは先生に、きょうりゅうの絵本を読んでもらうんだもん!」
無邪気な笑顔に、結菜の胸がきゅっと愛しさで満たされる。彼女は樹を優しく抱きしめた。小さな子供特有の甘い匂いが、結菜の心を安らぎで包む。
「ママ、お仕事に行ってくるからね。先生の言うことをちゃんときいて、いい子で待ってるのよ」
「うん!」
元気な返事と共に腕の中から抜け出して、樹は友達の元へと駆けて行った。その小さな背中が見えなくなるまで見送ると、結菜はふっと表情を和らげ、自分の職場である市立図書館へと歩き出す。
(この温かい宝物が、私のすべて)
今の穏やかな暮らしは、彼女が胸の奥にしまい込んだある一夜の美しい思い出と、引き裂かれるような痛みの上に成り立っていた。
その始まりは、5年前。大学を卒業して間もない頃。就職に失敗し、派遣社員として働いていた秋のことだった――。 ◇【5年前】
オフィスライトの白い光が、規則正しく並んだデスクを無機質に照らし出す。 結菜は、モニターに映し出される数字の羅列を目で追っていた。聞こえるのは、カタカタ、と響く自分のキーボードの音と、周囲の社員たちの当たり障りのない会話だけ。その声も、自分とは無関係などこか遠いもののように感じる。(今日も、同じ一日が終わる)
定時のチャイムが鳴った。結菜は誰にともなく小さく会釈をして、席を立った。
派遣社員である彼女のデスクには、私物と呼べるものはほとんどない。契約はいつ切られるか分からず、そのために周囲の社員と打ち解けることもない。空っぽの引き出しを閉めるたび、自分の居場所がここにはないのだと、改めて突きつけられる気がした。もう秋だというのに、東京の気温は高いままだ。
帰りの電車は、一日の熱気を吸い込んだまま、けだるそうに線路を滑っていく。窓に映る自分の顔は、ひどく色褪せて見えた。柔らかな茶色の髪も、自分では穏やかだと思っている瞳も、この灰色の都会では何の個性も放たない。(このままで、いいのかな……)
街角で楽しそうに笑い合う家族連れが、ふと目に入る。
既に両親を亡くした結菜にとって、眩しすぎる光景だった。胸の奥が、きゅう、と小さく痛む。天涯孤独という言葉が、冷たい風のように心を吹き抜けていった。感傷を振り払うように、結菜はいつも同じ路地へと足を向けた。
都会の喧騒が嘘のように静まり返る、入り組んだ裏通り。その先に彼女の聖域はあった。蔦の絡まるレンガ造りのレトロな建物が、裏路地の片隅に佇んでいる。アンティークな木製のドアに手をかけると、カラン、と澄んだベルの音が鳴った。
『書斎喫茶 月読(ツクヨミ)』
一歩足を踏み入れると、古書のインクと深く焙煎されたコーヒーの香りが、結菜の心を優しく包み込む。壁という壁を埋め尽くす本棚と、静かに流れるクラシック音楽。
カウンターの奥で、無口なマスターが黙って頷いた。結菜を迎える。深夜のバスターミナルで、結菜は両親が眠る故郷行きの、最終バスのチケットを握りしめていた。 重いエンジン音と共にバスがゆっくりと動き出す。結菜は窓の外を流れていく景色を、ただ無言で見つめていた。 つい先日、智輝と歩いたきらびやかな大通り。彼と出会った街の眩いほどの光。それらが次々と流れては、闇の中へと溶けていく。 窓ガラスに映る自分の顔はひどく頼りなく、見知らぬ誰かのように見える。(……さようなら) 心の中で、この街で夢見た淡く儚い恋に別れを告げる。頬を伝った一筋の涙は、恋の終わりと過去の自分自身との決別の証である。◇ 故郷の駅に降り立った結菜を、懐かしい潮の香りが迎えた。しかし彼女の心は凪ぐどころか、寄る辺を失った不安でいっぱいだった。 結菜はまず銀行へ向かう。取り出した通帳は、父が亡くなった時に渡されたものだ。 彼女はその表紙をそっと撫でる。父が遺してくれた、わずかな生命保険金。いざという時のお守りとして、今まで一度も手をつけずにいた大切なお金だった。(お父さん、ごめんなさい。……使わせてもらうね) 心の中で父に詫び、感謝する。窓口で手続きをする彼女の手は、もう震えていない。東京での自分と決別し、この街でもう一度自分の足で立って生きていくための、最初の覚悟だったからだ。 その通帳を握りしめて、結菜は駅前の不動産屋の扉を叩いた。高価なものは望めない。保証人もいない彼女が借りられたのは、日当たりだけが取り柄の、小さな木造アパートの一室だった。 スーツケースから数枚の着替えと洗面用具を取り出しても、六畳一間の部屋はがらんとしたままだ。心の傷を抱えたまま、すぐに仕事を探しに出る気力は湧いてこない。 結菜はただ、眠っては起きるだけの毎日を過ごした。食欲もなく、近くのスーパーで買ってきたパンとスープだけで済ませる食事が続く。テレビも無い部屋で聞こえるのは、自分の無機質な生活音だけだった。 そんな中で唯一、彼女が意識的に行ったのは、窓際の床に座って父の形見であるエ
『書斎喫茶 月読』でのあの日以来、結菜の時間は止まっていた。 智輝からの連絡はもちろんない。彼との思い出が詰まった東京の風景すべてが、彼女を苛むだけのものに変わってしまった。(これ以上、この街にはいられない) その想いが、結菜の心を支配していた。 彼女は、心を無にして電話を手に取った。相手は、いつも事務的に仕事の連絡をしてくる派遣会社の担当者だった。「お世話になっております。早乙女です。急で申し訳ありませんが、本日付けで、退職させていただきたく思いまして」『えっ、早乙女さん? どうしたの、急に。何かあったの? あなた、真面目で評判も良かったのに。次の契約先も決まりそうだったのよ?』 電話の向こうで、担当者が珍しくうろたえているのが分かった。けれど結菜の心はもう何も感じない。「いえ、何も。ただ一身上の都合です」『何か不満があったなら言ってくれないと、急に辞められてしまうと困るわ。言ってくれれば、改善できるかもしれないし……。まさか、派遣先の会社に乗り込んできた人たちのことで?』 桐生夫人、鏡子の話は担当者の耳にも届いていたようだ。だが結菜は声の調子を変えずに続ける。「申し訳ありません。もう、決めましたので」 それきり結菜はどんな引き止めの言葉にも、ただ「申し訳ありません」と繰り返すだけだった。 電話を切った後、結菜は続けてアパートの管理会社に電話をかけた。解約を告げる声は、自分でも驚くほど平坦だった。『お部屋の家具はどうされますか?』 事務的な問いに、結菜は迷わず答える。「そちらで処分をお願いします。費用は、敷金から差し引いてください」 結菜はがらんとした部屋を見渡した。ベッドフレームのないマットレスと、小さなローテーブル、衣類を収めただけのプラスチックケース。東京での生活を支えてくれたのは、だったこれだけのささやかな家財道具だ。だが今の彼女には、それら一つひとつを梱包して引っ越しの手続きをする気力は残っていなかった。 できるだけ早く、できるだけ簡単に、この街から自分という存在の痕跡を消し去りたかった。 結菜は最低限の荷造りを始めた。クローゼットを開けて目に飛び込んできたのは、智輝とのデートのために懸命に選んだ、アイボリーのワンピース。 楽しかった思い出と今の現実が一度に蘇り、結菜は小さく首を振る。そのワンピースを迷いなく掴み
智輝は店の入り口に立ったまま、動かなかった。彼の顔からは一切の感情が抜け落ちている。銀灰色の瞳は、結菜ただ一人を冷たく見据えていた。 結菜は智輝の突然の登場と、彼の瞳に宿る見知らぬ冷たさに、全身が凍りついた。(何か言わなければ。手切れ金は断ったと、伝えなければ) そう思うのに、カラカラに乾いた喉が張り付いたように声が出ない。 智輝がゆっくりとした足取りでテーブルへと近づいてくる。 カツ、カツと彼の革靴が床を打つ音が、張り詰めた静寂の中で不吉に響いた。 智輝はテーブルの数歩手前で足を止めると、温度のない声で低く呟いた。「……そうか。これが、君の答えか」 問いかけではない。全てを諦めた者の、絶望の独り言だった。 結菜はようやく言葉を絞り出す。「違う。智輝さん、これは……」 だがその細い声は、絶望の中にいる智輝には届かない。 彼は、テーブルの上の封筒と結菜の青ざめた顔を交互に見ると、唇の端に笑みを浮かべた。痛々しい自嘲の笑みだった。 そして彼は静かだが、はっきりとした口調で言う。「君も結局、金目当てだったのか」 その言葉は、怒鳴り声よりもずっと深く結菜の心を抉った。それは単なる詰問ではない。「他の連中と同じように」という響きを伴った結菜の人間性の全否定であり、2人が分かち合った特別な時間の完全な拒絶である。(そんな……) 智輝の言葉は、物理的な暴力よりも強く結菜を打ちのめした。美しい思い出が、彼自身の言葉によって打ち砕かれていく。 彼に信じてもらえなかったという事実が、結菜の胸にひどく重くのしかかった。 何か言おうとして唇を開くが、はくはくと息が漏れるだけで声にならない。ただ目の前の男の瞳の中に、昨夜までの優しい面影を探して、必死に見つめることしかできなかった。(違う。信じて……) しかし智輝の銀灰色の瞳は、もはや何の感情も映さない氷の湖のようだった。
智輝は息を切らしながら『月読』のドアを乱暴に開けた。 カラン、カラン――といつもよりけたたましい音を立てて、ベルが鳴る。 店内は異様なほど静まり返っていた。カウンターの奥で、マスターが苦渋に満ちた表情で立ち尽くしているのが目に入る。 智輝の心臓は激しく鳴っている。玲香の話が嘘であってくれと心の底から願いながら、彼は店の一番奥にある結菜との思い出の席へと視線を向けた。 目に飛び込んできたのは、信じたくない光景だった。 彼の母・鏡子と、婚約者・玲香。そして、その向かいに座る結菜の姿。 テーブルの中央には、分厚い純白の封筒。そしてその封筒に、結菜の手が伸ばされている――。 結菜が金を返そうと封筒を押し返した動きが、彼の角度からは、まるで金を掴もうとしたように見えたのだ。 結菜の顔は、智輝の突然の登場に驚いて青ざめている。しかしその表情すら、彼の目には「悪事が露見した者の罪悪感」として映ってしまった。 智輝の存在に最初に反応したのは、玲香だった。 彼女は「あっ……」と短く息を呑んでみせた。それから信じられないものを見たように、ゆっくりと智輝の方へ歩み寄る。その瞳は、涙で潤んでいる。 玲香は智輝のそばまで来ると、わざとらしくふらついて彼の腕の中に倒れ込んだ。か弱い被害者を演じるためだ。結菜には聞こえないよう、智輝の耳元だけで囁く。「智輝様、鏡子様のお顔をご覧になって。あんな女のせいで、お母様が追い詰められていますわ! お金なんて渡す必要ないと、あたし、申し上げたのに……!」 彼女は智輝の背中に隠れるようにして、結菜の方を怯えた目で見つめた。 芝居がかったわざとらしい動作だったが、結菜を見ていた智輝は気づかない。 一方で鏡子は一言も発しない。ただ、失望を隠さない冷ややかな視線を息子に向けただけだった。しかし智輝にとって、その沈黙こそが何より重い、結菜の有罪を告げる答えのように感じられた。 智輝の頭の中で、すべてのピースが最悪の形で組み合わさっていく。 結菜との1週間の音信不通。彼
「結菜がどうした。なぜ君が彼女を知っている。何かあったのか!」『あたし、智輝様のためを思って、母様とあの方に、穏便に身を引いていただくようお願いに来たんです』 玲香はそこで一度言葉を切った。智輝が息を呑む気配を電話越しに確かめてから、さらに憐れみを誘うようなか細い声で続けた。『そうしたら彼女、とんでもない金額を、手切れ金として要求してきて……!』「馬鹿な。彼女がそんなことをするはずがない。それ以前に、母と君が出てくるとはどういうことだ」 智輝は即座に否定した。しかしこの1週間、結菜と一切連絡が取れなかった事実が、彼の確信を鈍らせる。 玲香は、鏡子と自分が手出しした経緯は巧みに避けながら、泣きじゃくる演技で彼の心に決定的な不信感を植え付けた。「信じられないのも分かります。でも、今も彼女、お金の話をしているのです! 場所は……『書斎喫茶 月読』ですわ」(なぜ、あの場所で。俺たちの、特別な場所のはずだろう……?) 愛した女性への信頼と、婚約者の悲痛な訴えの間で、彼の心は激しく揺れ動いた。『あたし、もう見ていられなくて。一度外に出ますわ!』 玲香は叫ぶように言って、一方的に通話が切れた。 智輝は、無言で受話器を叩きつけるように置いた。「CEO!? どうなさいましたか」 彼の剣幕に、秘書が心配して駆け寄ってくる。「何でもない」 智輝は一言で退けて、コートをひったくるように手に取ると、衝動のままに執務室を飛び出した。 エレベーターを待つ時間すら惜しい。智輝は階段に飛び込んだ。非常階段を駆け下りる革靴の音が、じりじりと焦りを高めていく。 地下の駐車場で愛車のエンジンをかけると、智輝はアクセルを強く踏み込んだ。結菜の純粋な瞳と、玲香の涙ながらの訴えが、頭の中で交互にフラッシュバックする。(結菜を信じたい。だが、もし玲香の言うことが真実なら……) ハンドルを握る指が
土曜の昼、KIRYUホールディングスのCEO執務室。 桐生智輝は山積みの書類に目を通しながらも、全く集中できずにいた。あの日曜の朝、結菜の元を後にしてからもうすぐ1週間が経つ。 あの日、智輝はとうとうペントハウスに戻ることができなかった。翌日の朝になってようやく抜け出して駆けつけたが、部屋は既にもぬけの殻。 一夜を共にしたはずのベッドは整えられて、情事の痕跡は消えている。食器やその他のものも使われた形跡がなく、髪の毛一本に至るまで結菜の気配は残っていなかった。 それ以来何度電話をかけても1週間後の今日まで、彼女が出ることはなかった。メッセージにも返信はない。既読にすらならない。(結菜の身に何かあったのでは?) 心配する智輝の目に、リビングのローテーブルに置いたままになっていた黒革の手帳が目に入る。 いつも愛用している手帳だが、あの日はただの実家の食事会ということもあり、忘れてしまっていた。開けば当然、CEOとしての名刺が入っている。(まさか……俺が桐生家の人間だと知って、意図的に避けている?) 結菜は彼の肩書などではなく、本来の孤独な姿を見てくれたはずなのに。 ただの男と女として、互いを満たしあったはずなのに。 醜い疑念が智輝の心に芽生えて、むしばんだ。(彼女に限ってそんなことはない。俺が信じなくてどうする) 智輝は、腕の中で無防備に眠っていた結菜の姿を思い出す。疑念を必死に打ち消そうとした。 結局、募る焦燥感に耐えきれず、彼は仕事を中断して席を立った。(もう一度、あのカフェに行ってみよう。何か分かるかもしれない) 智輝は秘書に「今日の午後は外出する」とだけ告げて、結菜との思い出の場所へと向かおうとした。 その時、執務室の内線電話が鳴った。ディスプレイに表示された『玲香』の名前に、智輝は小さく舌打ちをしながらも受話器を取る。「俺だ。今、取り込んでいるんだが」『智輝様……!』 聞こえてきたのは、今にも泣き崩れそうな玲香の声だった。ひどく狼狽し、嗚咽を漏らすその様子は、完璧に計算された演技である。『大変なことになりましたの! あの……早乙女結菜さんが!』 結菜の名前が出た瞬間、智輝の思考は停止した。心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、彼の声から余裕が消える。
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