仮面の王と追放令嬢の復讐舞踏会의 모든 챕터: 챕터 1 - 챕터 10

13 챕터

追放の夜

金の灯りが、夜会を昼のように照らしていた。 弦の音。笑い声。香炉から立つ白い煙。 エリシア・ヴァン=ローデンは、礼儀作法どおりに一礼し、舞踏の輪へ足を入れる。 「今夜は、少し……匂いがきついわね」 隣で手を取ったルシアンが、いつもの微笑をつくる。 その微笑は、いつもよりわずかに硬かった。 「緊張しているだけだよ、エリシア」 ミレイユが小声で囁く。 「大丈夫。あなたは完璧よ」 握ったミレイユの指先は、かすかに震えていた。 ——完璧。 その言葉に、胸のどこかがかすかに軋んだ。香が、いつもより甘く重い。 壇上に宰相オルドが現れた。 「諸卿。本夜は王家への忠誠を新たにする、記念すべき夜である」 拍手。杯が触れ合う音。 エリシアは礼を整え、微笑を返す。 ここは王都アストリア。舞踏会は、王国の顔だ。 「——エリシア・ヴァン=ローデン。前へ」 司会の澄んだ声に、場の空気がすっと冷えた。 視線が集まる。エリシアは進み出る。 宰相が一枚の証書を掲げる。王家の印。赤い蝋。 「汝、国家財務記録の改竄に加担した疑い。ここに断ずる」 「……何を、仰ってるの?」 「証人、二名。ルシアン・グレイス。ミレイユ・エルフォード」 ルシアンが一歩。 ミレイユが震える手で台本のような紙を持つ。 「僕は、見ました。彼女が帳簿に触れているのを」 「わ、わたしも……彼女の部屋の机で、記録が……」 笑わない。驚かない。エリシアは呼吸を整える。 「その帳簿を、こちらへ」 宰相が顎を動かす。書記官が差し出したのは、彼女の署名が入った帳簿の写し。 王の印章の下、すべてが“真実”として整っていた。 「その筆跡は——」 「鑑定済みだ」 宰相は淡々と遮る。 「国家の印章は嘘をつかない」 父レオンは壇下で目を閉じていた。 弟ジュリアンは視線を落とし、拳を握りしめている。 エリシアは父の名を呼ぼうとし、やめた。 音楽が止む。香炉の煙だけが揺れ続ける。 オルドが最後の紙を読み上げた。 「また、婚約者ルシアン・グレイスより、婚約破棄の申し出がある」 ルシアンが、よそゆきの声で続ける。 「国のために、ふさわしい選択をしたい」 胸に痛みは来なかった。空白だけが広が
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契約の代償

教会の鐘が遠くで一度だけ鳴り、雨がやんだ。 契約書の蝋はまだぬくもりを残し、香袋の香りが空気の底に沈んでいる。 「契約は成立した」 仮面の男が静かに言った。 「だが、代償を払ってもらう」 「代償?」 エリシアは指先の熱に気づく。右の薬指——黒い印の痕がじわりと疼いた。 男は短い針のような銀具を取り出し、彼女の前に差し出す。 「怒りを貸すと書いたな。感情は形がない。 だから、血で形に変える。」 エリシアは頷き、指先に針先を触れさせた。ちくり、と小さな痛み。 一滴の赤が黒印に落ちる。蝋の上でじゅ、と音がして、紋が吸い込むように消えていった。 血の熱が指から胸へ滲み、貼り付いていた恐れが一枚、剝がれ落ちる。 泣き声も迷いも、蝋の下に縫い留められた気がした。 痛みはすぐ引いたのに、胸のどこかが軽くなった気がした。 「これでお前の怒りは、誓印に縫い止められた」 男は仮面の奥から目だけで彼女を見た。 「無駄遣いはするな」 「使い道は、決めているわ」 彼は短く肯いた。 「安全な場所まで案内しよう」 二人は夜明け前の街を歩いた。 濡れた石畳が色を戻し、窓辺の蝋燭が一つ、また一つと消えていく。 城壁の影を外れ、人通りのない路地へ折れると、古い階段が地下へ口を開けていた。 「ここから先は“国の外”だ」 階段の先に重い扉。鉄に黒い印が刻まれている。 王家の印章を反転させた紋——黒印。 男が軽く叩くと、内側で錠が連続して外れる音がした。 扉の先は、静かな明かりと紙の匂いに満ちていた。 長い卓、壁一面の棚、広げられた地図。 低い声が三つ、同時に止まる。 「新顔か」 無言の巨漢が立ち上がり、視線だけで測る。——ダリウス。 「身元は?」 インクで指先を汚した女が、羽根ペンを止めた。——ミーナ。 「貴族上がりの匂いが消えてないな」 帽子のつばを深くしている青年が、片目だけで笑う。——シアン。 冷たい視線が集まる。エリシアは視線を返さない。 仮面の男が一言だけ落とす。 「彼女は怒りを貸した。それで十分だ」 視線が三人を射抜く。 「だが返す時は——命ごとだ」 空気がわずかに沈んで、すぐ従順に静まる。 三人は一歩だけ退き、各々の持ち場に戻った。 エリシアは卓の端に置かれた布で指先の血を拭き、問いを飲み込む。 「ここ
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影の灯り

第3話 影の灯り 目を開けると、灰色の朝が地下の格子窓から少しだけ差し込んでいた。 細かな埃が光の筋の中で、金粉みたいにゆっくり泳いでいる。 枕元の香袋に手を伸ばす。昨夜より香りが薄い。まるで、胸の奥のざらついた怒りが少しだけ空へ昇っていったみたいだった。 そこへ、淡い色の外套を羽織った女が扉から顔を出した。インクで指先を汚した、あの記録係だ。 「おはよう。私はミーナ。契約者は朝食の前に“確認”を受ける決まりよ。怖がらなくていいわ、記録のための手順だから」 「確認……誓印の?」 「ええ。嘘がないかを確かめる儀式。すぐ終わるわ」 ミーナに案内され、長い廊下を歩く。足音が石にやわらかく返ってくる。 館の奥へ進むほど空気はひんやりして、だんだんと静けさが厚くなる。 やがて小さな聖堂に出た。黒い石の祭壇。壁には文字も像もない。ただ、灯だけが淡く揺れている。 ダリウスが無言で立っていた。背は高く、影のように動かない。 シアンが柱にもたれて、片目でこちらを見て笑う。 「早いな、新顔」 ミーナが帳簿を開く。 「記録を始めます」 最後に、あの仮面の男が入ってきた。歩みの気配が、場の空気をひとつ結ぶ。 「誓印は嘘を嫌う」 低い声が聖堂に落ちる。 「恐怖も、ときに嘘だ。お前はまだ震えている」 「震えているから、立っているのよ」 自分でも驚くほど素直に言葉が出た。 ノクターンは小さく首を傾け、右手を上に向ける仕草を示す。 「手を」 掌を差し出すと、黒印の上にうすい光の紋が浮かびあがる。王家の印章に似ているが、ここでは色を持たない。 光はゆっくり回り、やがて小さく脈打つ。黒印が内側から熱を帯び、針でなぞられるみたいに痛む。 息を吸って、吐く。目は閉じない。 背中に冷たい壁。足の裏は床の硬さをちゃんと拾っている。 心臓が速くなる。けれど、逃げたいという思いではない。 「怖くても進む。それは嘘じゃないわ」 言うと、光紋がふっと薄くなり、そのまま消えた。 黒印の疼きも静まる。 ミーナが羽根ペンを滑らせる音が、ささやきみたいに長く続いた。 「確認。誓印の反応は正常。虚偽反応なし」 シアンが指笛を短く鳴らす。 「やるじゃない」 ダリウスは何も言わない。ただ、こちらを真っ直ぐ見て、一度だけゆっくり頷いた。 それだけで、この場所に
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硝子の街に風が吹く

第4話 硝子の街に風が吹く 階段の最後の一段を踏むと、空気が変わった。 薄い霧。鈍い金の朝。頬に触れる風がやわらかい。 地上の匂い——焼きたてのパン、濡れた石、遠くの香辛料。胸が静かに広がる。 「久しぶりの太陽、眩しそうだな」 横に立つシアンが目を細める。 私はフードを少しずらして、光に慣らすみたいに瞬きをした。 「……少しだけね。悪くないわ」 香袋に触れる。昨夜より、香りがほのかに戻っている。 決意は、香りに似ている。強すぎると嘘くさく、薄すぎると届かない。 「見張り役は散歩が仕事、ってのは贅沢だよな」 「まあ、命令だから」 「命令、ね」 言葉の端に、ノクターンの気配が少しだけ混じった。 私は深く吸う。冷たくない朝。歩き出す足取りが、昨日より軽い。 通りはもう動き始めていた。 荷車の軋む音、呼び込みの声、笑う子ども。鐘の音が遠くで一度、溶けていく。 市場の角を曲がると、見覚えのある紋章が瓦礫の中に眠っていた。 かつての家の、欠けた盾。光を受けて、線が薄く浮く。 シアンが立ち止まり、何も言わずに私の視線の先を追う。 一拍の沈黙。風が瓦礫の粉塵を軽く舞い上げた。 「この街は、いつも風が正直すぎるな」 彼はそう言って、別の屋台の方へ顔を向けた。 「胡椒、高いな」 「ええ。涙が出るくらい」 笑うと、頬の筋肉が思っていたより素直に動いた。 痛みは、もう鋭くない。丸くなって、手のひらに収まるくらい。 「急ぐか」 シアンが歩幅を少しだけ合わせる。 「目だけ開けとけ。口は……半分閉じとけ」 「半分?」 「賢そうに見える」 「それは困るわ」 ふっと、呼吸が軽くなる。 影の館の冷たさは、この風でちょうどいい温度になった。 ヴェリド商会の支店は、石造りの壁に明るい庇。 昼前の陽が布地を透かし、店内の埃まで金色に見せる。 シアンが軽やかに前に出て、馴染みの客のように扉を押した。 「書状の受け取りに。ほら、例の噂話のお代、払うって言ってたろ」 店番が瞬きをして、うっかり奥の者を呼びに行く。 私は棚の並ぶ側道へ滑り込む。 文書室は、静かな匂いがする。インク、紙、木。 指先に香をひとつ乗せる。息を小さく吹きかけ、薄く広げる。 棚の三段目、右から二つ目。 鍵穴の縁に微かに残る、見慣れた調合。 香律の封印。
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金の匂い、嘘の手ざわり

昼前の光が、格子の間から細く落ちていた。 湯気の上を、淡い金が渡っていく。香の温度が静かに部屋を満たす。 ミーナが蒸香の器を傾ける。 薄い湯気が台帳の上でほどけて、紙がゆっくり呼吸した。 消えていたはずの線が、霧のように戻ってくる。列と列の間に、震える余白。 「……浮かび上がってきたわね」 私が指先で空をなぞると、ミーナは頷く。 羽根ペンが紙に触れる前に、ふっと息を吐いた。 扉の影で、仮面の男が一度だけ視線を置いた。 「焦るなよ。深く読むには、紙が呼吸するのを待て」 それだけ。足音はない。沈黙が、湯気と同じ温度で残った。 香墨を水で柔らかくし、細い筆で一段だけ撫でる。 黒ではない、香のある灰。 紙に触れると、数字の列がゆるくつながって、見えなかった“狭間”が浮いた。 「この線、まっすぐじゃない。誰かが数字をいじってる」 ミーナが指で、ほんのわずかな揺れをなぞる。 私は呼吸を合わせて、横へ指を滑らせた。 「左に流れてる。金の流れも同じ方向」 海路の出納から、東の寄進の口へ。糸みたいな線が、紙の下で細く続いている。 結論は言わない。紙と匂いが、言うことのほうが信じられる。 「つまり、東の寄進帳が改ざんされたってことね」 ミーナが小さく笑う。 「匂いは正直ね。人間よりずっと」 その言葉に、部屋の香が静かに重なった。 扉の柱に寄っていたシアンが、口角だけ上げた。 「確かめるなら、現物を見に行くしかないな」 「行くわ。外の空気も吸いたかったところだし」 「おしゃべりは控えろよ。目と耳で拾え」 「あなたこそね」 私が笑うと、風鈴の音が廊下で鳴った。 文具舗は薄い日陰と紙の匂い。 金箔紙、香紙、ペンの替え先、微香の糊。指にひとつずつ確かめる。 「名刺、そんなに要るの?」 シアンが棚の影で囁く。 「香りを仕込むの。偽の香師の名刺よ。匂いで信用を作るのよ」 「職業詐称か。似合うな」 「失礼ね。字の練習をしてるだけよ」 「カバーは?」 「香師見習い。宛名の筆跡を一文字だけ真似る」 「一文字で信じるか?」 「男は案外単純よ。香りと見た目で騙せる」 金の縁の名刺入れを手に取る。軽い音がした。 外を風が通り、店先の紐がかすかに揺れた。 ヴェリド支店の裏手、小さなサロン。 午後の光が布の庇からやわらかく落ち
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声は風に、名は灰に

白い朝。 霧が薄く、鐘がひとつ遅れて鳴った。音が空に吸われていく。 指先が少し冷たい。息を整える。 影の館の扉の前で、息をひとつ。香袋の匂いが静かに満ちて、胸の中のざわめきを沈める。 シアンが手袋をきゅっと引き上げて、横目だけよこす。 「緊張してるか?」 「少しね……」 「……やれるか?」 「やるしかない」 廊下の奥からミーナが来る。紙束を胸に抱えて、声は落ち着いていた。 「質問は“数字の行方”だけ。 深く吸って。吐いて。」 「手は震えても、声は届く。……忘れないで」 受け取った紙の重みは、思っていたより軽い。扉の向こうで、光と声のざわめきが揺れた。 外へ出る。 風が頬に触れ、ノクターンの気配が遠くでいちど、揺れた気がした。 商会の会議室は、白い。 大理石が太陽を跳ね返し、羽根ペンの金具だけが細く光る。座席が段になって、声が重ならないように組まれていた。 中央でロットが挨拶をする。笑みは整って、温度は一定。 私は傍聴席の端に座り、膝の上に紙を置いた。シアンは少し離れ、噂に混ざる顔。 屋根の上、風が線を描く。 (声が立つ場所を、見誤るな) 仮面の奥の視線が、街の呼吸を数えている気配だけがあった。 「傍聴の立場でも、声は届くはず」 自分にそう言い聞かせて、椅子の脚に指をかける。 評議長の声。「では、次の質疑」 立ち上がる。椅子の脚が小さく鳴って、ざわめきが一瞬だけ波打つ。 誰も私の名を知らない。けれど、声は落ちる場所を知っていた。 「昨季の海路出納に、……小さな抜けがあります」 紙を見ない。視線は机の端。呼吸は浅くない。 「帳簿の端、……おかしな点が一つ」 「寄進の金が、どこかで流れを変えています」 ロットの笑みが、ごくわずかに遅れる。 会場の空気が、軽く変わった。窓の布が揺れ、光が一段やわらぐ。 ロットは胸の前で手を組み直す。声はやわらかい。 「海風が強い日でしてね。香料が混ざることは、ときどき——」 その声は、誰も疑わないことを前提にしていた。 喉の奥の息が、少しだけ詰まる音をした。 私は下を向いたまま、紙の角を指で整える。 「帳簿は風で揺れても、印は滲まない」 ロットの視線が、わずかに沈む。 「でも……数字は、風には混ざらない!」 声がわずかに掠れた。胸の奥が熱くなる。 それでも
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硝子に映る影

王都の朝は白かった。 霧が浅く、日向だけが薄く金色を帯びて、通りの声がいつもより柔らかい。角を曲がるたび、誰かが昨日の話をしていた。 「変な質問が出たらしい」 「名はまだ出てない」 「帳簿の端がどうとか」 名のない噂は軽い。風に乗ると、少し甘くなる。 影の館の窓辺で、ミーナが小さな急須を揺らした。湯気に紅茶と香が重なって、部屋の角が丸くなる。 「香りってね、誰のものか分からないときほど、長く残るのね」 「ここは……風が、よく通るわね」 窓の桟に指を置くと、外の明るさが皮膚の上でほどけた。胸の奥の緊張が、もう少しで言葉になるところで止まる。ちょうどいい。 廊下からシアンが紙束を片腕に抱えて入ってきた。片目だけで挨拶して、口は半分閉じたまま。 「土産だ。噂が形になりつつある」 上の紙を一枚、そっと抜いて渡す。香紙じゃない。指に吸い付く感じが硬い。上質、でも柔らかさに欠ける。 「“数字の香り”を知る方へ——あなたを見ていました」 短い文。整いすぎた筆跡。インクの乾き方まで、きちんと計算されたような。 ミーナが紙を軽くねじって、離す。 「この質感……官の倉庫の束ね。監……いえ、役所の棚の匂い」 シアンが肩をすくめた。 「誰かが興味を持ったか……」 少し間を置いて、低く言葉を継ぐ。 「……“官の匂い”がするな。だとしたら、ただの興味じゃ済まない」 視線をこちらへ滑らせながら、さらに小さく付け加える。 「……お前の名は、もう記録に残ってるかもしれないな」 私は香袋の紐を指に巻き直す。ほんの少しだけ手が強くなる。 大丈夫、と言葉にするほどじゃない。香りが先に落ち着くから。 「返事は?」とシアン。 「今は、風に預けるわ」 彼は口角を足して笑った。喉で止める笑い。 外の風鈴が一度だけ鳴って、それきり静かになった。 午後、街へ出た。評議の帰りに見た硝子工房。今日は扉が開いていて、炉の息が通りにまで届く。 足が勝手に、あの硝子の光を探していた。 奥で老女が腰をおろし、長い竿の先をひと回し、またひと回し。火の色は赤でも、私の目には薄桃に見える。 「よかったら見てっておくれ。」 「……キレイ」 棚に並んだ小さな硝子玉をひとつ手に取る。中で光が丸く伸びて、ゆっくり縮む。耳の奥で、昨日の鐘の余韻がまだ続いている気がした。 老女
last update최신 업데이트 : 2025-10-20
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灰色の風、ひとひらの声

午後の光は、霧雨みたいにやわらかかった。 窓を少し開けると、街のざわめきが薄く入ってくる。どこかで笑って、どこかでため息をついて、同じ高さで混ざる。 ミーナが帳簿をぱたんと閉じて、湯気の立つ急須を持ち上げた。 「噂って、広まるの早いのね」 「追いかけてもキリがないぞ」 シアンが指先で本棚の埃を払うふりをして、片目だけで笑う。 私も笑いかけて、やめた。窓から入った風が香を押して、部屋の角が丸くなる。 「人が集まると、言葉が音になる」 廊下の方から、低い声が一度だけ落ちて、すぐ静かになった。 「仕入れのついでに、少し歩こうか」 シアンが軽く手を振る。香紙の束を入れる布袋を肩にかけ、扉を押す。 雨上がりの道。傘を畳む音。足音が湿って響く。 誰かが囁く。 「昨日、あの質問した人のことだろ」「名前はまだ出てない」「帳簿の端の件だ」と、 空気の表面で弾む。 角を曲がったところで、シアンがふっと歩調を落とす。 「人が話すと、周りの空気が変わるだろ」 「……空気、ね」 「でも、それって誰の言葉でもない。ただ流れが形になっただけ」 少し間を置いて、彼が低く続けた。 「……噂の根、もう俺たちの名前にも触れてるかもしれない」 「じゃあ……それを止めるには?」 「止めたら、誰も話せなくなる」 言葉がそこで切れて、靴音だけが続く。 市場の女が籠を抱えてすれ違いざま、眉を上げた。 「昨日の人ね」 私は何も言わず、微笑んだ。女は言葉を胸の中へ戻して、頷くのか頷かないのか、曖昧な角度で去っていく。 周りの声がいったん遠くなって、またすぐ戻ってきた。 「香紙は、あの店のやつ?」 「知ってる。安いけど、すぐに滲むんだ」 「滲む?」 「雨の日は、紙も涙もろくなる」 私たちの会話も、風に紛れて、どこにも残らない。 軒の深いカフェの前で、シアンが立ち止まる。木の庇から、水がひと筋落ちた。 紙袋を足元に置いて、彼は喉のところで言葉を転がす。 「……言葉にするって、案外しんどいな」 私は顔を上げる。 「聞いてくれる人がいれば、少しは楽かも」 「うん。でも、誰かが聞いてくれるってことは、もう独りじゃないってことだろ。それが怖い」 「怖いの?」 「“届いた”ってことは、誰かと繋がったってことだ。……それが一番怖い」 まつ毛が、少しだけ
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薄明の手紙

灯が、ほとんど消えかけている。 窓の布が息をして、薄い影が机の上をなでた。 便箋が一枚。白が、夜の色を少し吸って、灰に近い。 あの夜の声が、まだ部屋のどこかに残っている気がした。 指先で端をなぞる。角が冷たい。 ペンを転がす。細い音が、静けさを少しだけ動かす。 まだ、何も書けていない。 廊下で足音が一つ、ためらって止まる。 シアンが戸口に寄りかかって、欠伸を無理に飲み込んだ。 「まだ起きてたのか?」 「……ちょっと、考えごとしてて」 「考えてるときの顔、静かすぎてちょっと怖いな」 息だけで笑う。笑う音は出さない。 窓辺の布がふくらんで、すぐしぼむ。外の風は、まだ夜の温度。 「紅茶、入れてくる」 シアンが言って、廊下に消える。しばらくして、湯の音が近づいた。 同じテーブル。湯気が細く重なる。 カップの縁に指を置く。熱が、呼吸の速度を決める。 「手紙の相手、誰か分からないんだろ?」 「分からないけど……なんとなく知ってる気がする」 「……風のクセっていうか、似た感じがする」 「風が書いた手紙だったら、どうすればいいの?」 「返さないってことが、答えになることもある」 言葉が止まる。湯気だけが動く。 夜の匂いと、紅茶の渋みが同じ高さで混ざった。 「……でも、何か伝えたい」 「うまく言葉にできなくても書いてみろよ。誰も読まなくていいから」 頷く。ペン先を持ち上げ、また置く。 紙はまだ、音を立てない。 「ミーナはまだ起きてるかな?」 「起きてると思うぞ」 そのとおりに、廊下の向こうで小さな欠伸。 扉が少しだけ開いて、ミーナが顔を出した。 「夜更かし組、仲良くしなさいよ」 軽く言って、テーブルにカップをひとつ足す。 目は冗談じゃない温度で、こちらの手元を見る。 「返事を書かなくても、匂いで伝わることがあるの」 シアンが眉を上げる。 「どういう理屈だ?」 「理屈じゃないの。香りは“気持ちが届いた証拠”だから」 カップを受け取りながら、笑う。 「……じゃあ、香りで返事しようか」 「そうね。香りって嘘つけないもの」 ミーナは私の肩越しに窓を見た。外の色が、ほんの少し薄くなっている。 「風が変わるわ、もうすぐ」 「起こしたら悪いし、俺は廊下で見張ってるよ」 シアンが椅子を引く。音を出さないように
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届かない想いが、まだ歩いている

窓を少し開けた。朝の気配が、格子の間を静かに通る。 昨日、あの人に宛てて出した封筒のことを思い出す。香りだけの返事。宛名なし。 外は白灰。王都の音がまだ遠い。 あの人に出したはずの言葉が、まだ世界のどこかに漂っている気がした。 「あれ?」 窓の隅で、白いものが揺れていた。羽根……じゃない。薄い紙片。角が雨で少し丸い。 指でつまむと、ひゅっと風が弱まる。 背後で気配。 「……また、あの気持ちが近づいてきたのか?」 シアンが肩越しに覗き込む。眠たそうな目、声はいつもどおり。 「……返事、かもしれない。もう、いらないと思ってたのに」 二人で紙をひっくり返す。何も書いていない。 けれど、香りが少し違う。昨夜の香袋とも、館の香とも違う。 手の中でかすかに残るのは、通りの朝の匂い。濡れた石、焼き始めのパン、あと……ほんの少し、誰かの衣の香。 「香り、昨日のとは違うな」 「……誰かの気配。通り過ぎた後の匂い」 「それでも、返事だって思うんだな」 「思いたいだけ、かもしれない」 「でも、そう思う方が前に進める」 窓辺の椅子に並んで座る。沈黙のほうがやさしい朝。 外で鳥が一度、低く鳴いた。 「ノクターンは?」 「さあな。どこかで見てるだろ。……あいつ、静かに見守るタイプだし」 「……見られてる感じ、嫌いじゃないな」 「変わってるな」 笑って、静けさにまぎれた。紙片は机の上で乾き、香りを薄く置いていく。 昼前。影の館の奥は、いつもより明るい。 ミーナが机の上を片づけ、紙束を帯でまとめる。 私は香袋の内布を縫い直す。糸の目は細かく、母の手の癖に似せて。 シアンは書類を運びながら、途中で埃を吹いて怒られる。 「ねえ、想いってさ、誰が動かしてるんだろう?」 ミーナが何気なく言う。声はいつもより柔らかい。 「自然に、じゃないのか?」 縫い目を止めずに返す。 「“自然”も、誰かの願いかもしれないわ」 「詩人みたいなこと言うな」 シアンが笑う。喉に笑いが引っかかった。 ミーナは肩をすくめて、羽根ペンの先を布で拭った。 「たまにはいいでしょ。理屈よりも、気持ちの方が真実に近い時があるの」 「……想いも、何かを願ってるのかな」 手を止めて、窓のほうを見る。 「きっと。あなたが、もう一度“声”を出すことを」 「声か……」
last update최신 업데이트 : 2025-10-24
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