All Chapters of 攻略対象は私じゃない! ~腐女子が神視点で推しカプ見てたら、いつの間にか逆ハーレムの中心にいた件~: Chapter 91 - Chapter 100

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第91話 あなたの帰る家

「輝くん……」  胸の奥がじんわりと熱くなり、視界が歪む。雨に紛れて泣いていることがバレないのをいいことに、私は涙を流れるままにした。  私は彼の手を、これでもかというくらい強く握り返す。 「離さないよ。私は絶対に、輝くんを離さない」 「……ああ。頼むよ、栞」  やがて、見慣れた古びたアパートが見えてきた。  築三十年、木造二階建て。オートロックなんて気の利いたものはないし、外壁は黒ずんで薄汚れている。天王寺家の豪邸と比べれば、犬小屋以下かもしれない。  けれど、今の私たちにとっては、砂漠に見つけたオアシスのように輝いて見えた。  カンカンカン、と乾いた音を立てる鉄製の外階段を駆け上がり、203号室の前に立つ。  屋根のある外廊下に入った瞬間、雨音が遠ざかり、ふっと息がつけた。  私はバッグの中から鍵を取り出そうと、震える指先でゴソゴソと中を探る。  その間、輝くんは私の背後で黙って立っていた。  鍵が見つかり、ドアノブに差し込んだ時、背後からふわりと気配が近づいた。 「……栞」  低く、掠れた声が耳元で響く。  振り返ると、ずぶ濡れの輝くんが、捨てられた大型犬のような瞳で私を見つめていた。  濡れた前髪の隙間から覗く瞳は、不安と、期待と、そして抑えきれない熱情に揺れている。  ワイシャツは肌に完全に張り付き、逞しい胸の輪郭や、寒さで少し強張った身体のラインを露わにしていた。水滴が鎖骨の窪みに溜まり、そこからツーっと胸元へ流れていく。  その色っぽさに、私は思わず喉を鳴らしてしまった。  彼は、震える手で壁に手をつき、私をその腕の中に囲い込むようにして顔を近づけてきた。  いつもの自信満々な「壁ドン」ではない。  すがるような、弱々しい、けれど切実な距離の詰め方。 「……会いたかった」  彼は、まるで何年も会っていなかったかのような口調で、そう言った。  さっきまでずっと一緒にいたのに。  でも、その言葉の意味が私には痛いほど分かった。  天王寺家の嫡男としてではない。ただの「輝」として、私に会いたかったのだと。 「ずっと、こうしてお前と……何のしがらみもない場所で、ただの男と女として、向き合いたかった」  彼の熱い吐息が、冷え切った私の頬にかかる。 「俺にはもう、何もない。……お前以外、本当に何ひとつ持って
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第92話 六畳に王子様

 再びカチャリと鍵を閉めた瞬間、世界が私たちの内側と外側に分断されたようだった。  狭いワンルームの玄関。  二人で立つにはあまりに窮屈なその空間に、雨の冷たさを纏った輝くんがいる。それだけで、見慣れた景色が異世界のように歪んで見えた。  ポタ、ポタ、と彼から滴る雫がタタキを黒く濡らしていく。 「あ、えっと、とりあえず上がって。タオル持ってくるから」  私は慌てて靴を脱ぎ捨て、部屋の奥へと駆け込んだ。  電気をつけると、散らかり放題のオタク部屋が白日の下に晒される。壁に貼られた『Fallen Covenant』のポスター、棚に並んだフィギュア、読みかけの同人誌……。  一瞬、羞恥心で死にそうになったけれど、今はそれどころではない。  クローゼットから一番大きなバスタオルと、自分がダボっと着るために買ったオーバーサイズのTシャツ、そしてスウェットパンツを引っ張り出す。  振り返ると、輝くんが玄関に立ったまま、遠慮がちに室内を見回していた。 「……入っていいのか」 「うん、どうぞ。狭いし汚いけど……ごめんね」 「いや。……いい匂いがする」  彼は小さく鼻を鳴らし、ふわりと笑った。  その無防備な笑顔に、また胸がぎゅっとなる。  彼が革靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れる。  私の生活圏に、学園の王子様が侵入してくる。その背徳感と非現実感に眩暈がしそうだ。 「とりあえず、その濡れた服、脱いで。風邪引いちゃう」  私がバスタオルを差し出すと、彼は素直に頷き、ワイシャツのボタンに手をかけた。  白く長い指が、濡れて透けた生地からボタンを一つ、また一つと外していく。  そのたびに、鍛え抜かれた鎖骨、厚い大胸筋の谷間、引き締まった腹筋が露わになっていく。  (待って待って、刺激が強すぎる)  私は慌てて目を逸らそうとしたけれど、本能がそれを許さなかった。  雨と汗で濡れた肌が、安っぽい室内の照明を弾いて艶かしく光っている。  彼は躊躇なくシャツを脱ぎ捨て、私の方へ歩み寄ってきた。  広い肩幅、逆三角形の背中、そして浮き上がった血管。  彫刻のような美しさと、生々しい男の肉体の迫力。  狭い部屋だからこそ、彼の存在感が圧倒的で、空気が薄くなったように感じる。 「……栞?」  呆然としている私を不思議に思ったのか、彼が顔を覗き込んで
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第93話 髪を拭く距離

 改めて彼の姿を見て、私は思わず噴き出しそうになった。  私が着ると膝まであるビッグシルエットのTシャツが、彼が着ると肩も胸もぴったりになっている。スウェットの丈も足りず、足首が完全に見えていた。  でも、それが逆になんだか可愛い。  いつもの完璧なスーツ姿とのギャップに、愛おしさが込み上げてくる。 「ううん、似合ってるよ。……なんか、新鮮」 「そうか? ちょっとキツイけど、悪くないな。……お前に包まれてるみたいで」  彼はさらりととんでもないことを言いながら、私のベッドの縁に腰を下ろした。  ベッドがきしむ音がして、ドキッとする。 「髪、まだ濡れてるね」  私は誤魔化すように新しいタオルを手に取り、彼の後ろに立った。 「拭いてあげる」 「……ああ」  彼は素直に頭を預けてきた。  ワサワサとタオル越しに髪を拭く。濡れた髪はいつもより色が濃く、少し冷たい。  私が動くたびに、彼の頭がコクリコクリと揺れるのが、なんだか大型犬みたいだ。  指先が彼の首筋や耳に触れると、ビクッと肩が反応するのが伝わってくる。 「ごめん、痛かった?」 「いや……。気持ちいい」  低く、甘い声が、お腹の底に響く。  私は手を止めず、丁寧に水分を拭き取っていった。  ふと、タオルの隙間から、彼のうなじが見えた。  髪の生え際の、少し無防備な部分。  そこにある小さな黒子を見つけた瞬間、なぜか急に「彼が私の部屋にいる」という現実が押し寄せてきた。  雲の上の存在だった彼が、今は私の安物の服を着て、私のベッドに座り、私に髪を拭かれている。  全てを捨てて、私を選んでくれた人。  衝動的に、私はタオルの上から彼を抱きしめていた。  背中から首に腕を回し、濡れた髪に頬を寄せる。 「……栞?」 「輝くん……私……」  言葉にできない感情が溢れて、喉が詰まる。  彼は私の腕の上から自分の手を重ね、ゆっくりと撫でた。  その手は大きくて、温かくて、微かに震えていた。  彼もまた、不安だったのかもしれない。  慣れ親しんだ世界を捨て、何もない場所へ飛び込むことが。  それでも、私を選んでくれた。 「ありがとう。……来てくれて、ありがとう」  私が絞り出すように言うと、彼は私の腕を引いて、自分の方へと振り向かせた。  タオルがふわりと床に
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第94話 この腕の中で

 彼は焦らすように、私の下唇を親指の腹でゆっくりとなぞる。ザラリとした指の感触が、敏感な唇に刺激を与え、身体の奥底に甘い疼きが広がる。 「好きだ。……愛してる」  囁きと共に、再び唇が塞がれた。  今度は、深く、重く。  角度を変えながら押し付けられる唇の感触に、思考が白く溶けていく。 「ん……っ」  鼻にかかる甘い吐息。雨の匂いと、彼自身の男っぽい香りが混ざり合い、私の理性を容赦なく奪っていく。  背中に回された腕に力がこもる。  華奢な私を壊さないように、けれど決して逃がさないように。その加減が、彼の深い愛情と、抑えきれない独占欲を表しているようで、胸がキュウと締め付けられた。  深い口づけの合間に、彼が満足げに喉を鳴らす音が聞こえた。  その振動が、密着した胸を通して直接伝わってくる。  彼の心臓の鼓動が、私の鼓動と重なり合い、まるで一つの生き物になったかのような錯覚を覚える。  長い、長い口づけの後。  名残惜しそうに唇が離れると、銀色の糸が一本、ふっと引いて切れた。  そのあまりに艶めかしい光景に、私はカッと熱くなり、彼の胸に顔を埋めた。 「……顔、見せて」 「むり……恥ずかしい……」 「はは、可愛いな」  頭上で彼がクスリと笑い、大きな手が私の頭を優しく撫でた。  ぽん、ぽんとリズムよく叩かれる手つきは、幼子をあやすようでもあり、大切な宝物を慈しむようでもある。 「……夢みたいだ」  彼が私の髪にキスを落としながら、独り言のように呟いた。 「家を出て、全てを失ったはずなのに。……今、俺は世界で一番満たされてる」  彼は私の肩を抱き寄せ、そのままベッドにゆっくりと体を預けた。  軋むスプリングの音と共に、私たちは狭いシングルベッドに横たわる。  当然、二人で寝るには狭すぎる。  けれど、今はその狭ささえも心地よかった。隙間なく密着できるから。 「ねえ、輝くん」  彼の胸板に指先で触れながら、私は問いかけた。 「……後悔、してない? 本当に」  ふかふかの羽毛布団も、広々としたキングサイズのベッドもない。  明日からの生活の保証も、何もない。  それでも、彼は私の目を見て、力強く頷いた。 「ああ。一度だってしてない」  彼は私の手を握り、その指先に口づけを落とす。 「俺にとっての『家』は、
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第95話 目覚めても隣に

 神様、もしこれが夢なら、どうか覚めないで。  彼の規則正しい寝息を子守唄に聞きながら、私は深い安らぎの中で意識を手放した。  明日になれば、きっと大変な現実が待っている。  貧乏生活の始まりだし、お父様の追及もあるかもしれない。  でも、今夜だけは。  この温もりと幸福感に、ただ浸っていたかった。  小鳥たちのさえずりも、カーテンの隙間から差し込む朝の光も、今日ばかりは私の味方をしてくれそうにない。  ……んぅ。  重い。  金縛りにでもあったかのように、身体がピクリとも動かないのだ。けれど、不思議と不快ではなかった。むしろ、その重みと一緒にじんわりと伝わってくる熱が、肌の奥まで溶け込んでくるようで心地いい。  それもそのはずだ。私の安物のシングルベッドの上には今、私以外の質量――それも、とびきり巨大で温かい物体が鎮座しているのだから。  まぶたを薄く持ち上げると、視界いっぱいに白く滑らかな肌が広がった。首筋から鎖骨にかけてのラインが、朝の光を浴びて艶めかしく浮き上がっている。  ドクン、ドクン。  規則正しいリズムが、私の頬に直接響いてくる。  温かいというより、熱い。  鼻先をくすぐるのは、昨夜の雨の湿った匂いと、彼が元々まとっている微かなムスクの香り。そこに、男の人特有の体臭が混じり合った、濃厚な気配。  ……あ、そっか。  寝ぼけて霧がかかっていた脳が、ゆっくりと現実の輪郭を結んでいく。  昨夜の嵐のような出来事。絶対的な権力者である総帥への啖呵。そして、地位も名誉もすべてを脱ぎ捨てて、私の元へ転がり込んできた彼。  夢じゃなかったんだ。  私はシーツが擦れる音を立てないよう、そっと視線を上げた。  そこには、学園の王子様であり、私の恋人であり、そして今日から私の同居人となった、天王寺輝くんの無防備な寝顔があった。  ……っ。  思わず息を呑む。  至近距離で見ても、いや、吐息がかかるほどの距離だからこそ、その造形の美しさが暴力的なまでに目に沁みる。  長く伸びた睫毛が、目の下に淡い影を落としている。いつもは自信に満ちた光を宿して射抜くような瞳が閉じられ、スッと通った鼻筋も、薄い唇も、今は安らかに緩んでいた。  私のTシャツ――サイズが合わなくてピチピチだ――を身に着け、私の狭いベッドに窮屈そうに身体を丸
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第96話 二人分の朝

 とろんとした蜂蜜色の瞳が、まだ焦点の合わないまま私を捉える。 「……あ、おはよう、輝くん」 「……おはよ」  掠れた、低い声。  朝特有の、喉の奥が少し絡んだようなその響きが、鼓膜を直接撫でるように甘く響く。  彼はふにゃりと口元を緩めると、私を抱きしめる腕にギュッと力を込めた。 「……夢じゃ、ないんだな」 「え?」 「目が覚めたら、またあの広いだけの冷たい部屋にいるんじゃないかって……ちょっとだけ、怖かった」  彼は私の首筋に顔を埋め、私の匂いを確かめるように深く息を吸い込んだ。  雨に濡れた子犬のようなその言葉に、胸の奥がキュッと締めつけられる。  彼にとって、あの豪邸は家ではなく、ただの孤独な鳥籠だったのだ。 「夢じゃないよ。ここは私の部屋で、輝くんは……家出してきたんだよ」 「はは、言い方……」  彼の身体が小刻みに震え、くぐもった笑い声が胸板を通して伝わってくる。その振動が心地よくて、私もつられて口元を綻ばせた。 「……ねえ、栞」  不意に、彼が顔を上げた。  鼻先が触れ合う距離で視線が絡む。さっきまでの寝ぼけ眼はどこへやら、その瞳には、とろりとした熱っぽい光が宿り始めていた。 「ん、なに……?」 「おはようのキスは?」 「……は?」 「同棲初日の朝だよ? 愛する恋人が隣で目覚めたんだ。……挨拶代わりのキスくらい、当然の権利だろ?」  彼は悪びれる様子もなく、ねだるように唇を突き出した。  その表情は、計算され尽くしたあざとさと、隠しきれない独占欲が絶妙なバランスで混ざり合っている。 「ちょ、ちょっと待って! まだ顔も洗ってないし、歯も磨いてないし!」 「関係ないよ。俺は今すぐ、栞に触れたいんだ」 「でも……っ!」 「……嫌?」  上目遣い。  天下の天王寺輝による、必殺の角度だ。  反則だ。そんな濡れた瞳で見つめられて、首を横に振れる人間なんてこの世に存在しない。 「……い、嫌じゃ、ないけど……」  私が観念して目を閉じると、すぐに柔らかい感触が唇に落ちてきた。  チュッ、という軽い音。  それだけで終わるかと思いきや、彼は名残惜しそうに私の下唇を甘噛みし、舌先でそっと輪郭をなぞった。 「ひゃうっ!?」 「……ふふ、甘い」  彼は満足そうに目を細め、シーツ越しに私の腰を撫でる。
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第97話 借りた服の朝

 狭いワンルームでの同棲生活は、想像以上に「密着」の連続だった。  キッチンに立つ私の後ろを輝くんが通るたび、背中に胸が触れる。冷蔵庫を開けようとする手は私の肩を掠め、洗面所の順番待ちでは鏡越しに目が合った。朝の支度だけでこんなに落ち着かなくなるなんて、一人で暮らしていた昨日までは知らなかった。 「……狭いね」  焼きたてのトーストをかじりながら、輝くんがぽつりと呟いた。  私たちは今、小さなローテーブルを挟んで向かい合って座っている。  彼の長い足はテーブルの下で窮屈そうに折り畳まれ、時折私の足にコツコツと当たっていた。 「ごめんね。輝くんの家のお風呂場より狭いかも」 「いや、謝ることじゃないよ。……むしろ、いい」 「え?」 「どこにいても栞の気配がするし、手を伸ばせばすぐに触れられる。……この距離感、悪くない」  彼はそう言って、テーブルの下で私の足に自分の足を絡ませてきた。  行儀が悪い。でも、その子供じみたスキンシップが、彼のご機嫌さを物語っている。 「でも、問題は……」  彼は自分の着ている服――私のヨレヨレのTシャツと、丈の足りないスウェット――をつまんで、苦笑いを浮かべた。 「着替えが、これしかないってことだな」 「あ……」  そうだった。  彼は着の身着のままで飛び出してきたのだ。  朝早く、高橋さんが私物だけを届けてくれた。携帯と上着、大学の鞄。家のカードは抜かれていて、封筒の中には説明も手紙もなかった。輝くんは一つずつ確かめ、「ありがとうございます」とだけ言った。  後で電源を入れると、父親からの着信は一件もなかった。私は、その画面を見ている彼に、先にトーストを渡した。  昨夜洗ったワイシャツは乾きかけていたが、ズボンには雨の皺が残っている。戻ってきた上着を羽織るとしても、そのままでは少し不格好だ。  かといって、私の服を着て大学に行くわけにもいかない。ピチピチのレディースTシャツを着た天王寺輝なんて、キャンパス中で伝説になってしまう。 「ど、どうしよう……。私の服じゃ、サイズが……」 「買うしかないけど……財布は戻ったけど、家のカードは抜かれてたからなぁ」  彼はあっけらかんと言った。  天王寺家のカードは、おそらく使用停止になっているか、使えば居場所がバレるGPS代わりになるだろう。  財布
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第98話 アイロンをかける背中

 彼は振り返り、私に向かって最高の笑顔を見せた。  その笑顔は、窓の外の朝日よりも眩しくて、私の胸をいっぱいに満たした。  こうして、私たちの波乱含みの同棲生活が幕を開けた。  御曹司と庶民。  価値観も、生活水準も、何もかもが違う二人。  でも、狭い部屋で肩を寄せ合い、同じ朝ごはんを食べる幸せは、何物にも代えがたいものだった。  ただ、一つだけ誤算があったとすれば。  彼が「庶民の暮らし」に対して、驚くべき順応性と、そして少しばかり天然な勘違いを発揮し始めることだった。◇ 身支度一つとっても、この部屋は二人で住むようには設計されていなかった。  特に、朝の忙しい時間帯における洗面所戦争は深刻だ。 「……狭い」 「ごめんね、一人用だから……」  私が鏡の前で歯を磨いていると、背後から輝くんがのっそりと現れた。  彼は私の肩越しに鏡を覗き込もうとするが、当然ながらスペースがない。私の安アパートの洗面台は、ドライヤーを置いたらコップすら置けなくなるほどの省スペース設計なのだ。 「いいや、工夫次第だ」  輝くんはニヤリと笑うと、私の背中にぴたりと体を密着させてきた。  そして、私の右脇の下から腕を通し、自分の歯ブラシを掴む。 「こうすれば、二人同時に磨けるだろ?」 「ぶふっ!?」  口の中が泡だらけの状態で、変な声が出た。  いわゆる『バックハグ歯磨き』!?  同棲カップルの憧れシチュエーションランキング上位常連のあれか!  鏡の中には、私の頭の上に顎を乗せ、楽しそうに歯を磨く王子の姿。そして、その腕の中にすっぽりと収まり、顔を真っ赤にしている情けない私の姿。  肘が当たる。体温が伝わる。息遣いが耳にかかる。 「ん……この歯磨き粉、イチゴ味?」 「子供用のが安かったから……!」 「へえ。……栞の味だ」  シャカシャカとリズミカルに手を動かしながら、彼はボソリと爆弾発言を落とす。  朝から心臓に悪い。  鏡越しに見る彼は、寝癖がついた髪と少し気怠げな瞳が相まって、とてつもない色気を放っていた。  生活感のある彼氏、最高すぎる。  朝食と身支度を終え、いよいよ最大の難関――『服』の問題に取り掛かることになった。 「……うん。なんとかなったな」  輝くんが満足げに鏡を見ている。  洗ったシャツにアイロンをかけ
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第99話 いつもの道を一緒に

 彼はそう言って、ノーネクタイの首元を指で弄った。  第一ボタンを開けたワイシャツから覗く鎖骨が眩しい。  少しヨレたシャツと、ラフな髪型。  いつもの完璧に整えられた『天王寺輝』ではなく、少し隙のある『輝くん』。  これはこれで、破壊力が高い。 「よし。……じゃあ、行こうか」 「うん!」  私はバッグを持ち、彼と一緒に玄関へ向かった。  二人並んで靴を履く。  狭い玄関のタタキに、私の履き古したスニーカーと彼の革靴が並んでいる光景だけで、胸がいっぱいになる。 「いってきます」 「……いってきます」  二人で声を揃えてドアを開ける。  外は昨日の嵐が嘘のような快晴だった。  アスファルトを濡らした雨の匂いがまだ微かに残り、眩しい陽射しが水たまりに反射している。目を細めながら、私たちは鉄階段をカンカンと降りていく。 「おはようございます、月詠さん」  ゴミ出しに出てきた隣の部屋の奥さんと鉢合わせした。  彼女は私の隣にいる長身のイケメンを見て、目を丸くする。 「あら、やだ。……彼氏さん?」 「あ、はい! その……今日から、一緒に住むことになりまして……」  私がモジモジしながら答えると、輝くんが一歩前に出て、爽やかな営業スマイル全開で頭を下げた。 「はじめまして。天王寺と申します。栞……月詠さんとお付き合いさせていただいております。これからお世話になります」 「ま、まああ! なんてご丁寧な……! イケメンねえ!」  奥さんが頬を染めてときめいている。  さすが王子様、全方位外交はお手のものだ。  しかし、「お世話になります」って、完全に婿入り挨拶みたいになっていないだろうか。  アパートを出て、大学へと続く道を並んで歩く。  いつも通りの通学路なのに、隣に彼がいるだけで景色が違って見えた。  道端の雑草さえも輝いて見える。これがリア充補正というやつか。 「ねえ、栞」 「ん?」 「俺、なんかワクワクする」  輝くんが、空を見上げて言った。  その表情は、遠足に向かう小学生のように無邪気だ。 「ワクワク?」 「うん。今までは、決められた時間に迎えの車が来て、決められたルートを通って大学へ行くだけだったから。……こうして、自分の足で、好きな人と並んで歩くのが、こんなに楽しいなんて知らなかった」  彼はそ
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第100話 教科書を半分こ

 大学の正門をくぐると、すぐに空気の変化を感じた。  すれ違う学生たちの視線が、私たちに――正確には、輝くんに釘付けになっているのだ。突き刺さるような好奇の目が、肌をちりちりと刺激する。 「……ねえ、あれ天王寺様じゃない?」 「なんか雰囲気違くない? ちょっとワイルドっていうか……」 「昨日のパーティーで親と揉めたって噂、本当なのかな」 「隣の子、誰? 彼女?」  ひそひそ話がさざ波のように広がっていく。  昨夜のパーティーでの騒動は、すでに一部で噂になっているようだった。  それに加えて、いつもの送迎車ではなく徒歩で、しかも少し着崩した格好で現れた輝くん。そしてその隣に、今までモブだと思われていた私がぴったりと寄り添っている。  注目されないわけがない。  私は居心地の悪さに身を縮こまらせたが、輝くんは堂々としたものだった。  むしろ、周囲の視線を楽しむかのように、私の肩を抱き寄せて見せつける。 「おはよう、みんな」  すれ違う知人たちに、彼は余裕たっぷりに挨拶をしていく。  その態度は、「何か文句ある?」と言わんばかりの王者の風格だ。  何も失っていない。  家も金も失ったけれど、彼の持つカリスマ性とプライドは、何一つ損なわれていなかった。 「……輝くん、強いね」 「そうかな? 栞が隣にいるから、強がってるだけかもよ」  彼は耳元で小さく囁き、悪戯っぽく舌を出した。 「それに……これからは、隠す必要もないからね」 「え?」 「俺が誰を愛しているか。……世界中に知らしめてやるつもりだから」  彼は私の手を引き上げ、甲にキスを落とした。  公衆の面前で。  朝のキャンパスで。 「きゃああああ!!」  周囲から黄色い悲鳴が上がる。  私はボンッ!と音を立てて茹で上がった。 「ば、バカっ! 輝くんのバカ!」 「はは、照れ屋さんだなあ」  恥ずかしすぎて涙目になりながら、私は彼をポカポカと叩く。  そんな私たちのやり取りを、遠くから見つめる視線があることに、この時の私はまだ気づいていなかった。  大学での輝くんは、いつにも増して注目の的だった。  いや、正確には「いつもとは違う意味で」注目を集めていた。  完璧にプレスされたオーダーメイドのスーツではなく、私が安物のアイロンでシワを伸ばした(頑張ったけど
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