All Chapters of 永遠に、自由で風のように: Chapter 1 - Chapter 10

20 Chapters

第1話

結婚三周年記念日。私、前島知子(まえじま ともこ)は、夫・前島謙介(まえじま けんすけ)お気に入りのミシュランレストランで、五時間も待ちぼうけを食らっていた。なのに、肝心の謙介とはまた連絡が取れなかった。結局、彼の幼馴染・玉木友枝(たまき ともえ)という女のSNS投稿で知った。謙介が彼女に付き合って、氷原へ行ったことを。【ちょっと落ち込んだだけで、彼は全世界との約束をすっぽかして、気晴らしに付き合ってくれた】【幼馴染って、ペンギンより癒されるかも】添付された写真には、凍えるような寒さの世界が広がる中、謙介が彼女をそっと抱き寄せる姿。その瞳には、私に向けられたことのない熱が宿っていた。ふと疲れを覚える。もう苦しい詰問も、狂ったような泣きわめきもする気になれなかった。ただ静かに「いいね」を押し、彼に一言だけ送った。【離婚しましょ】しばらくして、謙介からボイスメッセージが届いた。からかうような口調だ。「いいぜ、帰ったらサインしてやる。どっちが泣いて『行かないで』って引き留めるか、見ものだな」愛されている側は、いつも強気だ。彼はまったく信じていなさそうだった。でもね、謙介。誰かさんなしじゃ生きていけない人なんていない。ただ、まだ愛しているだけ。だけど、これからはもう、あなたを愛したくない。……私はレストランで一人、食事を済ませた。胃はパンパンなのに、心は空っぽだった。家に帰り、離婚届を印刷した。サインしようとした瞬間、スマホが震える――友枝から画面録画の動画が送られてきた。友枝と謙介が、豪華客船のデッキに並んで立っていた。動画の向こう側では、共通の友人たちがしきりに感嘆の声を上げていた。「氷原ツアー!?最低でも二百万円はするだろ。謙介、知子とは二十万円の旅行すら行ったことないよな?」「金を使う相手が、本命ってことだろ!」「知子、今回は意外と騒いでないな。いいねまで押してるぞ?」友枝が甘ったるい声で言った。「騒いだよ。謙介に離婚を切り出したんだって」動画の向こうが息を呑んだ。「知子って、今まではせいぜいプチ喧嘩くらいだったろ。マジで離婚なんて言う勇気あるのか?本気じゃないだろ?」「もちろん、本気なわけない」謙介の口調は淡々としていた。
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第2話

私は久しぶりにあの番号に電話をかける。「倉本先生、私、まだ戻れますか?」口にはしたものの、やはり不安がよぎる。昔、倉本菫(くらもと すみれ)先生は私を高く評価し、大学院への推薦を受けて彼女の研究室に残るよう、強く引き留めてくれた。なのに、私は倉本先生を失望させた。事情を察すると、彼女はため息をつく。「言ったでしょう。正しい愛は、あなたの将来を後押ししてくれるものだって。戻ってくることはできるわ。でも、一ヶ月後の試験に合格することが条件よ」私は承諾する。謙介がまたしても家に帰らないこの夜、私はもう眠れずに苦しむことはない。朝までぐっすり眠り、すぐに勉強を再開する。男一人のために眠れない夜を過ごすより、希望の中で目覚める感覚は、こんなにも清々しいものなのか。謙介はそうすぐには帰ってこないと思っていた。ところがその夜、彼が玄関のドアを開けて入ってくる。ハンサムな目元には疲労が浮かんでいる。「結婚三年記念のプレゼントだ」そう言って、何か柔らかいものを私の腕に押し付ける。ペンギンのぬいぐるみだ。これまで友枝を優先して私を置き去りにした時と同じように、説明もなければ、謝罪もない。ただ、形ばかりの機嫌取りのような行動だけ。ペンギンにはまだ温もりが残っている。その「景品」のタグを指でなぞりながら、心は冷え切っていく。「もういいわ」プレゼントはいらない。記念日を祝う必要もない。彼は一瞬戸惑い、苛立ちを見せる。「そんなに目くじらを立てる必要あるか?友ちゃんは長年の親友なんだ。失恋して傷心のまま帰国したあいつを、放っておけるわけないだろ。わがまま言うのも大概にしてくれ」私は無意識に、腕の中のぬいぐるみを指でなぞっている。心には、ただチクチクとした痛みが広がるだけだ。謙介は忘れているようだけど、私もペンギンが好きだ。浜野市に来てから、彼と一緒に水族館へペンギンを見に行きたいと、何度も言ってきた。仕事人間の彼は、いつも「時間がない」の一点張りだった。それなのに、友枝の一言で、彼はすべてを放り出して氷原まで付き合う。時間がなかったんじゃない。ただ、私に時間と関心を割きたくなかっただけだ。私が黙り込むと、謙介はいつも通り私が折れたのだと思ったらしい。私の髪をくしゃっと撫
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第3話

友枝だ。謙介が彼女の向かいに座っている。その後ろ姿だけで、優しさが滲み出ているようだ。彼は丁寧にロブスターの殻をむき、彼女の口元へ運ぶ。彼女もごく自然に口を開ける。「わあ!十数年前の味と一緒。全然変わってない。すごく好き!」彼女は目を丸くして、嬉しそうに笑う。「俺も変わってないけど、好きか?」謙介はロブスターをむき続けながら、冗談めかして言う。だが、ふいに強張った背中が、彼の緊張を物語っている。友枝は驚いたように目をパチパチさせ、やがて唇を尖らせる。「嘘つき!謙介変わったじゃない。知子がいるくせに。正直に言いなさいよ!回転レストラン、水族館、浜野クルーズ……私たちの思い出が詰まった場所、全部あの子を連れて行ったんでしょ?」その視線の端が、私を捉えている。確信犯的な優越感に満ちた口調だ。「一度もない」謙介は間髪入れずに答える。私は無意識に手のひらを強く握りしめる。彼の度重なる「用事がある」は、ただの口実で、二人の思い出を守るためだったのか。私は、最初から部外者だったんだ。「なら、まあ許してあげる」友枝は得意げな顔だ。「言ったでしょ、私と謙介が世界で一番仲良しなの。もし約束を破ったら、こうして食べちゃうから!」彼女は彼が差し出したロブスターに大きくかぶりつき、強気な様子を見せる。わざとらしい仕草と言葉は、以前なら髪についたガムのように、私をイライラさせ、振り払うこともできずにうんざりさせた。でも、彼はいつものように笑う。「お前は、本当にいつまでも子どもだな。はいはい、仰せのままに。お姫様」友枝は勝利者の笑みを浮かべ、そこでようやく私に気づいたふりをする。「あら、知子?どうしてここに?」謙介が勢いよく振り返った。その目には、私が見たこともないような緊張が走った。だが、それはすぐに怒りへと変わった。「俺をつけてきたのか?知子、離婚で脅したかと思えば、今度はストーカーか。一体どこでそんな下劣な真似を覚えてきたんだ?人と人との関係がどうであれ、互いにプライバシーは尊重すべきだ。そんなことばかりしてたら、俺の心はますます離れていくぞ。お前は……」非難の言葉は、私の赤くなった目元を見て、ぴたりと止まった。彼は一瞬ためらい、隣の空席を引いた。
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第4話

考えても分からないことは、もう考えないことにする。これからの私の人生、どうでもいい人たちのために無駄にしたくはない。私は勉強と、街の「やりたいことリスト」の消化に忙しくなる。ここを離れる日、私はディズニーランドへ行く。まさか、そこでまた謙介と友枝に鉢合わせするとは。「知子、またストーカーしてるの?」友枝は、心底理解できないといった様子だ。「謙介を愛してるなら、彼が友達付き合いをどれだけ大事にするか、それも受け入れなきゃ。私たちはただ友達として遊びに来ただけなんだから、本当にこれ以上誤解しないで」またそのセリフ。いつもいつも、そうやってはぐらかして、私を逆上させようとしてくる。相手にするのも面倒で、背を向けて立ち去ろうとする。だが、謙介が私を呼び止める。「せっかく会ったんだ。一緒に遊ぼう」一瞬驚くが、すぐに合点がいく。男がふと見せる優しさは、時に愛情ではなく、罪悪感からくるものだ。彼と友枝のあのキスは、やはり一線を越えていた。「謙介、アイスクリームが食べたい。買ってくれない?」謙介を追い払い、友枝が敵意のこもった目で私を見る。「本当にしつこい女!彼があなたを引き留めたのは、可哀想だと思っただけ。謙介が本当に愛してるのは、私なんだから」私はついに、疑問を口にする。「ただの友達だと思ってるなら、謙介が誰を愛そうと関係ないんじゃない?」友枝は鼻で笑う。「昔の謙介はタイプじゃなかったけど、今はこんなに立派になって。ようやく私にふさわしくなったってわけ。あなたみたいにガツガツ行ったら、男は大事にしてくれないわよ。こうやって、つかず離れずでいるからこそ、彼は永遠に私のために夢中になるの。あなたたちが離婚届を出しに行くの知ってるわ。今日なんでしょ。後で大人しく手続きしてきなさい。さもないと、私のやり方を見せてあげることになるから!」彼女の「やり方」とやらを見せつけられる前に、突然、群衆がざわめき出す。行列のことで揉めていたらしい男二人が、殴り合いを始めている。屈強な体躯が、ものすごい勢いでこちらに突っ込んでくる。少し離れた場所で、謙介が手にしていたアイスクリームを放り投げる。「ともちゃん!」彼は緊張に満ちた目で、全力でこちらへ走ってくる。ほんの一瞬の間に、私の隣に
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第5話

「謙介、本当に怖いの。早く来て!」友枝は電話を切ると、途端に慌てた様子を消す。彼女はフンと鼻を鳴らし、再び別の番号に電話をかける。「どう?あの女、手続き済ませた?」電話の向こうは、機嫌を取るような口調だ。「ご心配なく、玉木さん。ご指示いただいてからずっと見張ってましたから。前島副社長が離れた後、あの女、あっさり離婚届を出しましたよ。これで、あいつらは何の関係もなくなりました」それを聞いて、友枝は心が浮き立ち、喜びに顔がほころぶ。「あの女、物分かりが良くて助かったわ。ありがとう」向こうの人間がずっと見張っていなければ、こんなに正確なタイミングで謙介を引き離すことはできなかっただろう。本当は、謙介が愛しているのは自分だと確信していたから、こんなことをする必要もなかったかもしれない。彼は小さい頃から、ずっと自分にべったりだった。離婚届の証人だって、彼自ら連絡して見つけてきたと聞いている。ただ、万全を期すために、彼を引き離すことにした。謙介が少し変わってしまったような、漠然とした第六感があったから。でも、もう関係ない。離婚が成立した今、少し揺らいだところで何の問題もない。友枝は、自分が少し手管を使えば、謙介を再び骨抜きにできると信じている。「玉木さん、水臭いですよ」向こうは馴れ馴れしい口調だ。「前島副社長の件、これからいろいろとお口添えお願いしますよ。俺の将来は、玉木さんにかかってるんですから」「安心して」友枝は、得意げに請け負う。自分と同じで平凡な家柄だったあの謙介が、今やこれほど成功するとは思いもしなかった。上場企業の最年少副社長。年収は数百万、株も保有している。海外で玉の輿に乗る夢が破れた後、自分の幼馴染が昔とは比べ物にならないほど出世したと知った時、彼女は驚きと同時に、大きな喜びを感じた。あのろくでもない元カレより、よっぽど有望な「玉の輿」だ。謙介が結婚していたから、何だというのだ?自分が少し策を弄すれば、すべては彼女の思い通りに進んでいく。この男、必ず手に入れてみせる!謙介が到着した時、友枝はすでに、彼が自分にプロポーズし、盛大な結婚式を挙げる場面を想像していた。思わず笑い声が漏れる。謙介は眉をひそめ、訝しげな表情を浮かべる。「友ちゃ
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第6話

「サプライズ?」意味深に、でも嬉しそうに笑う謙介を見て、友枝もつられて笑う。サプライズなんて、誰のためのものか決まっている。もちろん、自分のためだ。帰国してまだ二ヶ月も経たないのに、謙介の特別扱いは、彼女をすっかり舞い上がらせていた。一番驚いたのは、落ち込んでいるペンギンのスタンプを送っただけで、彼がすぐに氷原旅行を計画してくれたことだ。思えば小さい頃から、こんなにも無条件で自分を愛し、甘やかし、それがずっと続いていたのは、謙介だけだ。遠回りしたけれど、こうして二人は結ばれる。「いいわよ。この友枝様が、ちゃんと評価してあげるわ」謙介は車を運転し、友枝をある高級住宅地へと連れて行く。彼が顔認証をすると、ゲートが自動で開き、警備員も笑顔で挨拶してくる。友枝の心臓が、急に高鳴り始める。このマンション群はすべて広い間取りで、1坪あたりの単価は1400万円。まさに「豪邸」だ。特に「キング」と呼ばれるあの一棟は、浜の川に面し、浜野市で最も象徴的なイーストタワーなどのビル群を直接眺めることができる。灯りがともる頃には、それはもう息をのむような美しさだ。なぜそんなに詳しいのかって?以前、広告のプロモーションビデオを見たことがあったからだ。その時、すっかり心を奪われてしまった。だが残念なことに、内見に来るだけでも、資産が最低数億円はないと審査に通らない。彼女にそんな資産があるわけもない。まさか、謙介がここに物件を買ったとでもいうの?謙介について、高級な敷地内を通り抜ける。ジムを通り過ぎ、プールを通り過ぎ、手入れの行き届いた美しい庭園を通り過ぎる。そしてついに、謙介は友枝を「キング」棟へと案内する。顔認証の後、エレベーターは16階まで上がる。「この部屋、どう思う?」謙介はドアを開け、少し緊張した面持ちで友枝に尋ねる。友枝はよく、わざと可愛く見せるために目を見開くが、この時ばかりは、心の底から驚いて目を見張っている。どう思うかって?最高すぎるわ!南北に窓があり風通しが良く、4LDKにバスルームが二つ、さらにメイドルームまである。バルコニーは、やはり真正面から川の景色を望む。吹き抜ける風さえも、きらびやかな成功の匂いがするようだ。友枝は笑みを浮かべる。分かっていた。今回の
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第7話

謙介が我に返ると、友枝はもうそばにいない。ちょうど南向きの主寝室から出てきたところで、目元も口元も笑みを浮かべている。「主寝室、間取りがいいわね。ウォークインクローゼットも広いし。内装を変えたら、すごく快適に住めそう」謙介が先ほど言ったことをまったく聞いていない。すでにここの女主人になったつもりで、部屋中を見て回った。見れば見るほど、満足感が湧いてくる。そして、この若くして有能で、まだまだ将来性のある幼馴染に対しても、ますます満足感を覚えている。突然、二人のスマホが同時に震える。共通の友人のグループチャットで、「真実か挑戦かゲーム」の集まりが企画され、二人も誘われた。かつての謙介は仕事人間で、ほとんどの時間を仕事と昇進に費やしていた。旧友との集まりも、欠席することが多かった。だが、友枝が帰国してからは、謙介はそういった集まりにほぼ毎回顔を出している。しかし今日、謙介は少し躊躇して、口を開く。「俺は遠慮しとくよ。今夜はまだやることがあるんだ。でも、お前を送っていくことはできる」「もう、しらけさせないでよ」友枝は甘えた声で、謙介を軽く叩く。「グループチャットにも書いてあったでしょ。晩ご飯までには終わるって」謙介に今さら何の用事があるのか、どうせ残業だろう、と友枝は思う。だが、残業と、二人の関係を確定させることと、どちらが重要だというのだ。今夜は応援してくれる仲間も大勢いる。絶対に謙介をモノにしてみせる。「それもそうか」謙介は承諾する。じゃあ、これが最後だ。今回の集まりで、みんなにも言っておこう。これからは家庭に戻るから、こういう活動に参加する機会は減ると。すぐにスマホを取り出し、報告のメッセージを送る。ただ、どういうわけか、本当の理由は言わず、口実をでっちあげる。【知ちゃん、会社で少し用事ができた。片付けたらすぐに帰る】あっという間に、一行はクラブハウスに到着する。「早く早く、二人だけだよ、遅れてるのは。もうゲームを始めるぞ」ボトルが回り始め、数回後、謙介の前で止まる。「真実だ」一人の友人が友枝に目配せをし、質問を投げかける。「謙介はもともと結構無欲なタイプだったのに、あんなに必死に働いて成功したのは、もしかして誰かのためだったりする?その人の名前
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第8話

「何だと?」謙介は目を見開くが、すぐに我に返り、平静を取り戻す。笑って説明する。「それは誤解だ。離婚なんて、ただの意地の張り合いで、もう仲直りしたんだ。本当は、知子と離婚届は出すのをやめようって決めたんだ。ただ、ちょうど役所を通りかかったところで、友ちゃんから急用で呼び出されて。だから、知子には先に一人で帰ってもらったんだ」謙介が説明しなければ、まだ良かった。説明すればするほど、場の空気は重くなっていく。全員の顔から、驚きが隠せない。友枝までもが、動揺を感じ始めている。「そうだ。これからは区別するためにも、お前のことを友ちゃんって呼ぶのはやめるよ。これからは『友枝』って呼んでもいいか?知子を悲しませたくない。これからは俺が『ともちゃん』と言ったら、それは俺の妻のことだ。みんな、間違えないでくれ」「謙介、本気で言ってるのか?」ようやく、誰かが我に返る。「お前、ずっと友ちゃんのことが一番好きだったんじゃないのか。まさか、知子を本気で好きになったとか?」「ああ」謙介は、堂々とした表情で頷く。「確かに、俺はかつて友枝を一番大切な人間だと思っていた。でも、知子が怪我をした時、自分が知らないうちに、とっくに知子を愛していたことに気づいたんだ。あいつは俺と苦労を共にし、10年も一緒に歩んできてくれた。これからは、あいつを大切にする。そして友枝は、永遠に俺の友人、大切な妹だ。みんな、これからは俺たちをからかうのはやめてくれ」静寂。死んだような静寂が訪れる。とにかく、あまりにも予想外だったからだ。謙介がこんなに早く心変わりするなんて、誰も想像できなかった。人の心とは、そもそもこの世で最も移ろいやすいものなのかもしれない。友枝も、手のひらを強く握りしめ、表情を制御するのがやっとだ。この瞬間、頭には一つの思いしかない。あの時、第六感に従って、謙介を引き離しておいて本当に良かった、と。彼らの離婚が、すでに確定していて本当に良かった。だが、それでも、謙介がこんなに簡単に心変わりするとは信じられない。きっと、罪悪感と同情からくるものだ。男は時々、憐れみと愛情を区別できない。絶対にそうだ。慌ててはだめだ、と自分に言い聞かせる。こんな肝心な時に、うろたえてはいけない。友枝は唇
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第9話

「友ちゃん、本当に謙介を行かせていいのか?」個室の中、友枝は腕を組み、不機嫌な顔をしている。だが、それでもフンと鼻を鳴らす。「謙介が行ったところで、もう知子には会えないわ」「どういう意味だ?」皆、事情が飲み込めない。友枝はスマホを振って見せる。「情報筋がいるの。知子は離婚届を処分なんてしなかったよ。本当に出しに行ったの。それに、もう荷物をまとめて出て行ったわ」その言葉に、室内は騒然となる。「マジかよ?知子って、謙介にベタ惚れだったろ。本当に出て行くなんてことあるのか?」「だよな。謙介は今や成功者だぜ。あんなに長いこと苦労を共にして、これからって時に自分から手放すなんて、バカすぎるだろ」「まさか、わざと家出して、謙介に追いかけさせようって魂胆じゃ?」皆の言葉を聞きながら、友枝の表情もますます険しくなっていく。「あの女は昔からバカよ。私に敵うわけがない。それに謙介は、彼女が怪我したのを見て罪悪感を抱いて、その感情を愛だと勘違いしてるだけ。謙介は今、頭に血が上ってるから、本当に知子を探しに行くかもしれない。だから念には念を入れて、あなたたちに一芝居打ってもらうわ」友枝は皆に、自分の計画を打ち明ける。そして、最後にこう宣言する。「今夜、関係をはっきりさせる。明日、入籍する。謙介は私のものよ」皆、感心したような顔。「すげえな、さすが友ちゃんだ!」「じゃあ、俺たちは結婚祝いを待ってるぜ」「後で、俺たちの取り分を忘れるなよ!」友枝は頷く。「安心して。ちゃんと用意しとくから」実のところ、ここにいる「共通の友人」とされる連中は、皆、友枝に買収されていた。海外での10数年間、玉の輿に乗ろうとした努力は、結局、水泡に帰した。それは非常に残念だったが、多くの経験も積んできた。だからこそ、今回の帰国では、あらゆる手を尽くして、すべてを手に入れると固く決意していた。自分が丹念に張り巡らせた網から、謙介が逃れられるはずがない。……謙介は、見慣れた我が家へ帰ってくる。以前、帰宅すると、よくキッチンから換気扇の音が聞こえてきたものだ。エプロン姿で忙しそうに立ち働く、あの後ろ姿。それだけで、なぜか心が安らいだ。だが今、家の中は冷え冷えとしている。すべての部
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第10話

その時、不意に携帯電話の着信音が鳴り響く。「知ちゃん?」謙介は即座に応答し、思わずそう叫ぶ。「前島様、こちら、6時半でご予約いただいていた個室の件でお電話いたしました。すでに7時を過ぎておりますが、いらっしゃいますでしょうか?」電話の相手は、ミシュランレストランからだ。謙介は、深い失望を覚える。「行かない」それだけ言うと、一方的に電話を切る。無礼極まりない態度だ。ここ数年、目覚ましい成長を遂げ、どんな場面でも余裕を持って対処することを学び、常にスマートに振る舞ってきた。だが、この瞬間、疲れ果てている。あのUSBメモリの中身が、すべてを崩壊させたように思える。美しいと信じていた幼馴染の友枝の、本当の姿はあのようなものだった。永遠に自分を愛し、待っていてくれると思っていた妻は、こうして去った。それどころか、あんなものを、自分を破滅させかねない内容のものを残して。そして、一つの文書ファイルも。そこには、たった一言だけ書かれている。【探さないで】謙介には、その意味が分かる。もししつこく追いすがれば、待っているのは、あの致命的な内容が暴露されることかもしれない。だが、なぜだ?もう、自分の心に気づいたのに。はっきりと決意を表明したのに。なぜ、こんなことに?心が乱れ切っていると、玄関の呼び鈴が鳴る。謙介の心臓が激しく跳ね上がる。期待すべきではないと分かっていても、弾かれたように駆け出す。ドアを開けた瞬間、その目に宿っていた期待の光が消える。友枝だ。そして、例の共通の友人たちも一緒だ。「謙介、大変だ!とんでもないことになった!」友人たちが、焦った顔でまくし立てる。「この前俺たちがゲームしてた時の、監視カメラの映像がネットに流出したんだ。お前と友ちゃんがキスしてたあの場面が」「今、ネットじゃ、有名企業の幹部が妻帯者なのに不倫してるって大騒ぎになってる。お前にとって、かなりまずい状況だぞ」謙介はその投稿を見る。炎上しているそのスレッドには、自分と友枝が五分間も熱烈なキスを交わしている動画が貼られている。その下には、すぐに自分の身元が特定されている。すでに多くの人々が、このような道徳的に問題のある人間は、解雇されるべきだと声を上げている。謙介
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