午前七時。高層ビルのガラスが淡く朝陽を返し、東京湾の水面をきらめかせている。東雲グループ本社の最上階――まだ誰もいないオフィスに、ひとりの女性がいた。西條春《さいじょう はる》。白いブラウスの袖口をきちんと折り、ノートパソコンを開く。整然としたデスクの上には、昨夜遅くまで仕上げた資料が重ねられている。今日も、社長が“完璧”に見えるように支度を整えるのだ。扉が静かに開き、東雲秋《しののめ しゅう》が姿を現した。濃紺のスーツに、淡いワインレッドのネクタイ。その組み合わせは――昨夜、春が選んだものではない。「……おはよう、春さん。」「おはようございます、社長。」秋は軽く笑い、少しだけ首元に手をやった。「これ、妻が選んでくれたんだ。派手かな?」「いえ。よくお似合いです。」春はわずかに目を伏せ、淡々と答えた。その色は、彼のいつもの控えめなトーンとは違っていた。けれど春は何も言わない。社長夫人――南夏花《みなみ なつか》。彼女の存在が、少しずつこのオフィスの空気に混ざり始めていることを感じていた。⸻午前の会議。秋は堂々とした声で発表を進め、役員たちは熱心に頷く。春が手を加えた資料を、彼は自信満々に掲げていた。「さすが東雲社長だ」と賞賛の声が上がるたび、春の胸に小さな痛みが走る。――彼は演じている。その完璧な笑みの裏で、何を感じているのだろう。会議の途中、役員のひとりが何気なく言った。「ところで奥様は、また社の広報イベントにお越しになるとか?」秋は一瞬だけ言葉を詰まらせ、笑顔を作る。「ええ、彼女が希望していて。……社の顔として、ふさわしいでしょう。」その声の奥に、疲れのようなものが滲んでいた。春はそっと手元の資料に視線を落とした。“社の顔”――その言葉が、どこか苦く響いた。⸻会議後、廊下で秋が追いかけてくる。
Last Updated : 2025-11-06 Read more