All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 161 - Chapter 170

196 Chapters

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「初対面の方に、そのようなご指摘をいただく筋合いはございません。業務の一環ですので」 小夜子は半歩下がって、事務的な笑顔で壁を作った。 だが男は引かなかった。むしろ、その拒絶が面白かったらしい。「業務、か。堅苦しいねえ」 男はクスクスと笑い、名刺を差し出した。『株式会社ネクスト・フロンティア代表取締役社長 高塔蓮』。 新進気鋭のITベンチャーの社長だ。最近、メディアでよく見かける顔だった。小夜子も経済誌で見た覚えがある。「あの黒崎社長の奥様だよね? 噂は聞いているよ。没落した旧家から引き上げられた、シンデレラだって」 高塔は小夜子の顔を覗き込んだ。「でも、実物は随分と違うみたいだ。……君、退屈してるでしょう?その目、周りの人間を野菜か何かだと思って見てる」「野菜に失礼ですわ。野菜には旬がありますが、ここにあるのは脂ぎった欲望だけですから」 つい本音が口をついて出た。高塔が目を見開き、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。「ははっ! 最高だ! 君、面白いよ!」 高塔は一歩踏み出して、小夜子の空いている方の手を取る。強引な動作だった。「もったいないな。君のような知性のある女性が、あんな堅物の飾り物になってるなんて」「離してください」「僕なら、君をもっと自由にできるよ。こんな窮屈なドレスじゃなくて、君に似合う場所へ連れ出してあげたい」 高塔の指が小夜子の手の甲を撫でる。絡みつくような視線と甘い言葉。 普通の女性ならときめくシチュエーションかもしれない。だが小夜子の脳内データベースが弾き出したのは、警告音だった。(不衛生! この方の手、さっきカナッペを素手で摘んでいらしたわよね? 油分と雑菌の付着率がひどいことになっているわ!) 小夜子の眉間に深いシワが刻まれる。 ロマンチックのかけらもない理由で、彼女は全力を振り絞って手を引っこ抜こうとした。だが、男の力は存外に強い。「行こう。二次会なんて抜け出して、僕の車で&hell
last updateLast Updated : 2026-02-13
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 高塔は一瞬ひるんだが、すぐに余裕ぶった笑みを張り付ける。「やあ、黒崎社長。ご挨拶ですよ。奥様があまりに退屈そうだったので、少し楽しませてあげようかと」「退屈?」 隼人は小夜子の前まで来ると、高塔の手を乱暴に振り払った。 そして小夜子の腰に自分の腕を回した。 グイッ。ドレスの布地が悲鳴を上げるほど強く、乱暴に引き寄せる。小夜子の体が隼人の体側にぎゅっと打ち付けられて、これ以上ないほど密着した。「退屈させているのは私の不徳だ。だが、代わりは必要ない」 隼人は小夜子の肩を抱く手に力を込めた。指先が肉に食い込むほどの強さ。 痛い。小夜子は少しだけ眉をしかめたが、振りほどくことはしなかった。そのまま夫に身を任せている。 その痛みこそが彼の激情の証。 隼人は高塔を射抜くように睨みつけた。「彼女は私の妻だ」 宣言する。「黒崎の付属品でも、飾り物でもない。……私の体の一部だ」 会場中の視線が集まる中、隼人は迷わずに言い放った。「気安く私の心臓に触れるな。……たとえごくわずかでも、他人に譲る気はない」 ビジネスライバルの牽制などという生温かいものではない。 縄張りを荒らされた猛獣の咆哮である。自分の所有物に手を出した愚か者への、明確な殺意を含んだ警告だった。 高塔の顔から余裕の笑みが消えた。 彼は本能で悟ったのだ。この男は、本気で噛み殺しに来ていると。「……はは、まいったな」 高塔は両手を上げて後ずさった。 彼の視線が隼人に抱き寄せられた小夜子に向く。 彼女は怯えていなかった。あんなに強く抱きしめられて、痛いくらいだろうに。小夜子はホッと息を吐き、無意識に隼人のジャケットの裾をギュッと掴んでいる。 明らかに安心して、夫を信頼しきっている姿だった。「完敗ですね。入り込む隙間なんて、最初からなかったみたいだ」 高
last updateLast Updated : 2026-02-14
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「なぜ、振りほどかなかった」 しばらくして、押し殺したような声が響いた。怒っている。 だがそれは、小夜子に対する怒りではないことは明白だった。「護身術くらい、心得ているだろう。相手の足を踏むなり、急所を蹴るなりすればよかったんだ」「相手は取引先候補の社長です」 小夜子は冷静に答えた。「物理的排除を行えば、アーク・リゾーツの評判に傷がつきます。ビジネス上の損失と、私の手首の衛生状態を天秤にかけ、我慢することを選択しました」「計算などするな!」 ドンッ。隼人が革のシートを拳で叩いた。小夜子が驚いて肩を跳ねさせる。 隼人は乱暴に小夜子の手首を掴んだ。さっき高塔が触れようとした方の手だ。「損失などどうでもいい! あんな男、ハイヒールで踏み抜いてやればよかったんだ!」 隼人はハンカチを取り出すと、小夜子の手をゴシゴシと拭った。まるで他人の痕跡を消し去るように。執拗に、必死に。「……嫌だったんだ」 やっと隼人の手が止まった。彼はうつむき、小夜子の手を自分の額に押し当てた。「お前が他の男に触れられるのを見るだけで……頭がおかしくなりそうだった。あいつの目が、お前を値踏みしているのを見た瞬間、殺してやりたいと思った」 小夜子は目を見開いた。 手の甲に隼人の吐息がかかる。彼の体は微かに震えていた。 最強の経営者、氷の城の王。血も涙もないハゲタカ。 そんな彼が、たった一人の女性を奪われるかもしれないという恐怖に、子供のように怯えている。(ああ……この方は) 小夜子の胸の奥が、熱く疼いた。 愛おしい。不器用で、独占欲が強くて、誰よりも寂しがり屋なこの人が。「旦那様」 小夜子は、自分の手を拭っていた隼人の手を、そっと握り返した。「計算違いでした」「……何がだ」「ビジネスの損失よりも
last updateLast Updated : 2026-02-14
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163:魔法の国の清掃学

「業務命令だ。支度をしろ」 休日の早朝、小夜子は隼人によってまだ薄暗いうちに叩き起こされた。 身だしなみを整えるのも最低限で、寝ぼけ眼をこすりながら隼人の車に乗せられる。運転手ではなく隼人自身の運転だった。「何事ですか、旦那様? 今日は休日のはず……」「いいから行くぞ」 行き先は告げられていない。 だが隼人の気合の入りようは尋常ではなかった。ラフだが仕立ての良いジャケットに、動きやすいスニーカー。 まるで視察か、あるいは敵地への潜入調査のような装いだ。(なるほど。極秘のM&A案件ね) 小夜子は瞬時に理解して、バッグの中身を確認した。 ICレコーダー、予備のバッテリー、それから契約書の不備を見逃さないための拡大鏡が整然と収められている。準備は万端だ。 車は高速道路を走り抜けて、やがて巨大なゲートをくぐった。 目の前に現れたのはパステルカラーの尖塔と、楽しげな音楽。 世界的に有名なテーマパーク『ドリーム・キングダム』だった。「……旦那様?」 小夜子はメモ帳を取り出した。「本日の視察目的は? このパークの買収、あるいは業務提携のご検討でしょうか? 収支報告書などの資料は……」「違う」 隼人はハンドルから手を放し、サングラスを外した。「エンターテインメントの勉強だ。顧客を熱狂させる仕掛けを学ぶ。ホテルとて客商売だからな」 彼は後部座席から紙袋を取り出して、小夜子に押し付けた。「これは制服だ。装着しろ」「制服、ですか?」 小夜子が袋を開けると、そこに入っていたのは大きな黒い耳のついたカチューシャだった。赤い水玉のリボンがついている。「安全ヘルメットの一種でしょうか? 落下物からの頭部保護機能が?」「いいから着けろ。ここではこれを着けないと、入国審査に通らないルールだ」 隼人が真顔で嘘をつく。
last updateLast Updated : 2026-02-15
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 慣れない遊園地の活気に、小夜子はきょろきょろと周囲を見回した。「人が多いですね。人口密度が過密状態です」「はぐれるなよ」 隼人は自然な動作で小夜子の手を握り、人波をかき分けて進んでいく。 その時だった。数メートル先で、小さな子供がポップコーンのバケツをひっくり返した。 バラバラバラッ! 黄金色のキャラメルポップコーンが、石畳の上に無残に散らばる。「あっ……!」 小夜子の清掃本能が反応した。バッグから携帯用ちりとりを取り出そうとした、その瞬間。 サッ。 どこからともなく、白いコスチュームに身を包んだ清掃キャストが現れた。 手には長い柄のついたほうき(トイブルーム)と、ちりとり(ダストパン)。 キャストは流れるような動作でほうきを操った。 カッ、カッ、サッ。まるで剣術の演舞だ。 散らばったポップコーンが、一粒残らずちりとりの中に吸い込まれていく。 所要時間、わずか5秒。さらにキャストはポケットから水を取り出すと、地面に残ったわずかな油分の上に、ほうきで人気者のマウスの顔を描いてみせた。「わあ、すごい! 魔法みたい!」 ポップコーンをこぼして泣きそうになっていた子供は、マウスの絵に大喜びしている。「素晴らしい」 小夜子は感動で立ち尽くした。「あのちりとりの入射角、そしてほうきの腰の強さ。回収率100パーセントの神業だわ。それに、あの笑顔……掃除をエンターテインメントに昇華させている」 小夜子の目が、獲物を狙うハンターのようにギラリと光った。「旦那様、あの方をヘッドハンティングしましょう。あの技術があれば、『サンクチュアリ』のロビー清掃時間は半分に短縮できます」「待て」 キャストの後を追おうとする小夜子の首根っこを、隼人が掴んだ。「ゴミを見るな。夢を見ろ」「ですが、あそこには清掃の真髄が!」「次だ。あっちのホテルに行くぞ」
last updateLast Updated : 2026-02-15
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 薄暗いロビーに足を踏み入れる。 蜘蛛の巣が張り巡らされ、調度品には厚く埃が積もっている――ように見える演出がなされていた。「ひどい管理状態ですね」 小夜子は怯えるどころか、眉をひそめて棚の埃を指先でなぞった。「いえ、違いますわ。この埃、指につきません」「ん?」「『演出』として、定着スプレーで固められています。なるほど、これなら空調で埃が舞うこともなく、アレルギーのお客様にも配慮できる。勉強になります」 彼女は感心したように頷き、今度は天井のシャンデリアを見上げた。「ですが、あの金具の錆は本物ですわ。湿気による腐食が見られます。落下防止ワイヤーの強度が心配です。安全管理マニュアルに不備があるのでは?」「……小夜子、設定を楽しめ」 隼人の目論見は早くも崩れ去ろうとしていた。 エレベーターに乗り込む。扉が閉まり、暗闇の中で機体が上昇する。 ガガガッ……! 不気味な音が響いて、最上階で扉が開いた。眼下にパークの景色が広がり――。 ヒュオッ!! エレベーターが自由落下を始めた。無重力感が襲いかかり、内臓が浮き上がる感覚。 同乗していたゲストたちが「キャーッ!」と悲鳴を上げる。隼人は隣の小夜子を見た。きっと今こそ、腕にしがみついてくるはずだ。 だが。小夜子は真顔で、空中で舞い上がる髪を押さえながら呟いていた。「この落下速度から推測するに、制動距離は20メートル。ワイヤーにかかる負荷係数は通常の3倍……。メンテナンスコストが莫大でしょうね」 ズドン! 地底に着地した瞬間、小夜子は涼しい顔で髪を直した。「旦那様。この施設の減価償却費について議論したいのですが」「……お前、可愛くないな」 隼人は脱力し、それでも恐怖のかけらもない妻のタフさに、思わず吹き出してしまった。◇ 気を取り直
last updateLast Updated : 2026-02-16
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「それに、あの大量の皿……。これだけの数を毎日手洗いするとなると、洗剤だけで月数万円のコスト増。水道代も馬鹿になりません」 彼女の目には、魔法ではなく洗浄コストが見えているらしい。 やがてライドはクライマックスへ。醜い野獣が美しい王子に戻り、ヒロインと手を取り合って踊るボールルームのシーンが広がった。 満天の星空の下、シャンデリアが輝いてロマンチックな曲が流れる。 隼人は小夜子の手をそっと握った。「……綺麗だな」「はい、旦那様。ご覧ください、あの床」 小夜子はうっとりと床を見つめていた。「何万回カップが通っても、傷ひとつありません。あの輝き、一体どんな超硬度ワックスを使っているのかしら。メーカーを知りたいわ。『サンクチュアリ』のロビーにも、ぜひ導入すべきです」「あ~……」 隼人は天を仰いでため息をついた。この女に通常のロマンスは通用しない。 彼は小夜子の頬を軽くつねった。「ワックスを見るな。愛を見ろ」「痛いです、旦那様。ですが、このワックスの皮膜形成技術は愛に匹敵する奇跡です」「もういい」 隼人は嘆息しながらも、目を輝かせて床を見つめる小夜子の姿に、つい微笑んでしまうのだった。◇ 遊び疲れた頃には、空は夕焼けの茜色に染まっていた。 パークのシンボルであるお城が見えるベンチに座って、2人は長いチュロスをかじっていた。シナモンシュガーの甘い香りが漂う。 小夜子の目の前を、若い夫婦に手を引かれた小さな女の子が通り過ぎていった。 女の子は赤いリボンの耳カチューシャをして、満面の笑みで風船を揺らしている。 小夜子の視線が親子を追った。ふと、その瞳に寂しげな色が宿る。「不思議ですね」 小夜子はチュロスに視線を戻して呟いた。「体は大人なのに、なんだか子供に戻ったような気分です」 彼女の記憶にある
last updateLast Updated : 2026-02-16
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 その重さに押しつぶされそうになった時、隼人の手が伸びてきた。 彼は小夜子の唇の端についた砂糖を親指で拭い、自分の口に含んだ。「バチなど当たるか」 隼人は自分のコーヒーを小夜子に差し出した。「お前が遊べなかった10年分、これから俺が全部埋めてやる」 彼は城を指差した。「次は隣のパークに行くぞ。あそこには世界一の清掃船があるらしいからな。お前の好きな洗剤の話も、いくらでも聞いてやる」 不器用な慰めに、小夜子は目を見開いた。 洗剤の話を聞いてくれる。この世界で、そんなことを言ってくれる人は彼しかいない。視界がにじんだ。「……はい」 小夜子は泣き笑いのような顔で、大きく頷いた。◇ 夜の帳が下りる頃、2人は大観覧車のゴンドラの中にいた。 眼下には光の海となったパークが広がっている。 ちょうど行われているパレードは、普通ならば人並みにさえぎられてよく見えない。 けれど大観覧車の位置からならば、良く見渡せた。特等席だった。 ゴンドラの密室の中で、隼人が小夜子の隣に座った。「楽しかったか?」 隼人の問いに、小夜子は窓の外を見つめたまま答えた。「はい。清掃オペレーションの勉強になりましたし、安全管理の重要性も再認識しました」「……そうかよ」 隼人は苦笑する。 どこまで行っても小夜子は小夜子だ。そう思いかけて。「それに、何より」 小夜子はゆっくりと隼人に向き直った。その瞳に、夜景の光が反射して揺れている。「旦那様と一緒で、楽しかったです」 家政婦としての模範解答ではなかった。マニュアルにはない、1人の女性としての素直な言葉。 隼人の目が優しく細められた。「なら、もう一つ魔法を教えてやろう」「魔法、ですか?」 ゴンドラが頂上に達する。一番高い場所で世界が止ま
last updateLast Updated : 2026-02-17
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168:契約の終わり

 魔法の国から戻った夜。タワーマンションの最上階には、静けさが満ちていた。 けれどそれは、かつてこの広い部屋を支配していた冷たく凍りついた沈黙ではない。遊び疲れた身体を包み込むような、柔らかくて温かい空気だった。 キッチンで、カチャリとスプーンがカップに触れる音が響く。 小夜子はホットミルクを作っていた。蜂蜜をひとさじと、香りの良いブランデーを数滴。神経を鎮めて、良質な睡眠を誘うための特製ナイトキャップだ。 ホットミルクから良い香りが立ち上って、小夜子はそっと微笑んだ。(今日は楽しかった) ふと、昼間の光景が蘇る。 にぎやかなテーマパークの音楽と、ポップコーンの甘い香り。彼の不器用な優しさ、そして観覧車でのキス。 何もかもが夢のようで、それでも夢の魔法はもう解けてしまった。 小夜子は無意識に唇に触れる。そこにはまだ、チュロスのシナモンシュガーの甘さと、彼の熱が残っているような気がした。「小夜子」 リビングから名を呼ばれて、小夜子は我に返った。 トレイにマグカップを2つ乗せて運ぶ。ソファには、シャワーを浴びてラフな部屋着に着替えた隼人が座っていた。テレビもつけず、ただ窓の外の夜景を眺めている。「お待たせいたしました。特製のホットミルクです」「ああ。座ってくれ」 促されて、小夜子は隼人の隣に腰を下ろした。 いつもより近い距離。2人の肩が触れ合うか触れないかの位置で、互いの体温を感じる。 隼人はカップを両手で包み込むように持ち、湯気の中に顔を埋めた。「……不思議だな」 彼は独り言のように呟いた。「あれだけ騒がしい場所にいたのに、今は世界で一番落ち着ける場所にいる気がする」「お疲れが出たのではありませんか? 今日は普段使わない筋肉を駆使しましたから」「いいや、違う」 隼人は首を振った。彼はカップをローテーブルに置くと、広いリビングを見渡した。「お前が来る前、ここはただの広い箱だった。家具
last updateLast Updated : 2026-02-17
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「食べ物が準備されるはずもなく、テーブルに残された小銭で冷え切った弁当を買う。あの寒さと孤独が、俺の原風景だ」「旦那様……」「だから、必死で這い上がった。金と力を手に入れれば、あの寒さから逃れられると思った。……だが、どれだけ稼いでも、部屋の空気は冷たいままだった」 隼人は自嘲気味に笑い、自分の手のひらを見つめた。「人を信じるのが怖かったんだ。近づけば裏切られる。金目当てで群がってくる有象無象に、もううんざりだった。だから、お前を金で縛った」 彼は小夜子を見た。その瞳は、後悔するように揺れていた。「契約なら、裏切らないと思ったからだ。3億円という鎖で繋いでおけば、お前は俺の前から消えない。感情のない『道具』として側に置いておくのが、一番安全だと計算した」「……はい。合理的な判断です」 小夜子は声を絞り出した。彼が提示した契約は、当時の彼にとって唯一の防衛策だったのだ。 そしてまた、当時の彼女にとっても実家という環境から抜け出すための唯一の未知だった。「だが、間違っていた」 隼人の手が伸びてきて、小夜子の頬に触れた。「俺を救ったのは契約書じゃない。お前の淹れる茶であり、作ってくれる温かな食事であり。磨き上げられた床であり、俺の帰りを待つ『おかえりなさい』の声だった。……お前という存在そのものが、この箱を『家』に変えてくれたんだ」 小夜子の胸が、ぎゅっと締め付けられた。彼の言葉の1つ1つが鍵となって、彼女が自分自身にかけていた封印を解いていく。「俺は一生誰も愛さないし、愛されることもないと思っていたのに。小夜子、お前が隣にいてくれるだけで……ここはこんなにも温かい。俺はこの温かさを手放したくない……」 隼人の瞳が揺れている。 真摯に愛する気持ちと、自分のような人間が人を愛していいのかという思いと。 小夜子の心を手に入れたい欲求と、無理強いはでき
last updateLast Updated : 2026-02-18
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