로그인「君の実家が欲しいだけだ。俺の視界に入るな」 名門旅館の『恥』として虐げられてきた小夜子は、家族から家政婦のように扱われている。 ついには借金の形として冷徹なホテル王・黒崎隼人に嫁ぐことになった。 しかしボロボロの服の下に隠されていたのは、完璧なまでの教養と実務能力、そして極上の家事スキルだった。 余り物で作った絶品夜食で夫の胃袋を掴み、驚異の事務処理能力でビジネスの危機さえ救ううち、氷の夫は彼女を溺愛し始めて……? 有能な娘を捨てた実家が自滅する中、契約結婚から始まる大逆転シンデレラストーリー!
더 보기吐く息が白い。比喩ではない。文字通り、白い霧がパソコンの液晶画面にかかって、打ち込んだばかりの文字を曇らせていく。
白河小夜子(しらかわ・さよこ)は画面の曇りを手で払って、かじかんで感覚のなくなった指先を口元に寄せた。「はぁーっ……」
温かい呼気を吹きかける。一瞬だけ指先に血が通う感覚が戻り、ジンとした痛みが走った。
(よし、まだ動く)
小夜子は着古したフリースの袖をまくり上げ、再びキーボードに向かった。現在時刻は午前4時。場所は、名門・白河家の広大な敷地の片隅にある「離れ」。
かつて物置として使われていた粗末な小屋が、小夜子の生活スペースだ。隙間風が容赦なく吹き込む室内は、外気と変わらない冷え込みようである。 暖房器具はあるにはあるが、義母によって電源コードを没収されていた。「電気代の無駄よ。どうせパソコンの熱で温まるんでしょう?」
そんな無茶苦茶な理屈を押し付けられて、早5年。
父である白河家当主の愛人の子として生まれ、母の死とともにこの家に引き取られて10年。 義母と義姉、父からの不当な扱いは年を追うごとに増すばかりだった。 中学までは義務教育だからと、かろうじて学校に通わせてもらえた。 けれど高校に行くのは許されなかった。 今は亡き恩人、この家の執事であった藤堂がこっそりと、私費を使って通信制の高校に入れてくれたため、高卒の資格だけは取ることができた。 親切にしてくれたのは藤堂だけだ。その彼が亡くなってしまった現在、この家に小夜子の味方は一人もいなかった。人間は環境に適応する生き物だと言うが、小夜子はひどく冷え込む空気の中で、驚くほどの速度でタイピングを続けていた。
というのも、手を止めたら凍えるからだ。画面に並ぶのは、難解なフランス語と専門用語。『ホスピタリティの根源における「主と客」の非対称性について』
これが、今回の論文のタイトルである。小夜子は机の脇に積み上げられた分厚い洋書――『欧州ホテル産業の歴史』――をめくり、該当箇所を翻訳しながら引用していく。
(19世紀のパリにおけるサービス規範……ここ、使えるわね)
ふと、暗い窓ガラスに自分の姿が映り込んだ。そこにいるのは、精彩を欠いた影のような女だった。
手入れを知らない黒髪は、艶こそ失われているものの、夜の闇を溶かしたように細くしなやかに背中へ流れている。 色素の薄い肌は、陶磁器のように白い。それは健康的な白さではなく、陽の光を浴びることを許されない、地下室の花のような青白さだ。 頬は痩せて丸みを失い、身体は一抱えできそうなほど薄い。粗末な服の袖から伸びる手首はあまりに華奢で、力を込めれば折れてしまいそうに見える。 だがその顔立ちは整っていた。長い睫毛(まつげ)が落とす影の下、切れ長の瞳だけが、暗がりの中で静かな光を宿している。黒崎隼人の到着まであと30分。 小夜子は本邸の裏手にある衣装部屋に立たされていた。義母が桐の長持(ながもち)から古びた布切れを引っ張り出して、小夜子に向かって放り投げた。「ほら。今日のあんたの衣装よ」 小夜子は、床に落ちそうになったそれを空中で受け止めた。 それは正規の制服ですらない、時代がかった代物。おそらく数世代前の使用人が着ていたと思われる、黒のワンピースと白いエプロンだった。生地は洗濯を繰り返して薄くなり、色はあせている。経年劣化で白い生地は薄いクリーム色に変化していた。 何ともみすぼらしい古着に、だが、小夜子は何も言わない。「いいこと、小夜子。今日の客人は、由緒ある白河家を金で買い叩こうとする成り上がりのハゲタカよ。そんな相手に、金で買ったばかりの新品を見せつけてどうするの」 義母は歪んだ笑みを浮かべ、勝ち誇った顔で講釈を垂れた。「ああいう奴らは、金さえ出せば何でも手に入ると思っている。だからこそ、あえて『金では買えない時間』を見せつけてやるのよ。何代にも渡って補修し、大切に受け継がれてきたその制服こそが、ポッと出の成金には真似できない白河家の『伝統』と『格式』の証明になるんだから」(……なるほど) 小夜子は手の中の古着を見つめた。つまりは、「新しい制服を買う金がない」という恥ずかしい事実を、「物を大切にする伝統精神」という高尚な理屈にすり替えたわけだ。 貧乏を質素倹約と言い換え、ボロボロであることを歴史の重みだと主張する。没落貴族特有の、あまりに苦しい見栄とこじつけだった。 だが、今の小夜子に拒否権はない。「承知いたしました」 小夜子は服を抱え、部屋の隅へと向かった。 手早く着替える。あてがわれたワンピースは、サイズが合っていなかった。袖は短すぎて手首の骨が露出し、スカートの丈も中途半端だ。 鏡の前に立つ。そこに映っていたのは、時代錯誤でみすぼらしい使用人の姿だった。 けれど不潔さはない。小夜子は襟元を整え、エプロンの紐をきっちりと結んだ。古びた布であっても、着る人間が背筋を伸ば
喉まで出かかった言葉を、小夜子は飲み込んだ。今、口答えをすれば、この場はさらに長引く。 あと1時間もしないうちに黒崎隼人が来てしまう。客人を迎える準備を遅らせるわけにはいかない。 小夜子は額の痛みを無視し、畳に手をついて頭を下げた。「申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」「フン。さっさと準備に戻れ」 父たちは桐箱を大事そうに抱え、客間へと消えていった。 一人残された廊下で、小夜子はようやく身を起こした。額に手をやれば、鈍い痛み。少し腫れている。(良かった、血は出ていない。このくらいなら前髪で隠せば目立たない。大丈夫) 客間のほうからは、「これで成金男も腰を抜かすはずだ」「白河家の威光を見せつけてやるのよ」という、浮かれた声が聞こえてくる。 小夜子は冷めた瞳で、その方角を見つめた。(……あの方々は、分かっていない) 黒崎隼人という男の噂は、小夜子も耳にしている。合理的で、無駄を嫌い、冷徹なまでに利益を追求する「再生屋」。 そんな男が、威圧的な『双龍図』を見て、感心するだろうか。(今日はビジネスの会談。相手を威嚇するような図柄よりも、心を落ち着かせる枯淡な『山水図』のほうが、場の空気を整えるには相応しいのに) 相手の心理を読み、その場に最適な空間を演出する。それこそが、老舗旅館が受け継ぐべき「おもてなし」の真髄であり、キュレーターとしての資質だ。 小夜子にはそれが見えている。だが、今の彼女に決定権はない。父たちが選んだミスマッチな掛け軸が、かえって白河家の「腐敗したプライド」を露呈させることになるだろう。(これも、この家の運命ね) 小夜子がバケツを持ち上げようとした時、背後から義母の声がかかった。「おい、小夜子。いつまでサボっているの」 義母は嗜虐(しぎゃく)的な笑みを浮かべ、顎で蔵のほうをしゃくった。「掃除はもういいわ。さっさと着替えてきなさい。例の『アレ』を持ってくるのよ」 その言葉に小夜子の背筋が凍る。『アレ
「どこだ、どこにしまった! 誰か知らんのか!」 父が叫ぶが、誰も答えない。かつては美術品の管理台帳をつける専門の使用人がいた。だが、彼を解雇したのは他ならぬ父自身だ。 義母も麗華も、屋敷に何があるかさえ把握していない。彼女たちにとって、美術品は換金できるかどうかの道具でしかないからだ。 焦燥に駆られた父の視線が、床に膝をつく小夜子を捉えた。「おい、役立たず! お前だろ、お前が隠したんだろう!」 父が大股で近づき、小夜子を見下ろす。理不尽な言いがかりは、いつものことだ。小夜子は雑巾をバケツの縁に置き、顔を上げた。(双龍図……) 脳内の検索にかける。所要時間は0.5秒。 膨大な屋敷の物品リスト、その保管場所、保存状態。藤堂から叩き込まれた管理術によって、小夜子の頭の中には完璧なデータベースが構築されていた。 小夜子は淡々と告げた。「『双龍図』でございましたら、第2蔵の3番棚、上段の桐箱に収めてございます」「……は?」 父が口を開けたまま固まる。小夜子はさらに補足した。「先週の火曜日、湿度が60パーセントを超えましたので、私が移動させました。あの掛け軸に使われている和紙は湿気に弱く、書斎のままではカビが生える恐れがありましたので」 事実だけの報告。恩着せがましさも、非難の色もない。ただの業務連絡だ。父は半信半疑のまま、つっかけを履いて庭へと走っていった。 数分後。戻ってきた父の手には、確かに桐箱が握られていた。中を確認し、安堵の息を吐く。 だが、その安堵はすぐに醜い怒りへと変わった。父は小夜子の元へ戻ると、手に持っていた扇子を振り上げた。 バシッ! 乾いた音が廊下に響く。扇子の親骨が、小夜子の額を打ったのだ。鋭い痛みが走り、視界が一瞬白く弾ける。「勝手なことをするな! カビだの湿度だの、もっともらしい嘘をつきおって。本当はこっそり持ち出して、売り払うつもりだったんだろう! 卑しい奴め」 父の唾が飛ぶ。自分の管理不足を棚に上げ、娘を泥棒扱いすることでプライドを保とうとする、浅ましい姿だった。 義母も勝ち誇ったように鼻で笑う。「本当に可愛げのない子。管理台帳もまともにつけられないくせに、小賢しいのよ。これだから妾の子は。やっぱり血は争えないわね。家政婦がお似合い、いいえ、家政婦の仕事も満足にできないとは」(台帳をつけていな
磨き上げられたカラトリーの表面に、現在の小夜子の瞳が映る。あの時の理不尽な痛みは、今も胸の奥に棘として残っている。 けれど、同時に確信も得た。(言葉はいらない。着飾る必要もない) 本当に必要なのは、相手が何を求めているかを察する観察眼と、それを実行する静かな行動力。 明日来る「ハゲタカ」と呼ばれる男も、きっと同じだ。彼が求めているのは、媚びへつらいや虚飾ではないはずだ。 小夜子は立ち上がり、完璧に整えられた客間を見渡した。1ミリの狂いもなく並べられた調度品と、塵一つない床。「……お待ちしております、黒崎様」 その声に怯えはない。あるのは、プロフェッショナルとしての静かな覚悟だけだった。◇ 黒崎隼人が到着するまで、あと1時間。白河家の本邸は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。 廊下をドタバタと走り回る足音、義母の耳障りな金切り声、それから何かが倒れる音。小夜子はその喧騒をBGMのように聞き流しながら、長い廊下を雑巾がけしていた。 冷たい板張りの床に膝をつき、一定のリズムで手を動かす。冬の日の水は冷たく指先が凍えたが、気にしている暇はない。 この広い屋敷を維持していた使用人たちは、賃金の未払いや義母の理不尽な要求に耐え兼ね、一人また一人と去っていった。 今や掃除も在庫の管理も、すべての雑務が小夜子一人の肩にかかっている。(ふう。これで廊下の拭き掃除は終わったわ。次は客間の最終確認をしないと) 小夜子が額の汗を手の甲で拭ったとき、書斎から父・源三郎(げんざぶろう)の怒号が轟いた。「ない! どこへやった! あれがないと話にならんぞ!」 ドタドタと床を踏み鳴らし、父が廊下へ飛び出してくる。顔は茹でダコのように真っ赤だ。血走った目で辺りを見回している。 その後ろから、義母と麗華が困惑した顔でついてきた。「あなた、落ち着いてくださいな。泥棒が入ったわけでもありますまいし」「落ち着いていられるか! 『双龍図(そうりゅうず)』だぞ! あの掛け軸を床の間に飾って、成金の若造に、黒崎隼人に白河家の格式を見せつけてやらねばならんのだ!」 父が探しているのは、国宝級の画家が描いたとされる一幅の掛け軸だった。荒れ狂う波の間から二匹の龍が昇っていく様を描いた、豪華で迫力のある作品である。