春斗が量子カフェ・シュレディンガーで働き始めて三年が経った。店の看板には猫のシルエットと「観測されるまで、あなたのコーヒーは存在しない」という洒落た文句が書かれている。物理学科の教授だったオーナーの趣味全開の店名だが、幸いなことに近所の人々は「変わった名前のカフェ」程度にしか思っていない。 午後三時、水曜日の静かな時間帯。春斗はカウンターで量子力学の入門書を読んでいた。正確には読み返していた。三年前に大学院を中退してからも、彼は物理学への未練を完全には断ち切れていない。「いらっしゃいませ」 ドアベルが鳴り、春斗は反射的に本を閉じた。 入ってきたのは、見覚えのある女性だった。いつもの水曜日の常連客。細身で背が高く、肩までの黒髪。年齢は春斗と同じくらいだろうか。彼女はいつも窓際の席に座り、ブレンドコーヒーを注文し、文庫本を読む。それ以外のことを春斗は何も知らない。「ブレンドコーヒーを一つ」 彼女の声は穏やかで、どこか遠くから聞こえてくるような不思議な響きがあった。「かしこまりました」 春斗はエスプレッソマシンに向かった。豆を挽く音が店内に響く。この店のコーヒー豆は特別だ。オーナーが「意識の場に共鳴する特殊な豆」と言って仕入れているもので、確かに普通の豆とは違う。焙煎したての豆からは、まるで誰かの囁きのような音が聞こえる気がする。 ドリップしながら、春斗は窓際の席を盗み見た。女性は文庫本を開いている。タイトルは見えないが、カバーから察するに哲学書のようだ。 コーヒーを運ぶと、彼女は本から目を上げた。「ありがとうございます」「ごゆっくりどうぞ」 春斗が立ち去ろうとすると、彼女が声をかけた。「あの、いつも気になっていたんですけど」 春斗は振り返った。彼女が微笑んでいる。「この店の名前、量子カフェ・シュレディンガーって、猫のパラドックスからですよね?」「ええ、そうです。オーナーが物理学者で」「素敵な名前だと思います。観測されるまで状態が確定しないって、コーヒーの香りが漂うまで味が想像でしかないっていうのと似てますよね」 春斗は驚いた。この店に三年いて、その意味を理解している客に初めて出会った。「詳しいんですね、量子力学」「少しだけ。趣味で本を読む程度ですけど」 彼女は文庫本の表紙を見せた。『量子論の哲学的基礎』とある。「私、雪村
Last Updated : 2025-12-06 Read more