LOGIN火曜日の朝、春斗は量子カフェの前でユキを待っていた。曇り空の下、街は静かだった。
午前十時、ユキが現れた。すでに身体が薄く透けている。
「春斗さん……」
ユキは不安そうに春斗を見た。
「大丈夫。今日は華憐さんも来てくれる」
「華憐さん?」
「元恋人で、量子物理学者。君を助けたいって」
ユキは複雑な表情をした。
「元恋人……それって、大丈夫なの?」
「大丈夫。華憐は味方だよ」
その時、華憐が到着した。リュックには測定機器が詰まっている。
「初めまして、雪村さん。華憐です」
「ユキです……」
二人の女性は握手した。ユキの手は半透明で、華憐はそれを興味深そうに観察した。
「本当に透けてる……量子デコヒーレンスの抑制が起きてる」
「そうみたいです」
ユキは自分の手を見た。
「春斗さんと一緒にいると、少しマシになるんですけど」
「観測者効果ね。意識を伴う観測が、波動関数を収束させる」
華憐は測定器を取り出した。
「まず、あなたの量子コヒーレンス度を測定させて」
「量子コヒーレンス度?」
「巨視的な物体がどれだけ量子的性質を保持しているかの指標。通常、人間の身体は完全に古典的だから、測定値はほぼゼロ。でもあなたは……」
華憐が機器をユキに向けると、異常な数値が表示された。
「コヒーレンス度0.67……信じられない。これは単一原子レベルの値よ」
「それって、どういうこと?」
ユキが不安そうに聞く。
「あなたの身体が、量子的な重ね合わせ状態にあるってこと。複数の状態が同時に存在している」
華憐は驚愕の表情で続けた。
「普通ならあり得ない。環境との相互作用で即座にデコヒーレンスを起こすはず。で
別の世界線。 春斗は大学の教授として、量子力学を教えていた。研究室には学生たちが集まり、最新の実験について議論している。 窓の外を見ると、キャンパスの桜が咲いている。 ふと、既視感を覚えた。 誰かを待っているような。大切な何かを忘れているような。 その時、研究室のドアがノックされた。「失礼します」 入ってきたのは、見知らぬ女性だった。でも、どこか懐かしい。「雪村透子と申します。先生の講義を聴講したいのですが」「ああ、どうぞ。量子力学に興味が?」「はい。特に、観測問題について」 春斗は微笑んだ。「良いテーマだ。観測とは何か。それは、哲学的にも物理学的にも、最も深い問いの一つだ」 ユキは窓際の席に座った。 春斗は講義を始めた。量子もつれ、重ね合わせ、不確定性原理。 そして、観測の役割。「観測するという行為が、現実を創造する」 春斗は黒板に数式を書いた。「観測されるまで、粒子の状態は確定しない。全ての可能性が重なり合っている」 ユキは熱心にメモを取っていた。 講義の後、ユキは春斗に近づいた。「先生、質問があるんです」「何でしょう」「もし、人間同士でも量子もつれが起きたら、どうなりますか?」 春斗は驚いた。「面白い質問だね。理論的には……」 彼は考え込んだ。「二人の意識が完全に相関する。互いを観測し続けることで、互いの存在を保証する」「それって、愛みたいですね」 ユキが微笑んだ。 春斗の心臓が跳ねた。 この感覚。どこかで経験したような。「そうかもしれない」 春斗は正直に答えた。「愛とは、究極の観測かもしれない」 二人は見つめ合った。 初対面なのに、まるで昔から知っているよう
それから一年が経った。 春斗とユキは量子カフェを引き継ぎ、共同経営者となっていた。オーナーとクライン博士は研究に戻り、華憐は大学で「量子意識学」という新しい分野を立ち上げた。 量子カフェは、不思議な人々の集まる場所として知られるようになった。時間がずれて見える人、確率的にしか未来が見えない人、複数の世界線を行き来する人。 彼らは皆、春斗とユキのもとを訪れた。そして、観測されることで安定を取り戻した。「観測とは、愛だ」 春斗は客に説明する。「誰かが君を見ている。理解しようとしている。それだけで、君の存在は確かになる」 ユキはコーヒーを淹れながら微笑む。「このコーヒーも、観測されるまでは味が確定しない。でも、誰かが飲んだ瞬間、完璧な味になる」 豆たちは今も喋る。時々、恋愛相談に乗ってくれる。「恋とは量子もつれだ! 相手と繋がることで、自分も変わる!」 ある火曜日の午後。かつてユキが透明になっていた時間帯。 店には若いカップルが来ていた。男性は不安そうに、女性の手を握っている。「彼女が、時々透けて見えるんです」 男性が相談する。「医者に行っても異常なしで……でも、確かに透けてる」 春斗とユキは顔を見合わせた。「分かります」 ユキが優しく言った。「私も同じでした」 彼女は自分の経験を語った。恐怖、孤独、そして救い。「でも、大丈夫。彼がいれば」 ユキは春斗を見た。「観測し続けることで、存在は安定する。愛することで、相手を現実に繋ぎ止められる」 若い男性は涙ぐんだ。「本当ですか?」「本当です」 春斗は頷いた。「僕たちが証明です」 カップルは帰り際、何度も礼を言った。希望を持って。 夕方、華憐が店を訪れた。「論文、アクセプトされたわ」「おめで
量子もつれ状態になってから一ヶ月が経った。春斗とユキの生活は、不思議な調和に満ちていた。 互いの感情が分かるため、些細な誤解が生じない。相手が何を望んでいるか、何を恐れているか、言葉にしなくても理解できる。 しかし、それは同時に、個人のプライバシーがないということでもあった。 ある日、ユキが沈んだ表情をしていた。春斗には理由が分かった。彼女の心に流れ込んでくる感情――罪悪感、不安、自己嫌悪。「ユキ、大丈夫?」「うん……でも」 ユキは俯いた。「私のせいで、春斗さんまで量子的に不安定になっちゃった」「それは僕の選択だ」「でも、普通の人生を奪っちゃった」 春斗はユキを抱きしめた。「普通の人生より、君との人生の方がいい」「本当に?」「本当だ」 二人は量子カフェで働いていた。オーナーは春斗を正社員にし、ユキもパートとして雇った。 店には不思議な客が増えていた。量子的な異常を抱えた人々。時間がズレて見える人、複数の場所に同時存在する人、確率でしか未来が見えない人。 この街には、量子的な異常が蔓延しているらしい。量子カフェが、その中心にあるかのように。 華憐も頻繁に店を訪れた。彼女は春斗とユキの量子状態を研究し、論文を書いていた。「二人の存在確率は、完全に相関してる」 華憐は興奮気味に説明した。「片方の状態を測定すると、もう片方の状態が瞬時に決まる。距離に関係なく」「それが量子もつれ」「そう。でも、人間レベルでこれが起きるなんて……ノーベル賞ものよ」 ユキは苦笑した。「私たち、実験動物みたいね」「ごめん。でも、これは科学史に残る発見なの」 華憐は真剣に言った。「意識と量子力学の関係を、初めて実証できる」 その日の夕方、緊急事態が起きた。 逆行公園から異常な量子場
プロポーズから一週間が経った。春斗とユキは婚姻届を準備し、華憐は二人の量子状態を継続的に監視していた。 しかし、問題は解決していなかった。 火曜日、ユキは再び透明化し始めた。プロポーズ後の最初の火曜日。「どうして……」 ユキは絶望的な表情で自分の手を見た。「春斗さんと繋がったのに……」 華憐は測定データを分析していた。「婚姻届だけでは不十分だったみたい。法的な結びつきは、量子レベルでは弱すぎる」「じゃあ、どうすれば……」 春斗が問うと、華憐は深刻な表情で答えた。「量子もつれの本質は、状態の完全な共有。二つの粒子が、もはや個別には記述できないほど結びつく」「つまり?」「あなたがユキの状態を完全に引き受けるか、ユキがあなたの状態を完全に引き受けるか」 華憐は測定器を見せた。「今のままでは、ユキだけが量子的不安定性を抱えている。あなたは古典的な状態のまま。これでは片側だけの観測になる」「双方向の観測が必要?」「そう。ユキがあなたを観測し、あなたがユキを観測する。相互観測によって、初めて完全な量子もつれが成立する」 ユキは春斗を見た。「春斗さんも、不安定になるってこと?」「理論的には」 華憐は頷いた。「でも、それが唯一の解決策かもしれない」 春斗は迷わなかった。「やる。ユキと同じ状態になる」「春斗さん、危険だよ! 消えるかもしれない!」「君が消えるより、一緒に消える方がいい」 春斗はユキの手を握った。「どうすればいい、華憐?」「逆行公園でもう一度、世界線の分岐点を観測する。そこで春斗も同じ選択をする。生と死の境界に立つ」「つまり、僕も事故に遭う?」「似たような状況を作り出す必要がある。意識が極限状態に置かれ、量子
火曜日の朝、春斗は量子カフェの前でユキを待っていた。曇り空の下、街は静かだった。 午前十時、ユキが現れた。すでに身体が薄く透けている。「春斗さん……」 ユキは不安そうに春斗を見た。「大丈夫。今日は華憐さんも来てくれる」「華憐さん?」「元恋人で、量子物理学者。君を助けたいって」 ユキは複雑な表情をした。「元恋人……それって、大丈夫なの?」「大丈夫。華憐は味方だよ」 その時、華憐が到着した。リュックには測定機器が詰まっている。「初めまして、雪村さん。華憐です」「ユキです……」 二人の女性は握手した。ユキの手は半透明で、華憐はそれを興味深そうに観察した。「本当に透けてる……量子デコヒーレンスの抑制が起きてる」「そうみたいです」 ユキは自分の手を見た。「春斗さんと一緒にいると、少しマシになるんですけど」「観測者効果ね。意識を伴う観測が、波動関数を収束させる」 華憐は測定器を取り出した。「まず、あなたの量子コヒーレンス度を測定させて」「量子コヒーレンス度?」「巨視的な物体がどれだけ量子的性質を保持しているかの指標。通常、人間の身体は完全に古典的だから、測定値はほぼゼロ。でもあなたは……」 華憐が機器をユキに向けると、異常な数値が表示された。「コヒーレンス度0.67……信じられない。これは単一原子レベルの値よ」「それって、どういうこと?」 ユキが不安そうに聞く。「あなたの身体が、量子的な重ね合わせ状態にあるってこと。複数の状態が同時に存在している」 華憐は驚愕の表情で続けた。「普通ならあり得ない。環境との相互作用で即座にデコヒーレンスを起こすはず。で
春斗とユキの関係は、奇妙な日常へと変化していった。水曜日は恋人としてのデート。火曜日は科学的実験と観測。そして他の曜日は、互いの生活を尊重した適度な距離。 しかし、彼らの周りで不可解な現象が増え始めた。 ある木曜日の午後、春斗がコーヒーを淹れていると、豆の袋から明確な声が聞こえた。「ハルト、聞こえるか?」 春斗は飛び上がりそうになった。「誰だ?」「我々だ。コロンビア産アラビカ種、ロースト度はミディアム。君の店で働いている」 春斗は豆の袋を凝視した。中で豆たちが小刻みに揺れている。「コーヒー豆が……喋ってる?」「正確には、我々の集合意識が君の意識と共鳴している。この店の量子場が、通常とは異なる状態にあるからだ」 春斗は椅子に座り込んだ。「これは夢か?」「現実だ。君とユキの関係が、この空間の量子コヒーレンスを高めている。結果、我々のような微細な意識体も発現できるようになった」「微細な意識体?」「全ての物質には原始的な意識がある。普段は観測されないだけだ。しかし君たちの愛が生み出す観測場は特別だ。未観測のものを観測可能にする」 春斗は混乱していた。しかし、ユキの存在を受け入れた今、コーヒー豆の意識を否定する理由もない。「それで、何の用だ?」「忠告だ。ユキの状態は予想以上に不安定だ。火曜日の存在確率低下は、単なる一時的現象ではない。恒久的な消失への序曲だ」 春斗の血の気が引いた。「どういうことだ?」「彼女の自己観測能力は、週を追うごとに減衰している。やがて火曜日だけでなく、他の曜日にも影響が及ぶ。最終的には――」「消える?」「その可能性がある。だから君の観測が必要なのだ。しかし、それだけでは不十分かもしれない」 豆たちの声には、珍しく深刻さが含まれていた。「何をすればいい?」「まず、逆行公園に行け」「逆行公園?」「